第3話 戦い済んで日は暮れて
E川崎を訪れた際にいつも泊めてもらう師匠の民宿は大会関係者っていうか師匠の弟子や知り合いの人たちでいっぱいのため、今回私はカヌー館のオートキャンプ場で車中泊している。
一応大会参加者なのでカヌー館のシャワールームを無料で使わせてもらった。川遊びは海とは違って淡水だから塩でベタ付くことはないのだがやっぱり川の匂いが体に染みつく。ボディソープやシャンプーを持ち込んでシャワーを浴びてすっきりした後、携帯コンロを使って夕ご飯を作っている。
さっきシャワールームでカケルちゃんと顔を合わせた。カケルちゃんはずっと同じ年くらいのK1、C1の子たちと一緒だったから、こちらに来てからまだほとんど会話らしい会話をしていない。さっきもカケルちゃんは友達と一緒だったから、
「マユさん、お疲れ様です」
「カケルちゃんもお疲れ様」
交わした会話はそれだけだった。
米を洗ってコッヘルで炊く。お味噌汁はインスタントでお湯を注ぐだけ。おかずはさっきこのあたりで唯一のスーパーで買ってきたお惣菜。
「カケルちゃんともっとお話ししたかったなあ」
コッヘルのご飯が蒸れるのを待ちながら、私はぼそっと囁いた。クマが「ワン!」と暗闇に向かって一声吠える。
「マユさん」
クマが吠えた方向、キャンプ場の暗闇からカケルちゃんが現れた。上下ジャージ姿で耳が出るくらいショートヘアな彼女は相変わらず男なのか女なのか分かりずらい。でも初めて会ったときに比べると随分と体つきが柔らかくなった。
「カケルちゃん! どうしたの?」
「今日は友達が来ててマユさんとゆっくりお話しできなかったから。これ母からです」
そう言いながらカケルちゃんが手渡してくれたタッパーにはこの季節らしい、タケノコのワカメ和えとアユの塩焼きが入っていた。
「ありがとー。カケルちゃんはご飯食べた?」
足元にクマが纏わりついている。カケルちゃんはしゃがんでクマを撫でながら答える。
「実はまだなんです。民宿の方、忙しくて」
「じゃあ、いっしょに食べようよ!」
「わー、ありがとうございます! 実は期待してたんです。えへへ」
顔を見合わせて笑い合う。
カケルちゃんとの付き合いも3年目になる。とは言え、実際に会えるのはゴールデンウイークのときだけ。初めてあった時カケルちゃんはまだ中学生になったばかりの5月だった。出会い方は最悪だったけど私たちはすぐ仲良くなって、そのときメッセージアプリのIDを交換した。昨年は夏休みに私のマンションの部屋へ泊りで遊びに来てくれた。
「今日一緒にいた子たちは学校の友達?」
「徳島の高校の子で、前に吉野川で開かれた競技会、って言っても草レースなんですけど、に参加したとき顔を合わせたことがあるんです」
「へー、そうなんだ。上手だったよねー」
「はい。あの子たちはワールドカップとかオリンピックとか世界を目指してて国内の競技会を転戦してるんですよ。昨年はジュニアの代表でヨーロッパに遠征した子もいます」
「へえー、凄い子たちだったんだね。でも今日はカケルちゃんが優勝したじゃん。そんな子たちにも勝つなんてカケルちゃん、凄いじゃん!」
「たまたまです。今日は私のホームグラウンドだったし」
「夏に私の部屋に来た時にも言ってたけどさ…… カケルちゃんは世界を目指さないの?」
あの時、中学3年生だったカケルちゃんは進路で悩んでいた。私はなんの相談相手にもなれなかったけど、彼女の話の聞き役だけは努めることはできたかな。そんなの誰でもできるけど…… 結局、彼女は地元の高校に入学した。スラローム競技の強い高校には行かなかった。
「私は…… そんなの無理だって分かってるし、それにここが好きだから、ここで川に舟を浮かべられるだけで幸せだって思ってるし」
俯き加減に自分の足先を見つめながらカケルちゃんは続ける。
「いずれは民宿を継いでおじいちゃんみたいにカヌーやカヤックのインストラクターをして友達集めて草レースしたり…… そんな風に生きていけたらいいなって」
「そっかー、私もここ大好きだしね!」
周りはすっかり暗くなって、細い月が天空にかかっている。私はガスランタンに火を灯し、車の荷台からワインを取り出した。
「飲む?」
雰囲気にまかせて聞いてみた。未成年にお酒を薦めちゃだめだってことは分かってる。でもまあ一応、だ。
意外なことにカケルちゃんは「はい」と答えた。
「家でもときどきおじいちゃんの相手してるから」
「それって絶対ワインじゃないよね」
「日本酒ですね。地酒のおいしいのがあるんですよ」
にっこり笑ってそんなことをさらっと言うカケルちゃん。高校生、しかもJKの台詞としてはいかがなもんだろう…… まあ、いいか?
