Like Butter

接木なじむ

Baby,please kill me

『死んでもいいわ』

 人が思わずこの台詞を口にしてしまうとき、それはいったいどんなときだろう。

 何かを成し遂げ、これ以上ない達成感を味わったときだろうか。それとも、満ち足りた人生を送り、いつその命を終えても構わないと感じたときだろうか。はたまた、月の美しい夜に、文学的な愛の告白をされたときだろうか。

 どうだろう。

 まあ、どれもあり得るし、他にも適切な場面は山ほどあるだろうけれど、どの状況にしろ、そこに悲哀的な意味は込められておらず、むしろ、言葉では表現し切れない、幸せの絶頂に近い喜びをあえて表現するときに人はそう言うのかもしれない。

 しかし、私はその限りではなかった。

 昼間のうちから浴びるように飲んだ酒が、気持ちよく身体を巡り、まるで誰かに手を引かれて踊るように、ふらふらと夜道を歩いていたときだった。

 ふと見上げた先に、美しい月があった。

 雲ひとつない澄んだ空の中、何にも邪魔されることなく清らかな光を放つそれは実に見事で、ともすれば、かぐや姫でも降りてきそうな。あるいは――死神でも降りてきそうな……。

 そう思わせるほどに綺麗で蠱惑的こわくてきな月が、ぽつねんと浮かんでいて、私は思わず立ち止まった。

 もうほとんど機能しない平衡感覚をそれでも頼りにしながら、道の真ん中に突っ立って、その綺麗な月を眺めていた。

 どのくらい経っただろう。

 そのうちに、どうしてか目の奥が熱くなって、気付いたら、私は泣いていた。

 そして、ぼろぼろと涙を零しながら、滲む視界でなおも月を見上げて、私は呟いた。

「死んでもいいわ」

 吸った息を吐くように、身の内から自然と出てきたその言葉は、どこまでも後ろ向きで、幸せの予兆などどこにも感じさせない、悲痛な『喘ぎ』だった。

 大学を卒業し、入社して一年とちょっと。気をおかしくさせるような激務に、上司からのパワハラとセクハラ。そんな地獄よりもよっぽど地獄らしい職場で、それでも一生懸命に耐えてきた。

 幸せな未来を信じて、生きてきた。

 だが、結果は悲惨なものだった。

 先日、その会社が倒産したのだった。

 いつからか上手くできなくなった化粧をそれでも一応施した不自然な顔で、いつものように出社した朝、普段はあまり見かけない社長がいると思ったら、その日の朝礼で突然倒産を知らされた。

