六文銭はためくー真田昌幸伝ー

木村長門

第1話 勝鬨

 天正十三年の八月、信州上田の地は、徳川勢の大軍を迎えようとしていた。

「お屋形様、徳川の大軍が迫っております」

物見の報告が上田城にいる昌幸の元に届けられた。

「おぅ、来たか」

 昌幸は立ち上がり城下が見渡せる所に立ち、しばらく徳川勢が来る方向を見つめていた。徳川諸将の旗印が遠目にたなびいているのが伺えた。いかに徳川と渡り合い、勝利を収めるまではいかなくても、徳川が撤退すれば、信州に真田ありとその名は轟く。その戦い方をずっと考えていた。

「信之に伝えよ、かねての通り、と」

「はっ!」

 御側衆の海野孫太夫は早速昌幸の長男信之が布陣している戸石の城へ伝令を遣わした。戸石の要害は、上田の東北にあたる山城であり、上田を護る外城としては、重要視される要害であった。その昔、信玄が村上義清との紛争で戸石城を攻めたが、他の城は二週間前後で落城させているのに、戸石城だけは一ヶ月包囲しても落ちなかったほどの堅城であった。


 伝令は「 山猿 」と呼ばれている集団がその任についている。一種の忍者組織であり、山峡の多いこの地方には、すばしこい人間が多かったことにもよる。

伝令役の「吾助」は信之の所に向かった。信之には頭領として「佐助」がついていた。「吾助、火急なることのようだのう」

 佐助は吾助より御屋形様の触れを聞き、信之に伝えた。

「かねての通り、と御屋形様からでございます 」

「よし、出陣じゃ、信繁!いくさじゃ」

「はっ」

弟の信繁(幸村)は身支度をすばやく整え、兄に従った。

「佐助!」

「はっ!」

「仕掛けは抜かりないであろうな」

「抜かりはございませぬ。用意万端整ってございます」

「うん、あとの手筈頼んだぞ」

「はっ、ご武運を」

 多くの軍記物は信繁(幸村)と兄信之が一緒に戦ったことになっているが、信繁は上杉方に人質として出向いているために、実際は存在しないはずである。存在しているとすれば、火急なことで一時的に返されたことになる。ここでは、軍記物に従い、父昌幸のもとで戦うことを選択する。

 佐助は信之一行を見送ると、二人の輩下の者を引き連れ、城下の町外れにある叢林へと急いだ。そこには、招集を受けて武装した農民が集まりだしていた。


 信之は上田城下への入口へと急いだ。徳川軍が攻めてくるのは神川を渡り、城下から大手門へと侵攻してくるのは、常道と見ていた。神川の対岸には約二百の兵が配置されていた。が、まともに戦う指令は受けていない。しかし、いっきに城内に退却したのでは、作戦が見破られてしまう可能性があった。戦の潮時が重要な役目をおっている。したがって、信之らに徳川軍の気を引きつけ、城内へとさそう魂胆であった。そこには、面白い罠が仕掛けられていた。それは普段思うば何でもないことではあるようだが、ひとたび混乱状態になると人は冷静でいられないという心理をついたものであった。こういった心理作戦は、昌幸にとって、武田家で養われた巧妙さが充分身に染み込んでいた。


 なぜ徳川家康が真田昌幸の居城上田城を攻めたかである。昌幸は天正十年(一五八二)九月より以来、家康に仕え、信州では、真田氏の本領小県郡を北方から圧迫する上杉景勝の勢力と、また上州では、小田原北条氏の軍勢とも対峙して小競り合いを繰り返すという刻を過ごしていた。家康に臣従するのは、あくまで真田の所領の安全確保にあった。

 ところがである、徳川家康と北条氏政との間の話し合いで武田の旧領の分割が行われた結果、甲斐と信州佐久・諏訪二郡は徳川領へ、関東の上野一円は北条領と定めわれてしまったのである。昌幸の所領である沼田領は北条方に引き渡す条件であった。昌幸にとっては迷惑な話である。

