婚約破棄された令嬢が、推しを作って急接近する話。

小白水

婚約破棄された令嬢が、推しを作って急接近する話。


「ミッシェル。もう僕のところに来ないでくれないか」


 いつものように彼の家を訪れ、庭でお茶を頂きながら話していてはずだったのに、私の目の前の金髪碧眼の男性──アルフレッド=サミュエルの口から発せられたのは、私への拒絶の言葉。


「どうしてか、お伺いしても?」


 彼は私の婚約者だ。子供のころから続けてきた、婚約者としての生活はもう十年に迫ろうかというくらいの長い付き合いだった。


「運命に……出会ったんだ」

「は?」


 何を言う出すかと思えば『運命』だと。


「だから、運命だよ。親によって決められた相手なんかじゃなくて、僕が見初めて生涯を添い遂げたいと思った運命の相手」


 その親によって決められた相手を前に『なんか』と申すか。運命とやらに浮かれすぎて目の前の私など見えていないようだ。


「それで、私は邪魔になったと?」

「言葉を選ばずに言えば……そうなるね。でも勘違いしないでほしい。君は魅力的な女性だ。ただ、僕の求めていた

女性ひととは違っただけなんだ」

「貴方との婚約が決まった時から、私は貴方に尽くすよう教育を受けました。貴方のために教養を身につけ、貴方のために家政を学び、貴方のために貞淑であるように努めました」

「うん……そうだね」

「私のッ! ……私のこれまでの人生は一体何だったのでしょう? 答えてください! アルフレッド様ッ!」


 気が付けば、私の目からは涙が溢れていた。


「……すまない」

「……では、お望み通り失礼いたします」


 涙を拭うことも忘れて、私は庭園から駆け出した。


 私の、彼のために尽くした十年足らずの歳月が、彼の『運命』とやらのせいで一瞬で瓦解してしまったのだった。



 ×   ×   ×



 鏡台を見やる。アルフレッド様に会うからと、気合を入れて整えた金の髪はぐちゃぐちゃに崩れ、泣きはらした青い目からは、涙で流れたアイメイクの黒い線が伸びている。

 その時、コンコンと扉を控えめにノックする音が私の部屋に響いた。


「……はい」


 泣きすぎて枯れてしまった声でかろうじて返事。


「私だ。入るぞ」


 聞こえてきたのは父の声。その声色には心配の色が見え隠れしていた。


「サミュエル伯から連絡を受けた。災難だったなミッシェル」

「お父様、私はどうすれば良いのでしょうか。アルフレッド様のためにあれと育てられ、彼に尽くすためにと育ってきたはずなのに、その当人に捨てられてしまいました。私には……もう何も残されてはいません」


 いつもは『甘ったれたことを言うな』なんて言って怒りそうな父も、今日は申し訳なさそうに私を見るばかり。


「この婚約を取り決めたのは私とサミュエル伯で、この婚約を取り消したのはサミュエル伯の一人息子の独断だ。このことに関して、お前に非はない。……だからと言って落ち込むなというのは、難しい話だろうが……なんだ。気分転換にでも行ってくるといい」


 そう言って、父は一枚の封筒を私に差し出した。


「これは?」

「開けてみろ」


 封を開けると中には、一枚のチケットがあった。劇団サファイアレオ、国立歌劇場公演、演目──神の怒りに触れた日。


「演劇……ですか?」

「ああ、そうだ。これだけで気が晴れるかはわからんが、気分転換だと思ってみてくれば良い。気休めくらいにはなるかもしれん」

「……ありがとうございますお父様」


 正直な話、そこまで気乗りはしないのだけれど、普段ぶっきらぼうなお父様が、私にせっかくプレゼントしてくれたのだから、行ってみよう。お父様の言う通り気晴らしにでもなれば御の字だ。

