おやすみ映画館

黒中光

第1話 おやすみ映画館

 僕の住んでいる町には小さな映画館がある。僕が生まれる前から建っていたそこは、かなりくたびれていて、3Dも4Dもない地味な場所だ。階段を下りて半地下になった受付でチケットを買って中に入る。

 席はどこでも良いと言うことなので、大画面が真っ直ぐ見られる場所を選ぶ。レイトショーで夜遅いせいか、昔のリバイバルだからか、客はほとんどいない。

 僕は少し硬くなった背もたれに体重を預けて、映画が始まるのを待つ。

 やがて、短い広告の後に本編が始まる。

舞台は木々がうっそうと立ち並ぶ深い森。その中心に高い尖塔をいくつも持った城がそびえ立っている。そこにボロボロの服を着た若者が元気いっぱいに駆けてくる。舞台は豪華ホテル。そこを会場にパーティーが開かれるらしく、着飾った客達が高級車で乗り付けている中でその姿は浮いている。まともに招待された客には見えない。

「始まったね」

 隣から珠里が声をかけてくる。ピンク色のガーリーな装いの彼女は、いつもの制服姿とは違って可愛らしくてドキドキしてしまう。

「楽しみにしてたんだから、ちゃんと見てろよ」

「はーい」

 大人しく画面に向き直る珠里だが、前のめりになって目を輝かせているその姿に、僕の方が映画に集中できなくなった。

 場面が変わる度に「わあっ」「凄い」と声を上げるのだ。まるで小さな子供みたいに、無邪気に全力で楽しんでいる。

「あっ」

 口元に手を当てて、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに映画に食い入る。釣られてそっちを見ると、主人公の若者が金髪美女のヒロインとダンスを踊っている。

キラキラ光るシャンデリアの下。オーケストラの音楽に乗って、縦横無尽、息ぴったりの華麗なステップ。

 珠里はこういうのが好きなんだろうか。ちょっと考えてしまう。もし――僕と珠里が。ダンスなんてしたこと無いけど、もしこんなふうに踊れたらきっと楽しいだろうな……。

 夢想にふけっている内に場面は変わる。森に大きな嵐がやって来て、土砂崩れで道がふさがれ、孤立無援に。客達は自力での下山を試みるが、なに不自由ない生活の中でしか過ごさなかった彼らは過酷な道のりに次々と脱落していく。

 珠里が僕の手をぎゅっと掴む。柔らかくて温かい。心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。

「ねえ、どうなるのかな? 助かるよね、二人とも」

「大丈夫だって」

 縋るように尋ねてくる珠里に僕は答える。筋書きは全く知らない。それでも、二人を応援している珠里のために、どうかハッピーエンドで終わって欲しいと心から思った。

 映画が終わって、僕たちはハンバーガーショップに行った。有名チェーン店なのに、客がさっぱりいなくて貸切状態。珠里は興奮冷めやらぬ調子でパンフレットを眺めている。

「感動したなー。わたしもあんなホテルに泊まってみたいな」

「遭難したのに?」

 僕が茶化すと、頬をリスみたいに膨らませる。

「なによー。あんな別世界で、しかも森の中なんてロマンチックがじゃない。一生に一回はあんなところでデートしてみたい」

 僕は辺りを見回す。豪華絢爛なホテルと猫の額みたいなチェーン店。似たところは一つもない。ちょっとばかりスクリーンの向こうに嫉妬して、ポテトを口いっぱいに頬張った。

 帰り道、遠回りして駅前に誘う。そこでは街路樹にイルミネーションが灯っていた。周りの店は全部閉まったあとで、闇に浮かび上がる姿が鮮やかだ。

「こんな風になってたんだ」

 サプライズ成功だ珠里は知らなかったらしく、小走りに駆け寄って両腕を広げる。石段の上でクルクルと回っている。幻想的で、まるでさっきの映画の続きにいるみたい。これが現実だと言う方が不思議だ。

 石段の上に立つ彼女へ手を差し出す。彼女がふわふわの手袋に包まれた手を乗せて飛び降りる。ロングスカートが花のようにふわりと広がり、視界を覆う。

 全身が心地よい暖かさに包まれて、目を開ける。大勢の名前が次々にスクリーンを流れる。エンドロール。オーケストラがメインテーマを掻き鳴らすのを聞き、名残惜しさと共に映画が終わったのだと実感する。

 隣の席には、誰もいない。それでも一瞬だけ、僕の目には珠里が映っていた。

 上映室が明るくなり、僕は出口へと向かう。先ほどまでの幸福を思い返しながら、噂は本当だったのだと実感した。

 この寂れた映画館には都市伝説があった。レイトショーで流れるリバイバル映画。それを見ると、その映画が上映されていた頃の思い出を追体験できる。

 単なる比喩かとも思い、半信半疑であったが、文字通りの意味だったとは。

 階段を昇り、映画館を出ると冷たい風が吹き付けてくる。僕はコートの前をしっかり閉じると、ポケットから一通の手紙を取りだした。

 最近になって、珠里から送られてきた物だ。

 珠里は高校生になった頃にできた初めての恋人だった。あんなに誰かを純粋に好きになったことはなくて、きっと大人になっても一緒だと思っていた。

 だが、現実は違った。彼女には夢があった。きっかけはあの映画だ。

 『いつか豪華ホテルに旅行がしたい』 そんな夢がいつしか『自分もホテルで皆を笑顔にしたい』という目標に変わっていった。そして、猛勉強の末に、都会の観光学科がある大学に進学した。地元の大学に進んだ僕とは距離が離れ、一年も経たずにあっけなく別れることになってしまった。

 それからは友達同士として接していたはずなのだが……。彼女はやっぱり僕にとっては特別であり続けた。他の友達といるときよりも、心が弾んでいることに気付いていた。

 封筒から中身を取りだす。それは結婚式の招待状。珠里の名前の隣には、僕ではない男の名前。

 ショックだった。どうにもならないくらいに気分が落ち込んで、現実を受け入れられなくて、気が付けば夜の町を歩いていたわけだ。

 目の前には思い出と同じ光景が広がっていた。

 そっと吐く息は白く、視界がぼやける。

 楽しかったな。

 昔の恋は、温かくて、素晴らしくて、文句のつけようもないくらいに僕には大切だった。

 珠里の隣で過ごせた時間はあんまりにも眩しくて、大人になってしまった僕にはもう、真っ直ぐに見続けられない。

 僕は夜空を眺めながら歩き出す。歩いて行ける。どんなに寒くても風が強くても、十分すぎるほどに温かな物を貰ったから。

 ポストの上には雪が積もっていた。僕はそれを払いのけると、遠くの映画館から漏れる光で手紙の一番下を読む。出席か、欠席か。

 僕はもう迷わなかった。大きく出席に丸をつけて、そのまま投函する。

 思い出のお礼を伝えたかった。口には出せなくても、心から感謝を込めた拍手を。そして、珠里の新しい旅路に抱えきれないくらいの幸せがあることを祈ろう。

 振り返ると、映画館の端から電気が次々に消えていく。大きな生き物が目を瞑るように。

 おやすみ映画館。皆の思い出を、きっと夢で見るのだろう。

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