第2話 武藤喜兵衛昌幸
昌幸は天文十六年(一五四七)に幸隆の三男として生まれた。母は兄の信綱・昌輝と同じ河原隆正の妹。幼名は源五郎といった。天文二十二年幸隆は当時甲斐国主武田信玄に仕え、服属の証として昌幸を人質として甲府へ送った。
天文二十二年といえば、信玄が信濃川中島への進出を始める頃である。
信玄は名門である武藤家を昌幸に継がせ武藤喜兵衛と名乗らせ、信玄の小姓としてとりたてた。信玄は配下の側近らに名家の姓を継がせることを間々行っている。上原伊賀守には小山田の姓を、於曽信安には板垣の姓を、飯富三郎兵衛には山県の姓を、金丸平八郎には土屋の姓をという具合にである。昌幸も武藤喜兵衛として信玄の側近として活躍していた。昌幸は近習六人衆の一人であった。六人衆は次のメンバーであった。
土屋昌次
三枝守友
曽根昌世
武藤喜兵衛
甘利左衛門尉
長坂源五郎
永禄四年辛酉八月、上杉謙信と武田信玄との川中島の合戦があったが、この際、昌幸は十七歳にして初陣を果たし、旗本の一員として信玄の近くにあり、軍功を挙げて功名を高めたという。
永禄八年頃に昌幸は宇田下野守頼忠の娘と結婚した。別の話として、菊亭大納言の娘だったともあるが、昌幸の女子は頼忠の子頼次の妻となっているから、宇田氏が正しいのであろう。また石田三成の夫人も頼忠の娘であるから、将来に昌幸と三成が結びつくのも因縁といえる。
昌幸には次のような子があったといわれる。
長女 村松殿 家臣小山田壱岐守茂誠の室
長男 信之
次男 信繁
女子 真田長兵衛幸政室
女子 家臣鎌原重春室
女子 保科弾正忠正光室
女子 宇田下野守頼次室
信勝 真田左馬助 徳川旗本
昌親 真田内匠
女子 妻木彦右衛門頼照室
女子 於楽
永禄六年八月下旬のことである。上州岩櫃城内において城主斉藤越前入道は、一門家の子を集めて軍議を開いていた。斉藤憲広は皆の前で云った。
「羽尾治部入道と鎌原と不和の後に、鎌原は甲府の信玄に誼を通じてその加勢を得て、あなどり難き行動に出よった。さらに昨今は蒲原にならい大戸氏や浦野氏までも武田に従う様子も見受けられる。何か手を打たねばならぬ。そこでだが、先頃この際不和となっている沼田城主沼田憲泰と和睦をいたしてその加勢を得て、一挙に鎌原氏を討って永年の禍根を断ちたいと思うが、皆いかがじゃ」
「さもあらん、賛同仕る」
「拙者もご同意仕らん」
と一致して同意したために、早速中山城主中山安芸守を使者として沼田城に派遣して、蒲原氏討滅について話を持ちかけた。沼田憲泰はこころよくこれを快諾したため、斉藤憲広は喜び勇んで蒲原を滅亡に追い込む算段を考えた。
九月上旬、沼田憲泰は弟に朝泰を大将とする五百騎の兵を岩櫃へ送り込んだ。そして白井城主長尾憲景も二百騎の兵を家老矢野山城守を将として岩櫃に派遣したのである。
この慌ただしい動きの岩櫃城の動きは間者によって鎌原の元には詳細に届けられていた。不穏な動きありと察した鎌原はこの情勢を上田城主である真田幸隆に届け、そして幸隆は信玄に報せていた。
信玄は幸隆に対し命じた。
「弾正、斉藤を討滅せよ」
そして、検使役として三男武藤喜兵衛昌幸と三枝松土佐守重貞の両名を遣わして、幸隆を総大将として小県郡に着陣した。
集まった武田軍は幸隆を総大将として、その弟常田新六郎俊綱、嫡子源左衛門尉信綱、矢沢右馬介頼綱、弥津宮内太輔元直、嫡子長右衛門利直、海野家の郎党小草野孫左衛門、相木一兵衛尉、芦田右衛門佐、上州勢鎌原宮内少輔幸重、嫡子筑前守重澄、湯本、西窪、横谷等都合三千余騎であり、これを二手にわけ、横谷雁ケ沢口、大戸口の二正面から攻める態勢を整えた。
