夏色迷宮

@yuutopia29

第1話:君がいない世界で

ー1ー


放課後の教室に1年生から3年生までの文化祭実行委員が集められていた。初めての顔合わせだ。


橋立響陽(はしだてきょうや)たち1年生は入学したてのどこかぎこちない様子で、席に座ったまま小声で話す程度。対して2,3年生のエリアからはにぎやかな話声が絶えなかった。


響陽の隣の席、同じクラスの平良瑞樹(たいらみずき)は、とんとんと響陽の机をたたいた。


「橋立君ってなんで文化祭実行委員を選んだの?」


瑞樹は肩までの黒髪を揺らしながらつまらなそうにしている。


「しいて言えば、最後まで決まらなそうだなと思ったから?」


「…ただのお人よしなの?」


疑問に疑問で返した響陽に、瑞樹は呆れたように眉を寄せた。


「ただの」とつけるあたりが瑞樹らしい皮肉だ。


でも本当にその通りなので、響陽は肩をすくめた。それ以上言葉を足す理由もない。


別にお人よしではない。小さい頃から、放っておけないタイプなだけだ。


顔合わせはとどこおりなく進み、先輩からの「自己紹介して、チーム分けしてね」の声に真っ先に応じたのが葵夏恋(あおいかれん)だった。


「まずさらっと自己紹介しましょう」


立ち上がって発言した夏恋は、他の誰かが話し出す前に場を仕切る。まるでそれが当然の役割であるかのように迷いがなく、自然と1年生は彼女を中心に話が進んでいった。


ふわっと笑い、ゴールまで誘導していく。1年生のぎこちなさは、彼女が話すたびに段々と薄れていった。


響陽は視線を移す。


背は高めで、動くたびに腰まで伸びる黒髪がさらりと揺れる。明るく、快活で、場を動かす力がある人物。


典型的な優等生タイプだと思った。


季節は巡り9月。10月の文化祭に向けて、委員会の仕事は佳境に入っていた。


放課後の打ち合わせ、クラスの出し物を決めたり、必要書類の提出。


響陽は夏前から始めていたアルバイトのシフトを減らして、文化祭に向けて奔走していた。


そんなある日、18時を過ぎた頃。


誰もいない教室が並ぶ廊下を響陽は歩いていた。


彼の頬を、窓から差し込む夕焼けが赤く染める。


眩しさに目を細めながら窓の外を見やると、ちょうど日が沈み始めたところだった。


1年生の昇降口がある3階は、他のフロアよりも景色がよく見える。


今日の夕焼けはいつにも増して鮮やかで、吸い込まれそうなほど美しい。


響陽は思わず立ち止まり、静まり返った廊下でしばらく日が沈むのを眺めていた。


「…んす」


不意にどこからか聞こえた鼻をすするような声。


誰かまだこのフロアにいるのか。


どこかで聞いたような声だったが、静寂の満ちた校舎で耳にすると胸がざわつく。


耳を澄ませると再び「んす、っす」と音がする。


誰かが泣いているみたいな声だった。


幽霊かも、そんなはずないか。


響陽は小さく息を吐いて、昇降口へと足を向けた。


だが不意に覗き込んだ教室の中に、その音の正体を見つけてしまう。


泣いている女子生徒。しかも顔を上げた彼女と、ばっちり目が合った。


泣き腫らした目と頬を覆う両手。その隙間から響陽を見つめる視線は、驚きと戸惑いで揺れていた。


「…葵?」


響陽の口から思わず漏れた名前に、教室の中で肩を震わせる彼女――葵夏恋は、涙で潤んだ目を隠すように顔を背けた。


何かをしゃべるのを躊躇して、夏恋はなかなか何も言わない。


再び鼻をすする声がする。響陽は放ってはおけずに、教室に入り夏恋に近づいた。


今日の委員会では、いつも通りの夏恋だった、気がする。明るく冗談を言って笑っていた姿を思い出す。


それが、なんで放課後の教室で一人で泣いている?


