別れ

 エミレアが人間と結婚した、という知らせを聞いた時に、ゾフィは飛び上がるほど驚いた。

 エミレアとの付き合いは、魔導学校の同級生だった頃から始まっている。期間で言えば二百年くらいだろうか。


 エミレアは同期の魔女の中でも優秀だった。魔法実技、魔法理論、ポーションなどを作る調剤科、幻獣の使役。すべての科目でトップだった。魔女界のエリートである魔法局への道も噂されていたくらいだ。

 だが彼女はそれらのキャリアを蹴って、ハイゼという人間の男と人生を歩むことに決めた。

 人間と魔女は寿命が違う。二つの種族がつがいになることは前代未聞で、両者とも親族から激しく反対されたらしい。だがエミレアは己の選択を翻さなかった。

 いばらの道を進むことに決めた親友を、ゾフィは応援し、温かく見守ることに決めたのだ。

 それが六十年余り前のこと。


 今、彼女の夫であるハイゼの年齢は八十を超えている。寿命がいつ尽きてもおかしくない。

 前回の祭りの際はハイゼはまだ元気だった。腰が曲がり、白髪になりながらもエミレアと軽口を叩き合っていた。それが今ではベッドから起きることすらままならないという。


 しばらくして寝室から戻って来たエミレアは、気丈に振る舞ってはいたものの、どこかやつれたようだった。髪が乱れ、額に汗の跡が見えた。袖をまくったままの腕で席につくと、深くため息を零す。


「私も時々思うのよ。ゾフィみたいに、がむしゃらに仕事してたら今頃どうなっていたんだろうって」


 珍しく弱気な親友に、返す言葉が思いつかない。


「私も働きたいな、って思うこともある。でもあの人、今じゃ寝たきりだし、ずっと付き添ってやらなきゃならないし。それに魔女の就ける職ってこの辺りにはあんまりないでしょ。けど人間と魔女の夫婦なんて、ここエウレザードくらいでしか認められないから」

 頬杖を突き、まつげを伏せるエミレアの表情は、遠い世界の住人のように見えた。

「間違ったかな、なんて思うこともあるのよ。最近」

「エミレア……」


 と、そこでエミレアは顔を上げ、ぺろりと舌を出した。


「なーんてね。ウソよ。ゾフィくらいにしかこんな冗談、吐けないから」


 明るく振る舞ってはいるが、先ほどの言葉が丸ごと嘘であるはずがない。冗談のために、あんな表情は作れない。

 親友を元気づけてやりたい。だが、今のゾフィには最適な言葉が見つからなかった。


『あれ?』ベルがすんすんと鼻を鳴らした。

『エミレア、もしかして魔方陣展開してる?』

「え?」

 エミレアの表情が強張った。

『魔方陣の匂いすんだよね~しかもなんか埃っぽい感じの……古代魔法?』

 使い魔は魔力を動力源とする生き物である。魔法の気配には魔女よりも敏感だ。

「そうなの。使わないと腕が鈍っちゃうから。埃っぽいのは多分、最近部屋の掃除をサボってるせいね」

 そう言ってぎこちなく笑うと、エミレアはゾフィに話を向けた。

「それよりゾフィ。もう明日で最終日よ。今回の祭りはどうだった?」

 ゾフィはハーブティーの渋みを舌の上で転がした後、

「一週間、あっという間だった」

 ゾフィの脳裏に、レイズと過ごしたこの数日の思い出が蘇る。

「明日にはもう発つんでしょ。見送るわよ」


 明日は祭りの最終日。

 レイズと会うのはこれが最後だろう。

 

 翌朝もいつものようにレイズのスープを食べ、屋台を見て回る。広場で並んで座り、クレープを食べた。口の端にクリームをつけたゾフィを見て、レイズは笑いながらハンカチを差し出してくれた。ゾフィが魔法で汚れたハンカチを真っ新らにすると、レイズは驚いていた。