一方岩櫃の斉藤憲広の陣営が、雁ケ沢口には斉藤則実を大将として、沼田城からの加勢である沼田弥七郎朝泰の率いる山名信濃守、発地図書介、下沼田道虎入道、名胡桃城から鈴木右近、師大助、山名弥惣、西山市之丞、塩原源五左衛門、原沢惣兵衛、増田隼人、根岸左忠、小野、広田、深津、真下、小川ら一族五百余騎を合せて約八百騎が備、大戸口には次男斉藤憲春を大将として、白井城からの加勢、家老矢野山城守以下二百余騎、富沢但馬、唐沢杢之助、植栗安房守元信、外様から中沢越後、桑原平左衛門尉、同大蔵、二宮勘解由、割田新兵衛尉、同隼人、鹿野右衛門佐、茂手木三郎左衛門、高山左近、富沢主水、井上金太夫、神保佐左衛門、川合善十郎、高橋三郎四郎、伊与久大五郎、荒木、小林、関、田村、一場左京進以下都合八百余、白井勢を合せて一千余騎。嵩山城には一岩斉末子虎丸が十六歳の若さで一族池田佐渡守重安に付き添われて鳴りを静めて籠城していた。その他一ノ宮、首宮、烏頭、岩鼓、和利宮の神主、川野、高山、片山、小板橋神主らは一類百余人を集めて、このたびの大事にお供しようと、九月十五日午前八時半、岩櫃を出発して大戸の手古丸城へと押し寄せた。
大戸口に陣を構える真田軍は、弥津、矢沢を侍大将として約一千騎があり、須賀尾峠を越えて大戸城へと進んだ。城主大戸真楽斉は舎弟である権田の地頭但馬守を使者として遣わし人質を差出して早々に降伏した。
九月十五日早朝、岩櫃城を出立した斉藤軍は大戸城を攻めたが、真楽斉は鉄砲を射ちかけてこれを阻止したため、寄手は城に近づけずにいた。そこへ、弥生、矢沢、常田、芦田らの真田勢が、榛名山麓の乗鞍が岳を越えて山上より真下りに斉藤軍にうちかかると、斉藤軍は予想もしていなかった山上よりの攻撃で、茶臼の橋郷原の十二神の森、三島川戸、梅が窪方面に兵を引き、守勢となるしかなかった。
幸隆は雁が沢口からの攻撃を考え、自身は長野原城に詰めて戦闘を采配し、やがて林郷の諏訪の森に本陣を進めた。雁が沢は難所であって、敵は山や谷に潜んで寄せくる敵を打ちかけて真田税の前進を阻んでいた。嫡子の信綱、三枝松土佐守は五百余騎をもって火打花から高間山を越えて、湧水、松尾の奥南光から岩櫃へと向かった。三男の昌幸は赤岩通りから暮坂峠を越えて折田の仙蔵の城へ攻め寄せた。山間部を密かに進む昌幸の兵は城へ迫った。
「ものども、敵は油断しておるに違いない!一気に踏み潰せぃ!」
「おぅ!」
城内へ突入しようとしたが、これにはたまらず城代佐藤将監入道ならびに富沢加賀は人質を差出し降伏を申しでた。昌幸は、西窪治郎、川原左京を城代として置き、自らは有笠山に陣をおいて戦の形勢を見守っていた。
幸隆の先陣には、鎌原幸重親子、湯本善太夫、横谷左近などが控えていた。戦況が膠着する事態となってのを見た鎌原は幸隆の本陣に姿を現し進言した。
「弾正殿、雁が沢口は吾妻第一の難所であり、そのうえ岩櫃は関東無双の堅城の一つ。とても力攻めで落とすのは困難と思し召します。ここは智略をもって落とすのが得策と考えますがいかが」
幸隆・信綱父子はしばし考えたあげく、やたら兵を失うはよしとせず、智略をもって岩櫃を手中にするのも兵法と考え、早速策を練った。このころの戦の平定は禅僧を以てするのが常ともいえ、諏訪の別当大学坊、長野の雲林寺、善導寺の僧を呼び寄せ、斉藤憲広のもとへ遣わして交渉をはじめた。
憲広はこう云って恭順の意を示した。
「こたびの戦はあくまで鎌原を討つことが目的でござる。信玄公には何の遺恨もない。和議は願ってもないことでござれば、条件は何でござろうや」
とのことで、人質の提供として、甥にあたる弥三郎則実を預けることとし、他には、
