天使の背中

トム

天使の背中


 その大きな翼を広げたキミの背中はとても――。





 いつもの路地裏で、影に潜むように歩いていた帰りみち。ゴミがうずたかく積まれたその場所に、その襤褸ぼろは打ち捨てられていた。薄汚れ、身体中に傷を負ったを見つけた時、はいたけど、見えないふりをした。小脇に抱えたびたパン、これはどうしても妹に食べさせたかったから……。


 ――だけどその背を見た途端、ボクの足は動かなくなってしまう。



「――大丈夫か?」

「……かはっ……ヒュー……ヒュー」


 小さく声をかけては見るが、返事が返ってくる事はなく。ただ苦しげに小さく浅い呼吸の音だけが返ってきた。暗がりでよくは見えないが、そこかしこに痣があり、場所によっては青黒く腫れ上がっている場所もある。このままこの場所にいれば、数刻で冷たくなってしまうだろう。顔を覗き込むと、口からは血と混ざった泡が見え、失神していると気がついた。


「……このままじゃ……クソッ」


 小脇に抱えたパンを服の胸元あたりに突っ込むと、ボクはその襤褸を引き上げ、両手で抱えておんぶする。思ったよりもその身の軽さに驚いたが、これ幸いとその大荷物を背負い、周りを窺うようにして影に潜んで家路を急いだ。



 路地裏の最終地点には、街と外を隔てる高い城壁がある。昼ですらまともに太陽の光が差さないその場所には、所謂ゴミが集積され、スラムと化していた。板塀を外壁に立てかけただけの小屋がいくつも並び、襤褸布を引っ掛けただけの仕切り。そんな物が壁沿いにずらりと並び、布の向こうの暗がりからは、ぎょろりとした仄暗い眼光が偶にこちらを覗き見ている。


 そんな小屋とも仕切りとも言えぬ板塀の一つに、転がり込むように忍び込むと、狭いなかに板敷きの上の襤褸を重ねた布がごそりと動いた。


「……ケホッ。……ケントおにぃちゃん?」


 その大きな布の塊から、小さく可愛い声が弱い咳とともに聞こえ、ボクは慌てて襤褸を背から降ろしてそちらへ駆け寄った。


「……ミリア、大丈夫か? あぁ、ボクだ。ケントだ。今戻ったよ」


声を掛けながらその襤褸布を少しめくると、中からまだ幼いボクの妹、ミリアが少し困ったような眼尻を見せながらもニッコリと笑顔を作って「……おかえりなさい」と言ってくれる。その言葉に一瞬胸に込み上げてくるものがあるけれど、何とか抑えて笑顔を返して「待ってろ。すぐにご飯用意するからな」と頭を撫でる。




 ――たった一人のボクの血の繋がった家族……。


 ……ミリアだけは……何があっても、ボクが守るんだ。


「この人はだれ?」


 食べやすくしようと野菜くずがほんの少し入ったスープに、ボクが抱えたパンをちぎり入れ、温め直していると、ゴソゴソと起き出してきた彼女が傍らに転がる襤褸を珍しそうに覗き込んでいた。


「……あぁ、そいつは――」




~*~*~*~*~*~*~*~



 翌日から、ボクは増えた人数分の食料を手に入れる為、キツイ仕事も熟すようになって行った。日中は街のゴミ拾いや、溝浚どぶさらいを仲介屋からの紹介で請負い……。夜は小屋に戻って二人の面倒を見る。ミリアの体調が優れることはなかったけれど、彼女はボクが出掛けている間、増えた居候の面倒を見られる事が余程嬉しかったのか、笑顔で居てくれる時間が少し多くなっていた。


 ボクが襤褸を拾ってから既に十日は過ぎた頃、何時ものように疲れた足を棒の様に引きずり、食料の入った袋を持って小屋の布を捲った途端、ミリアが嬉しそうに話しかけてきた。連れ帰った当初、あちこちが擦り傷や打撲のせいで、高熱を出して唸っていただけだった彼。……彼と判ったのは、かなり汚れていたから一度、傷の具合の確認と、体を拭くために襤褸を捲ったからだ。襤褸の中には布切れ一枚着けておらず、一目で男だと判った。そうして体を拭いていくともう一つ、その違和感は小さな背に見つけた。まるで無理やり……引き裂かれたような大きな傷が二箇所。……昔教会で見た天井絵の……。


「ケントおにぃちゃん、あの子が少し喋ったよ!」

「……っ。あぁ、なんて言ったんだ?」


 ――キミガボクヲタスケテクレタノ?――。


 それは言葉というより、直接頭の中に響いてきた。思わずその異質さに「ウグッ!」と蟀谷こめかみのあたりを押さえるが、ミリアはニコニコと笑いながらそちらを眺めている。何だ?! どうしてミリアはなんとも無い様に……。いや、固まっている?!