 瞬きほどの一瞬で、レイズとの楽しい時間は過ぎていく。

 この日は列車に乗るため、昼過ぎには街を出なくてはならない。


 別れの時刻が近づいてくると、二人とも口数が少なくなった。

 沈んだ空気を打ち消すようにレイズは顔を上げた。


「その箒って、掃除用じゃなくってちゃんと乗れるんだよな?」

「もちろん」

 レイズは眩しそうな顔で、ゾフィの箒に視線を落とす。「いいなあ、すげーなあ」

「乗る?」

 ゾフィは箒を指さした。

「え、いいの?」

「暴れなければ」


 箒の二人乗りは原則では禁止だが、そんな野暮なことをいう者はここにはいない。


 レイズを後ろに乗せ、ゾフィは箒に魔力を注ぎ込む。体がふわりと浮上すると、やはり怖いのか、レイズがゾフィの腰に手を回した。

 心臓の鼓動が早まったことがレイズにばれていやしないかと、ゾフィは心配になった。

「父さんも乗った?」後ろからレイズの声がした。

「うん」と答えると「やっぱりそうだよなあ。乗りたいよなあ」と、興奮した様子で辺りを見渡している。


「すげーよこれ。ゾフィはいいなあ、いつもこんな景色が見られて」

「いつもじゃない。箒に乗れるのは、二十年間で祭りの期間だけ」

「そっか。勿体ないな。こんなにすげー景色なのに」

 それからしばらく、二人は無言で空を飛んでいた。

 エウレザードの街並みは綺麗だ。鮮やかな屋根の色、上空から見ると不思議な模様が浮かび上がる石畳。澄んだ空の色。


「いーわねお二人さん♪」「ひゅうひゅう♡」箒ですれ違う魔女たちが冷やかすように手を振ってくれる。その度にゾフィは顔を赤くして俯いた。

 レイズは今、どんな顔をしているんだろう。振り返る勇気はなかった。


 レイズの家の屋根が見えてきたころ、彼は小さな声で呟いた。


「……今日、帰るの?」

「うん」


 回される腕の力が、一層強くなる。


「行かないでよ、ゾフィ」

 レイズは背中に顔を押し付けた。まるで母親にしがみつく子供のように。

 彼の声が、直接体の中から響くように感じられる。

「俺、ゾフィのこと、好きだ」


 レイズには悪いが、吹き出しそうになった。


(こんなところまで、リックにそっくり)


 二十年前の、魔女祭り最終日。

 あの日も同じようにゾフィはリックを後ろに乗せ、街を飛翔した。彼もまた、ゾフィに対し密かな想いを打ち明けてくれた。が、それが叶わないと知ると『待ってる』と言った。


『ゾフィのこと、ずっと待ってるから。次の祭りの時、またここで会おう。約束だよ』


 期待していた訳ではない。だが心のどこかで、リックが出迎えてくれるのではないかと夢見ていた自分がいた。

 だが現実にはリックは既に亡くなっており、出迎えてくれたのはかつての彼と同じくらい年齢の息子、レイズだった。

 仕方がない。二十年は魔女にとってはあっという間だが、人間には長すぎる。


 それにしてもレイズはリックよりも泣き虫みたいだ。涙の匂いが鼻に付いた。

 「リックは泣かなかった」と揶揄ってやろうかと思ったが、やめた。

 十分ほどの遊覧飛行を終え、リックの家の庭に降りた。


 結局ゾフィは、二十年前と同じ返答をする。

「二十年後、また来る」

「うん」

「それまで、待っていてくれる?」

「もちろん!」


 レイズは目を赤くしたまま、子供のように何度も頷いた。


 人間と魔女の違い。老いていく相手を見ていると、置いていかれるような気持ちになる。そういった現実に耐えられず、人間の世から距離を置く魔女も多い。


 エミレアはすごい、と芯から思う。周囲からの反対もあった。輝かしいキャリアを捨ててまで、一人の人間と添い遂げる決意をした。

 ゾフィには到底できないことだった。

 

