影祭り
くれは
影祭り
俺が暮らしているのは、オアシスの街。周囲は砂ばかり。
この街では年に一度、最も日が長くなり夜が短くなる頃の月のない夜、瞬く星々の下で影祭りが行われる。それは普段は影の静寂の中に棲む精霊たちが、外に出てくる夜。
祭りの夜、オアシスの傍の広場では一晩中篝火を焚いて明るくする。いくつも用意される篝火は明るく、それゆえに作られる影は濃い。ゆらりと揺れる濃い影から、精霊たちは外に出てくるのだそうだ。
広場を訪れる者たちは皆、面をつける。動物の骨と革で作った面だ。それは、精霊たちが紛れてもわからないようにするため。自分の正体は隠さなければならない。相手の正体を知ってはいけない。でなければ精霊は安心して出歩けないから。
そうして、一晩中音楽を絶やさない。打楽器はずっとリズムを刻む。弦楽器はメロディを。それはかわるがわる行われ、日が昇るまで続く。
広場の中央では常に誰かが踊っている。誰もが面をつけているから、誰かはわからない。精霊かもしれない。鳴り止まない音楽に合わせて、激しく踊る。これもかわるがわる行われるから、一晩中踊りやむということはない。
朝になれば皆は家に帰る。そうして激しい陽射しの昼間は眠って過ごすのだ。そのときに、家に帰らず姿が見えなくなる者もいる。それは、精霊と一緒に影の中に行ってしまった者だ。
精霊に連れていかれた者はもう戻らない。追いかけてはいけない。その者はもう、精霊と同じ影に棲む者になってしまったのだから。
そう、俺の兄のように。
兄は俺がもっと幼い頃、影祭りの日にいなくなった。
その日、兄と俺は二人で面を被って祭りを見に行った。手を繋いでいた。祭りの日は広場に人が集まる。篝火の炎が揺れて、踊る人やそれを見てる人、歩く人、いろんな人の影がゆらりと揺れていた。その影すらも、精霊の住処だと聞いていた。耳を澄ませると、精霊の囁きが聞こえるのだと。
「うっかりすると精霊に影の中に連れていかれるからな、手を離すなよ」
兄に言われて、俺は自分が連れていかれることを恐れた。だから、兄の手を離さないようにしていた。兄の手は当たり前だけれど、幼い俺よりも大きな手をしていた。それがとても頼もしかった。
だというのに俺はあのとき、兄の手を離してしまった。
誰かにぶつかられたのだった。その勢いで手を離してしまって、振り向いたときには人混みの中に兄を見失っていた。慌てて小さい体で人混みをかき分けて兄を探した。けれど、兄の姿はどこにも見つからなかった。
兄の名を呼んでも、返事はない。祭りの賑やかな音楽と、笑い声、話し声、そんなものしか聞こえなかった。大人たちは皆、祭りで浮かれていた。広場の中央ではくるくると、面をつけた誰かが踊っている。影も踊る。でも、兄は見つからない。
両親の姿を見つけて、俺は駆け寄った。面を被っていても、それは確かに両親だとわかった。兄と一緒じゃないのかと聞かれて、俺は泣き出した。泣きながら途切れ途切れに兄が見つからないのだと言った。両親は面を被ったまま顔を見合わせた。
母親は俺と一緒に家に戻った。兄も戻っているかもしれない、と言われたけれど、当然のように家には兄はいなかった。面を外した母親は、俺を宥めようと抱き締めた。母親の体は震えていた。
父親は街のあちこちを探し回ったらしい。それでも、兄はどこにもいなかった。
朝になって祭りが終わっても、兄は見つからなかった。家にも戻ることはなかった。それで両親は、兄が精霊に連れていかれたのだと覚悟したようだった。
それが、俺の幼い頃の祭りの記憶だ。俺が手を離したばかりに、兄は精霊に連れていかれた。俺ではなく、兄が。もしかして、そうやって精霊に連れていかれたのが俺だったら、と思うこともある。そうであれば今頃、あの優しい兄が日々暮らしていたのだろう。
毎年影祭りが近づくたびに、俺はあの日のことを思い出す。あの日の焦燥、後悔、恐怖。それでも俺は毎年、影祭りの日には面を被って広場に出かけるのだ。探せば兄がいるような気がして。
精霊は悪いものじゃない。影の中に棲んでいろんなものから守ってくれている。精霊のおしゃべりは人の生活を助けてくれる。ただ、祭りの日には影を抜け出して、そこで気に入った人を影の中に連れていってしまうだけ。
つまり兄は精霊に気に入られてしまったのだろう。そうして影に連れていかれて──今も兄は影の中にいるのだろうか。いや、きっといるのだ。そして精霊と同じように、影祭りの日には影を抜け出してこっそりと祭りに参加しているに違いない。
祭りの喧騒の中、俺は人混みの中に兄の面影を探す。