『彼女にはこの声は聞こえていないから、安心していいよ』


 続けざまに響くその声音に驚きながら、その音の発信源に目を向けると、襤褸切を貫頭衣のように纏った彼が、金色に光る双眸でこちらを見据えていた。


「……ミリアに何をした?!」


 思わずボクは大声を出してミリアを抱きかかえると、彼女を背に回してそいつを睨む。が、彼は途端『あぁ、敵意はない。ただこの状況で彼女に要らぬ心配をさせたくなかっただけだ』と言って、両手を上げて瞳の色を変じさせる。


「……どうゆう事だ?」

『今、この小屋の中は私の結界で閉鎖している。この空間内では時間が、個別に設定できるんだ』

「……??」


 突然流暢に話し始めたと思えば、全く意味のわからないことを口走る。こいつは一体何なんだ?


『ん? 理解できないか? ……では、こう言おうか』



 ――吾の名はサタナエル。主上の御遣いであり、其方等の知る名で言えば『使』と言う。


 ……その言葉を聞いた瞬間、やはりと思う気持ちと同時に、『何故』と言う疑問が湧き上がる。それを言葉にしようと思った途端、彼はボクに向かって手を翳し、言葉は不要と告げてくる。


『……この傷は、によって負わされた。その所為で力の殆どを失い、あの場所へ墜ちてしまったのだ』


 彼はそう言うと、余程悔しかったのか、憎悪と憤怒の表情を見せ、小屋の天井を見上げる。……恐らくは此処ではない遥か彼方を睨んでいるのだろうが、ボクにはそれがどこで誰なのか、全く想像できなかった。


「……そ、そんな事急に言われても意味が――」

『本当は判っているのだろう。……君は吾の背中の傷を見た時、なのだから』


 その最後の文言を言う時の声音が酷く平坦で。まるで感情を隠すかのように。……ただその双眸は、チリチリと揺れ。口角だけは少し歪に上がっていた。




~*~*~*~*~*~*~*~




 あの日から更に数週間の日々が流れた。彼、サタナエルの言うにはあの小さな体は、背にあった翼をもがれてしまった為、力の大半を失い、生命の維持を優先した結果、幼児までその身体を巻き戻したという。故に力を蓄え、取り戻しさえすれば、翼は勿論、その身体も元の大人へと戻るらしい。その為少しの間、ボク達兄妹が暮らすこの小屋に間借りをさせてくれとの事だった。力を取り戻すのに食料は沢山いるのかと聞いたところ『必要ない』との返事だったので、重労働を増やす必要がなくなったのはボクとしても有り難かった。


『もちろん、吾はこの恩を忘れない。全てを取り戻した時、其方にはきちんと礼をしよう』

「礼?」

『そうだ。……その娘は肺をわずらっているのだろう?』

「……っ!? な、治せるの?!」


 ボクはその言葉に一筋の光が見え、ミリアが元気になれるのならと了承した。




「サタナエルちゃん、もう起き上がっても大丈夫なの?」

「……ウン、ダイジョウブ」


 彼は僕と二人のときは流暢に話すが、ミリアの前では小さな子供を演じている。あの日ボクが彼にお願いしたからだ。「ミリアには何も知られたくない」と。彼もその事には同意し、大人しく、可愛い男の子を続けている。


『……ケント。少し出てくる』


 月すら見えない、暗い夜に限って彼は小屋を抜け出し、数刻して戻って来る。どうやら『力』を取り戻すために街を抜け出しているらしいのだが、何処に、どうやって出ているのかは分からない。……最初の頃は週に一、二度だったが、最近はほぼ毎夜になっており、もしかするとかなり力を取り戻しているのかも知れない。



◇  ◇  ◇



 その日の朝も、ボクはスラムの仲介屋で仕事を貰おうと、列に並んで待っていた。回ってくるのは溝浚いか、ゴミ拾いがほとんどだ。街の人間達は地面の上で生活をしている。……がその生活の基盤を支えているのは、街の地下に張り巡らされた、地下水道や下水道のお陰だ。この街は元々王都として栄えていた。ただ増えていく人口に対し、この街の規模が小さかった為に、数十年前に遷都されている。今ボク達の暮らすこの街が一体何時から存在しているのかは知らないが、最初に出来た王都ならば、その歴史は数百年はくだらないだろう。そんな古い街の地下水道のゴミや、ドブ……それは想像に難くない。だから、街の行政府はそんな汚れ仕事をボク達のような人間に回してくれる。それがどんなにキツくても、どんな危険が伴おうとも……お陰でボク等は飢えずに済む。