 ありがたいことにレイズとの遊覧飛行中、ベルは鞄の中でぐっすり眠っていた。

 だからレイズとのやり取りなど知らないはずだ。

 が、ベルは時々勘の鋭いことがある。


 レイズと別れ駅に向かう上空で、ベルが揶揄うようにゾフィの頬を突いた。

『安心しなよ、ゾフィにはおいらがいるじゃん!!!』

「……そうだね」


 ベルのおかげで、心の中の重しが軽くなった気がする。

 この時ばかりは口やかましい使い魔に感謝した。


『それにしてもエミレア、見送り来なかったな~どうしたんだろ?』

 ベルが口をすぼめた。


 エミレアは、約束していた広場に顔を出さなかったのだ。

 忙しいのかもしれないと思いそのまま出発することにしたが、ベルの言葉で昨日のくたびれた彼女の顔が脳裏に浮かんだ。

 二十年など魔女にとって些細な期間だが、出発の前に一度、顔を見ておきたい。

 なぜだか……もう二度と、彼女に会えないような気がしたのだ。

「ベル。少し寄り道しても列車、間に合いそう?」

『んー、マッハで飛ばせばいけるかな』


   *


「さよなら、ゾフィ」


 空を見上げ呟いた後、エミレアは部屋のカーテンを閉めた。

 約束の時間は過ぎた。ゾフィはもう、旅立ってしまった後だろう。


 エミレアには、どうしても見送りに行けない理由わけがあった。


 ハイドの意識が昨日から戻らない。

 だが彼の体の状況を思えば、魔女祭りまでもってくれただけでも僥倖なのだ。

 せめて最後にゾフィに会ってから、というエミレアの想いから決行を先延ばしにしていたが、もう躊躇う理由はない。

 なにしろ一刻の猶予もない。対象が死んでしまえば、は発動できない。


 ハイドが年老いて病気がちになった頃から、エミレアはとある魔法の研究に没頭していた。

 時を操る、禁忌の魔法。

 危険視され、はるか昔に封じられた古代の秘術。これを使えば、過去の時代に戻ることができる。

 時間を操る魔法は世界の混乱を招くとして、使用はおろか研究すら禁止されている。 昨日、ベルに魔方陣の気配を指摘された時にはひやりとした。


 エミレアは病床に就く夫の寝顔を覗き込んだ。


「ごめんね、ハイド。やっぱり私が間違っていた。私達は……一緒になるべきじゃなかった」


 二人でいることを知り、同時にエミレアは一人になる恐怖を知った。そして今、その脅威が間近に迫っている。 

 ハイドと同じ時を生きたい。それが叶わないならば、この縁そのものをなかったことにしたい。

 エミレアは夫の枯れ木のような手をぎゅっと握る。


「遡りましょう。時を巻き戻して、あなたと私は出会わないの。あなたは同じ人間の女性と結ばれて、幸せになって」


 ハイドはきっといい父親になる。いつまでも若い魔女の妻に看取られるより、自分と同じく皺を重ねた妻、そして子供や孫たちに見守られながら天寿を全うする方が、幸せに決まっている。


 そして時を遡れは、自分は二度とゾフィにも会えないだろう。

 禁忌の魔法を使った魔女は、牢獄へ長い間幽閉される運命だ。


(お別れね、ハイド……)


 ハイドと生活は、常に順風満帆だったわけではなかった。激しい喧嘩の末、エミレアが家を飛び出したことも一度や二度ではない。が、結局いつも折れるのはハイドの方だった。「ごめんよお姫様。機嫌を直してくれ」そう言って彼が淹れてくれたネコノハのハーブティーを二人で飲むことが、仲直りの儀式だった。

 

 ハイドと過ごした六十年。魔女であるエミレアにとって、ごく短い期間ではあったが、間違いなく自分の人生の中で最も鮮やかな瞬間だったに違いない。


 過去に遡っても、思い出は胸に残るだろうか。それだけが心配だった。


 エミレアは、室内に展開した魔方陣に魔力を流し込む。床に描かれた六芒星が、淡白く光り始めた。

 その時、意識がないはずのハイドの指先が微かに動いた。

 エミレアの掌を握り返す。強く。


「ハイド……?」


 まるで、魔法を使わないでくれと言わんばかりに。


「あなた、私と生きたこと、後悔はしていないの?」


 強張った夫の口元が、ほんの少しだけ緩んだような気がした。

 エミレアの深紅の瞳から涙が落ち、ハイドの乾いた肌を濡らす。


 エミレアは、ふっ、と全身からが力が抜けるのを感じた。

 すると魔方陣は発光をやめた。

 足で魔方陣を擦ると、後に残ったのはインクを零したようなシミだけ。


「ごめんなさい。バカなことをしようとして」

 

 その頃になってようやく、エミレアは玄関先が賑やかであることに気付く。

 訪問者の存在に気付き、彼女はくすっと笑みを漏らした。

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魔女の同窓会 十坂真黑 @marakon

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