濃い体験ほど記憶の密度が高くなるのは本当か?

 「年齢と共に加速していく歳月の経過 ― “記憶の密度”という説明」と題した第1話で、人は極限の恐怖を味わっているとき、時間の経過を異常に長く感じる傾向があるという話を取り上げた。その真偽を確かめるために、ある研究チームが被験者を45メートル以上も自由落下させる恐怖の実験を実施した。


 ネット(網)に安全に受け止められて無事生還した被験者たちは、落下に要した時間を実際よりも長く報告した。しかし、知覚クロノメータという装置による測定の結果、自由落下中の被験者の意識の中で時間の経過が遅くなる現象は生じていないことが確認された。この研究を率いた教授は、この食い違いを次のように説明している。


 意識のある状態で死に瀕するなど、濃い体験をするほど、記憶の密度が高くなる。密度の高い記憶は再生に時間がかかる。ゆえに後から思い出すと、その体験中に時間がゆっくりと経過したように感じてしまう。


 子供のころには初めてのことを次々に経験するので、記憶の密度が高い。ゆえに後から思い出すと、たったひと夏が永遠に続いたかのようにさえ感じられてしまう。


 つまり、濃い体験や初体験は密度の高い記憶を残すということになる。しかし、体験が濃すぎたり恐ろしすぎたりすると、逆に後から思い出せないこともある。


 実際、筆者は小学校1年生のときに体験した一連のことがらを一切思い出すことができない。今では絵の鑑賞は好きでも描くのはからきし駄目な筆者だが、小学校に上がるまでは末恐ろしい絵の天才だと評判を集めていたとかいないとか。そこで親が画家にしてやろうと思って(実際、とある事情で当時疎遠になっていた祖父は戦後まもなく牧師に転向するまで日本画の画家をしていたという)、絵の先生のところに習いに行かせたらしい。


 しかし、絵を習っていたときの記憶が一切残っていないのだ。どんなふうに指導されたかはおろか、先生がどんな人だったかさえ思い出せない。何も思い出せない。その記憶が消失したのは、おそらく絵を習うのをやめた直後だったと思う。


 消失したのは記憶だけではない。絵の才能らしきものも完全に消失してしまった。よほど中身の濃い体験をさせられたのだろう。しかし、密度の高い記憶が残るどころか、一切の記憶が失われた。


 20代前半のある時期、バーの雇われマスターをしていたことがある。その当時にも、かなり濃い体験をした。こちらの記憶は、かなり鮮明に思い出せる。若かりし日の私の目に見えた大阪の中年客といったら、まあ手の焼ける連中だった。


 その店には、自営業者や中小企業の社長、大企業の管理職などが多かったのだが、みんな酒を飲むと子供に戻る。わがままの言い放題。私が若造だったから、なおさら彼らはエスカレートした。


 店の女の子の扱いも難しかった。私がむやむに若く、人生経験がなかったものだから完全に舐められているケースもあった。その一方で、誰か一人をえこひいきしていると見られると反発があり、営業時間中に怒って店を飛び出し、二度と戻って来なかった子もいた。


 オーナー側がどこかから将来のママ格としてスカウトしてきた女の子が毎日のように客から見えない場所で私に悪態をつき、挙句に売上金を持ち逃げしたことさえあった。


 結局、人間関係で疲れ切ってしまい雇われマスターを辞めることにしたのだが、実に濃い体験を短期間で味わった。いやな体験が多かったわけだが、今でもかなり鮮明に細部を思い出せる。時間的には、確かに実際の期間より長かったように感じる。


 このほか、そのバーの近くにはトルコ街があり、トルコ嬢のお客さんもちらほら。もちろん、トルコ国からクレームが入り、今では「トルコ」という呼称が禁止され「ソープ」と呼ばれている。さらに、私が雇われマスターをやめた後、大阪花博に際して全ソープ店が大阪の街から排除された。


 バーの雇われマスターをしていた時期は精神的外傷になりそうな体験が多かったわけで、実際、その後の何ヶ月は母が一人で暮らしていた実家に引き篭もってしまったほどである。しかし、それでも記憶は鮮明に蘇る。


 なのに、小学1年のころに絵を習っていたことは何一つ思い出せない。アフリカ南部を飛び回っていたころの濃い体験にも、何かバリアのようなものがかかっている。


 この違いがどこにあるのかはわからない。だが、濃い体験をしたからといって記憶の密度が高くなるとは限らないことを示しているようにも見える。あるいは記憶は、あまりに密度が高すぎると簡単に再生できなくなってしまうのかもしれない。


 いろんな体験をしているのに、それが何の役にも立ってなさそうな人間もたまにいる。私がその一人であることは間違いない。

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