「今日の仕事はガキどもには廻せねぇ」


 何時も仏頂面をして、面倒くさいと言いながら、ボク達に仕事をくれる仲介屋の親父が、小綺麗なシャツの袖を捲りながら、書類を手にそんな事を言ってくる。列には色んな人間が並んでいたが、「ガキ」と言われた途端、「なんでだよ!」「飯が食えねぇじゃんか!」「理由は?!」とボクのような成人していない子供達が一斉に騒ぎ始めた。


「……魔獣だ! 魔獣が出て死人が出たんだよ」



 ――魔獣。

 それは獣ではなく、瘴気を帯びた化け物の総称。ボクも話では聞いた程度で、実物は勿論見たことはない。瘴気を帯びているせいで、その姿形は様々とされるが、皆一様に禍々しく。しかもその瘴気のお陰で、皮膚は堅く、その膂力も相当で、最も弱いとされる小動物の魔獣ですら、肉食へと変じ、人を襲うという。その為、衛兵隊や騎士団、後はそう言ったものを狩って収入を得ている冒険者が武器を手に相手すると聞いた。


 だからか、仲介屋の銅鑼声でそう言われた瞬間、全ての音が消えたようにその場が静まり返る。暫しの静寂の後、大人たちのヒソヒソ声が聞こえ始め、徐々にそれが増えていくと、誰かが大きな声で仲介屋に問いかけた。


「おい! 魔獣って、ビッグラットじゃねぇのか?!」

「……判らん、今はギルドで検分が行われているが、何でもその遺体はバラバラにされ、何人分もあったそうだ」


 ビッグラット……鼠の変容した魔獣で名前はビッグと付いてはいるが、赤ん坊程度の大きさで、地下水道には良く出てくる魔獣らしい。ボクのような子供達は地下水道の浅層にしか入らないので出会ったことはないが、中層以降にはいると聞いた。奴らは群れで襲ってくると不味いらしいが、個体自体はそうでもなく、数匹程度なら大人が数人で武装すればなんとか敵う相手らしい。


「……ば、バラバラ?!」

「く、喰われたのか?」

「……判らん。だから今は中層は出入り禁止になっている。浅層も大人が組になって行かねぇと駄目だそうだ。冒険者ギルドの方から達しが来て――」



 そこから仲介屋は詳細と、これからの作業について話をし始めたが、ボク達子供に暫く仕事はないと言われ、トボトボと列から外れて、街中のゴミ捨て場へと足を向けた。




~*~*~*~*~*~*~*~



『……この金を使え』


 仕事が失くなってから数日、街の路地裏では「残飯漁り」と言う、熾烈な争奪戦が繰り広げられている。元々この場所に居た働けない者、働けるのにそれをしない者たちが集まってテリトリー分けは何となく出来ていたが、そこへ仕事にあぶれたボク達が押し寄せた。


 当然だがここに居た連中も、僕らの行為を黙って見守ってはくれず、結果ボクのような非力な子供達は殆ど収穫など無いに等しかった。そんな日が二三日続いた頃、小屋の入り口で待ち構えていたサタナエルがそう言って、ボクに銅貨の詰まった袋を渡してきた。


「……っ!? ど、どうしたのこれ」

『世話になった礼だ』

「いや、そうじゃなくて!」


 手渡された袋の重さに驚き、中を覗いて慄いた。そこには銅貨に混ざって銀貨もぎっしり詰まっていて、今までに見たこともない様なお金がその袋には詰め込まれていた。


『ん? 足りないか、ならば次は――』

「違うよ! そうじゃないよ、そうじゃなくて、こんなに沢山のお金をどうやって……っ?!」


 そこまで言った後、ふと頭の中に最近の騒動のことが過ぎる。……地下水道での魔獣騒動。未だ魔獣は見つからず、どころか最近では冒険者達にも被害が拡大して、騎士団が出てくるかもと、もっぱらの噂になっていた。遺体の損傷はどれも原型を留めない程に、酷く損壊されている。だが、魔獣が襲ったにも関わらず、それらを捕食した形跡はなかったと……。