窓際でうずくまる彼女に、机いっこぶんの距離を開けて立ち止まる。


「なにかあったのか?」


心配して様子を伺う声音の響陽に対して、夏恋はなんと答えるべきか迷っている様子だった。


焦らせるのも違うと思い響陽はしゃがんで、答えを待つ。


手の甲で乱暴に涙を拭って「なん、でもない」とやっとそれだけ言い、黙り込んでしまう。


どう考えてもなんでもなくない場面だが、二人はまだ込み合った話をするような関係性ではなかった。


それを悟って響陽は「そっか」と頷く。


ああこいつって、こんな風に泣いたりするんだな。


優等生タイプだと思っていたが、まずその印象を撤回する。


「帰ろう。もう下校時間になる」


話を聞くのは諦めて、せめて途中まで一緒に帰るかと響陽は夏恋を促した。


「帰りたくないの。放っておいて」


冷たい言葉に反して、弱々しい口調だった。まるで、放っておかないでほしいと言っているみたいで。


響陽は一瞬迷ったが、意を決して彼女に近づき、手を差し出した。


「今日は夕日が綺麗だから。座ってたら見えないだろ」


夏恋はしばらく手を見つめていたが、何かを諦めたように立ち上がる。


響陽に促されるままに窓際へ向かうと、朱色に染まる空が泣き腫らした夏恋の横顔を隠すように赤く染めた。


「…確かに、気づかなかった」


小さく笑った彼女を見て、響陽は少しだけ安堵した。


夏恋の呼吸が少しずつ落ち着いていく。沈む夕日とともに、彼女の涙も少しずつ消えていくようだった。


彼女が何を抱えているのか、全く知らなかったし今まで気づきもしなかった。


夏恋はこれまで何かサインを出していたのか。思い返しても特に何も浮かばない。


すごい場面に遭遇してしまったな。


漠然とそう思う一方で、どうしていいのかは全然わからなかった。


ただ、茜色の空が紺色へと変わるのを見つめながら、彼女の隣にいることだけが唯一の「正解」のように思えた。


ー2ー


文化祭の準備は着実に進んでいき、ついに明日に迫っていた。


校舎内にはイベント前特有の不思議な昂揚感に満ちていた。


下校時間が迫っているにもかかわらず、まだ生徒たちの声がする。


響陽は急遽「暗幕が足りない」と言われ、委員会の準備室である図書室まで走る羽目になっていた。


一般教室棟から渡り廊下をすぎて特別棟に渡る。


こちらは文化部のエリアだ。あらかた準備は終わっているのか、電気が付いている教室はまばらだった。


賑やかな声が渡り廊下の向こうから風に運ばれて聞こえてくる。


響陽は廊下を進んで図書室を目指した。


施錠されていたらどうしようと思ったが、まだ電気はついていた。


「失礼します」


先輩がだれか残っているといいけど、そう考えて開けたドアの先には誰もいなかった。


貸出用の備品が並べられている大机の間を通り、暗幕がどこにあるかを探していると廊下の方から物音が聞こえた。


「…あ、あれ?」そして声にならないつぶやきと、床を擦るような足音。


妙にあわただしい落ち着かないリズムだった。


気になって音がした方へ向かいドアから廊下を覗くと、そこには明らかに様子がおかしい夏恋がいた。


「葵?」


夏恋は顔を伏せ座り込んで、何かを探しているようだった。


その肩は小刻みに揺れていて、動転している気配が伝わってくる。


響陽の声掛けにも反応しないほどの気の動転ぶりに、さすがに様子がおかしいと思った。


響陽は、普段の彼女からは想像もつかない様子に胸騒ぎを覚え、そっと肩に触れた。


夏恋は弾かれたように顔を上げる。その目には焦りと不安が浮かんでいた。


「…橋立君。また変なとこ見せちゃったね」


声は掠れていて、普段の彼女の快活な調子とはまるで違った。


「いいって。どうした?」


何と答えようか、夏恋は言葉を探すように口を開いたがすぐに閉じた。そして視線をそらしながら小さな震える声で答えた。


「…失くしものしちゃって」


彼女の瞳は、不安と動揺からかいまにも泣きそうに潤んでいる。普段の夏恋には見られない表情に、響陽は少し戸惑いながらも目線を合わせるようにしゃがんで近づいた。