 家康は昌幸に書状を送り、

「沼田の地を北条に引き渡してほしい。替地は信州のいずれかの地を与えようと思う」

 と云った。昌幸はこれに対し、

「某は、去る年いらい、徳川殿に味方しており、その恩賞として、信濃国に替地を下されるのであれば、沼田は早々に北条殿にお渡しいたしましょう」

 と返答を送った。すると、家康は折り返し、

「替地としては、信州伊那郡の地を与えるつもりであるから、その前に沼田を北条殿に渡してくれまいか」

 と送ったのであるが、昌幸は家康の言葉をどうも信用できない。

 昌幸は長男信之と次男信繁と、譜代の重臣を集めて評議した。重臣らの意見は、

「沼田をお渡しになれば、替地はさっそく下されると存じます」となったが、昌幸は重ねて云った。

「汝らの申すところは一応最も至極なことであるが、しかし、沼田を北条に渡したのち、替地の沙汰なく、ついでにこの上田城をも渡せと、家康に言われたときには、如何いたすや」

 昌幸の訴える言葉に重臣らは、お互いに顔を合わせてひそひそと相談したのち、

「万一さようにことがおこらば、我ら一同、この命を捨てて上田に籠城いたします」

 と力強く答えたのである。

 昌幸は突然笑い出した。そしてウンウンとうなづきながら云った。

「沼田を北条に渡し、小心者になったうえで、この昌幸にくれるという汝らの命ならば、ただいま是非にも貰い受けたい。どうせ家康と手切れいたすならば、沼田を抱えた上で手切れ致す方が得策である」

 これを聞いた信之・信繁は大きく頷いて云った。

「父上、われら父上の思うがままに従います」


 昌幸は家康に対して、

「某は去る年いらい、お味方つかまつり、粉骨を尽くしたため、信州が早々と徳川の手にはいったのである。されば、ご褒美をこそ賜るべきであるのに、その沙汰もなく、しかも、その上に、この昌幸が槍先一つで斬り取った上州沼田のまでを、替地を出されずに取り上げられるとは、迷惑に存ずる。到底北条方には渡し難い故に、徳川殿にお味方申し、忠節を尽くしても益なきことと存ずる」

 と書を送ったのである。

 一方、昌幸との和議を承諾した上杉景勝は、七月十五日付で昌幸宛に誓書を送り、真田領を安堵したうえに、上田城をはじめ沼田・吾妻などの諸城の後詰をすることなどを約束したのである。

 この昌幸の翻意を知った家康は当然ながら激怒して、今回の出馬を諸将に命じたのだる。

 上田城は天正十一年になって昌幸が築城をはじめたものだが、そもそも家康の命によって始められたものだった。


 「真武内伝」には、

「其比家康公へ房州公(昌幸)仰せ上げられ候は、此上にも随分忠節を仕るべしと存じ奉り候へ共、国端に之れあり候ては何事も成されず候間、国中へ罷り出で、方々御手遣仕り度候。さり乍ら自力を以て一城取立て申す義、叶い難く候条、御助成下され候様にと御申候へば、御尤に思し召され、近辺の城主へ望みの通り、人夫等助成申す様にと仰られ、天正十二年申年、信州常田の台と云う所に、房州公御縄張を以て、一城取立てられ御居城に成され候。今の上田の城是也」

 とあり、上田城が造成されたのである。翌年には徳川軍を迎えうつ堅固な縄張の城が完成したのであった。


 上田城を攻略する徳川の陣容は、当時日本の中にあって最強の軍団の一つといえた。かって、三方が原の合戦の折は、武田軍の前に敗走の屈辱を味わった家康であるが、その後、屈辱を味わうような戦はしていなかった。

 鳥居彦右衛門元忠、平岩七之介親吉、大久保七郎右衛門忠世、同治右衛門忠佐、岡部治郎右衛門忠綱、同弥次郎長盛、柴田七九郎重政、保科弾正忠正久、屋代越中守政信、三枝平右衛門守勝ら練達の武将等を筆頭に総勢約七千の兵をもって、真田を駆逐せんと進軍した。これに対し、真田の兵は約千二、三百。農兵をいれて二千という兵力であり、徳川方が圧倒的に有利といえた。

