水面を翔けるが如く
@nakamayu7
第1話 冬を越えて
お風呂の洗い場で洗面器に溜めようとしてひねった蛇口の水が体にかかって思わず「冷た!」と声がでる。お湯になるまで少し時間がかかる給湯システムのため、お湯の蛇口をひねっても最初は水が出てしまう。そんなことは分かっていたのだけれど、ちょっと前までは水が跳ねても別に気にならなかった。
「あーあ、もう12月だもんねえ……」
そう呟くと、マユは洗面器のお湯をざっと自分の肩あたりから体に掛け、湯船に入った。
最高気温が10度前後まで下るようになると、さすがにカヤックのお稽古は辛くなる。ここ3年のマユの経験だった。そもそも11月になっても最高気温が20度を超える日があること自体が異常気象なんだけど…… それは分かっているのだ。でもマユは1年中カヤックのお稽古ができたらいいなあと思っている。冬なんて来なくていい、このまま春になればいい、とも思っている。例年12月から4月くらいまでは寒くて川に舟を浮かべる気になれない。パドルを握る濡れた手がかじかんで感覚がなくなっていく。お稽古を終えて着替える時、凍えた指でボタンを留めたりファスナーをあげることに難儀する。朝、曇ってぴゅーと風が吹く音なんかすると舟を積んで川に出かける気持ちが挫けそうになる。
マユにとってカヤックのお稽古は『水と遊ぶ』ことなのである。寒くて水に体を浸けることが辛くなると、ひっくり返ることが怖くなって無難な稽古しかできない。だから『水と遊ぶ』内容が制限されて面白くなくなる。
「そう言えばカケルちゃんは冬場はどうしてるんだろう」
カケルちゃんとはメッセージ交換アプリで結構頻繁にやり取りしている。
(かけるん)
『学校もあるし、冬場は早く日が落ちるから毎日ってわけには行きませんけど、週末にはたいてい舟に乗りますね。風が強かったり雨や雪が降ったらあきらめますけど。冬場にまったく乗らないと体がなまっちゃうし。て言うか全然舟に乗らないとなんか物足りないっていうか、なんか落ち着かないんですよね』
メッセージアプリではカケルちゃんから着信を「かけるん」と表示させてるが、それは当人には内緒である。
(マユマユ)
『冬場も乗っちゃうんだ~。すごい!』
(かけるん)
『冬場は静水トレーニングだけですけど2時間くらい全力で漕ぐと結構疲れます。寒くなると替わりに水が澄んできて底の石まではっきり見えてきれいだし、心も体もすっきりします』
(マユマユ)
『夏でもきれいだったけど、もっと澄んだ水になるんだね。見てみたいな。それにしても2時間も全力で漕ぐって、マジすごい!』
(かけるん)
『私は家のすぐ前が川でしょ。だからすごく恵まれた環境だって思います。体が冷えてもすぐお風呂に飛び込めばいいわけだし。マユさんみたいに車で何時間もかけて川まで行くとなると、やっぱり冬場のトレーニングが縁遠くなるのは仕方ないと思います。ただ、筋力トレーニング、特に腰から上の筋力アップのトレーニングは欠かさないことをお薦めします。プッシュアップとか腹筋とか自宅でできることでいいんです。冬場の筋力アップは翌年の春には必ずいい効果になって表れますから。要は意識が切れてしまわないで継続して体を動かすことだって思います』
(マユマユ)
『あんないい川が近くにあるのは正直うらやましいよ。でも川が遠いことをさぼる言い訳にしないようにしようとは思うんだけど……』
カケルちゃんからはメッセージとともに川や村の風景の写真が送られて来ることが多い。懐かしいなあ、来年のゴールデンウイークが待ち遠しい。初めて四万十川を訪れて以来3年、毎年ゴールデンウイークはE川崎の師匠の民宿に泊まってカヤックの講習を受けたり、川下りをしたりして過ごすことが恒例になっている。
2年前のゴールデンウイークに初めて会ったときはまだ中学1年生になったばかりだったカケルちゃんは、ショートヘアで、まだあんまり出るとこも出てなくて、男の子と間違えて嫌な顔をされてしまったっけ。そんなカケルちゃんも今は高校受験を控える受験生。次に会うときは高校生になっているはず。どこの高校に行くんだろう、K1のスラローム競技は続けるのかな、聞きたいことがいっぱいある。
「会いたいな……」
直接会って話がしたい。私はメッセージアプリの画面を見ながら思わず呟いていた。私の愛犬ウエリッシュ・コーギーの『クマ』が「クーン」と鼻を鳴らした。彼もカケルちゃんに会いたいのだろう。
天気予報によると明日の日曜日は晴れるものの最高気温が12度、最低気温5度という予報。それを見て私は「うう……」と唸った。12月に入ったそんな初冬のある日、スマホに届いたカケルちゃんからのメッセージには動画ファイルが添付されていた。
(かけるん)
『マユさん、お元気ですか? こちらの山はもうすっかり紅葉していますよ』
カメラに向かってそう喋るカケルちゃんはその後スマホを河原にセットしたらしく、河原からざぶざぶと水に入っていく後ろ姿が映る。水面に浮かんでいるカヤックに座り、スプレースカートを嵌める。カメラの視界からフレームアウトしないように注意しながらフォワードストロークで直進し、スウィープストロークからバックラダーやバックスウィープを入れてターンする。
カヤックを漕ぐ基本のストロークを組み合わせただけなのに、無駄な動きをすべてそぎ落としたような、彼女が漕ぐその姿は目を瞠って見惚れるほどに美しい。ましてや背景には黄色や赤に紅葉した豊かな山々が聳え、その姿を水面に映している。彼女が漕ぐたびに水面が揺れて、水面に移った紅葉の景色がゆらりと揺れる。私はその映像を食い入る様に眺めた。その姿は同じカヤッカーとして嫉妬したくなるほどきれいだ。私もあんな風に漕ぎたい。
やがて河原に舟を寄せてスプレースカートを外した彼女が舟から降りてカメラの方に向かって歩いてくる。スマホを手に持ったらしく、カケルちゃんの顔が大写しになる。
『〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇』
カケルちゃんが口パクで何かを言った。なんで口パク? そう思っていたらカケルちゃんはばいばいと手を振ってその動画は終わってしまった。
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