過去は消えぬ、背中を撫でよ
黒本聖南
◆◆◆
一切、滞りない。
そうスマホに向けて告げる男の声は、氷のように冷ややかであった。
「毎日規定の量を採取できている。ちゃんと送れているだろう? 朝っぱらから電話を掛けてくるな」
『定期報告は義務ですので』
「俺は
一言一言話すたびに、男こと紅玉の声は冷えていき、鋭い三白眼には殺意すら混じっていく。寝ている所を突然の着信で起こされたものだから、機嫌が悪いのだ。電話の相手も内容も、愉快なものではないから余計に殺意が増していく。
苛立たしげに短い黒髪を掻き乱しながら、紅玉は電話を切るタイミングを探った。
『……紅玉様。貴方は石渡本家当主の正当なるご子息にございます。ですが、跡目に関係のないご身分。身の程を弁えてはいかがでしょうか』
「身の程を弁えるべきはお前の方だろう。跡目に関係ない? 兄貴に何かあれば、当主の座は俺に回ってくるんだぞ?」
『紅玉様』
「別に当主の座を積極的に狙っているわけじゃない。俺は今の気楽な立場を気に入っている。……俺とお前じゃ、立場が違うんだ。頭に乗るな」
『……紅玉様、オリオン様のご様子は』
「毎日変わらねえよ」
それだけ告げて電話を切り、スマホを思い切り床に叩きつけた。画面が粉々に砕けたが、紅玉は構わずに室内に戻る。
彼が電話をしていたのは、寝室のバルコニー。中に入るなり窓を閉め、柔らかな陽光を遮るようにレースカーテンを引いた。そのままベッドに直進する。
キングサイズのベッドは乱れており、そこに横たわる誰かがいた。その姿を目にした瞬間──紅玉の表情が和らぐ。
静かにベッドに乗り上げ、相手の横に寝そべり、そっと背中を抱き締める。寝間着越しに伝わる温もりに、紅玉は安堵の息をもらした。
「──電話は終わったのですね」
「なんだ、起きていたのか」
通話していた時とは打って変わって、紅玉の声は温かみに満ちていた。
「冷たくて殺意の込められた声が聴こえてきたんです、びっくりして起きてしまいました」
「それは悪いことをした。今度電話する時は、寝室から離れて電話をしよう」
「……駄目です。僕の傍から離れないでください。貴方がいないと寒いんですよ」
「……俺も寒い」
横たわっていた誰かが寝返りを打つ。紅玉と向き合うような形になったが、その顔はけっこうな量の髪で隠れてしまっていた。
絹糸を連想する美事な白髪。紅玉はその髪に手を伸ばし、慎重に退かしていく。髪の下から現れたその顔は、西洋人形のように美しく、血を思わせる深紅の双眸をじっと見つめた後、紅玉は静かに相手の後頭部を引き寄せた。
重なる唇、柔らかな温もり。雑音のしない環境のせいか、音がやけに響く。何度も何度も繰り返していき、満足したのか、彼らの顔が離れた。
「腹は減ってないか、オリオン」
オリオン。
そう呼ばれた白髪の麗人は、うっすらと笑みを浮かべて、身体を起こし、紅玉の肩を軽く押して仰向けにすると、その上に乗り上げる。
「喉が乾いています」
「そうか。なら、存分に味わえよ」
「では、遠慮なく」
オリオンは紅を引いたようなその赤い唇を、紅玉の首筋に這わせていき、その感触に、くすぐったそうに紅玉は瞼を閉じた。オリオンは構わずに口を開け、そして──鋭く尖った牙を突き立てる。
「んっ」
思わず声をもらす紅玉。骨張った手をオリオンの背中に回し、オリオンの牙を受け入れる。血を啜る音が室内に響き、オリオンの喉は絶え間なく上下していた。
オリオン・シェフィールド、彼は吸血鬼だ。
美しき鬼は石渡紅玉に囲われ、彼の血だけを日々貪っている。
口付けを交わしていた時よりも長く、紅玉が死なない程度に、吸血は行われていき、やがてオリオンは紅玉の首筋から顔を離した。
