第2話 草レース
最高気温が10度に届かない日や降雨や降雪の日はさすがにお稽古はお休みにしながらも、カケルちゃんから届くメッセージに励まされ、私の目に焼き付いている水面をすべるように漕ぐ彼女の美しい姿に己を奮い立たせ、なんとかかんとか冬場を乗り切り、待ちに待った春がやってきた。まだまだ水は冷たいけど、着替えの時、指がかじかんでフリースのファスナーをあげられないなんてことはなくなった。
冬場もがんばったって言う自負があるから、へたくそながらも今年もカケルちゃんと正面から笑顔で向き合える。そんなことしなくてもカケルちゃんは笑顔を向けてくれるだろうけど、私はカヤッカーとして対等でありたい。へたくそでも。
そうして5月、ゴールデンウイーク。今年もやって来たE川崎のいつもの「瀬」には、スラローム用のゲートが設置されていた!
「昔はおじいちゃんの仲間の人たちが集まって毎年やってたんですけど、コロナが流行してからこっちはやってなかったんですよ。でも今年からまた再開するっておじいちゃんが張り切っちゃって……」
カケルちゃんが「おじいちゃん」と呼ぶその人は、カケルちゃんにスラロームカヤックを教えた人物であり、私の師匠である。って言うか以前は毎年やってたのか。私はここ3年しか来ていないから知らなかった。
おととしのゴールデンウイーク、私はカナディアン・カヌーにクマを乗せて川下りがしたくて、ここE川崎を訪れた。その願いを聞き届けてくれたのがE川崎のカヌー館でインストラクターをしているカケルちゃんのおじいちゃんだった。
でも私はそのときスラローム艇を操るカケルちゃんを見た。見てしまった。そして私はカケルちゃんに憧れてカケルちゃんのおじいちゃんに弟子入りした。そしてカケルちゃんのおじいちゃんは私の師匠になった。
あんなに上手なのにカケルちゃんは公式の競技会に出たことはないらしい。カヌー・カヤックスラローム競技はいわゆるC1とかK1と呼ばれる競技で、CはCanoe、KはKayakの頭文字、末尾の「1」は乗艇人数、すなわち1人乗りを意味する。
カヌーとカヤックって何が違うかと言うと、まあ、違いは色々あるけど、一番の違いは、漕ぐときに使うパドル(水を漕ぐ道具)に水掻き部分(ブレード)が片側だけについている(シングルブレード)か、両側に付いている(ダブルブレード)かの違いである。シングルブレードのパドルで漕ぐ舟がカヌー、ダブルブレードのパドルで漕ぐ舟がカヤックである。ちなみにカヌー2人乗り、C2ってのもあるらしい。やってる人が少なくて私もネットでしか見たことないけど。
顔見知りの参加者がカケルちゃんを囲んで河原からゲートを見て回りながら話をしてる。カケルちゃんがそれぞれのゲートを指さしながら何やら説明している模様だ。
「カケルちゃん。あのゲートへの入りはどうやったらええんやろ」
「うーん、おじいちゃん、またいじわるなゲートセッティングしましたねえ。前のダウンゲートをくぐるときに次のあのゲートの方向に舟を向けておかないと通り過ぎちゃうでしょうね。それでもきついようならあのダウンゲートは後ろ向けにくぐって向こう側にフェリーするくらいの感じでも仕方ないと思います」
年齢ならずっとカケルちゃんよりも年かさの大人たちが真剣な表情でカケルちゃんの言葉を聞いて、うんうんと頷いている。
本番前には試漕の時間が与えられる。
「はい、これマユさんのゼッケンです」
カケルちゃんがゼッケンを渡してくれた。
「え? 私も出るの?」
「はい、おじいちゃんからの指示で、もう出漕手続きは終わってますから」
く、あのじじい。本人には連絡なしかよ!ってか、私まだ全然準備してないよー。私は大急ぎでカヌー館で着替えを済ませたのだった。
私が準備する間、カケルちゃんは私の愛犬でウエリッシュ・コーギーの『クマ』の相手をしてくれていた。
「クマー! 会いたかったよー」