 沼田城には矢沢薩摩守頼綱が大将として、下沼田豊前守、恩田伊賀守、発知三河守、恩田越前守、和田主殿助、久屋藤五郎、岡野谷加賀守、金子美濃守、木暮甚右衛門らが籠城していた。

 昌幸は越後国上杉景勝宛に、矢沢三十郎、海野喜兵衛の両名を遣して加勢を依頼した。景勝は加勢をみとめて、後詰として塩尻口まで軍勢を進めていた。しかし、勝負はして見なければ判別できない。その手本のような戦いとなった。


八月二日徳川勢は、長瀬河原より猫の瀬を渡って、国分寺表へ押し寄せて上田城まで詰め寄ってきた。

 鳥居元忠は、長篠の合戦の折、鉄砲に撃たれ股を傷つけ片足が不自由となったが、第一線で働き続ける忠臣であったし、平岩親吉は、家康と同じ生まれ年であり、長子信康の傅役となっている。大久保忠世は家康の父広忠から仕え、戦績にすぐれ、蟹江城攻撃に際しては、七本槍の一人として数えられた。長篠の合戦に折にも、その旗印である金蝶羽は目立ち、信長は感嘆の言葉を授けている。いずれも練達の武将に率いられた徳川軍は、意気揚々とした面持ちで真田との合戦を迎えようとしていた。


「注進でござる!彦右衛門尉殿!」

 物見の者が馬をものすごい勢いで操り、鳥居元忠の元へ馳せ参じた。息を切らしている。

「この者に水を与えよ」

 水嚢から水を飲み干すと、大きく息をつき話始めた。

「この先に小川があり、対岸に二百ばかりの兵がついておりまする。また、山手には 数百の軍勢が潜んでいるのが見えましてございます」

「あいわかった。・・誰か、主計と七郎を呼んで参れ」

「はっ、早速に」

「敵は伏兵を潜ませ翻弄する作戦で望んでこようが、たかが数は知れておる。伏兵もものの数ではない」

「城外にいる兵を蹴散らし、一気に城内に雪崩こめば、われらが勝利するは必定」

平岩と大久保の両武将が元忠の元へきて俄か軍議となった。当然、ここは一気に攻めたてて上田城を奪おうという結論にいたった。


『長国寺殿御事蹟稿巻之六』の「神川合戦」の項で「上田軍記」に次のようにみえる。


『家康公ノ先手鳥居・大久保・岡部・平岩ヲ大将トシテ、其ノ勢七千余騎、長瀬河原ヨリ猫ノ瀬ヲ渡ッテ、国分寺表ヘ押シ寄セ、上田ノ城ヘ詰メ寄セタリ。昌幸兼ネテ謀ニ、町内ニ三間五間ヅツ千鳥掛ヲ結ビ置テ、扨、人数二、三百引分ケテ嫡子源三郎信之・次男源次郎信繁ニ相添ヘテ、上田ノ城ヨリ三十丁計リ出張アリ。神川ヲ前ニアテ陣ヲ備ヘ、若し敵、川ヲ越エテ来リナバ、一迫合ヒシテ軽ク引取ルベシ。左アラバ、敵喰ヒ付キ来ルベシ。其ノ時、存分ニ引入レ候ヘ」ト謀密談アリ』


 徳川軍は軍勢を整え、河岸に集結し、対岸に見える真田の軍勢を見据えた。 兵の数は寡少であるとみてとれる。ひとひねりで上田城を攻めようと攻撃を開始した。

「一ひねりじゃ!潰せ!」

「おうっ!」

 徳川軍は川を渡り始めた。水流は緩やかであり、渡河は難なく終わりを告げた。真田軍からの攻撃は散漫で、弓矢が若干仕掛けられただけで、たいした死傷者もなく、上田の城下に突入した。 数十名の真田勢と小競り合い程度で戦いながら、徳川勢は大手門近くまで迫っていた。徳川軍は道が迫り、曲がりくねり、巧妙に仕掛けられている板塀に気がつかず、むしろそれに従うように、大手門に迫っていた。

