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藤咲雨響
『 』
これは偶然だ。意図せぬ事故だ。そう言い聞かせ、五ヶ月前から止まったままのトークルームに、先ほどコピーしたURLを投下した。
ほとんど意味をなしていない屋根から吹き込む水の粒が、靴で、頬で、思い思いに弾け散る。全ては雨の所為なのだ。雨が降っているから、バスに乗ろうとした。そこまで遠くない家までの道のり、極力濡れたくない。
軽く腰掛けると、古びたベンチはさも辛そうに悲鳴を上げた。金曜の帰り道、ほんの少し余裕が生まれて、寂しいふたつの手がスマホを弄り始める。その結果、勉強漬けの無機質な日々の中では考えつかないような余計なことをやってしまったのだ。こうして時折、自分にも理解しがたい行動をさせるこの脳が憎い。
どくんどくんと脈打つ指で、理由もなくチャットを遡る。いつ、どこで、何度読み返しても、変わらないものが、そこにはある。正直、過去にばかり縋るのは格好悪いとは思うが、残念ながら一字一句、絵文字やスタンプの図柄までも覚えてしまった。
始まりは、彼からだった。
「携帯、新しくしました。紫藤綾人です。覚えてる、かな」
中学を卒業して三ヶ月。それまで何の音沙汰もなく、全てが思い出になりつつあった矢先のこと。
綾人とは、なんでも笑い合える仲だった。そこそこ頭が切れて、人望があって、ユーモアがあって。一緒に馬鹿なことをして怒られたこともあった。先生が目を逸らした一瞬、こちらを向いて咲いたあの笑顔は、脳裏にこびりついて離れてくれない。笑った顔が素敵で、他の誰よりも近くで見ていたかった。気づけばいつも、すぐ傍に彼の体温を感じていた。それなのに、別々の高校に行くことが決まったときも、卒業式の日も、私たちの間に言葉はなかった。あの日々の空虚な幸せを密かに思い出しながら、無視することもできず、食い気味に返信してしまった。
「忘れるわけないよ」
あの時の締め付けるような胸の痛みは、今もまだ、ここに残っている。
まずは元気かどうか、ありきたりなキャッチボールで一往復。それから、最近どう、なんかおもしろいことあった、とぎこちない会話がしばらく続く。だらだらと話題は浮遊して、何日も日付を跨ぎながら語り合った。
おそらく夜行性であろう綾人と、十一時には寝ないと駄目なタイプの私が、トークルームを同時に共有できるタイミングはほぼ無いに等しかった。それでも、むせかえるような朝の電車の中で綾人からの通知を見つけると、こもった憂鬱さえも飛んでいく。毎日繰り返す見飽きたはずの景色が、酷く眩しく映る。綾人はきっと、魔法使いなんだと思う。
数日おき、長くとも数週間おきに、ふと会話が湧く。こちらから話しかける方が圧倒的に多かったけれど、高校二年生になっても、街中で姿を見かけただの、バイトが辛いだのと他愛もないやりとりは、浮かんでは消えていく水の泡のように続いた。そんな中、事件は起きた。
冬休み直前、ちょうど街が聖夜ムードで騒がしくなってきた頃だ。珍しく布団に潜り込んで、霞む目をこすりながら最近のアニメについて語り合っていた深夜。議論は終わったかのように見えたが、数分の沈黙の後、そのメッセージは不意に落とされた。
「あのさ、会いたい。クリスマスとかさ、どうかな」
目を疑った。吐息で滲む画面を指で何度もなぞった。文字は変わらなかった。あれほど自分の心臓の音をはっきりと聞いたのは初めてだった。煩くて、痛い。闇の中に浮かび上がる四角い光が揺れて、目眩がしてくる。
「ごめん、クリスマスは家族と旅行に行くんだ。誘ってくれてありがとう」
嘘をついた。旅行の予定なんてない。本当は、会いたい。もう一度だけでもいいから、ちゃんと会って話がしたい。それでも、素直に伝える事はできなかった。会ってしまったら、あの頃と同じようには笑えないと、どこかでわかっていたのだろう。
「そっか。旅行、楽しんできてね」
それが、五ヶ月前の最後の会話だった。
ふと視線を落とすと、初めて見るメッセージが、そこにはあった。
「新エリアって、行ったら絶対入れるってわけじゃないんだね。知らなかった」
左手首の時計を確認。心臓が音を立てて縮む気がした。
「うわ、即レスしちゃったじゃん」
こちらから投げた吹き出しの横にも、すぐさま「既読」の文字が浮かぶ。
「気にしなくていいって。むしろ嬉しい」
突然訪れた勝負の時。心の準備もなく、焦燥を片手に握りしめる。あくまでも偶然を装って、頭の中で描いたシナリオ通りに文字を打ち込んでいく。
「てかなんの話?」
「え? 夢の国のリンク貼ってくれてるじゃん」