 目の前がぐにゃりと歪むようだった。

 その瞬間、私を支えていた何かが、ぼろぼろと崩れ落ち、叫び走り出したい衝動に駆られながらも辛うじてそれを抑え込み、呆然と立ち尽くした。

 目の前では、社長が涙ながらに何かを説明しているが、全くと言っていいほど頭に入ってこなかった。

 そのとき、私の頭を占めていたのは、今後の働き口のことでもなければ、もちろん退職金のことでもなかった。

 走馬灯のように流れるこれまでの人生だった。

 その日から、私は酒を頼った。

 家にひとりでいると苦しくてたまらなかったから、昼間から開いている飲み屋に入り浸って夜まで飲んだ。

 倒産を知らされたのが三日前。つまり今日までの三日間、そんな生活を送った。

 そして、ここらが限界だった。

「誰か、私を殺してくれ」

 流れる涙もそのままに、そう願った。

 いやに綺麗な月に、願った。

「……ぐすっ…………」

 私はまた、歩き出した。

 ふらふらと歩きながら、再び夜空を見上げると、やっぱりそこには丸い月が浮かんでいて、まるで天国を思わせるような、綺麗な月だった。

 その光景がきっかけとなったのか、私は、とある話を思い出した。

 有名な文学作品の中で語られていた話だ。

 死神はその人にとって最も魅力的な姿をしている――という話。

 何故なのかは知らない。その方が死神の仕事が円滑に進むからなのかもしれないし、最期のひとときを幸せに過ごさせるためかもしれない。

 あるいは、死は人間にとって魅力的なものであるということの暗喩なのかもしれない。

 わからない。

 けれど、もし仮に、それが本当の話だとしたら、私の前に現れる死神はいったいどんな姿をしているのだろう。

 興味がないと言ったら嘘になる。

 いや、むしろ、興味しかなかった。

 私の好みが、性癖が、形となって目の前に現れるのだ。興味が湧かないなんて、そんなわけがなかった。

 どうせ殺されるなら、美人がいいな。

 とか。

 そんな益体のない思考を巡らせているうちに、自室のあるアパートの近くまで来ていた。

 明日からどうしよう……。

 酔っていてもなお、くっきりと姿を現す不安感に、はあと溜息を零したときだった。

「――――っ!」

 あまりに突然で、声も出なかった。

 いや、正確には――声が出せなかった。

 私の口を覆う、手袋をはめた大きな手。

 息が上手く吸えず、脳がパニックに陥る。

 そして、そんな私の頭を落ち着かせるように、耳元でしゃがれた声が囁く。

「声を出すんじゃあねえぞ」

 私の身体を羽交い締めにする人物は静かに、有無も言わさぬような口調でそう言って――もう片方の手で、私の胸部を乱暴にまさぐり始めた。

 荒々しい男の手だった。

 私は、落ち着くどころか、むしろ酷く混乱した。

 陰部を撫で回す無骨な手。

 臀部に押し付けられる熱。

 首筋をなぞる湿り気。

 そんな状況を把握して、理解して、ようやく私は襲われているのだと実感した。

 そうしたら、どうだろう。ふっと、思考が軽くなった。ごちゃごちゃとして、散らかっていた頭の中が、急激に整った。

 そうか。私は襲われているのか――。

 それはある種、諦めのような境地だった。

 この際、男の人でもいいや。あなたが私の死神になってくれ。

 そんな考えが頭をよぎった、そのときだった。

「いっけなーいっ! 遅刻遅刻ぅーっ!」

 と。

 なんとも場違いな台詞が――いや、場違いすぎる台詞が不意に聞こえてきた。

 瑞々しい女の子の声。

 そして、少女と思しき声の主は、その場の空気を読むことなく、たったったっ、と。明るい足音を奏でながら急速に近づいてきて――お約束通り――派手に衝突した。

 激しく揺れる視界の中、私はこう思った。

 いったい、何が始まるというの……。

「いったたぁ……」

 と、少女の苦鳴が聞こえる。

 諸共突き飛ばされる形で男の拘束から解かれた私は、声のした方を振り返る。すると、そこには――近所の高校の制服に身を包んだ――小さな少女がいた。

 小さな少女。

 左手にはやけに分厚い食パン、もう片方の手には銀色のバターナイフを持った、小さな女子高校生。

 こんな時間から登校――?

 夜間学校にしても遅すぎるし、近くにそんな学校があるという話は聞いたことがない。

 というか、一分一秒を急ぐ状況で、どうしてバターナイフを持ってきてしまったのだろう。

 私も大概、状況に相応しくない思考を巡らせながら少女を眺めていると、彼女は乱れた黒髪のショートボブを手櫛で素早く整えて、苛立ちを隠せないと言った風に、ヒステリックに叫ぶ。

「もうっ! こんな時間にこんなところで何しているのよっ!」

 こっちの台詞だった。

 対して男は「それはこっちの台詞だ! こんなところで何していやがる!」と、怒鳴る。

 お前も大概だろうと言いたいところだが、どうやら考えは同じようだった。

 すると少女はすくと立ち上がって、再び叫ぶ。

「ちょっと、レディにぶつかっといて『ごめんなさい』の一言もないわけ!?」

「はあ!? ぶつかってきたのはお前だ! 謝るべきなのはお前だろう!」

「最低っ! 怪我をさせた上に恫喝までするなんて、あんた最低よ!」

「ふざけるな! 俺はここに立ってただけだ! 悪いのはお前だ!」

「ありえないっ! あたしに謝れって言うの!?」

「そうだよ! 何か文句あんのか!」

「文句ありまくりよ!」

 と、きゃんきゃん言い争うふたり。

 突然、目の前で始まった正統派少女漫画的展開に、思わず私は、先程まで乱暴にされていたことも忘れて、ふたりの喧嘩を止めようと仲裁に入った。

「まあまあ、ふたりとも落ち着いて。とりあえず、お互いに謝ってみよう? ね? ほら」

 優しく促すと、ふたりは、思いのほか素直に従った。

「ご、ごめんなさい……」

「ああ、俺も悪かったよ……」

「うんうん。ふたりとも偉いね」

 心温まる場面に、思わず目頭を熱くする私だった。

 俯瞰的にその場面を見てみれば、先程まで私に乱暴していた暴漢と不審な女子高生の喧嘩を、先程まで乱暴されていた私が仲裁をしているという、世にも奇妙な構図であったが、酔っぱらいだった私は、その違和感に気付けない。

 いち早く状況を正しく認識したのは、暴漢の男だった。

 我に返ったという風にはっとした表情を作り「やべっ」と短く声を漏らすと、立ち上がって逃げる素振りを見せる。しかし、脚を前に踏み出したところで、あえなく地面に崩れ落ちた。

