第1話 透明
乾いた肌に張り付く湿った前髪とTシャツの感触が気持ち悪かった。
夏の終わりが近づいているといっても、夜はまだ暑い。しかし、この大量の汗は気温のせいというだけではない。恐らくさっきまで見ていたなんとも薄気味悪い夢のせいだ。
それに体もだるい。身体の周りの空気が質量を伴って、重たく絡みつくような動きにくさがある。
一刻も早くこの感覚から抜け出したくて、とりあえず顔でも洗おうかと、重たい足取りで洗面所に向かった。
俺は毎朝、顔を洗う行為が嫌いだ。鏡を見なくてはいけないから。
鏡は否が応でも現実を突き付けてくる。毎度毎度、鏡に映る自分の顔を見るたびに嫌気がさす。
小さい目、横に広がった大きい鼻、分厚い唇はお世辞にも整っているとは言い難い。加えて、ここ数年で増えだした白髪は年齢を重ねてきたことを感じさせる。
洗面台の小さな鏡の前に立つたび、俺の姿をありありと映して雄弁に語りかけてくる。これがお前だ、現実を見ろと。
そして、いつものように鏡は嫌味ったらしいほどの正しさで、語りかけてくる——はずだった。
鏡を見た瞬間、目を疑った。
慌てて形を確かめるように顔を撫で回してみるが、いつも通りの目と鼻と口の感触がそこにはあった。しかし、明らかに無い。
鏡には映るはずの、映らなくてならないはずの俺の顔が、首が、腕が、手が、指がない。
そこに映っていたのは、昨日から着たままのTシャツと、下着のパンツが不自然に宙に浮かんでいる光景だった。
俺は透明人間になっていた。
動かしてる感覚は確かにあるのに、そこにあるという実感は確かにあるのに、己の目からも自分の体が見えなくなっていた。
この状況を受け入れるには、あまりに突拍子もなく非現実的すぎる。
とりあえず他に変わったところがないか辺りを見渡しても、いつもと変わらない狭く淀んだ部屋があるのみだった。いたって何も変化がないこの部屋と、変わりすぎた自分の対比が恐ろしい。
――これじゃあ、まるでカフカの『変身』じゃないか。
きっと、夢の続きに違いない。
そう思い至った俺は、夢かどうかを確かめるときのテンプレであるところの、「頬をつねる」を試してみると、じんわりと鈍い痛みがしっかりと感じられた。
――夢じゃないのかもしれない。
だが、痛みがあったからと言って、それだけで現実だと決めていいのだろうか。痛みを伴った夢だってあるかもしれない。
今まで現実だと思っていたものが、実は夢の可能性だってなくはないじゃないかと、一瞬頭をよぎったが、俺は一度状況を受け入れてみることにした。
この現象をすんなり受け入れられる人間はそういないだろう。
非日常を夢見て、己に特別な力があると信じてやまない中高生のような馬鹿か、この俺くらいだろう。
なぜなら、これが夢か現実かどうかなど、俺にはもう、どうでもよかったからだ。
『むしょくせいかつ』 @yuk1_ry0
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