竜胆あかねの東洋医学カルテ:後編
診察開始前、看護師たちが慌ただしく準備を進める中、六合は物珍しそうに診察室の中を見回っていた。
「特に変わったものは無いと思いますが?」
不機嫌を隠そうともせずに、あかねが言った。
「医師の心構えというか矜持のようなものがね、診察室からは感じられるんですよ」
「矜持ねぇ……。いかがですか、うちの診察室は?」
興味の無さが、声色から感じられた。
「とても前向きに取り組んでいらっしゃるようだ。いやぁ、診察が楽しみですね」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、六合が言った。
「診察中は、口出し無用でお願いしますね」
「はいはい。解ってますよ」
「それと、白衣を着てください」
先日と同じマフィアのような装いを、六道は今日もだらしなく着崩していた。
「白衣って、医者だぞって威張ってるみたいで、苦手なんだよねぇ」
大げさに肩をすくめてみせたが、渋々といった様子で六合は白衣を身につけた。
黒尽くめでは、患者が怖がのではないかと思った。白衣を身に着けた六合は幾分マシに見えたが、相変わらず白と黒で構成された出で立ちが変に目を引いた。
「まぁ、着てないよりはマシか……」
小さく呟いて、あかねは準備を進める。
診察が開始されると、六合は小さなワゴンをデスク代わりにして、あかねの後方に陣取った。ノートPCでカルテを確認しながら、あかねの診察を見学する。
隣の診察室と比べても、あかねの診察時間は短く回転が早い。かといって機械的に診察を回している訳ではなく、患者一人ひとりの不安ときちんと向き合っている。
「見かけによらないものですね。面白い人だ」
興味深そうに、六合は口の端を歪めた。
その患者が訪れたのは、診察が始まって二時間ほどが過ぎた頃だった。
痛みを堪えるかのように自らの肩を抱き、おぼつかない足取りで診察室に入る。椅子を勧められるが、座ることすらままならない様子だ。
「森下さん、お痛みいかがですか?」
あかねの問いかけに、森下は悲しげな声で応えた。
「相変わらずです。何とかならないものでしょうか。とにかく痛くて」
「お薬を飲んでも、良くなりませんか」
「マシにはなりました。でも、電車で人と肩が触れるだけでも、激痛が走るんです。今日だってここまで来るまでに、どれだけ……」
そこまで言うと、森下は声を詰まらせた。
「お薬で痛みを抑えるくらいしか、今は……」
申し訳無さそうに話すあかねの言葉に、森下は静かに涙を流した。
「抑えられてなんか……いないじゃない……」
俯いたまま嗚咽を漏らす。
「じっとしているだけでも、全身が痛いんです。夜だってろくに眠れないし。この先もずっと痛いのかと思うと、もう生きることすら辛い……」
「そんな……」
「こんなんじゃ、夢も希望もないじゃない……」
涙声で訴える森下に、元気づける言葉をかけたかった。しかし彼女が求めているのは励ましでも慰めでもないはずだ。そう思うとあかねは、それ以上言葉を継ぐことができなかった。
何とかしたい気持ちはもちろんある。けれども、薬を変えたところで効くかどうか解らない。それに更に強い薬に変えるということは、更に強い副反応に悩まされるということでもある。今の薬でも倦怠感や目眩を引き起こすのだ。これ以上となると、軽々しく切り替えを進める気にもなれなかった。
打つ手を決めかねている時、その声は響いた。
「ありますよ、希望」
森下とあかねの視線が、声の主に注がれる。
「ちょっと六合先生、何を勝手な……」
「痛みは抑えられます。時間をかければ、完治だって夢じゃない」
あかねの声をさえぎるように、六合が続けた。
慌てて立ち上がり、六合の腕を掴む。
「ちょっと来てください!」
小さく告げると、六合を診察室の奥へと連れ込んだ。
「どういうつもりですか! 気休めなんて!」
森下に聞こえないように、小声で六合に抗議する。
「気休めなんかじゃないさ」
「線維筋痛症ですよ? 原因不明の疾患だってご存知でしょ?」
「打つ手なし。まさに現代医学の限界を感じるね」
大げさに肩をすくめて見せる。
「解っているのなら、どうして……」
「東洋医学の観点から言えば、原因不明って訳でもない。
「何ですか気血って! そんな迷信めいた医療に、大事な患者さんを任せられません!」
掴みかからんがばかりの勢いで、あかねが六合に迫る。
怯むことなく六合は、あかねのもたれかかる壁に強く手を突いた。
「迷信じゃない。
「!?」
普段の軽薄さなど微塵も感じさせない眼差しに、気圧されてしまい反論の言葉が出てこなかった。
「戻ろう。森下さんが待ってる」
表情を和らげて、六合が言った。
「……ほ、本当に痛みを抑えられるんですね?」
「もちろん」
六合が返す。
軽い口調とは裏腹に、その声には信頼に足る安心感が在った。
「……解りました。お任せします」
絞り出すような声で、あかねが言った。
診察室に戻った六合は森下に向かって座る。
あかねは後ろに座り、心配そうな眼差しで見守る。
「診察代わります。六合と申します」
「先生! さっきの話、本当に痛みを……」
待ちかねたとでも言わんがばかりに、森下が訊いた。
「えぇ、大丈夫ですよ。鍼を使いますけど怖くないですか?」
「何だってかまいません! 痛みが取れるのなら!」
「わかりました。お任せください」
力強く頷くと、六合は診察を始めた。肌の調子や舌を観た後、いくつか生活習慣や体調に関する質問をすると、首や背中を触診し痛みの箇所を確認した。