べったりと血で汚れた口元を手の甲で拭い、紅玉を見下ろすオリオン。そんな彼を見上げながら、紅玉は乱れた息を整えた。
「今日も、美味しかったです」
「……それは、良かった」
しばし見つめ合う彼と彼。紅玉の呼吸が安定する頃、紅玉はある提案をした。
「なあ、オリオン」
「何でしょう、紅玉」
「──外に行かないか?」
ゆっくりと、オリオンの深紅の双眸が見開かれていく。
「何ですか、急に」
「今日は風もそこまで強くないし、バルコニーから見えた海が綺麗だったから、一緒に行きたくなったんだ」
「……」
「夏と違って人の数も少ない。ほぼいないと言ってもいい。どうだ?」
「……紅玉」
力なく首を横に振ると、オリオンは紅玉の横に寝そべった。
「僕は、屋敷の外には出られません」
「俺と一緒なら平気だ」
「駄目です」
「オリオン」
「駄目です」
二回目の拒絶の言葉は、少しばかり強く、
「……駄目、なんです」
三回目は、反対に弱々しい。
急速にオリオンの瞳は潤みだし、こつんと、滴が溢れ落ちる。
瞳と同じく深紅の、涙の形をした結晶。オリオンの涙は液体ではなく、結晶なのだ。
「外は、駄目。外は、外は……怖い……怖くて、嫌だ」
赤い結晶の涙が絶え間なく溢れ落ちていく。
「嫌、嫌だ、嫌……!」
「──悪かった、外には行かない。屋敷の中で一緒にいよう」
紅玉はオリオンを抱き締めると、その背中を優しい手付きで撫でていく。オリオンが落ち着くまで、ずっとそうするつもりだ。
オリオンは生まれた時から、人間に囲われて日々を過ごしてきた。
吸血鬼の涙には魔力が込められ、その涙を人間が口にすると魔法が使えるようになる。その事実を知る者達は『魔法使い』を名乗り、安定して魔法を使う為に、特定の吸血鬼を傍に置いて管理していた。
オリオンの担当は紅玉。元は石渡家の分家の一つに囲われていたが、その一族が後継を用意せずに絶えたので、継ぐものがない本家次男の紅玉がオリオンを引き取ることになった。
今はベッドを共にするような関係だが、出会った当初のオリオンは、世界に怯え、慣れぬ陽光に怯え、そして人間に怯えていた。トラウマになるほどの扱いを、元の家で受けていたらしい。
汚すことを躊躇うような、処女雪を思わせるオリオンの美しさに、紅玉は一目で恋に落ち、かなりの時間を掛けてオリオンの心に寄り添ってきた。そのおかげで、笑みを見せ、温もりを分け合うような関係になったものの──トラウマはそんな簡単には消えないようだ。
「ごめん、なさい。ごめん、なさい」
「オリオンは何も悪くない。俺が悪いんだ」
「ごめん、なさい。ごめん、なさい」
「……」
石渡の一族は、かなりの数になる。
全ての家に吸血鬼がいるわけではないので、吸血鬼のいる家は、一定量の涙を集め、他家に分配しないといけない。オリオンが現在溢している涙も、後ほど本家に送ることになるだろう。
そのことに一抹の苛立ちを覚えながら、紅玉はオリオンの背中を撫で続ける。
「そんなに泣いたら腹も減るだろう。今日はお前の好きなフレンチトーストを作ろう」
「ごめん、なさい。ごめん、なさい」
「なくなりかけてた林檎ジュースも補充したから、遠慮せずに飲んでくれ」
「ごめん、なさい。ごめん、なさい」
「食事が終われば何をしような。映画でも観るか? 何が配信されているか、一緒に探そう」
「ごめん、なさい。ごめん、なさい」
オリオンとの日々は、屋敷の中だけで完結する。
穏やかで、守られた暮らし。
そのことに一応満足しているが、それでもたまに、紅玉は思うのだ。
陽光の下、月光の下、オリオンと手を繋ぎ、色んなものを見て回りたいと。
過去は消えぬ、背中を撫でよ 黒本聖南 @black_book
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