第3話

 初日を終えた日向は、静寂の中、自宅へと戻ってきた。

 肩から学生鞄を滑らせるように下ろすと、疲れ切った体をリビングのソファに投げ出す。ウィッグを外し、乱れた髪が素の自分をさらけ出すように首筋に落ちた。革張りのクッションが背中を押し返し、全身の力が抜けていく。


 彼女は天井を見上げた。室内の空気は静まり返り、彼女の呼吸音だけがその空間を満たしていた。


 深いため息が漏れる。それは開放感と共に、一日分の疲労を吐き出す儀式だった。二十五歳の身体には、十五歳として振る舞う日々の重圧が容赦なくのしかかる。学校生活――それは、アルバイトとは全く異なるエネルギーを奪い取る場所だった。


「ソフトボールの練習で疲れてる風華にご飯を作らなきゃ」


 そう思いながらも、体はソファに張り付いたまま動こうとしない。彼女のまぶたは重くなり、やがて意識は闇に溶け込んでいった。



 夢の中、十年前の記憶が彼女を引き戻す。


 母が亡くなり、心にぽっかりと空いた穴を埋めようと必死だった日々。その一幕が、夢のスクリーンに鮮明に映し出される。


 母の死後、彼女たち姉妹が暮らしていた薄暗いアパートの台所。テーブルの上には、日向がアルバイト先のコンビニから持ち帰った廃棄弁当が雑然と置かれている。暖かさを失った食べ物と同じように、部屋にはどこか冷たい空気が漂っていた。


 目の前には、幼い風華の小さな背中がある。その彼女が振り返り、不満げに口を尖らせた。


「またコンビニ~、風華、別のが食べたいー」


「ごめん……お姉ちゃんがもっとしっかりしてれば、風華に好きなものを食べさせてあげられるのに……」


 日向の声には、深い自己嫌悪がにじんでいた。しかし、風華はそんな姉の苦悩を知るはずもなく、首を振るばかりだ。


「やだ! 風華、食べない!」


「ダメだよ。ちゃんと栄養をつけないと……」


 その時、不意にインターホンが鳴り響く。日向の動きが止まる。音は規則正しく、しかしどこか冷たく、機械的に響いていた。風華が玄関に向かおうとするのを、日向は慌ててその手を掴んだ。


「風華、いい? 今から“いないふり”をして」


「どうして……?」


「あれは悪い人たちだから。風華が可愛いから、連れて行こうとしてるんだよ」


 自分でも薄い嘘だと分かっていた。しかし、幼い風華に現実を伝えるわけにはいかなかった。


「もし静かにできたら……今度レストランに連れて行ってあげる!」


「本当?」


「うん。約束する」


 風華は机の下に隠れ、その目が日向を見上げた。その瞬間、インターホンの音が再び鳴り響く――不穏なリズムが心臓を締め付けるようだった。



 日向は目を覚ました。視界に映るのは、淡い灯りに照らされたリビングだった。胸が乱れる呼吸に合わせて上下し、夢の残響がまだ頭の奥で響いている。


 彼女はかけられていたタオルケットを乱暴に剥ぎ取ると、壁掛け時計を見た。針はすでに八時を指している。


「もう晩ご飯の時間じゃないか!」


 焦燥感が胸を駆け抜け、体が反射的に動こうとしたその瞬間、台所から声が響いた。


「お姉ちゃん、起きたんだ」


 風華だった。すっぴんのジャージ姿に、エプロンをつけたままの彼女が、にこやかにこちらを見ている。


「寝ててもよかったのに」


「ごめん、寝ちゃってた! 晩ご飯、今から作るから――」


 慌ててソファから立ち上がる日向を、風華は軽く制した。


「大丈夫だよ。今日は私が作ったから。カレーでいいよね?」


「そんな……風華だって練習で疲れてるでしょ?」


「いいんだよ」


 風華はベリーショートの髪を指でかき上げながら、申し訳なさそうにいった。


「私が普通に大学まで行って、ソフトボールまでやらせてもらってるのって、なんだか申し訳なくなるんだよ。お姉ちゃんの青春、私が全部奪っちゃったみたいでさ」


「風華......」


 自分を犠牲したことで妹に責任を背負わせていたなんて。日向は妹に返す言葉がなかった。


 風華はそんなしんみりした空気を打ち消すように、日向を背中から抱きしめながらいった。


「今日からお姉ちゃんは十五歳なんだから、私にお姉ちゃんやらせてよ」


 その言葉に日向は一瞬立ち尽くした。言葉に詰まった彼女の耳に、台所から漂うカレーの香りが微かに届く。その温かさに、彼女は無言のまま目を伏せた。


 風華の言葉が彼女の胸を締め付けたのは、その無邪気さゆえだった。「十五歳の自分」を演じるという現実と、それを支えようとする風華の優しさ――その両方が、彼女を同時に追い詰め、そして救っていた。


「まずかったら承知しないからね! おねえちゃん」


 日向が冗談めかして挑発的に言う。


「生意気な口きいたらもう作ってあげないぞ! 妹よ」


 風華も負けじと返す。お互いの立場を入れ替えたそんな他愛のないやり取りが、部屋の空気を明るくした。二人の間には、少しの照れ隠しと、いつもの安心感が漂っている。


 ふと、ふたりのやり取りを映す鏡の中に、女子高生時代の母の面影がぼんやりと映り込んでいた。二人は気づくことなく笑い合っている。一方、母は何かを心配するような顔で二人を見つめていた。


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Another Morning 光佑助 @roxas_1313

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