一 仙蔵の城は斉藤氏に返すこと
一 大戸、鎌原、浦野の人質を斉藤氏に差出すこと
一 沼田、白井の援軍を撤退させること
の三条件であった。
これからがそれぞれの策謀がはじまっていく。
斉藤氏と真田氏との和議が成立したことにより、鎌原幸重は斉藤氏との関係の懐柔を進めていくことに決めた。
鎌原幸重は昨日の敵であった岩櫃城に堂々と伺候して、城主斉藤入道憲広と対座して、和議になった御礼と挨拶を申し述べて、同席していた弥三郎にも礼を尽くして、そのは弥三郎の館でもある城内の天狗丸に宿泊したのである。幸重にとってはまたとない機会であった。友好の証に酒を酌み交わしながら、幸重は弥三郎に云った。
「貴殿には多年にわたっていろいろとお世話になってまいりましたが、讒言におよぶ輩のためにお互い隔心になっていたことはまことに残念なことじゃ」
「いやいやこちらこそそこもととはこのように酒を酌み交わすことなく過ごしたことが残念のいたり、これよりは互いに心を寄せ合わねばならぬ」
「弥三郎殿、こたびはよい話をしようと伺候したのじゃ。かの武田信玄公は多年に亘って憲広殿には御遺恨をお持ちであり、いずれの日には大軍をもって御誅伐されることは必定と存ずる。貴殿が今度がきっかけにて返り忠をしてくれたならば、吾妻郡を安堵してくださることは疑いないと存ずる。左様承知くださるならば、真田幸隆公に申上げて、武田に忠誠を誓うよう申し上げるであろう」
と懐中より熊野神社の午王札の起請文書を取り出して弥三郎に見せた。弥三郎は幸重の申し状に主従の恩義も忘れてたちまちそれに乗じてしまい、起請文に署名し、鎌原と一味して斉藤入道に弓を引くことを誓ったのである。これをきっかけに、植栗安房守、富沢但馬父子、唐沢杢之助、富沢加賀父子、蜂須賀伊賀、浦野中務太輔、等一族譜代の多くの者が寝返ってしまった。
そして、海野一族の長門守幸光、能登守輝幸の兄弟はそう簡単には寝返りさすのは難しいと思ったが、同族でもある海野左馬允をして工作してみることにした。左馬允は幸義の子で幸隆とは従兄にあたる。これがうまく功を奏し、一門も大事であるからとあっさりと同意した。これはまた憲広とは恩義のある人物ではあったが、些細な行き違いから不和な状況が続いており、折あらば岩櫃を攻め取り武田方への忠誠をしようと考えていたので、よきこと出来と喜び矢沢綱隆、海野左馬允に内通して帰忠を契った。
これら武士等の起請文書は、九月十五日矢倉の鳥頭神社へ参詣の際に密かに矢沢頼綱に渡され、矢沢は幸隆の元へ差し出された。幸隆の喜びはいかばかりであったか。
そして、九月下旬になると、長野原の要害に真田幸隆の舎弟常田新六郎を大将として、鞠子藤八郎、芦田下総守配下の依田彦太夫、室賀兵部太輔配下の小泉左衛門が勤番していた。
斉藤越前守は白井城からの加勢を得て、斉藤弥三郎、羽尾入道、海野能登守を大将として、植栗安房守、荒牧浦野中務、斉藤宮内右衛門、富沢豊前、蟻川源次郎、塩谷将監入道、割田掃部助、富沢勘十郎、横谷左近、佐藤豊後、割田新兵衛、唐沢杢之助、同右馬介、加勢には白井八郎、神庭三河入道、牧弥次郎、相随待に野村靱負、飯塚大学之助、村上杢之助、大島武郎、石田勘兵衛の都合八百余騎。斉藤弥三郎、塩野谷将監は白井の加勢を合わせ都合三百余騎。斉藤軍は暮坂峠を越して小雨川を渡り、湯窪の辺りへ押し寄せた。追手は羽尾、浦野、植栗らの五百余騎で、王城山を駈け登り長野原要害を見下ろし、合図の法螺貝を吹き鳴らし鯨波を作り鉄砲を打ちかけてきた。長野原城内は農兵は農作業にために在家にあり小勢ゆえに、須川と琴橋の両橋を引き落として侵入を防いだが、斉藤軍は王城山から材木を切り出して川に落として橋として路を作り殺到した。
