後編
少し遅れての出発にはなったが、S大サークル8名での登山が始まった。途中、休憩なども挟みつつ、順調に登山ルートを進んでいた。順調に進んでいた要因には、やはり須永の存在が大きかった。この山の登山経験があるおかげか、うまくメンバーを先導していたと思う。このままいけば登頂も問題なくできるだろうと誰もが考えていた。……異変が起きる、その時までは。
異変が起きたのは、登山を開始してから2時間半ほど経過したころだった。雪道を進んでいると、突如頬に冷たい感触が伝わる。……まさか、雪が。思わず空を見上げると空はすっかり雲に覆われていて、雪が降り始めていたのだ。雪が降り始めたかと思えば、今度は前方から肌を突き刺すかのような猛烈な強風が吹き始める。これが雪と混ざり合い、すっかり天候は吹雪へと変わってしまう。山の天候は移り変わりが激しいとは言うが、急な天候の崩れにサークルメンバー一同動揺を隠せていなかった。そんな時、加藤が声を上げる。
「おいおい、ちょっとまずいことになってきたかもしれねえぞ。リーダー、山慣れしてねえ奴もいるし一旦止まろうぜ。」
その加藤の声を聴き、須永は頷いて一時足を止める。
「確かに少し天候が変わってきているな。……とはいえ、一時的な天候の乱れは珍しくはない。山頂まではもう少しだし、様子を見ながら進めば大丈夫だと思う。」
須永はそう話す。加藤はあまり納得していない様子ではあったが、自分よりもこの山に詳しい須永の決定を優先させた。8名の登山はひとまず続行となった。
とはいえ、この吹雪の中だ。順調だった時よりは明らかに進むペースは落ちており、寒さも厳しいものになっていく。吹雪は瞬く間に視界を奪い、前を歩く須永達の姿が霞んでいく。肌に当たる風は鋭い刃のようで、ゴーグル越しでも目を開けていられない。手足の感覚が次第に薄れ、吐く息は白く凍りつくようだった。加えて、先導している須永、それについていけるだけの能力がある加藤と深山と、それ以外のメンバーとのペースは如実に差が出始めていた。徐々に前方の視界不良が起こっておりはぐれる危険性が出始める。そのことを加藤は理解していたのか、1分から2分おきに後ろにいる私たちに「大丈夫か!」と声を掛けていた。……しかし、やがてその声も聞こえづらくなっていた。
やがて、加藤の声が完全に聞こえなくなっていた。既に吹雪で須永達の姿も確認できないような状態だった。私は、前方にいるだろう須永達に、「一旦止まろう」と声を掛ける。……前方から返事が返ってくることはなかった。この状況だとはぐれてしまった可能性が高い。私は一度自分の後ろにいたメンバー4人にも声を掛ける。この吹雪での登山はさすがに難しい、と丁度後ろの4人も同じようなことを考えていたようだった。一度風をしのぎやすい場所に退避し、吹雪が収まってからの下山をすることにした。……そして、丁度いい岩場を見つけ、そこへと移動をしようとした時だった。
「……て。助けて。助けて。」
声が聞こえた。誰かの、助けを求める声だ。そして、その声は前方にいたメンバーのうちの1人、『加藤』の声だった。私は岩場へ退避しようとするメンバーを尻目に、声の聞こえた方向へと歩き始める。早く助けなくては……という思いだった。
声のした方向は須永達と離れた場所付近であった。吐く息もすっかり凍り付き、ゴーグルなしでは目を開けることすらも叶わぬほどに険しい天候。それでも私は吹雪の中を進み続けた。未だに「助けて。」という声が聞こえ続けているのだから、声の主を私は助けなくてはならないのだ。
……なぜ?猛烈な違和感を覚える。少なくとも須永達とはぐれたであろう場所と、元々いた岩場の位置は距離がある。大声を出しても、聞こえない可能性の方が高いはずだ。仮に声が聞こえたとしても、断続的にこちらに聞こえるように大声を発し続けるのは妙だ。吹雪の中では体力を温存する必要があるため、大声を出して助けを呼ぶとしても1分ほどの間隔を開けて行うのが普通だ。今聞こえてくるこの声は、数秒間隔で聞こえてくる。違和感が募りながらも、私はその声の主の元へ向かう足を止めることはできなかった。声は、明らかに『加藤』のものである以上、見捨てられなかったからだ。