「お疲れさまでした!」
私たちはワインを満たした2つのホーローのマグカップをコツンと合わせた。
「前にメッセージアプリに送ってくれた動画でさあ」
「はい」
「カケルちゃん、口パクでなんか言ってたじゃん」
「ああ…… はい」
「あれさあ、何て言ってたの?」
「分かりませんでしたか?」
「分かったような気もするんだけど、確信がなくて」
「当ててみて下さい」
「最初のところは私の名前を言ってるんだよね。『マユさん』って」
「そうです」
「で、その後なんだけど…… 間違ってたらごめん。まさかとは思うんだけど、もしかして、その、あの、」
カケルちゃんがじっと私を見ている。
「『ダイスキ』、とか?」
彼女の頬がほんのりと赤くなっているのはワインのせいだろうか。
「……正解です」
その言葉に私は一瞬息を飲んだ。真意を確かめたくてカケルちゃんを見つめた。カケルちゃんは私の目をまっすぐに見つめ返す。私はカケルちゃんのまねをして口パクした。
「〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇」
「え? 何て言ったんですか?」
「当ててみて」
「もう一回お願いします!」
何回か口パクを繰り返す。
「最初は『かけるちゃん』、ですよね」
「うん」
「『わたしも』」
「うん」
「『だいすき』、『だよ』?」
「うん」
「そのあとが、ちょっと……」
「言ってみて」
「『あいしてるよ』って言ってます?」
「正解だよ。『かけるちゃん、わたしもだいすきだよ。あいしてるよ』、って言ったんだ」
「マユさん……」
ちょっと酔いが回ってきたのかもしれない。カケルちゃんに大好きって言われて舞い上がったってこともあるだろう。それにしても随分と大胆なこと言っちゃったな……
「うわ! 焚火で顔が火照っちゃった。熱いなー、ちょっと散歩しよっか」
私は恥ずかしくなってすくっと立ち上がった。
「え? どこに焚火が?」
キャンプサイトは焚火禁止だ。カケルちゃんはくすくす笑いながら私の手を取った。二人の指が絡み合う。
そのまま黙って暗闇の中へと進んで行く。すぐに河原に出た。川面に月が映ってゆらゆら揺れている。実はカケルちゃんの方が私より背が高い。私は160cmないけどカケルちゃんはたぶん170cmくらいはありそうだ。出会った頃はあんまり変わらなかったのに。
これはカッコつかないなあって思ってたらカケルちゃんの方から顔を近づけてきた。あ、奪われちゃうかもって咄嗟に感じてどぎまぎする。間もなく唇が重なった。我ながらバカだ。10歳も年下の、しかも女の子に何を焦ってるんだろう。
唇が離れて、カケルちゃんが小さな声で囁いた。
「私、ファーストキスです」
「私は、ごめん、違うんだけど……」
その言葉を遮るようにカケルちゃんが私をぎゅっと抱きしめた。そのとき足元でクマが「キューン」と鳴いた。これはきっと『僕もぎゅっとしてよ!』って言ってるんだな。
「クマ、ごめん。君のことも愛してるよ!」
カケルちゃんは私からぱっと離れるとしゃがんでクマを抱き締めた。なんか、この子って…… 私はクマと同格? 私とクマのどっちが好きなの? 私、犬にジェラシー感じてる? 犬と本気で勝負しようとしてる自分が情けない。
「実は今日、カヌー・スラロームのナショナルチームの監督さんが来てて、おじいちゃんが呼んだらしいんですけど」
クマを撫でながらカケルちゃんがぽつんと言った。あのじじい、そんな人にまで顔がきくのか。やっぱただもんじゃない。
「次のワールドカップに向けた強化合宿に参加しないかって誘ってくれて。でもそのためには今から行われるジャパンカップ第3戦以降の大会で1回は優勝して、10月の日本選手権に出場して上位入賞することが条件だって」
「ジャパンカップ第3戦の場所は?」
「岡山です。まあ比較的近いと言えば近いですけど…… おじいちゃんが連れて行ってやるって言ってくれて。私、チャレンジしてみようかって思うんです」
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