大将常田新六郎隆永(常田氏の養子となる)は、須川橋近くの諏訪明神まで出陣して防戦に努めたが、羽尾と戦っえ討死してしまった。
大将が討たれ要害ではあったが戦意を喪失した真田軍は、小勢でもあり長野原を夜中に脱出することに成功して、鎌原城へと移った。真田勢の脱出を知った羽尾は長野原の要害にはいり押収した。この敗走は信玄のもとへと届けられたが、駿河、越中へ部隊を派遣中であり、加勢もできずにしばらく情勢を見守るしかなかった。
翌十月の半ば、真田幸隆は好機到来と考え岩櫃城攻撃の触れを出した。嫡子源太左衛門信綱、武藤喜兵衛昌幸、矢沢薩摩守綱隆(頼綱)、三枝松土佐守重貞、同兵部信貞、鞠子藤八郎、室賀兵部大夫義平、弥津美濃守信直、小泉・芦田の一党、海野左馬允、鎌原宮内幸重、同筑前守重澄、西窪治部、同蔵千代丸、湯本善太夫、同三郎左衛門尉、横谷左近、総勢二千五百余騎。
追手搦手の二手に分かれて真田軍は攻め寄せた。追手には武藤昌幸、矢沢綱隆の率いる五百余騎は大戸口へと殺到した。
「薩摩守殿、敵を追い立てまするゆえに、よく討ち取られよー」
昌幸は矢沢薩摩守の合図をして追手に攻め寄せていった。
「やー、承知仕るー」
当時の攻城戦は包囲網を引くのではなく、どこか遁げ路を開けておくのが常の戦法であった。でなければ、敵も必死に戦って、攻める方の被害が多くなってしまうからだ。
しかし、しばらくは威嚇だけで、本気に攻め寄せることはしないことになっていた。
大戸真楽斉兄弟は二百騎を引率して須賀尾峠丸屋の要害に出向いて、矢沢勢と合流して七百騎となり、大柏木から三島をこえて岩櫃を望む類長峰、大竹の辺りに陣を構えた。真楽斉は案内者として萩沢の辺りに陣取り、箕輪城からの長野氏の援軍を押さえようとする策であった。
真楽斉の弟但馬守は権田政重の鍛えた矢根(矢の先端につける鉄製のやじり)二百個宛、鍛冶湯浅対馬の家根十宛を両大将に捧げて御礼としたので後に両鍛冶は信玄からの扶持を受けた。搦手は真田信綱を大将に二千余騎、難所でもある雁ケ沢口をさけて暮坂峠に進出していった。この道筋は沼田や白井からの加勢を押さえるためでもある。
一方岩櫃城の斉藤越前守憲広は、真田勢の襲来の報せをうけ、一門家老を集めて評定を開いた。その席上、海野兄弟の二心を怪しむ声がでて、この際に人質をとっておくのが得策だとし、すぐさま両人の妻子を捕縛して斉藤弥三郎に預けた。また、憲広は次のように策を授けた。
「この岩櫃は、近隣国には二つとない名城で、百万の敵が来ても決して城には寄り付けぬ。そこでこたびは専ら城に籠って敵が近寄ってきたらば、弓や鉄砲を放って追い散らし、決して木戸など開いてはならぬ。さすれば敵は攻めあぐね隙が生じるであろう。その時こそ城を払って討って出て、真田兄弟を討ち取って会稽の恥を晴らしたい」
「おう、それこそもってつけの策でござる」
「われら仰せのままにここは静まり籠城をいたすのみ」
憲広は弥三郎、植栗河内守、富沢加賀、唐沢杢之助の三百余騎を大手番匠坂に配置して防備を固め、切沢口へは富沢伊与、蜂須賀伊賀、佐藤入道、有川庄左衛門尉、川合善十郎、塩谷源三郎の二百余騎を配した。岩つつみの出城には、嫡子越前太郎、尻高源三郎、神保大炊介、割田掃部、有川入道、佐藤豊後、一場茂右衛門、同太郎左衛門尉、首藤宮内左衛門、桑原平左衛門、田沢越後、田中三郎四郎の三百余人が高所から真田勢の動向を遠望していた。
居城は海野長門守、同能登守、その子中務太夫、獅子戸入道、上白井主税介が立て籠って敵の襲来を待ち構えていた。