「真田の兵は腰抜け揃いぞ!蹴散らしてしまえ!」

 真田の雑兵は徐々に押されながら上田城内へ後退してきた。この時分には真田信之と幸村の部隊約二百は横曲輪に集結しており、逆襲の時を今かと待っていた。

「御屋形様!徳川の軍勢は大手門に迫っておりまする」

 それを聞いた昌幸は軽く「うん」と返事をしただけで、家臣の禰津長右衛門と碁を打っていた。禰津は変わりにご苦労と声をかけただけで、再び碁盤と昌幸の顔を見比べていた。 昌幸は何事か思案しているような、してないような表情で、禰津は不気味さを感じていた。


 徳川勢の攻撃は勢いをますます増し、大手門を破られ、本丸に通じる門に迫っていた。

「彦右殿!敵は雑魚ばかりでござる。真田の侍は腰抜けどもでござろうや」

「おう!いとも簡単な戦じゃ。陽の高いうちに片付けようぞ」

 鳥居彦右衛門尉は真田の有力武将の姿が見られないことに疑問を感じていた。まさか尻尾を振って逃げたのではあるまい。昌幸が、真田がそんな腰抜けとは思えなかった。

「徳川の軍勢は大手門を突破し、本丸に迫っておりまする。もう支えきれません」

昌幸は碁を打っていた手が一瞬止まったかに見えたが、ぼそと一言いって碁石を置いた。音が大きく響き渡った。禰津はその布石を見ていった。

「これまででござる」

昌幸はにやりと微笑み、禰津に合図を送った。反撃開始である。

「手筈の狼煙を上げよ。甲冑を用意いたせ!」

「ははっ!」

しばらくして、合図の狼煙が本丸に上がった。と、同時に待機していた鉄砲隊と弓隊の一斉攻撃が始まった。櫓からの射撃は、門に所狭しといる徳川の軍勢に降り注いだ。昌幸は、武田の無敵騎馬隊が、織田徳川連合軍の鉄砲隊の前に壊滅してしまったことを肝に銘じ、鉄砲の使用方法を研究させていた。鉄砲の数を揃えるには、資金が乏しく、当然その数は少なかったが、その中で、少ない鉄砲でも早合と呼ばれる火薬の装填方法を研究させ、かつ習得させていた。これである程度の数の不足は補えると感じていた。


 狼煙の合図を見た信之と幸村は時至れりと勇みたった。

「おう、この時を待っていた。幸村、遅れるでないぞ」

「おう、存分に働いて見せようぞ」

 信之と幸村は二隊に別れ、徳川軍のどてっ腹を討つという、搦め手作戦である。

「敵は眼の前ぞ!わが真田の真髄見せてくれよう!」

「おぅ!」

六文銭の旗印が幾竿も立ちのぼり大きく風にはためいた。


再び、「上田軍記」より。

『昌幸、時分能キゾト手廻リ五百ノ人数ヲ進メテ采配取ツテ下知ナシ、無二無三ニ突イテ懸リ、討ツテ出ラレケルニ、最前横曲輪ヘ入ラレタル兄弟モ、備ヲ固メテ横槍ニ突キカゝリ、町屋ニ火ヲ懸ケラレケルニ、折節風烈シク火四方ニ飛ビ散リケル。煙ノ中ヨリ信之旗ヲ取ツテ「カゝレ者共」ト下知セラル。兼ネテ郷民共三千余人、四方ノ山谷ニ伏セ置キケルガ、今城中ヨリ打ツテ出ル太鼓ノ音ヲ聞クト等シク、鬨ヲ合ハセテ紙旗ヲ指シツラネ、鉄炮多ク打出シ、悉ク起リ立チテ、寄手ノ後陣ヘ会釈モナク打ツテカゝル。寄手ノ勢ドモ、初メ詰メ寄セケル時ハ、苦ニモナラザリシ千鳥掛ニ行キカゝリテ、進退途ヲ失ヒケル。是ニ依ツテ浜松勢多ク討亡ボサレケリ』