そう言いながら腰を屈めたカケルちゃんにクマが飛びつき、顔をべろべろと舐めまくっている。よっぽどの犬好きでないとあそこまでされたら引いちゃうだろう。カケルちゃんは大の犬好きなのだ。
河原に戻ってみると、先頭を切ってカケルちゃんがスタートするところだった。お手本とばかりにゲートをくぐりながらゴールまで漕いで行く。参加者ほぼ全員、もちろん私も、カケルちゃんの漕ぎ方、コース取りなどを確認しようと河原からその姿を目で追いかける。カケルちゃんの試漕はゲート接触なし、もちろん不通過なしの、私から見れば危なげない完璧なものだった。その漕ぎに見惚れてしまう。何回見てもきれいだ。私は彼女のあの「漕ぎ」に憧れてカヤックを続けている。
カケルちゃんに続いて次々と参加者が試漕する。私ももちろん試漕してみたものの、ゲート接触、ゲート不通過の山を積み上げてしまった。タイムなんて測ってくれなくていいよ、って思った。
「ゲートをくぐるときは次のゲートを意識してそちらへ舟の方向を向けておくのじゃ」
前に師匠が言っていた言葉が思い出される。
頭では分かっていてもこれが案外難しい。目の前のゲートをちゃんとくぐるだけで精一杯で、さて次は、ってやってるとあれあれと言う間に流されて次のゲートを通り過ぎてしまう。ゲート接触は1回あたり2秒、ゲート不通過は1回あたり50秒のペナルティが課せられる。自由に下るだけなら大して難しくない「瀬」も、そこに通過すべきゲートが設置されるとこんなにも難易度が高い「瀬」に変貌する。
この草レースは正式名称「川中文吉杯カヌー、カヤックスラローム大会」。「川中文吉」とはカケルちゃんのおじいちゃんで、私の師匠の名前である。
本大会には出艇する舟の種類に制限はない。K1スラローム艇、C1スラローム艇を初め、ロデオ艇、カナディアン・カヌー、パックラフト、はてはSUPで参加する人までいる。ただやはり艇の長いカナディアン・カヌーや、流されやすいパックラフト、流水の中でバランスを取るのが難しいSUPでは、すべてのゲートをくぐることさえ難しいことは1回目の試漕を見て分かった。
競技は2回漕いでタイムのよかった方で順位を決める。順位は出艇する艇の種類ごとに決められる。
ゲート数は15、そのうちアップゲート6、ダウンゲート9といった構成である。出艇数は29、私も含め大半はロデオ艇での参加だが、K1スラローム艇はカケルちゃんを含めて3艇、C1スラローム艇も1艇だけ参加している。スラローム艇の4人は同年代で顔見知りらしく、出艇前のひととき、和気あいあいと話が弾んでいるようだ。
競技が始まった。スタート直後の流れが緩やかな水面で1番、2番とダウンゲートが2つ連続した後、3番アップゲート、4番ダウンゲートを順に通過して「瀬」の入り口に差し掛かる。そこに5番、6番のアップゲートの2連続。そのまま「瀬」に突っ込んで7番ダウンゲート、すぐ「瀬」を渡って8番ダウンゲート、8番のそのすぐ下に9番アップゲート。「瀬」を渡って10番ダウン、11番アップの連続から、再び「瀬」を渡って12番アップゲートの後また「瀬」を渡り、あとは「瀬」を挟んで設置されている13、14,15番3つダウンゲートをくぐればゴール。
流れの通りに上流から下流へ下りながらくぐるダウンゲートは一見簡単そうに見えるが、「瀬」を挟んで短い間隔で設置された7番、8番の連続するダウンゲートでは不通過が相次いだ。私は試漕での経験を生かして、7番をくぐった後なんとかかんとか流されず8番ゲートをくぐることが出来た。2回漕いでタイムがよかった2回目は、不通過0、接触8という、自分としてはまあまあいい感じの出来で、ロデオ艇で参加した18艇中、真ん中の9位という成績だった。
K1の部ではカケルちゃんが1位になった。他の2艇もものすごく上手でペナルティはなし、でもタイムでカケルちゃんが少しだけ早かった。
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