大手を守る弥三郎はかねての約束通りに真田への内通を図りたいと思っていたが、城内では憲広の子憲春があちこちと走り回って警戒にあたり指揮をとっていたので、その内通する時期をやきもきしながら過ごしていた。そこに入道からの呼び出しがあり出向くと、入道はこう告げた。
「敵方も攻め寄せないで静まり返っておる。これは武田方からの援軍を待っているのであろう。忍者を出して敵方の様子を調べさせよ」
「はっ、かしこまってござる。早速とりかかります」
聞いた弥三郎はしめたと思った。忍者の棟梁でもある角田新右衛門を呼びよせ、仔細な任務を伝えて、敵陣の鎌原宮内のもとへ進入させた。これは実は敵情を調べるのではなく、こちらの内部事情を敵に報せるものであった。敵陣に忍び込んだ新右衛門は味方を装い堂々と鎌原宮内に近づいた。側近は曲者と疑ったが、宮内はそれを制して弥三郎を呼びよせ差し出した書状をうけとった。
「岩櫃城内弥三郎殿よりの書状にございます」
と新右衛門は差し出した。
「うむ」と言い、宮内は書状に目を通した。案の定城内の様子が手に取るように判明した。
「でかした、この時を待っていたのだ。薩摩守殿!これをご覧あれ」
と矢沢綱隆に書状の件を仔細に話した。
「これは上出来、早速喜兵衛殿に伝え申そう」
と矢沢薩摩守は隣の陣にいた喜兵衛昌幸に伝えた。
「左様か。して、その忍びの者はまだ控えておるや」
「はっ、宮内殿のところに控えておりますが」
「褒美をとらしたい。すぐにここに呼びよせよ」
新右衛門は案内されて昌幸のもとへと連れてこられた。
「こたびの忠信天晴れ。そこもとの名は」
「角田新右衛門でござる」
「ほう、角田新右衛門か、忍びとして上州一円に聞こえある忍びであるな」
「はっ、覚えあるは身に余る光栄でござる」
「褒美をとらす、これこの者に金子十両を与えよ」
「はっ」
と小姓の一人が出てきて十両を差し出した。新右衛門はそれを丁重に頂いた。新右衛門にとってこれほどの褒美をもらったのは初めてのことで心の中で感激していた。
「しばらく待たれよ」
昌幸は薩摩守と相談して策を練り共有して、再び昌幸は新右衛門に伝えた。
「これより城に戻り、長門守兄弟に話をして城の曲輪に放火するよう伝えよ。して、諸方から攻め寄せるであろう。狼煙二発を合図として攻め寄せる。事成就せば、それに応じて知行を充行いたすであろう。その弥三郎殿に伝えよ。そちは今後われに仕えるがよかろう」
「はっ、かしこまってござる」
新右衛門はそのあと霧のごとくいなくなった。岩櫃城に戻るとその仔細を弥三郎に伝えた。弥三郎は海野兄弟のところに行き、今夜手筈通り決行することを伝えた。
十月十三日の夜。斉藤入道の居住する主殿に火がかけられた。火は広がりはじめ、入道らは女たちも含め大騒ぎになった。
その火焔を見た真田の陣営から狼煙が二発打ち上げられた。
「合図である!それぞれ手筈通りに!」
「おう!」
弥三郎は天狗丸においていた人質妻子を家来に命じて善導寺まで送り届けるようつたえ、自らは大手に行き木戸を開けて真田軍の招き入れた。
真田の先陣はどっと木戸から討ち入り、二の門に迫った。一岩斉父子は一族の裏切りを知って、もはやこれまでと自刃しようとしたが、岩づつみの出城から帰ってきた嫡子太郎から、
「是非に越後に落ちのびて謙信公を頼り、も一度御運を開くようになされよ」
と懇願したので思いとどまり、城からの脱出を決意した。城兵も味方するもの僅かに二百ばかりとなったが、随一の堅城であるがゆえに、策を講じて善戦して真田軍を翻弄した。が、翌日夕刻には力尽き、憲広父子はのこる百余人を従えて城から脱出した。武山城に籠城していた末子の城虎丸と合流しようとしたが、真田勢により連絡ができず、