 風にゆらゆらたなびいていた六文銭の旗印が怒涛如く動き始めた。六文は六道ともいわれ、仏でいうところの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という一切の衆生が善悪の業によっておもむく六つの冥界をあらわしている。死人を葬るとき棺に入れる六文の銭の事である。三途の川の渡し銭である。死を怖れぬ者と戦うことは尋常なことではない。

「潰せ!押し返せ!」

「オゥー!」

城内から富沢大学、矢沢頼定ら約五百が一気に打って出た。真田の勢いに押され徳川軍は下がろうとするが、後から次々と前進してくる味方が逃げ道を阻み、行動が思うに任せず、討死する者が続出しはじめた。

「臆するでない!敵は寡少ぞ!押し戻せ!」

しかし、その徳川軍のどてっ腹に信之、幸村の軍勢が突進した。

「真田の伏兵だ」

「慌てるでない!」


 制する言葉も混乱を引き起こしている者の耳には入らない。われ先にと雑兵は逃げることしか考えていない。一旦兵を引き揚げて態勢を立て直すしかあるまいと、大久保忠世は退却の合図を鳴らした。退却する徳川軍に更に追い討ちがかかる。

 くまなく張り巡らされた迷路と板塀は明らかに退却するのに不便極まりないものとなった。陣取った農民兵は太鼓鉦を激しくならし、馬の興奮を高ぶらせ、火をつけられた塀は激しく燃え盛り、退却も難渋を極め、真田兵の攻撃は執拗であった。思ったような迅速な退却はとてもできそうでなかった。その中で討死していく将兵の数が増していく。


 鳥居元忠の軍勢も耐え切れない。少数の踏ん張りも多数の流れを止める事はできない。

「ここで引くは三河武士の名折れでござる。逃げるに及ばず」

「踏みとどまれッ!」

「主水殿、このままでは犬死にでござる。再起を図ることも肝要」

「何を言うか。ここでおめおめと背を向けて逃げられようか。お主が万一生きて帰らば、わが死に様、子々孫々まで語り継がれよ!」

 本多主水の決意の程を確認した尾崎左門は、視界に主水の姿を再々見つつ退却した。主水は、その場を決して動かず、真田兵と渡り合い壮絶な最期を遂げた。

 伏兵の真田信之、幸村兄弟は徳川の精鋭を蹴散らしながら、神川へと徳川軍を押しつめていった。計画通りに事は運んでいた。徳川軍は神川を渡ろうとしていた。川を渡れば、軍勢を再度まとめ真田と戦えると踏んでいた。徳川は真田の数倍以上の兵力があったのであるから、そう思うのも当然といえた。

その頃、佐助は神川の上流にあり、川を塞き止めて水を貯え、材木も浮かべて時今かと待っていた。その合図ののろしが高々とあがった。


 佐助は水を満々と塞き止めている堰を崩させた。川水は堰が壊れる音とともにうなり声を上げて、流れ出した。それは段々と加速し、荒れ狂い怒涛の如くとなって下流へと押し出していった。材木も加わり、それはまた暴れ馬の様に前後左右に揺れて流れていった。

「さあー、行け行け!徳川を飲みこんでしまえ!」

 下流では徳川の騎馬や徒歩雑兵が真田の追手から逃れるべく川を渡河していた。そして川を渡ったところで態勢を立て直し、再攻撃を試みる積もりであった。その時は、鳥居も大久保も同じ考えであった。今は混乱におちいっただけで、損害はそれほど受けていないと思われたからだ。だが、しばらくすると異様な音が響いてきた。それも音だけでなく、振動が川岸一体に伝わってきた。


「何ぞ?」

川を渡っている騎馬武者が上流の方を見た。雑兵も首を向けた。

「ゴッー!ドドッ」

それは津波のような高さに見えた。実際はそう高くはないのだが、現在は水嵩が少なく迫り来る水流は非常に高く感じるのだ。

「洪水だ!」

「水攻めだ。早く岸にあがれ!」

川の中にいる者達は慌てふためいて岸へあがろうと急いだが、水の流れは非常に早い。

「わあっ!」

あっと間に次々と水に飲まれ流されていく。かろうじて飲まれる前に岸にたどりついた者は、流れいく味方の兵士の断末魔を茫然と見ているだけである。寸前の所で、自分も同じ運命をたどったかもしれないという恐怖感と、助かったという安心感が交錯する。