両親はあれ以来、影祭りには参加していない。俺が参加することも止めようとする。母親には「あなたまで連れていかれたら」と泣かれたけれど、それでも俺は影祭りに行かずにはいられない。
今年も影祭りは賑やかだ。大きな篝火が揺れ、濃い影が揺れる。途切れない音楽、広場の中央で踊る人たち。歌声、笑い声、囁くような声。人々が動けば影も動いた。そうして広場全体が大きな生き物のように、影を纏いながら動き続ける。
俺もその一部になって、広場を彷徨う。思い出すのは兄の手の大きさ。優しい微笑み。背中の広さ。ああ、でも、俺はもうあのときの兄よりもずっと、大きくなってしまった。今になればわかる。あのときの兄だって、まだじゅうぶん子供だったのだ。
兄はいない。見つからない。打楽器を叩いているあの人も、広場の中央で踊っているあの人も、それを見て声をあげているあの人だって、兄ではない。誰も彼も面を被っているけれど、その中に兄はいない。
今年も見つからないのかと諦めかけたとき、ふと、人混みの中に見覚えのある背中を見つけた。それは、あのときのまま変わらない兄の背中だった。今の俺よりも小さい、兄の背中。
──兄の名を呼ぶ。
俺の声は周囲の音に紛れてしまう。きっと兄には届いていない。兄はどんどん遠ざかってゆく。人混みをかき分けて兄の背中を追う。呼吸が早くなる。今度こそ見失いたくはない。兄の背中は広場の中をどんどんと進む。俺はただ、それを見つめて追いかけていた。
兄の背中を追っているうちに、広場の喧騒が遠くなる。ふと気づくと、周囲は真っ暗闇だった。先も見えない闇の先で、兄の背中だけがはっきりと見える。
闇の中で、俺の足は動かなくなった。遠ざかってゆく兄の背中を止めたくて、振り向かせたくて、兄の名を呼ぶ。静かな闇の中で、俺の声はよく響いた。
そして、ああ、兄が、兄は振り向いて面を外した。その姿はあのとき、いなくなったときのまま。俺の姿を見て目を見開いた。そうして、俺に駆け寄ってくる。
「どうしてここにいるんだ」
「追いかけてきたんだ、兄さん。一緒に戻ろう。父さんも母さんも兄さんがいなくなって悲しんでいる」
俺の言葉に、兄は何度か瞬きをして、それから困ったように首を振った。
「俺はもう影に棲むものだよ。精霊と同じなんだ。だから戻れない」
「嘘だ! だって、ここにこうしているじゃないか!」
兄よりも大きくなってしまった俺を見て、兄は眉を寄せた。それは、幼い俺がわがままを言ったときと同じ表情だった。やっぱり、兄は兄なのだ、と思う。
「それよりお前はどうしてここにいるんだ? ここは人間がくるところじゃない。早く戻るんだ」
「嫌だ! 兄さんと一緒に戻る!」
ようやく見つけた兄さん。もう見失ってはいけないと、俺は兄さんの手を掴んだ。兄さんは小さく溜息をついて、やんわりとした動作で俺の手を振り払った。
「わがままを言うな。お前はもう、俺よりも大きいじゃないか。すっかり大人じゃないか。この姿を見てわかってくれよ、俺はもう戻れないんだ」
納得したわけじゃなかった。けれど、兄さんの言葉には有無を言わせない力があった。俺は弟だ、兄さんの言うことは聞かないといけない。
兄さんの手が俺の体に触れる。それに従って、俺は後ろを向いた。
「お前はただ迷い込んだだけだ。だから、まだ戻れる。戻れなくなる前に帰るんだ、良いな」
兄さんの手が俺の背中を押した。
「そのまま真っ直ぐ走れ。振り向くな。行け」
言われた通り、走り出す。本当は振り向きたかった。兄さんの姿を見たかった。でも振り向くなと言われたからそれに従った。体にまとわりついてくるような真っ暗闇の中を走って、走って、走った。
篝火の灯りが目に飛び込んでくる。目に痛いほど眩しくて目を眇める。祭りの喧騒がうるさいくらいに耳に響いてくる。戻ってきたのだと感じて、背後を振り向く。そこには、篝火が作った影があるばかりだった。
耳を澄ませても、祭りの騒ぎが聞こえるばかりで、精霊の囁き声など聞こえない。ましてや兄の声など、聞こえるわけもない。
俺はその場に膝をついた。兄はもう戻らない。
それでも俺は、きっと来年も影祭りに参加するのだろう。祭りのざわめきの中で、兄の姿を探してしまうのだろう。そうして兄を見つけてしまえば、俺はまたきっと追いかけずにはいられない。何年経っても俺は、それをやめることはできないだろう。
祭りの音楽は鳴り止まない。影がいつまでも踊り続ける。
影祭り くれは @kurehaa
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