行手の真田による残党狩りをさけながら、なんとか逃れることに成功し、三日後越後魚沼郡長尾伊賀守領分嶋ケ原に到着し、保護をうけたのち魚沼郡の隠家に潜んでいたが、病のため憲広は没してしまった。
岩櫃城攻略なり、斉藤父子追討の次第はその経過が信玄のもとにも注進されており、信玄もその功績偉大なりと喜び、真田幸隆には吾妻郡守護の座を与え、鎌原宮内少輔、湯本善太夫、三枝松土佐守を岩櫃城代とした。
斉藤一門の寝返った斉藤弥三郎は真田預けとして本領と安堵して岩下の郷においた。唐沢杢之助の忠信に対し本領十七貫文の他諸所に知行を宛行、弥三郎両人の隠密については、城代鎌原、湯本から、真田信綱、室賀入道をもって甲府へ詳細が報告されたので、信玄はその功を賞し、同年十二月十二日に、感状を代表として鎌原宮内少輔に贈ったのである。
斉藤越前入道逆心企て之処、各忠節岩櫃乗執条寔に無類に候、近日納馬すべき候間、弥三郎還り忠之事申付くべく候、心易く候べし。委曲室賀に従う所に申すべく候、仍て件の如し
永禄六年壬亥十二月十二日 信玄 在判
今度之忠節衆
いつの頃かわからないが、昌幸のもとの角田新右衛門が現れた。
「喜兵衛殿、今日は願いがあって参りました」
「新右衛門、よう参ってくれた。過日のそなたの働き、一番槍の功績にもあたるもの。褒美をとらせねばならぬな。して、願い事とは何か」
「はっ、この新右衛門、忍び働きを行うものとして、もう歳をとりすぎました。ゆえに吾子息をお仕えさせてくださりませ」
「そちの子息とな」
「はっ、今年十五歳となりますれば、もう十分に駆け回れましょう。吾妻の山々を巡り鍛えておりますゆえ、期待に添える働きを見せましょう」
「後ろの控えておるのがそうか」
「はっ」
「よく顔がわからぬ。前に出て名を聞かせよ」
後ろに控えていた長子佐助は新右衛門の少し前にまできて伏した。その動きは俊敏であったことを昌幸は見抜いていた。
「佐助でございます」
「顔をあげよ」
佐助は顔をあげた。
「若いのに精悍な顔つきをしておる」
昌幸は何を思ったのか、
「誰か弓をもて」と云って弓矢を持ってこさせた。
そして、弓を構えて矢を屋敷の屋根に目掛けて打ち掛けた。
「佐助とやら、あの矢を取ってくることができるか」
佐助はその矢がささったところを見て、周囲を見渡すと、
「容易きことでございます」
と言い放って、見事に庭にある木から軽々と屋根へと飛び上がり矢を掴んで、昌幸の所へと届けていた。
「見事じゃ。豪の者に匹敵する腕前気に入った。新右衛門!よき子息を持ったものじゃ」
「さすれば、こののちは忍びの長として、お近くに某をお置きくだされ」
「うむ、よくわかった。頼むぞ」
「他にも数名、その後ろに強者が揃っておりますので、よく御見聞あれ」
「いや、それには及ばぬ。わしの右腕としてそれぞれ働いてもらいたい」
「ありがたきお言葉、陰ながら働いてお力になりまする」
こうして、昌幸は忍びの組織を手に入れ、その後の活躍に期待していた。
永禄八年二月のこと。武田信玄は諏訪上社、新海明神に願文を奉納して、今年こそ箕輪、武山、白井を攻略することを決意し、必勝を祈願した。
越後に落ちていった斉藤憲宗は、父を失ったのちも落ちのびた先で浪々とした日々を過ごしていたが、心中は再び岩櫃城を奪い返したいと思っていた。そして二年が経過し、永禄八年十月、家中の者と他家の浪人衆、そして上杉家からの加勢をうけて五百余騎の勢力となり、武山城に入り、舎弟城虎丸と合流して再起を企てた。さらにこれに呼応して、一井斉憲景も同意し、利根郡小川城主赤松可遊斉も援軍を出したので、その兵力は二千余に達した。機は熟せりと、旗揚げを行った。