川を渡る寸前の軍勢は、真田と戦うか、増水した川に身を投ずるかしかなかった。刀を抜き勇敢にも真田に向かう猛者もいたが、ままよと川に飛び込む者もいた。

「ここで引いては三河武士の名折れ!皆の衆特とご覧じあれ!」

と、槍を構え、真田の雑兵を蹴散らす武将がいた。奥田孫太夫である。

「気骨ある武士とお見受けいたす。尋常の勝負!」

尋常の勝負とは一対一の決闘である。

「おうー!引き受け申す。某大久保家家臣奥田孫太夫でござる」

「真田昌幸が長子信之でござる」

「これは願ごうてもお相手できぬ御仁との勝負とはこの孫太夫嬉しき限り!勝負」

と孫太夫は槍を捨て家伝の宝刀を抜き、馬上で刀を頭上に掲げ突進した。二太刀三太刀を繰り返しかわした。しかし、腕はまだ信之が上であった。信之の切先が孫太夫の右胸を指し貫いた。痛みに耐えかね孫太夫は馬から落ちた。だが、孫太夫は立ち上がった。信之は側に駆け寄り、首を跳ねた。首は胴体から離れ地面の上に落ちた。その眼は見開き信之をまだ見詰めているかのようだった。胴体はしばらくしてから、ゆっくりと倒れた。

洪水は一瞬の出来事なので、しばらくすれば水位は下がり渡ることが可能となる。徳川勢の土壇場の奮戦により、持ちこたえ川を渡ることができた。真田勢は数の上では不利であることを承知していたので、これ以上は深追いをしなかった。

水攻めだけで徳川は二百近い兵を失い、再度攻撃するという戦意も失っていた。

「御屋形様、手筈通りでございました」

「徳川はもう来るまい」

「左様でしょうか」

昌幸は絶対の自信をもって言った。事実その通りとなった。


『人数を引揚ゲラレケレバ、敵モ川ヲ越エテ引キケル時、鳥居元忠人数ヲ引キテ川ヲ渡ラント川中ヘ人数ソ入ルゝト等シク、又安房守旗ヲ取ツテ蒐レ々々ト下知アレバ、又一同ニ突キカゝル。折節神川水増シタル時ナレバ、敵兵過半水ニ溺レケル。

 中ニモ鳥居ガ人数多ク討タレシト也。味方ノ軍勢勝ニ乗ツテ神川ヲ越エ、追ヒ行ク所ニ、大久保平助忠教一騎取ツテ返シ、名乗掛ケ、槍ヲ取ツテ扣ヘタリ。』

                              「上田軍記」

 大久保平助(後の彦左衛門)は馬首を廻らして

「我こそは大久保平助なり。我槍うけてみよ!」と呼ばわり、槍を振り回して構えた。この弟の様相を見た兄の治右衛門忠助は馬を引き返して、平助のもとへ駆けつけ、その兄の七郎右衛門忠世もかけ寄せた。家紋の「金の揚羽の蝶」の旗指を挙げて、

「者共引くでない。踏みとどまれよ!」と叫んだので、天方、天野、後藤、松井ら百騎ほどが続々と馳せ集まってきた。


 「三河物語」に曰く。

『大久保七郎右衛門尉ハ賀ヾ河迄引退きけるが、鳥井彦右衛門尉者共が崩れて来るのを見て、其方へ向ひて一騎帰しける間、其付て、大久保平助、馬より飛つでおりて、鎗をひっさげて帰しける。七郎右衛門尉ハ、金の揚羽之蝶の羽の指物にて駆廻りけれバ、指物を見て、頓て旗をも押寄ける。逃散つ者もかけよせて、河原にこたへける。平助ハ銀之揚羽之蝶の羽之九尺有指物をさして向ひける処に、黒き具足を着て、鑓を持ちて押込みて来る者を突伏せて、頸をバ取らずして、寄来る敵を待ちかけいたる処へ、指物を見かけて松平十郎左衛門尉来る。次に足立善一郎来る。次に木之下隼人来る』