 ――まさか。


 そこまで考えた途端、ゾッとするような視線を感じて前を向くと、彼は無表情なまま、視線だけをぎょろりとこちらに向け、佇んでいる。


『拾ったのだ。……地下水道でな』

「……っ!?」


 刹那、彼の背に勢いよく拡がった大きく真っ黒なそれを見た瞬間、ボクは勘違いしていたことに気がついた。コイツは『天使』なんかじゃない! ……悪魔、そう悪魔だったんだ! だから、天から追放され、その翼をもがれていたんだ。


「そ、その羽根は?!」

『……ん? あぁ、この通り、背の翼もほぼ完治した。……全てはお前のおかげだよ、ケント。後は』



 ――無辜むこなる魂の一つでも喰らえば、我は力を取り戻せる。


 そう言った彼はボクを見てニヤリと嫌な笑みを見せる。無辜なる? 何の事だと思っていると、その視線が何故か異質に見えて、背筋がゾクリとなる。


『フハハハ……そうか、言葉の意味が解らぬか。無辜とはすなわち、罪咎のない者の事。……例えば、お前の妹のような――』


 その言葉を聞いた瞬間、ボクは彼に向かって飛びかかる。ミリアの魂を食べるだなんて! 絶対、絶対そんな事はさせない!


「うわぁぁぁぁ!」


 ありったけの声を出し、震える足に叱咤を掛けて、懐に隠し持った短剣を手に彼に向かって走っていく。が、そんな僕を見た彼は、にやりと嫌な笑顔のまま、全くその場を動こうとしない。そうして、僕の持つ短剣の切っ先が、まさに彼の胸に突き立とうとした瞬間、硬い岩にでもぶつかったような感覚が僕の腕に伝わり、その衝撃で転倒してしまう。


「あぐっ!」


『……我にそのようなが刺さるとでも?』


 ……言われずとも解っていた。眼の前に立っているのは人ではない。それに、魔獣の徘徊する場所で、そう言う者たちを相手にしてきた悪魔……なのだ。



 ――だけど。


 ――だからと言って!


 僕の……僕の大切な妹に、手を出すと言ったこいつを許せる訳がない!


「刺さろうが刺さるまいが関係ない! ミリアに、ミリアにだけは絶対近づかせるものか!」



 突いては弾かれ、薙げば転がされ。みるみるうちに僕の服は擦り切れて、身体のあちこちから血が滲んでいる。既に息は上がり、肩で呼吸するのも覚束ない。眼の前は霞み、彼の表情すらもう見えないが、それでも僕はまだ立っている。


『……ケント、貴様がどう足掻こうが、結果が覆るわけではないのだぞ? いい加減我も飽きてきた。そこまで言うなら貴様も一緒に喰ろうて――っ!?』



 何時までもしつこい僕に、いい加減焦れたのか、サタナエルはそう言って、処断しようと手を振りかざした時、言葉が何故か途切れて僕から離れる。


『な?! ……き、貴様ぁ!』


『大丈夫、おにぃちゃん』


 ……不意にボクの後ろから聴こえたのは、いつもの口調だが、少し違う声音。……そうして、疑問が湧いて振り返る。


「ミ、リ、ア?」


 そう、そこには紛うことなくボクの妹ミリアが立っている。


 ――真っ白で大きな翼を広げた状態で。


『……ゴメンね、後でちゃんとお話するから、少しの間、待っててね』


 その声が聞こえた途端、ボクの意識は閉じていく。待って! 待ってよミリ――。


『……何時からだ?』


 彼我の距離を取ったサタナエルは、思わずと言った表情を見せ、睨めつけるようにミリアに聞く。


『見守るだけのつもりだった。でも彼女が僕に懇願したんだ「お兄ちゃんを助けて」って……。本来、堕落した天使の行く末など、我らは関知しない。所詮『堕ちた者』だ、せいぜいが人を惑わし、その精を喰らって細々と生きるだけのモノ……。が事情が変わってしまった』


 ――愛子いとしごに手を出させるわけには行かない。


 そう言ったミリアの姿を持つ天使は、右手をサタナエルへとかざす。刹那、彼女の手からおびただしいほどの電撃がほとばしり、狙い違わず殺到する。


『ちぃっ!』


 その電撃を寸での所で躱し『お返しだ!』と彼からは紫電が放たれる。がその電撃はミリアに到達する前に、バチリと大きな音を立てて掻き消され、彼女とケントには届かない。


『なっ!?』

『まだ分からないのか? ……やはり堕ちてしまえば「目」も眩むか』

『何をふざけ……ま、まさか貴様、使ではないのか?』

 

