竜胆あかねの東洋医学カルテ

からした火南

竜胆あかねの東洋医学カルテ:前編

 窓から差し込む月明かりが、ワンルームの部屋を照らす。街の喧騒はとっくに静まり、壁時計が時を刻む音だけが耳に染みる。

 青い静寂の中、森下裕子は両肩を抱えて痛みに耐えていた。

 零時前にはベッドに入ったというのに、二時間経った今でも眠れずにいる。睡魔が襲ってこないからではない。睡魔を寄せ付けないほどの痛みが、全身に満ちているからだ。

「痛っ!」

 寝返りを打とうとして、思わず苦痛に声が漏れた。

 痛みに眠れない夜を過ごして、もう半年になるだろうか。最初は首や肩に違和感を覚える程度だったが、いつの間にか痛みへと変わり更に全身へと広がっていった。その頃から、体を動かすたびに激しい痛みに襲われるようになった。そして今ではもう、静かに横になっているだけでも全身が痛む。

 首に痛みを感じ始めた頃から、いくつもの整形外科や整骨院を受診した。しかし医師や施術者は首をひねるばかりで、原因どころか病名すら解らなかった。最後に行った整形外科で、総合病院での受診を勧められ紹介状を書いてもらった。

 どうせ今回も無駄足に終わる。そう思いながら受診した総合病院で、予想に反して神経内科の医師が診断をつけてくれた。

 線維筋痛症というのだそうだ。

 病名が明らかとなり、ようやく痛みを遠ざけることができると安堵した。しかし次の瞬間、絶望の淵へと追いやられた。

 医師は「原因不明の病気のため治療方法がない」と告げた。薬で痛みを抑えるくらいしかできることがないと聞いたときは、あまりの理不尽に思わず涙がこぼれた。

 処方された薬は、わずかながら痛みを和らげてくれる。けれども、副反応で倦怠感に襲われるし、日常生活に支障をきたすほどの痛みが未だに続いている。

 三年前、新入社員として入社した会社に、ようやく慣れてきたところだった。いよいよ力を発揮しようというタイミングだ。動けない程の痛みに苛まれる日もあり、会社も休みがちになっている。どんどん仕事を任されていく同期たちと、差が開くばかりだ。

「どうして私ばっかり……」

 理不尽に対して、何度涙を流したか解らない。

「助けて……。誰かこの痛みから救って……」

 助けなど無いことを知りながら、森下はそう願わずには居られなかった。


     ◇


 慌てて医局を飛び出してきた女医が、白衣を羽織りながら廊下を走る。

「ヤバい、ヤバい! カンファに遅れちゃう!」

 すれ違った看護師が、「廊下を走らないで」と声をかけようとした。しかし相手が誰であるかを知り、諦めて呆れ顔で見送った。看護師は、言うだけ無駄だと知っていた。

 次の角を曲がれば、会議室はもうすぐだ。女医は腕時計を見やる。

「いける! ギリで間に合う!!」

 そう思いながら角を曲がった瞬間、何者かにぶつかり弾き飛ばされた。

「痛たた……。すみません、大丈夫ですか?」

 しこたま打ち付けた臀部の痛みに耐えながら、先ずは詫びた。

「君こそ大丈夫?」

 頭上から、落ち着いた男性の声が聞こえた。

 言葉とともに差し出された手を借りず、女医は一人で立ち上がり白衣の汚れを払う。

「ごめんなさい。急いでいたもので」

 立ち上がり相手の男を見て、驚きに目を見開いた。

「あぁ、これ?」

 女医の視線の先に在るのが自分の髪の毛だと気づき、男は苦笑する。

「気に入ってるんだけど、変かな?」

「いえ、その、似合ってると思いま……す」

 男の髪はなんと、センターから左右に白と黒に染め分けられていた。

 髪だけではなく着衣も、黒のスーツに白シャツ黒ネクタイと、白と黒だけで構成されている。まるで葬式帰りか、そうでなければマフィアかギャングだ。うっかり言葉にしそうになったが、女医は慌てて口をつぐんだ。

「院長室って、この先で合ってる?」

 だらしなく緩めたネクタイを更に緩めながら、白黒の男が訊いた。

「ひとつ上の階ですよ、院長室」

「げっ! マジで!?」

 男が顔の前で両手を広げ、大げさな身振りで驚く。

「迷子にならなくてよかったですね」

 何とか愛想笑いを貼り付けて、女医が言った。

 見たところ、四十代といったところだろうか。キザな喋り方といい、わざとらしい所作といい、胡散臭ささを感じてしまう。

「それじゃ、ありがとね。竜胆りんどう先生」

 男はヒラヒラと手を振りながら、その場から去って行った。

「……え? 名前!?」

 男に名を呼ばれ、どうして自分の名前を知っているのかと訝しく思った。しかし首から下げた『神経内科 医師 竜胆あかね』と書かれた名札に思い至り納得した。とっさに名札を盗み見るとは、意外と目ざとい男だ。