そうして私が歩みを進めていると、「助けて。」の声がおかしくなり始める。
「助けて……たすけ……て……がっ、がっ、がっ――ずぅ、ずうぅぅ……」
突如、声が軋むようなノイズに変わり、耳を劈く不快な音が響く。そして、その声は次第に抑揚のない機械音声のように変わっていった。それは無線機で電波の悪いときに聞こえてくるような音に近いが、奇妙だったのがその音が一つの『声』として形を成しているようにも感じてしまうところだった。
声のようなノイズに私がたじろいでいると、ノイズは徐々に収まり、元の人の声へと戻っていく。しかし、その声は明らかに先ほどまで助けを求めていた声とは異なっていた。
「…ぇめて。て。いやだ。いやだ。いやだ。やめて。」
ずっと聞こえていた、加藤の、男の声ではない、女の、高い声だ。これは、『深山』の声だ。しかし、異様なのはそこに感情はこもっておらず、抑揚のない、機械音声のような声であったことだ。そして、その『深山』の声が、こちらへと近づいてきていた。吹雪の中、声はなおも聞こえ続ける。
『やめて……いやだ……』
その声が、近づいてくる。
私は足がすくみ、前へ進めない。
――見えた。……そして、ついにその『深山』の声の主と私は遭遇することになる。
『それ』は一見人のような姿をしていた。2本の足で立ち、両腕がある。だが、以上だと気づくのにはそう時間はいらなかった。その身体は雪のように真っ白に染まっており、くねくねと体を左右に揺らしていた。人の顔にあたる部分はウツボカズラのような気色の悪い形状になっており、うねうねとそのてっぺんからは触手のようなものが生えていた。手には大きなカギ爪のようなものもあり、この銀の世界にはおおよそ似つかわしくない赤色を滴らせていた。そして、『それ』は私の存在を認めるとゆっくりとこちらへと近づき始めていた。雪を潰すような異音と共に、「やめて。やめて。いやだ。いやだ。」と、『深山』の声をあげながら。
私は全力で逃げた。雪に足を取られながらも、必死で逃げた。殺される、いやだ、そんなことを考えながら。そして、逃げようとする道中で何かに躓いてしまい、雪の坂道を転げ落ち、私は意識を失った。薄れる意識で、あの『深山』の声を聞きながら。
――私は気付けば病院にいた。目を覚ました時、周りが少し騒がしかったのを覚えている。聞くところによると、私はあの転げ落ちた先がちょうどメンバーが退避をしていた岩場付近だったらしい。ドサドサドサ、という音が聞こえたということでメンバーが確認をしたところ、近くで私が倒れていたという話だった。数時間して救助隊が救助に来て、どうにか私は助かったという。しかし、目覚めたときこそホッとしていたが、頭のどこかでは須永達のことが頭を離れていなかった。
結局あの後、須永達は見つかることはなかった。雪解けをした春には捜索隊も出たが、遺体や遺品などは特に見つかることはなかったそうだ。この一件で、S大の登山サークルは一時活動を休止することになり、私自身もあの雪山でのことがトラウマとなりそれ以降登山をするのはやめた。
あの雪山で見た『アレ』は、なんだったのだろうか。須永達は、どこに行ってしまったのだろうか。入山届の管理をしていて、須永と揉めていたあの男に聞けば、何か分かるのだろうか。……もう、今となってはそれを考えたくはなかった。私は、もう山には登らないのだから。
雪山の『声』 川崎燈 @akarikawasaki
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