 どうやら、男は立ち上がることができない様子。

 それもそのはずだった。

 男の右下肢。

 足首の先にあるはずの足が、あったはずの足が――私の目の前に転がっていたのだから。

「ひっ……!」

 私は腰を抜かして地面にへたり込んだ。

 何度見てもそれは足だった。

 お行儀よく靴を履いた足が。

 赤く染まった靴を履いた足が。

 そこに落ちていた。

 それを目にした男は、目をぱちくりとさせる。

 自分の右足とを交互に見つめながらしばし逡巡した後、自分の身に起きていることをようやく理解したらしい男は、瞬く間に顔を青ざめさせた。そして、悲鳴をあげようとしたその瞬間――その大きく開かれた口に、少女がパンを突っ込んだ。

「ちょっと! どうしたの!? 大丈夫!?」

 と、少女は訊く。が、口を塞がれている男は当然答えることができず、言葉にならない悲痛な声を漏らす。

「大変……! 待ってて、今助けるわ! 安心してっ! あたしはこれでも漢検二級を持っているのよ!」

 空気は読めないが漢字は読めるらしい少女は、強引に男を地面に寝かし、片手で男の視界を覆い、落ち着いた調子で言葉をかける。

「知ってる? 食パンは『主食用パン』の略称なのよ?」

 絶対に今じゃない雑学を披露し、得意げな表情を浮かべる少女は、右手に持ったバターナイフを脈絡も無く男の首へとあてがった。

 添えるように、そっと。

 私は、自分の目を疑った。

 次の瞬間――その丸い刃先は、するりと男の首へと入っていったのだ。

 抵抗なく、まるで皮膚にナイフが溶け入っていくように。

「よしよし。いい子」

 と、少女は男に優しく語りかけながら、あたかも柔らかいバターを切り分けるが如く――なめらかに、軽やかに――ナイフを横へと滑らせていく。

 一瞬、電気が走ったように男の四肢が緊張した。

「おやすみ」

 少女は静かにそう言って、上品な手つきで男の首からナイフを抜き取る。そして、それとほぼ同時に、開いた傷口から華々しく鮮血が噴き出した。

 鮮やかな朱が、少女を、地面を、染めていく。

 真っ赤に。

 目が眩んでしまうほど、真っ赤に――。

 そんな光景を、私はただ、呆然と眺めていた。

 何ひとつ理解できずに、呆然と、眺めていた。

 動かなくなった男をしばらく見つめていた少女は、不意に、ふうと深く息を吐くと、上着のポケットからスマートフォンを取り出し、耳にあてがう。

「もしもし? 終わったよ。うん。ただ……お客さんがいてね。うん。そう。ん、わかった。じゃあね」

 誰かとの通話を終えたらしい少女は、すくと立ち上がり、私に向けて告げる。

「ごめんだけど、お姉さんには死んでもらうね」

「えっ――」

 ころころとした愛嬌のある声で紡がれた、とても律儀な脅迫。

 内容のわりに緊張感のない台詞に、私は唖然としてしまう。

「大丈夫。幸せな気分のまま逝かせてあげる」

 そう言って、少女は私の前で膝を突いて、私の頬に優しく触れる。

 柔らかくて、冷たい手だった。

 そして気が付けば、少女の顔が目の前にあって――次の瞬間、唇を奪われていた。

「――――!」

 甘く噛むように、繰り返し繰り返し重ねて、そのまま少女が私の中に優しく入ってくる。

 反射的に抵抗した。が、こんなときにはどのように抵抗するのがよいのかなんて、とんと存じ上げなかった私は、まるで自ら求めるように、より激しく舌を絡めてしまうだけだった。

 柔らかくて、温かくて……。

 その甘い刺激と桃のような若い香りにくらくらとして、眩暈すら覚えるほどに陶酔した。

「ぷはぁっ…………」

 寂しさを残すようにゆっくりと唇を離した少女は、腰が抜けて動けない私をそのままに、ゆらりと立ち上がる。

 そして――

「言い残したことはある?」

 と、煌々と輝く月を背景に、血で濡れた髪を揺らしながら、少女は怪しく問いかけた。

 私はほとんど溶けかかった意識のままに訊いた。

「あなたは……いったい……何者なの……?」

「あたし?」

 私はこくりと頷く。

 すると少女は、にまにまと嬉しそうに表情を崩す。それから照れくさそうにはにかんで、、、、、、こう告げた。


「あたしは死神だよ」


 少女は、健やかに笑った。


 ああ、なんということだろう。

 私の目の前に現れた死神は――高校生の格好に、バターナイフを片手に持った――小さな少女だった。

 これが、私の性癖――?

 ああ。

「死んでもいいわ……」

 思わず、そう呟いた。

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