「……なんか、油断ならない人って感じよね」

 溜息をついて、男の背中を見送った。

「おっと、こんなことしてる場合じゃない!」

 慌てて走り出したとき、カンファレンスの開始時間はとっくに過ぎていた。


     ◇


 気づかれないように会議室のドアを開けたつもりだった。しかし二〇人ほどの医師の視線は、一斉にあかねに注がれた。気まずい思いを噛み締めながら、自分の席に座る。

「遅いぞ、何してたんだ」

 去年まであかねの指導医をしていた蒼井迅あおいじんが小声で叱咤する。

「すいません、外来が長引いちゃって。申し送り、何かありました?」

 カンファレンスの冒頭には、申し送りや通達があるのが慣例だ。

「例の統合医療センターあるだろ?」

「あぁ、来月新設される……」

「そう。そこのセンター長が来るってさ」

「来るって……どこに!?」

「このカンファにだよ。もうすぐ院長が連れて来るらしい」

「なんでまた、うちのカンファなんかに……」

 より良い医療を提供し、患者の生活の質QOLの向上を目指すとのお題目で新設される統合医療センター。志高く新たな取組みを行う病院は多いが、結局は採算が取れずに消えてしまう……この業界に居れば、そんな話はごまんと聞く。ここ、あかしあ総合病院のこの新たな取組みもまた、同じわだちを踏むのではないかと考える医師は多い。あかねもまた、その中の一人だった。

「外来の診察も見学させてほしいとさ」

 蒼井の言葉に、耳を疑った。

「はぁ!? よその先生に見られながら診察なんて、わたしは嫌ですからね」

 やる気なく、あかねが机に突っ伏す。

「頑張ってくださいね、蒼井先生」

「俺だって嫌だよ!」

 その時、ドアをノックする音が会議室に響いた。

 入室を促す声に応えて、会議室のドアが開かれる。

 夏木院長に続いて会議室に入ってきたのは、見覚えのある男だった。

「あーっ! さっきの白黒の人!!」

 思わず立ち上がり、指を指して叫んだ。

 何事かと、周囲の視線があかねに集まる。

「おい、竜胆。座れ……」

 隣の席で蒼井が、呆れた声を上げた。

「す、すいません……」

 周囲の医師たちに失笑され、真っ赤になってあかねが席につく。

「知り合い?」

 冷たい目であかねを見ながら蒼井が訊いた。

「い、いえ。さっき廊下で……」

「めっちゃ手を振ってるけど?」

 言われて顔を上げると、白黒の男が満面の笑みであかねに手を振っていた。

 どうしてさっきの白黒の人がここに? いや、そんなの決まってる。きっとあの白黒が、統合医療センターのセンター長なのだ。

 夏木院長に促され、男が壇上に立つ。

「初めまして、六合りくごうといいます。えーっと、漢方医であり、鍼灸師でもあります。東洋医学を専門にしてますが、元はみなさんと同じ内科医です。まぁ、気楽にいきましょう」

 覇気のない軽い挨拶に、そしてまるでマフィアのような装いとダラシのない着崩しに、医師たちがざわめめいている。

「東洋医学なんて古臭い医学に、何ができるんですかね」

 あかねも、素直な感想を蒼井にぶつけた。

「おい、聞こえるぞ」

「かまうもんですか。二千年前から大して変わってない医学ですよ? その間に西洋医学が、どれだけ進歩したと思ってるんですか」

 投げやりに、再び机に突っ伏す。

「あー、そうそう……」

 挨拶を終えた六合が、思い出したように壇上へと戻る。

「外来の診察を見学させてもらいたいのですが……」

 壇上から医師たちを見回していた六合の目が、あかねで止まる。

「竜胆先生、お願いできますか?」

「え? わたし!?」

 突然の指名に驚き、思わず立ち上がってしまった。

 面倒事を避けることができた周囲の医師たちが、安堵の溜息とともに、拍手で賛同していた。


     ◇


 朝のラッシュを避けたつもりだったが思いのほか人が多く、森下裕子は乗車をためらっていた。着衣が擦れるだけでも痛みが走るのだ。人混みに揉まれるだなんて、考えただけでも背筋が凍る。

 タクシーを使えばいいのだろうが、病院代だけでも予想以上の出費を強いられているのだ。まともに勤務ができない今、出ていくお金はできるだけ節約したい。

 ホームで何本かの電車をやり過ごしたが人が減る気配もなく、意を決して次の電車に乗ることにした。何とか午前中に診察を済ませ、午後からは出社したい。のんびりとしている時間は無い。

 予想通り車内は混み合っていたが鮨詰めと言う程でもなく、辛うじて体の周囲にスペースを空けることができた。しかし電車が揺れるたび、周囲の人と身体が触れて激痛が走る。

「大丈夫ですか?」

 苦痛に顔を歪める森下を心配して、向かいで吊革につかまる女性が声をかけた。

「だ、大丈夫……です。次の駅で降りるので……」

 優しい気遣いはありがたいが、痛みに耐えながらでは会話すらままならない。「頼むから放っておいてくれ」咄嗟にそう思ってしまい、人の優しさにすら素直に応じることができない自分を嫌悪した。

 たった三駅の移動だというのに、森下は既に疲れ果てていた。目的の駅で降りると、しばらくホームのベンチで痛みが落ち着くのを待った。

「いつまで続くんだろう……」

 先のことを思うと、いつも涙があふれそうになる。

「行かなきゃ……」

 泣いていても痛みが無くなる訳ではない。

 気を持ち直すと、疲弊した体を引きずるようにして森下は歩き始めた。

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