驚愕したのは真田幸隆父子である。急なことなので、兵力も整っておらず、襲撃をうければひとたまりもないと、家臣らは狼狽した。だが、幸隆は知略にたけた大将でもある。臆することなく、まず城の警護を固めた。そして、名案を導きだそうと、軍議を開いた。
「ここは援軍が到着するまで、籠城するしかありますまい。岩櫃はわれらが攻めあぐねたほどの堅城であれば、敵も簡単には攻められず。そう容易く落ちることはござりますまい」
「いや、油断こそ大敵である」
富沢但馬入道が口をはさんだ。
「某は、ここはひとつ妙案がござる。斉藤に与していた唐沢杢之助、植栗安芸守を軍使として出され、敵の重臣を懐柔するのでござる。かれらならば、油断もし納得のゆく交渉をするであろう」
「うむ」
幸隆はしばし考え、富沢の言う通りの策を遂げることに決めた。
幸隆は二人を呼びよせて、秘策を告げたのであった。
「二人はまさか裏切るようなことはあるまいな」
と一部の武将は不安の声をあげたが、幸隆は信頼していた。
唐沢と植栗は軍使として武山城の斉藤父子の許を訪ねた。
「お久しゅうござります。息災でなりよりのこととお喜び申しあげる」
と唐沢が斉藤兄弟を前にして云った。
「そなたたちを信頼しておったものを、でなければ、岩櫃はそう簡単には落ちぬ城じゃ。よう我らの前に来られたものじゃ」
「われら主家であった斉藤殿を滅ぼすことなど考えてはおらぬ。真田とともに、生きていくことが肝要と存ずる。幸隆公は内々に信玄公に申上げ、斉藤殿の岩櫃入城の御本意を遂げさせようと思っております。この際和議に応じて信玄公に申上げ、矢沢殿聟に鳥結んでもらい本所に帰るように致しましょう」
「さような計らいをしてくれるのか」
「左様、幸隆公が申上げている限り、信玄公も否とは言えますまい」
「よしわかった。和議に応じよう」
ということで、斉藤父子も武装を解いてしまい、援軍は続々と城から退出していった。幸隆の計略は見事に進んでいた。そしてこれからが重要であった。斉藤家の家老池田佐渡守を岩櫃城に招致して、幸隆は面会した。
「佐渡守殿、斉藤家、家の子重恩の人々まで、ことごとく心変りしている中にあって、貴方父子には今に至るまで、彼の末子城虎丸を忠実に守り立て世話をしている。その心掛は武士の鑑と申すものであり誠に立派なことと存ずる。しかしながら、斉藤逆心のことは我が君信玄公も御憤り深くあられ、斉藤一族を誅伐することは間違いないと存ずる。貴殿は元来南朝の忠臣楠木正成の子孫であると聞き及んでおる。世が世であれば斉藤などの下に仕えておる人物ではない。某のいうことに従い是非に信玄公に忠節を尽くすこと考えてはくれぬか。さすれば信玄公に御話をとおし、貴殿の御領地も安堵されるよう御証文をいただく旨申上げましょう」
池田佐渡守は幸隆の言葉を直接聞いて心を動かされ、同意する旨を伝えた。後日武山城を出て、岩櫃城へ移っていった。幸隆はこのことを甲府信玄の元へ届けたため、信玄は神妙のこととして、安堵状を池田に送り届けた。
其方今日に至り武山城に籠り斉藤守立之旨寔に比類なく心底感じ入候、然らば此度真田を以て当家忠信あるべきの旨神妙に至り候、彼地本意に付本領山田郷百五十貫右此の如く宛行すべし猶戦功に依り御重恩あるべきの旨仰出さる者也、仍て件の如し
永禄八年乙丑十一月十日 信玄御判
甘利左衛門奉之
池田佐渡守殿
家老の池田を失って斉藤兄弟は力が抜けた感覚になった。真田の謀略にしてやられたのだ。こうなってはもう勝敗を決するしかないと決意するしかなかった。