「大事なものか?」


その問いに夏恋は頷く代わりに目を瞑って、両手で顔を覆った。その沈黙が、とても大切なものだと雄弁に語っていた。


「どこで落としたか、心当たりは?」


静かに聞くと、夏恋はおぼつかない声で「さっきまであったのに」と自身の指先に触れる。


夏恋の足元には彼女の鞄の中身が散らばっていた。それが彼女の焦燥感を一層際立てる。


「一緒に探すよ。どんなやつか教えてくれ」


「…ほんと?」


夏恋は一瞬驚いた顔をしたが、わずかに頬を緩めた。


「もちろん。で、何を失くしたんだ?」


「シルバーの指輪。裏にK&Nって刻印があるやつ」


恋人にもらった指輪かなにかだろうか。


「わかった。一旦教室に暗幕届けてくるけど、そのあとすぐに戻ってくるから散らばってる荷物まとめておいてくれ」


響陽がそう伝えると、夏恋は不安げな表情をしつつも小さく頷く。


よし、と思って文化部とは思えない素晴らしいスピードで教室と図書館を往復した。


響陽が図書室に戻ると、夏恋は机の下でしゃがみ込み床の上を探していた。


「お待たせ。少しは落ち着いた?」


「うん、ありがとう。図書室にはないかも」


響陽に気づいて机の下から出てきた夏恋は、目の下を拭って鼻をすすった。


「教室だけじゃなく、移動中に落としたかも知れないよな」


響陽は独り言のように言いながら、夏恋の様子を伺う。


目の下がわずかに赤く腫れていた。ああまた泣いてたのかな。


「どっちから図書室に来たんだ」


「教室から。使わなかった備品返そうと思って抱えてきたの」


あっちからと夏恋が指さしたのは、響陽が出入りしてきたドアと反対側のドアだった。


「少しずつ戻って探してみよう。案外廊下に落ちてるかも」


「…見つからなかったらどうしよう」


夏恋は顔を伏せて、鼻をすする。


きっととても大切なものだったんだと思った。例えば別れたけど未練がある彼氏からもらった指輪だとか。


「見つかるさ、絶対に。最後まで付き合うよ」


力強くできるだけ明るく言った響陽に、夏恋は顔を上げて弱弱しく笑った。


廊下へ出ていく響陽を追いかけるように、夏恋も歩き出す。


「その指輪ってすごく特別なもの?」


廊下の静寂の中で、響陽が尋ねた。廊下には二人だけ。先ほどまでは付いていた教室の電気は消えている。


夏恋は一瞬足を止め、響陽をちらりと見た。


視線を感じて振り返ると、言うか言わまいか迷うような表情。


「…大切な人からもらったの。私の心の支え」


「恋人?」


「うん、そんな感じ」


答えにくそうに歯切れ悪く言う夏恋に、響陽はそれ以上何も聞かず指輪探しを再開した。


階段を下りながら、ふたりで一般教室棟を目指す。


「葵、さっきどこを通った?」


「確か…あ、音楽室の前で荷物を落として。そこで先輩に呼び止められた気が」


「音楽室の前か」


音楽室の方へ向かうと、廊下の先できらりと光沢のあるものが光った。


夏恋がはっと息をのんで、それに向かって駆け出す。しゃがみ込んでそっとそれを拾い上げた瞬間、彼女の肩からふわっと力が抜け深い安堵の表情を浮かべた。


「あった…」


彼女はぎゅっと握りしめた後、定位置だとでもいうように右手の薬指に指輪を戻す。


「見つかってよかったな」


「本当に、ありがとう」


振り返った夏恋は微笑みながら頭を下げて、感謝の言葉を述べた。


笑顔が戻った夏恋を見て、響陽はほっとすると同時に、胸の奥に小さな温かさが灯るのを感じた。


ー3ー


「次の演目は、カラオケ大会か。高校の文化祭っていろんな事やるんだね」


パンフレットを見ながら柊良鶴里(ひいらぎらずり)は、楽しそうに椅子に座ったまま足を揺らした。


響陽は、隣の家に住む中学3年生の良鶴里から「志望校の文化祭見ておきたいし?」と高校に到着してすぐ電話で呼び出しを食らっていた。去年2人で来ただろう、と返せばテンションを下げるとわかっているので、響陽は黙っている。