ああ、胸が痛い。その正体を考える間もなく、次の言葉を吐き出す。少しでも手を止めてしまえば、押しつぶされてしまいそうだった。
「わ、送られてることにも気づいてなかった! ごめん」
「なんだ、てっきり行こうって誘われたのかと思ったのに」
できることなら素直に、もっと綺麗なやり方で誘いたい。でもそれは、この胸に巣食う黒い影が、許してはくれない。
「お互い受験終わったら一緒に行こ」
またしても平気な顔をして、いや顔は見えないけれど、寿命を縮めるようなことをしてくる。行きたい。顔が見たい。一瞬でもそんなことを思ってしまった感情には蓋をして、機械的に指だけを動かしていく。
「そうじゃん、受験生じゃん。頑張ってね〜」
「なに、その他人事みたいな笑」
これでいいんだ。例の彼のメッセージをリプライして、文字を入力する。
「そういえば、六花は進路決まってる?」
テキストボックスに並んだ寂しげな文字の羅列を一気に削除して、内緒、の二文字だけを、小さな吹き出しに込めた。そんなことを訊かれたら、胸の中で中途半端な期待が、勝手に膨らんでしまう。ちぇ、と不満げな顔をした猫のスタンプが送られてきた。唇の端から笑みが溢れる。一応、そっちは、と社交辞令のような話題を振っておく。
「おかげさまで、一校はほぼ決まったみたいな感じなんだよね」
「だろうな。綾人、優秀だもんね」
「れいの付属推薦ってやつ」
「いいじゃん」
「もう行けるの確定したわけじゃないよ? 一応秋に試験あるからさ」
「すごいなあ。頑張ってるんだね」
「すごいって、全然そんなことないから。それでいいのかまだ迷ってるし、どうせならもっと面白い方行きたいじゃん」
「きっとどこ行っても綾人なら大丈夫だよ」
「きゅうにそんな事言われたら揺らいじゃうな」
束の間の会話が、ひと段落した。頬は燃えるように熱いのに、指先は冷たい。もう一度、チャットを少しスクロールする。目的の彼からのメッセージを見つけ、リプライした。
「そういえば、これ、せっかく誘ってくれたのは嬉しいけど、私は行けない」
「え! なんで」
心臓が、地面を打つ雨の音よりも大きく脈打って、鼓膜に響く。耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて、そっと送信ボタンを押した。
「大切な人ができたんだ」
既読がつく。
「おめでと」
音が消えた。私だけが世界から切り取られてしまったかのように、その四文字がゆらゆらと、目の前にちらつく。
「え、マジか、全然知らなかった。危うくカス野郎になるところだったじゃんか〜。てか、今俺と喋っちゃってるけど大丈夫そ?」
う、の横で縦棒が点滅したまま、相手からのメッセージだけが積み上がる。
「あ、もしかしてさ、その大切な人ってのと夢の国行くんでしょ。まあ間違えちゃうのはあるあるだけどさ、よりによって俺って。流石に期待しちゃったわ、すまん。あーあ、先越されちゃったなあ。でも、そうやってちょっとドジなところも、変わってないよね」
いつになく饒舌に、大きな吹き出しを投げつけてくる。うそだよ。たった四文字。それだけなのに、伝えられない。指も脳も感情も、すべてが麻痺してしまったようで、動かない。こうやって、言えなかった四文字が腹の底に溜まって、ずっしりと重みを増していく。
ふと、膝の上に大粒の涙が零れた。吹き出しが歪み、頬がしっとりと濡れていく。あれ、私、どうしてほしかったんだっけ。こんな試すようなことして、何を求めていたんだっけ。
始めは些細なことでも、構ってくれるだけで嬉しかった。返事をくれたら、どこまでも飛んで行ける気がした。小さな画面越しのぬくもりだけで十分幸せだったはずなのに、いつしか満足できなくなって、もっと欲しくなった。淡く柔い期待は、知らないうちにどす黒く染まって、相手にばかり、それ以上を求めていた。なんて独りよがりなんだ。なんて傲慢なんだ。自分には踏み出す勇気もなかったのに。恋は怪物だ。映画や歌で表されるような、きれいなものじゃない。醜く、卑怯で、臆病な怪物。どこまでも侵されてしまった私は、きちんと向き合おうとしなかった。よく見ようともしなかった。なんとなく逃げて、見えないふりをした。
「げんきでね」
スカートが跳ねる。重い鞄が背中で踊る。詰まった肺が、湿った匂いで満たされていく。
どうか雨よ、止んでくれるな。その日、どれだけ走っても、バスが私を追い越すことはなかった。
404 not found 藤咲雨響 @UKYOfujisaki_0311
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