 続々と味方が集まってきたので、見晴らしのきく高台に攻めあげていった。真田勢も通さじと防戦していた。

 真田勢の中に日置五右衛門則隆という豪傑があった。大久保忠世の旗印を見つけると馬を走らせ、自らの旗差しは捨てて徳川勢の一員に紛れて近づこうとした。五右衛門には一人依田助十郎も紛れこんだ。大久保平助忠教がこの二人の侵入者に気づいて、

「今来る兵の中に萠黄糸の鎧、筋兜を着けて、芦毛の馬に乗りたるは、真田が士と覚ゆるぞっ!洩らざす討ち候え!」

と大声に呼ばわり、自らも鑓をとって馬を巡らせて五右衛門めがけて突いたが、鞍の前輪に当たって、五右衛門は馬首をとって返して、

「大久保七郎右衛門を討たんと来りしが、天晴れ運良き侍よ!」

 と言い捨てて、機会を失った五右衛門は味方の陣営に馳せ戻っていった。だが、依田助十郎は、大河内善一郎なるものに討ち取られてしまった。


一旦戦いは落ち着いてきたようだった。頃合いをみて大久保忠世は部隊の掌握を図った。手痛い敗北を味わうとすぐには立ち直れないことをよく知っていた。忠世も昔天正二年遠江国の犬居城攻略戦の敗北の事を思い出していた。

あの時も雨と河川の増水が徳川の戦略を狂わせ、結局退却せざるをえなくなり、忠世自身も命からがらようやく逃れた。まだその時に比べれば、部隊は部隊としての組織を保っていたのが救いであった。忠世は将兵の顔を見渡した。その顔は不安と恐怖に満ちていた。

忠世は鳥居元忠に自分の決心を伝えた。

「もはやわが兵卒及び腰でござれば、退きが妥当と存ずるが」

「さもあらん、同意つかまつる。無念ではあるが、いずれまた真田と戦うことがあるだろう。その時までお預けでござる」

「真田もこのまま逃げればここぞとばかり更に追手を差し向けよう。ここは堂々と隊伍を組み退きもうそう」

「殿軍は某が承る」

鳥居元忠が殿軍、最後尾を受け持った。


「兄上、徳川は堂々と隊伍を組んで引き揚げるようです」

「おう、殿軍は鳥居の旗印じゃ」

「今追い討ちをかければ、徳川は散々に蹴散らすことができように。父上は何故命を下されぬ」

「我らの兵は少ない。僅かな獲物のために兵を失うことはない」

信之と幸村は徳川軍が退却していく姿を悠然と眺めていた。

 「上田軍記」には、真田が討ち取った「首級千三百六十余級也。其の外溺死数シレズ。上田勢死者二十一人、雑兵共に四十一人」と記されている。


 十一月になって、昌幸は直江山城守兼続に宛てて、徳川の諸将が家康に呼びかえされたことを不思議に思って認め報告している。昌幸は「山猿」にその実情を探らせたが、実際のところは釈然としなかった。

 

 急度啓上奉り候、当境異儀なく候。仍て、申来り候者、甲州・佐久郡・諏訪郡に

 指置き候平岩七之助・芝田七九・大久保七郎右衛門尉。何をも遠州に召し寄せ候

 由、如何様の相談を致し候や、存ぜられず候。甲州辺へ目付差し越し、様子承り

 届け候はゞ、急度注進申すべく候。此等の趣、御披露に預かるべく候。恐惶謹言。

    十一月十七日

                   真田安房守

                        昌幸

  直江山城守殿

           (桑田忠親著「戦国武将の書簡2」 

 (平岩七之助=平岩親吉、芝田七九=柴田康忠。

  大久保七郎右衛門尉=大久保忠世)

 

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