OFF_RECODE

槻白かなめ

第1話 黎澪透

 僕がそこを訪れたのは、いつだったかな、分からない、でも、気付いたらそこに居た。本来なら、僕の中にあるはずの、今ここに居る経緯が、それどころか、思えばどこに住んでいるか、生まれ育った環境は?両親の姿は?友達はいたのか?なにも分からなかった。いや、知らないというのが正解だと思う。

 まるで土からやっと出てきた蝉の幼虫が、成虫になり飛び立ってしまったように、残るものは、ただの中身のない抜け殻だ。何となく、そう頭に浮かんだ。

 上手い例えなんて他にいくらでもあっただろうが、やけに抽象的で要領を得ないのは、変な話、僕は、自分が誰なのかを、これっぽっちも知らなかったからだ。

 詰まっているのは、そうだな、目の前にあるこれが本棚だとか、僕が踏んでいるのは床だとか、敷かれている布は絨毯だとか、早く言ってしまえば、置いてある家具を認識できるほどの知識か。あと、人間独自が所有するコミュニケーションを図るための言語くらいか。


 話を戻そう。そんな僕の限りある知識の中で表すなら、そこは瀟洒しょうしゃでアルカイックな図書館だった。煤けた欅の本棚が、恐らく天井まで高くそびえ立ち、同じ大きさのものがずらりと立ち連なっている。

 やけに年季の入っているように見えるが、綺麗に整頓された分厚い本や、埃を被っている様子がどこにもないところから、もしかすると手入れがくまなく行き届いており、つまりここの管理者がいる、ということではないだろうか。でなければ、困る。僕が。


 西洋風の装飾があしらわれた白樺の手摺が、二階へ続く階段へ備え付けられている。僕は誘われるように階段へ向かおうとするが、ふと感じた些少であり、絶対的な存在感を醸し出す不快の二文字に、僕は何気なく周囲を一瞥する。

 人の気配はない。けれど、これは、確かに僕を見ている。誰かが、視ている。いったい、どこに?誰が?どこに?誰がいる?

 ひたすら目線を動かし、まとわりつく違和感の正体を確かめようとした。五秒ほどか、その甲斐もあり、漸く捉えられた黒い人影に、僕は傾注する。

 

 それは男性とも、女性ともとれる、黒いコートを肩にかけた、黒髪の人物だった。

 赤く熟した柘榴ざくろの瞳は、静かにこちらを眺めている。頭からつま先まで、という表面だけではなく、まるで皮膚の上から内臓を視て、いや、違う、透かされるどころではない、僕の内に目を生やして探られているような、言いようのない不快感。腹の底から湧き上がる得体の知れない畏怖に脂汗を滲ませながら、彼、もしくは彼女から目線を外せずにいた。

 毛虫のような怖気が背中を這い回り、神経を伝って心臓が激しく鼓膜に波を伝えてくる。果たして、僕は、生きているのだろうか。

 彼、もしくは彼女は、ただ僕を視る。静かに、僕を。本当に、ただただ僕を、じっと視ていた。汗が顎から滴り落ち、絨毯に染みを作る。

 息を、吸わないと。


「こんに、ち、は。あ、あの、ご めんな さ、い。あの、で、ぐちは、どこ、です、か」


 やっとの思いで絞り出した声は喉が上手く開かなかったために嗄れて漏れ出た。彼、もしくは彼女に届くよう近寄るべきであったが、何故だろう、潜在する本能がけたたましく警鐘を鳴らして、僕の判断を妨げていた。

 脳髄は、既に蕩けてしまっているのではないだろうか。


 彼、もしくは彼女は、そんな僕の言葉に、僕の後ろをおもむろに指差す。僕は、指を指された方向をちゃんと確認することもなく、よろめきながら何とかゆらりと振り向き、「ありがとう」とだけ残して、出口があるはずの場所へと向かった。

 遠ざかる僕の背中に、彼、もしくは彼女が呟く。


「──さようなら」

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