「ステージばっか見てないで教室の方も見るんだろ?」


「ん-でも去年はあんまりステージ見てなかったし」


「あっそう」


委員会での響陽の仕事は、片付けや見回りがメインだったので実はあまり忙しくはない。


仕方なくクラスのシフトが回ってくるまで、良鶴里の相手をしていた。


「なかなか始まらないね。時間過ぎたのに」


良鶴里の声にスマホを見ると確かに3分ほど時間が押している。


何かトラブルだろうか。


近くに座ってきた学生が「欠員が出たらしいよ」と話しているのが聞こえた。


舞台の進行が止まり、司会者が困ったように舞台袖を見ている。


どうやらトラブルが発生したようだ。そういえば夏恋はステージ進行の係だった。


葵は大丈夫だろうか。


いや、元気な時の夏恋なら華麗に解決してしまうに違いない。


その時、舞台照明が点き、スポットライトがステージ中央を照らした。


聞こえてくる司会の声。


「お待たせしました!カラオケ大会一人目は、葵夏恋さん」


「え…?」


なんであいつが、響陽は思わず声を漏らした。夏恋はステージメンバーではなかったはずだ。


ステージ袖から歩いてきたのは、間違いなく夏恋だった。


少しいつもより表情が暗い。もしかしたら緊張しているのかもしれない。


前奏が流れて、夏恋の控えめな声がマイクからスピーカーにのって聞こえてきた。


いつもとは違う、何かがこもった歌声だ。


か細いけど芯のある声。ラブソングなのになぜこんなにも悲しそうなのか。


歌い始めは押さえ声だったが、サビに入る頃には歌詞のひとつひとつが心を削るように響いた。


彼女の声に宿る悲しみと無力感が、響陽の心を揺さぶった。一体彼女に何があったんだろう。


聞くチャンスはあったものの、話したくない雰囲気を感じて毎回何も聞けなかった。


その体にどれだけの寂しさを詰め込んでいるのか。


小さな声で良鶴里が感嘆を漏らす。


「うまいね。すごい」


ざわざわとした話し声が周りから聞こえなくなり、観客全員が夏恋を見ていた。


歌い終わると、自然と拍手が巻き起こる。だが響陽の耳に拍手の音は入らない。


彼の目に映るのは肩が震え、目に涙が浮かんでいる夏恋だけだった。


一礼してステージを去る夏恋の後ろ姿は、いつもより小さく見える。


あのままにしてはいけない気がして、響陽は夏恋を追う決意を固めた。


「良鶴里ごめん、俺ちょっと行ってくる」


「え、ちょ、響兄っ」


良鶴里の静止は聞かずに、舞台裏へ向かった。


舞台裏の廊下の壁に、もたれて必死に泣くのを我慢している夏恋を見つけたのはそれからすぐだった。


響陽は声をかけようと口を開きかけたが、うまく言葉が出てこなかった。


なんと言葉をかけたらいいか、全く分からなかったのだ。


泣き出しそうな彼女を前に、「大丈夫か?」とはとても言えない。


夏恋の瞳の端にきらりと光るものが見えた瞬間、放っておけずに気づけば夏恋の手を取っていた。


「葵、場所変えよう。ここだと人が来るから」


夏恋は顔を上げないまま、小さく肩を震わせていた。


