世界平和の貢献者

惟風

泣かないで

『問題です』

「……はい」


 旅人のマティスは口元に巻いた砂よけのストールを片手で整えながら返事を返した。背負っている大きめの旅行鞄の重みが肩に食い込む。雲一つない晴天、凶暴なまでの日差しだが、ここトートウ地方の砂漠は他の国の砂よりもやや湿り気を帯びている気がする。

 マティスの目的はこの先の海岸都市で傷心旅行をすることで、さして広くもない砂地をさっさと通り過ぎようとしたところ、突然目の前に巨大な人型の像が現れた。胸から上までの造形に簡素な顔、恐らく男性を模した石像だった。長身のマティスの十倍はあろうかというほどの巨体だ。

 彼は魔物と遭遇するのには慣れていたので特に驚くこともなく、懐から魔力を帯びた短剣を出して咄嗟に構えたところ、石像が口も動かさずに喋りだした。脳内に直接響かせるようなその声は深く低い音で、やはり男なのだろう。

 しかし「問題です」とは何事だろうか。お伽話で聞いたことのある、質問に答えられない者を食い殺す魔獣の類なのか。この辺りにそんな伝説があるとは聞いたことはない。魔物が出るとすれば、もっと原始的で暴力的なもののはず。

 まあとにかく話を聞いてみるしかあるまい。無駄な戦闘はしないに越したことはなく、話し合いで解決できるならそっちの方が良い。


『我は』

「はい」

『ここからどうしたら助かるでしょうか』

「ん?」


 問題の意図がわからずにマティスが聞き返そうとした瞬間、石像の巨大な瞳から水が降ってきた。さながら滝だ。


『タスケテ』


 水から逃れるために石像と距離を取ると、彼(男と想定するならだが)の頭頂部の辺りに灰色に蠢くものが見えた。刺さっているようにも見えるが、目を凝らすと齧りついている。

「なるほど……」

 それは、この辺りの砂漠に出没すると噂のサメだった。人間だけでなく魔物も襲うらしい。こんな大きな相手にまでかかっていくとは、その苛烈さたるや恐るべしである。

「大問題ですね」

 涙で川を作りつつある石像に同情しながらも、マティスは迂回ルートの方に進行方向を定め歩き出した。

『待ってマジで助けて殺されちゃう』

「俗っぽい喋り方もできるんですね」

 荷物を担ぎ直し、それだけ言うとマティスは石像に背を向けて、二度と振り返ることはなかった。


試験テスト・シャーク。視界に入るあらゆる強者に挑み、死ぬまで自らの強さを試し続ける鮫だ。人間ごときが手を出せる相手じゃありませんね」


 独り言にしては大きめの声量でマティスは呟いた。背中に背負った黒い旅行鞄が盛大にガタガタと揺れる。

 程なくして、石像の断末魔と思われる轟音と地響きが辺りに広がった。騒音が静まる前に、マティスの上に影ができる。何かが降ってくる。

 見上げるまでもなく、それがサメであるとわかる。

「……やっぱりバレてしまうものなんですね」

 マティスが溜め息をつくのと、背中の鞄が開いて薄桃色の触手が飛び出すのは同時だった。

 触手は日光を浴びてぬらぬらと光る。瞬きの内に長く伸び、残像も残さず再び鞄に戻る。

 遅れて、両断されたサメの頭と胴体が降ってきた。血の雨も。

「テスト、不合格でしたね」

 サメの頭にそう声をかける。

『何にも上手くないよ そういうとこだよ、君が振られる理由』

 背中で鞄がガタガタと揺れる。

 マティスはまたストールを巻き直して目的地を目指した。目尻に滲む涙を隠しながら。


 旅人マティス。

 やせぎすで落ち窪んだ目をした長身の男。

 古の魔王と旅をする、恋以外はわりと何でも器用にこなす男。古の魔王とはマブダチになれるが意中の女性にはきっぱりと振られた、傷心の男。

 彼を救う女性が現れるのは、もう少し先のことであ……ると思う。彼がスイートハニーを見つけるまでは、私はもう少し世界征服を先延ばしにしよう。




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