 彼女の言葉に激昂しかけたサタナエルが目を凝らすと、彼女の背に生えた翼の枚数を見て瞠目し、思わず後退って言葉を発する。その言葉に『やっと気づいたか』と言う表情で、彼女は今一度、その背に生えた六対の翼をバサリとひるがえす。


『我が名は智天使ちてんしケルビム。堕天し、地に落ちたよ、我が主上の命により貴様を滅する』

『……な!? ま、待て! いや、お、お待ちくだ――!』


 その名を聞いた途端、流石の大悪魔サタナエルも慌てたのか、思わず傅いて許しを請おうとするが、既に彼女の右手はいた。


『グギャァァァ!』


 飛来した雷の柱は幾重にも重なり、白化し天地が見えなくなってしまうほど。バリバリと地響きが起こり、轟音が轟いて辺り一面が消し飛ぶかと思われたが、超常現象はサタナエルの周囲だけで起こり、周辺は塵一つも浮かばない。


~*~*~*~*~*~*~*~


 ふと、誰かの呼ぶ声に目が覚め、顔をそちらにやるとホッとしたような笑顔で、ミリアがこちらを見下ろしていた。


「ミリア!」


 思わずガバリと起き上がり、彼女を両の腕で捕まえると、その温もりと柔らかい感触に、彼女が存在しているのが認識できる。安堵と同時に先程のことは夢だったのかと、周りを見回すと、少し離れた場所に何かが焼け焦げた後のような物を見つける。


「あれは?」

『……もう気にしなくて良いんだよ』

「ミリア?! じゃ、ないの?」


 僕の疑問に伏し目がちになった彼女、一瞬だけ眉根を寄せてから、こちらに笑顔を見せて話しだしたのは彼女ミリアだった。


「ゴメンね、おにぃちゃん。ずっと、ずっと護ってくれていたのに……。私もずっと、ずっと一緒に居たかった。でも……サタナエルちゃんが「悪魔」だって聞いて、そうしたら、おにぃちゃんが言い争って居る声が聞こえて、それで――」


 拙い言葉で、必死にボクにありのままを伝えようとしてくるミリア。目にいっぱいの涙を貯め、えぐえぐと鼻を啜りながらも、ゆっくりと事の経緯を話してくれる。


「それでね、それで私……お願いしたの「私の命をあげますから、どうかおにぃちゃんを助けて下さい」って」


「駄目だ! 嫌だ! 何を言ってるんだミリア!?」


 嫌だ! 嫌だ、イヤだ、イヤダ、イヤ、イヤ、イヤ、イヤイヤ、イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや、イヤダ! イヤダ!


「ゴメンね」


 ボクの言葉に彼女はただ頭を下げ、地面に幾つも雫を零す。


「約束……しちゃったんだ、だから――」

「いやだ! なんでボク達ばっかり、こんな目に合わなくちゃいけないんだよ! ミリアが! ボクの妹が何をした?! ただ生きていただけだ! 重い病気を背負って、父さんや母さんまで奪われて……それでもただ健気に生きてきただけだ! なのになんで!? なんでそんな彼女から奪ってばかり……」


 そこまで言うのが精一杯で、ボクも溢れた涙が止められず、声にならない声で喚き出す。


『……ケントよ。我ら天上の者は本来、地上の事に手を貸せぬ。……故に今回の件は『特別』なのだ。悪魔という、超常の者が絡んだゆえにな』


 不意にそんな小難しい言葉がミリアの口から紡がれ、思わずボクは反論してしまう。


「……なら僕を連れてけ! 彼女には何の罪咎もない! 神様なら、ボクや妹がどんな風に生きてきたのか知っているだろう!?」

『勿論だ。勿論君たちをずっと見守ってきた。だか――っ!』


 ボクの言葉に返答をしていたミリアが突然言葉を切り、目を瞑って天を仰ぐ。


「なんで急に黙って――?!」


 言い終わる直前、立って天を見上げていたミリアが、糸の切れた人形のようにボクに倒れ込む「ミリア!?」何とか抱きとめ、その拍子で尻餅をつくと、頭の中に先程の声の続きが聴こえてきた。



 ――智天使ケルビムの名に於いて――




~*~*~*~*~*~*~*~



 朝の日が昇る数刻前、ボクは井戸から救った冷たい水で顔を洗い、身支度を整えてバラックの布を捲る。



「おはようミリア、そろそろ仕事に行くよ」


 ボクの声に奥に敷いた襤褸が動き、眠そうに目をこすりながら、彼女はにこりと返事をくれる。



 ――行ってらっしゃい!




~Fin~

 

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