声だけで誰が来たかを悟ったのか、響陽の言葉に応えるように小さく頷く。


廊下を抜けて校舎裏に向かう間、二人の間に言葉はなかったが握った手はちゃんと温かかった。


ベンチに夏恋を座らせて、響陽は目の前の自販機にお金を入れた。


「何が飲みたい?」


夏恋は少し迷ったように俯いたまま、小さな声で答えた。


「…ココア」


がこんと場違いな音を出す自販機からココアを取り出すと、夏恋の手に握らせた。


「ほら。落ち着くから飲んで」


多分夏恋は何か深い傷を抱えている、響陽はそう思ってやまない。


しかし、それが何なのか、夏恋が話してくれる気配はない。


失恋、なのか。それとも。


夏恋から感じる心が張り裂けそうな寂しさはそれだけではない気がしていた。


夏恋は握ったココア缶をじっと眺めるばかりで、飲もうとはしない。視線はぼんやりと宙を漂い、どこか遠いところに心を置き去りにしているように見えた。


「隣座ってもいい?」


答えのないままの空気に痺れを切らし、響陽は自販機でお茶を買いながらも構わず隣に腰を下ろした。


「泣きたいなら泣いてもいいよ。落ち着くまで、ここで待ってるから」


その一言が決め手だったのか、夏恋は小さく身を縮めるようにして体育座りをし、膝に顔を押し付けて泣き始めた。


鼻をすする音と無音で膝を伝う涙の粒が、この空間が文化祭中の学校の片隅ということを忘れさせる。


初めて放課後の教室で泣いている夏恋に遭遇したときも思ったけど。


――この子は、こんなにも静かに泣くんだな。


どうしたらいいかわからず、響陽は隣でお茶を飲みながらしばらく黙っていた。


だが、何もしないでいるのがいたたまれなくなり、そっと夏恋の背中に手を伸ばし、軽くさすった。


夏恋はむしろ嫌がらず、その手にすがるように体を預けてきた。


響陽はそのまま、夏恋の涙が静かに止むのを、ただ待ち続けた。


夏恋の涙が少し落ち着いてきた頃、響陽はそっと手を止めた。


「…少し、楽になった?」


静かにそう声をかけると、夏恋は小さく頷いたものの、その表情はまだ曇ったままだった。


しばらく無言が続く。自販機のココア缶をじっと見つめる夏恋に、響陽は話すべき言葉が見つからなかった。


そのとき、ぽつりと夏恋が口を開いた。


「橋立君はさ、自分の1番大切な人に突然会えなくなったらどう思う?」


響陽は不意を突かれてすぐに答えられなかった。


「それは…」


すぐに答えられるはずもなく、彼は言葉を探した。


夏恋の横顔は儚げで、どこか今にも消えそうな影をまとっている。冗談めかして答えるべきではないと、響陽は感じ取った。


「わからない、正直。そんなこと、考えたくもないかな」


響陽の回答に夏恋はふっと小さく笑ったように見えた。けれど、その笑みには明るさの欠片もない。


「私も、わからないの。会えなくなった日から、ずっと」


響陽は彼女の声に含まれる重みを感じ取りながら、問いかけた。


「何が、あったんだ?」


夏恋はココア缶を見つめて、少し考えるように息を吐いた。


「その人ね…私のこと、すごく大事にしてくれたの。私が落ち込んでたら絶対に気づいちゃうし。自分も大変なのに、私のこといつも気にかけてくれて」