真田幸隆にしても最後の一戦になるであろうことは覚悟していた。時節は十一月半ば、冬を迎え援軍も岩櫃にくることは無理であろうと、いまこそ総攻撃のとき到来と岩櫃攻撃を全軍に命じた。
先陣は鎌原父子、湯本、西窪、横谷、植栗、大戸、浦野、池田、富沢、唐沢、蜂須賀らで、大将幸隆は黒糸縅の鎧、鍬形打ったる甲を着、三尺五寸の太刀をはき、十文字の槍をひっ提げ、荒井馬と名付けた名馬に白幅輪の鞍を置く颯爽にいでたちで、三百騎を率いて城の周囲を囲み、仙蔵の要害に駆け上がりて武山城を望んで采配を揮った。
武山の斉藤兄弟も六百余騎を率いて城を出て、五反田の台地に相まみえた。
西窪城主西窪治部左衛門は先駆けで馬をくりだし、斉藤の先陣秋間備前守、大野新三郎の両将の陣へ投入し、西窪はまたたくまに秋間備前守を討ち落として首を掻き切ってしまった。これを見た斉藤軍の早川源蔵は、
「備前守の仇を取れぃ!」
と百人余りと西窪らを取り囲んだ。しかし、敵は多く、西窪は奮戦むなしく討死を遂げた。これを見ていた蜂須賀伊賀守は吾妻七騎の一人と言われた猛者であり、「備前守の仇を討つ!」と突入していったが、むなしく逆に討ち取られてしまった。
斉藤軍は後がないから必死の形相で戦っていた。この様子を見た幸隆は、戦線を有利に導くために、大槍を引っ提げて敵大将斉藤憲宗めざして突入していった。
「ものども続け!敵は怯んでおるぞっ!今こそ敵を追い落とす時なり!」
真田勢を叱咤激励するごとく、大声をあげて真っ先に突き進んだ。
「大将に遅れてならじ!」
と鎌原、矢野、丸山、湯本、川原らは幸隆に引き続いて斉藤軍の軍勢に総力をあげて立ち向かった。斉藤軍も必死のために激戦におよび数時間が経過していた。斉藤軍は二百余騎が討たれ、真田軍も百五十騎を失ったといわれる。
それでも斉藤軍は善戦していた。陽が暮れはじめ、憲宗は武山城への引揚を命じた。しかし、真田軍はこれで一息いれてはならぬと、夜中も攻撃の手を緩めなかった。唐沢杢之助は早川源蔵と刃を交わした。
「唐沢、この裏切り者め、成敗してくれるわ」
と唐沢は剣豪早川源蔵に討ち取られてしまった。これを見た湯本善太夫は源蔵に食い下がり、自らも傷を負ったが、ようやく首をとることに成功した。真田軍の攻勢は衰えることを知らず、憲宗はもはやこれまでと覚悟を決めたか、山頂で腹を十文字に掻き切って果てた。弟城虎丸はまだ十八歳であって奮戦していたが、最後は天狗岩から飛び降りて命果てた。一族郎党女房らも岩から飛び降りて自決をとげた。悲惨な斉藤一族の最期であった。
こうして、上州岩櫃を中心とする地域は、真田幸隆が平定するのに成功した。
さて、吾妻の地を平定して真田幸隆を岩櫃城に配したことは信玄は安心することであったが、だが、諸国の情勢が乱れ動いており、信州でさえいち乱れることになるか信玄でも予測できなことであった。そんななか真田を吾妻に留めておくことは不安でもあり、信玄は真田を呼び寄せて吾妻郡代にふさわしい人物はおらぬか尋ねた。幸隆はすかさず、斉藤氏を討伐した海野兄弟がふさわしく適任だと説いた。信玄もそのように手配せよとの仰せであったので、海野兄弟が吾妻郡代に抜擢されたのである。
永禄九年、鎌原。浦野、植栗、湯本、西窪、横谷の六氏は幸隆の直属とされ、その他の武将は海野兄弟の配下とされ、岩櫃に居住することとなった。
この年、昌幸に待望の長子信幸が砥石城の旗山で誕生した。母は正親町大納言の娘である。
六文銭はためくー真田昌幸伝ー 木村長門 @rei-nagato
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