「それではこちらで、上半身裸でうつ伏せになってください」
処置室のベッドに森下を通してカーテンを引くと、六合はあかねに言った。
「後は任せて、竜胆先生は診察に戻ってください。患者さんが待ってますよ」
「わ、わかってます……」
森下のことが気になって仕方がないあかねだったが、気持ちを切り替えて診察を再開した。再開を満足気に見届けると、六合は鍼の準備を終えて処置室のベッドへと向かう。
「それじゃ、始めましょうか」
首から背中にかけて消毒すると、六合は指先で経穴を探り経絡に沿って鍼を打っていく。
「森下さんは、
「いま飲んでる痛み止めみたいに、ダルくなるんでしょうか……」
「漢方のお薬ですからね、強い副反応はないですよ。
会話を交わす間にも次々と鍼が打たれ、首から腰にかけて無数の鍼が立ち並んだ。そして手足の主要な経穴にも、鍼が打たれていく。
しばらく置いた後、総ての鍼が外された。
「初回なので軽めに打ちました。それでもじきに痛みが和らいでくるはずです。このまま少し休んで、落ち着いたら出てきてくださいね」
言い残してベッドを離れ、カーテンを引いた。
カーテンの外では診察を終えたあかねが、心配そうな表情で待ち構えていた。
「大丈夫……なんですか?」
「竜胆先生は心配性だなぁ」
やれやれと言わんがばかりに、六合が肩をすくめる。
「だって……」
激しい痛みに苛まれている森下を治療できないばかりか、苦痛を和らげることすらできなかったのだ。自分ができなかったことを、六合はできるのだと言う。本当に上手くいったのか、気が気ではなかった。
やがてカーテンを開け、森下が姿を現す。
口元を抑えて立ち尽くす彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「痛くない……。痛くないんです。信じられない……」
森下は流れる涙をそのままに、六合に駆け寄り手を取った。
「ありがとうございます。六合先生……」
照れくさそうに頭をかくと、六合は上ずった声で応える。
「その、なんだ。一時的な改善だから。時間をかけてしっかり治していきましょう」
「はい……」
二人のやり取りを、あかねは複雑な思いで見詰めていた。
◇
外来診察を終えた二人は、医局近くの休憩スペースに居た。昼時を過ぎ、何人かの医師が雑談に興じている。
「ブラックでいい?」
自動販売機の飲み物を物色しながら六合が訊いた。
「あ、はい……」
眼前に差し出された缶コーヒーを受け取ると、あかねは自動販売機の横に据えられた硬いソファーに腰を下ろしてうつむいた。続いて六合も、隣へ腰を下ろす。
「どうしたの、しょんぼりして。朝はあんなに元気だったのに」
「……すいませんでした」
「なに? いいって、コーヒーくらいで大げさな」
苦笑しながら六合はプルタブを引き、缶コーヒーを一口飲み下した。
「違うんです。その、森下さんのこと……」
「あぁ、そのこと」
もう一口コーヒーを流し込むと、六合は小さく溜息をついて言った。
「迷信めいた医療も、捨てたもんじゃないだろ?」
「ぼ、暴言でしたね。ごめんなさい……」
診察室の奥での口論を思い出し、あかねは更にうつむいた。
「まぁ、良いじゃないの。結果オーライなんだからさ」
あかねもプルタブを引き、一口コーヒーを飲んで言った。
「すごいんですね。東洋医学って……」
「痛みの緩和は、鍼灸が得意とするところだからね。診断のつかない慢性の不調も東洋医学は得意だよね」
「かなわないな……」
「苦手な分野もあるさ。たとえば外科的な処置が必要な疾患は不得手だし、救急救命なんてお手上げだ」
「なるほど。言われてみれば……」
「補い合えば良いんだよ。互いに得意分野が違うんだから」
そう言うと、六合は缶コーヒーを飲み干した。
「それが統合医療……という訳ですか」
「そういうこと。解ってるじゃない」
キザな仕草で、六合があかねを指さす。
苦笑しながら、あかねが顔を上げる。
その時、彼女の脳裏には幼い日の思い出が蘇っていた。病床の母と交わした約束。「お医者さんになってママの病気を治す」と意気込むと、母は「あかねなら、きっとできる」と励ましてくれた。あの頃の母の姿といえば痛みに苦しむ姿しか憶えていない。奇跡的に痛みがおだやかな日に交わした約束だった。
「よし、きめた!!」
叫ぶように言うと突如として立ち上がり、缶コーヒーを一気に飲み干す。
「なになに。どうしたの急に?」
「わたし統合医療センターで働きます! 転科しますから使ってください!」
六合に向かって、あかねが深々と頭を下げる。
驚きに目を白黒させていた六合だったが、やがて呟くように口を開いた。
「や、やだよ……」
「どうしてですか! ドクター、まだ集まってないんでしょ?」
「竜胆先生、漢方も知らなけりゃ、鍼灸も解んないでしょ」
「大丈夫です! 勉強しますから!!」
先程までの落ち込みもどこへやら。自信満々にガッツポーズを決める。
「いや、欲しいのは即戦力だから……」
ソファーから立ち上がると、六合は空缶をゴミ箱へと投げ入れた。
「じゃ、そういうことで!」
逃げるように走り去っていく六合を、あかねが追いかける。
「待ってください! 六合先生!」
新たなる目標を見つけたあかねの双眸が、活き活きと輝いていた。
(了)
竜胆あかねの東洋医学カルテ からした火南 @karashitakanan
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