そう語る彼女の指先には、昨日一緒に探したリングが光っている。


「私の歌、初めに褒めてくれたのもその人だった。歌うとね、すぐそこにいる気がするの。文化祭も絶対行くねってすごく楽しみにしてくれてた」


響陽は彼女の横顔をじっと見つだった。夏恋が語るその人への想いが、ただの憧れや感謝だけではないことに気づいたからだ。


夏恋が語るその人への想いが、ただの憧れや感謝だけではないことに気づいたからだ。


「…大切な人なんだな」


夏恋は静かに、しかしはっきりと頷いた。


「ん。私が大好きな人」


夏恋の言葉は過去形ではなく、現在形だった。今もその人が好きだということが見て取れた。


その人がどこか遠くにいるのか、はたまたもういないのかはわからないが、夏恋が明確にいま言葉にするのを避けたということは分かった。


その先を聞きたい気がして、響陽は慎重に言葉を選びながら尋ねた。


「…その人と、もう会えないのか?」


「わからない。…でも、あの人がいない世界は、私にはよくわからない」


そう言った後、夏恋はようやくココア缶のプルタブを開ける。カシュっと空気を断つ軽快な音。響陽はそこから何も聞けなくなってしまった。


カシュっと空気を断つ軽快な音。響陽はそこから何も聞けなくなってしまった。


何かを尋ねることで、彼女をさらに追い詰めてしまう気がした。


そのとき、夏恋の携帯が鳴った。彼女は慌ててポケットを探り、画面を確認する。


「あ…ステージ放置してきちゃった。行かなきゃ」


夏恋の焦り声に、ようやくここが学校で、今が文化祭の最中だということを思い出した。


立ち上がりかけた夏恋を響陽は捕まえて、自分の携帯を取り出す。


「ちょっと待て。連絡先、交換しとこう。もし泣きたくなったり話をしたくなったら、気にせず連絡して。俺でよければ、いつでも聞くから」


ふたりは連絡先を交換した。夏恋は驚いた顔をしたが、響陽の真剣な表情に気圧されたようだった。


「ありがとう」


夏恋は少しだけ微笑み、校舎の方へかけていく。


その背中を見送りながら、響陽は携帯の画面を見た。登録されたばかりの夏恋の電話番号。


夏恋はきっと何かをそのうちに抱えている。そのことだけはわかった。


「自分の1番大切な人に突然会えなくなったら…」


夏恋の問いが胸に残り、響陽の口からその言葉が漏れた。


きっと夏恋はとても大事な人との別れを経験したんだろうなということは分かった。しかもその大切な人とはもう会えない。


遠い記憶の奥底から、幼い日の情景が浮かび上がる。小学校に上がる前、父と母が離婚し、父が家を出て行った日のこと。


あの日は確かにすごくショックだった。自分はどうやってそこから日常生活が送れるようになったんだっけ。


響陽は在りし日の記憶を思い出しながら、お茶を飲み切って教室へと向かった。


ー1ー


文化祭が無事に終わり、期末テストも一段落した頃、気が付けば年が明けていた。冬の冷たい空気が校舎の窓ガラスに薄く曇りを作り、日没が早い放課後の教室は、いつにも増して静寂に包まれている。


響陽はアルバイトまでの時間を授業課題の消化に当てていた。そんなとき、携帯が震える。


夏恋からの短いメッセージだった。


「少しだけ、話したい」


具体的な内容は書いていない。けれど、それはいつものことだった。


それでも響陽はカバンを掴み、夏恋の元へ足が向かう。彼女に誘われるのは、これで何度目だろう。


決まって夏恋と待ち合わせをするのは、授業であまり使われることのない特別教室だ。


下校時間が迫った放課後、人気のない場所で彼女と顔を合わせることが、いつの間にか当たり前になっていた。


夏恋の日常の姿と、二人で会うときの姿には些かギャップがある。


クラスメイトには知られたくないのかもしれない。


教室に入ると夏恋は窓辺に立ち、白い息を吐きながら外の景色を眺めていた。


その肩に淡い光が差し込み、影が微かに揺れている。


ドアの開く音に気づいて振り返る夏恋の顔はどこか儚げで、響陽は理由もなく胸がざわつく。


「ごめん、待ったか?」


「ううん」


響陽は窓際に近寄ると、夏恋の隣の椅子を引き、二人で窓の外をぼんやりと眺めた。


「年内ぶりだな。冬休み何してた?」


夏恋は思い出したように、小さく笑った。


「そっか。年明けこれが初めてだったね。そっちは何してたの?」


「だいたい毎日バイトしてたよ。葵は?」


夏恋はあのリングを大事そうに触っていた。外はすっかり日が沈んで暗い。


教室の蛍光灯の明かりが、リングにはまる宝石をきらっと光らせた。


「私は、実家に帰って、ちょっとだけ正月っぽいことしたよ」


夏恋の無理している笑顔に、響陽は少し気になりつつ問いかける。


「正月っぽいことって?」


「親族に挨拶回りしたりとか…」


夏恋は言葉を切り、窓の外に視線を戻す。


響陽は、その遠い目に何か引っかかるものを感じた。


少し間が空いてから、夏恋は静かに続ける。


「…家族でテーブルを囲むのは、久しぶりだったな。不思議な感じがした」


「葵の家って、みんな忙しいの?」


「うん、父は病院の院長で、母もいろいろ手伝ってるから。私は一人暮らししてて、家族と会うのは…夏ぶりだったかも」


響陽は、言葉の一部が引っかかって繰り返した。


「高校生で一人暮らし?すごいな」


夏恋は軽く笑って肩をすくめた。


「そうかな。実家から離れたかっただけだよ」


響陽は以前、夏恋が「家に帰りたくない」と寂しそうに笑っていた顔を思い出した。


あのときは家族の忙しさが理由だと思っていたが、実際はもっと深い事情があったのかもしれない。


「親元を離れるのって不安じゃなかった?」


「不安もなくはなかったけど、それよりも両親と離れたい気持ちが強かったから」


普通の高校生なら、たぶんそんなこと思わない。響陽は彼女の言葉に含まれた重みを感じ取った。


夏恋とは話すたびに、この子は他のクラスメイトと違うと気づかされる。


「でも大変だろ。学校と家事と全部一人でなんて」


「最初は大変だったけど、慣れれば何とかなるよ。それに誰にも気を使わなくていいの気が楽だし」


夏恋は少し目を伏せながら、リングを弄ぶように触れていた。


その横顔はどこか寂しげで、響陽は胸の奥がざわつくのを感じた。


「でも、それだけじゃないんだろ?」


響陽の言葉に、夏恋は少し驚いたように彼の顔を見た。


何かを言いよどむみたいな間があって、響陽は少し踏み込みすぎかもと後悔した。


「息苦しいの。あの家」


彼女の声はかすれていて、響陽はその言葉の裏にある重さを感じた。


うまく言葉にできないみたいな顔で、夏恋は深いため息をついた。


「葵。無理に話さなくて」


「あのさ」


響陽は言葉を遮られたことに驚いた。夏恋は急に真剣な顔つきになり、言葉を続けた。


「私のこと、名前で呼んでくれない?」


「下の名前で?」


響陽は意外そうに目を丸くした。


「苗字で呼ばれると、どうしても実家のこと思い出しちゃうから。いまは少しだけ忘れていたいの」


夏恋の言葉はゆっくりと、けれど真剣に響陽に届く。


「わかった」


「名前、呼んでみてほしい」


「…夏恋」


その名前を響陽が口にすると、夏恋の表情が柔らかくなった。


「じゃあ夏恋も、俺のこと名前で呼んでよ」


響陽の言葉に、夏恋は少し驚いたような表情を見せた。


「名前、なんだっけ」


夏恋の冗談めいた言葉に、響陽は少し肩を落とした。


「きょうやだよ。漢字では、響くに太陽の陽って書く」


「響陽、いい名前だね」


→2話へ続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏色迷宮 @yuutopia29

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