 私にチケットを渡すと、お父様は部屋を出て行った。その背中は、いつもより少し大きく見えた。



× × ×



 来たる公演当日、劇場の入り口からは入場を待つ人の列が長々と伸びていた。


「まさかここまで人気だとは……」


 こんなに人気のある劇団であれば、内容も期待ができるというもの。


「お姉さん、どんな劇団かも知らないで来たんですか」

「きゃっ」


 思わず生娘きむすめのような悲鳴を上げてしまう。……まだ生娘なのだけれど。

 声の主は、水色の髪をしたいかにも軽薄そうな青年。白いシャツと大きめの黒いズボンで、観劇時のドレスコードなど知ったものかという恰好をしている。


「そんなにびっくりしないでもいいじゃん。それより、お姉さんサファイアレオの劇見るの初めて?」

「え? ……ええ。そうですね」

「ならきっとびっくりするよ」

「……そうですか」


 それ以上の言葉が出てこない。というか、『一緒に見よう』とか言いだしそうだなと身構えていた時にこれだ。少し拍子抜けしてしまった。


「何その顔。僕がお姉さんをナンパするために声をかけたとでも思った?」

「え、ええ」

「おい。カイそのくらいにしとけ。お客さん困ってるじゃないか」


 私に助け船を出してくれたのは、黒髪の男性。年の頃は二十くらいだろうか。


「えー? せっかくの新規のお客さんだよ? しっかり心を掴まないと」

「客を呼びたいなら、お前は口を開かない方がいい」

「酷いなぁ。僕なりに頑張ってるんだよ?」

「すまない、こんなやつは無視していってしまってくれ。迷惑をかけた」

「え、ええ……」


 彼らの会話のペースに呑まれてしまった私は、ほとんどまともな言葉を発することもなく、劇場の入口へと吸い込まれてゆくのだった。



 父からもらった席はボックス席。なので、初心者の私でも周囲の目を気にすることなく、落ち着いて劇に集中することができる。


「さっきの人たち、『お客さん』って……」


 彼らは、私のことを『お客さん』と呼んだのだ。つまり、彼らはこの場において招く側、劇団員ということなのだろう。先ほど話したあの二人を探すことをこの観劇中の小さな目標にすることにしようと心に決めた。


「ご来場の皆様。間もなく本日の上映時間となります」


 最新の拡声器を用いたアナウンスが場内に響く。

 なんだか緊張してしまって居住いを正すと、音もなく舞台の赤い垂れ幕が開いてゆくのが見えた。


「本日ご来場の、紳士淑女の皆々様! 劇団サファイアレオの舞台へようこそ!」


 サファイアレオの団員だろう青年が、舞台上からよく通る声で告げる。


「当劇団の公演では、普通の演劇の型にとらわれない、皆さんを驚かせるような演出をご用意しております。皆さんも観劇の型にとらわれず、楽しいときは笑い、驚いた時には声を上げてお楽しみください!」


 彼が一礼すると舞台は暗転。会場を静寂が包んだ。


 その次、スポットライトに照らされたのは、一人の青髪の少年。病気を患っているのか、ベッドに横になりせき込んでいる。青い髪を見て『ひょっとして』と思いはしたが

年齢が違いすぎる。


「誰か……誰か僕を助けて。もう苦しいのはたくさんなんだ」


 か細い声で彼は言う。


「救いを求めるか。少年。」


 彼に声をかけたのは、先ほどの黒髪の青年。


「お兄さんはだれ?」

「我は神である。其方そなたたちが崇める」

「神様は、僕を助けてくれるの?」

「そうだ。病を知らぬ強壮きょうそうな肉体を、比類なき力を、おぬしに与え、その苦しみから解き放つことができる」

「お願い、神様。僕をこの苦しみから解放して。もう苦しいのは嫌だ。僕のせいでお母さんが苦しむのも嫌だ。誰かに迷惑をかけながら生きるのは嫌だ」

「あいわかった。ただし、一つ条件がある」

「条件? 何? 僕なんだってするよ」


 少年は今にも飛びつきそうに黒髪の青年の方へ起き上がる。


「人を傷つけることを禁ず。これだけだ。故意であれ、|不慮《ふりょの事故であれ、人を傷付ければそれ相応の神罰がお前へと帰って来るだろう」

「そのくらいなんともないよ。また走れるのなら」

「その言葉、ゆめ忘れるな」


そう言うと黒髪の青年は忽然と消えた。会場からもどよめきの声。

 そのどよめきの中、ベッドに寝ている少年の姿に変化が訪れた。観客が見ているそのただ中で、少年の体は突然成長し始めた。


「魔法を使った演出……」


思わずぽろりと口から言葉が漏れた。言葉にしてしまえば簡単なのだが、それを違和感のない演出に落とし込む魔法制御が至難しなんの業なのは想像に難くない。


 考え事をしている間に少年の成長は終わったようで、そこにいたのはさっき声をかけてきた、カイと呼ばれていた青年だった。しかし、纏っている雰囲気が先ほどとは違う。軽薄そうな感じから打って変わって、今は先ほどの少年がそのまま大きくなったような、病弱から来る自信のなさが見えるような雰囲気を纏っていた。まぁ、実際にさっきの少年が成長したのだけれど。


「お母さん……これで、僕も」


 少年がぽつりとこぼして舞台は暗転した。



 その後の話の流れはこうだ。

 強い体を手に入れたフィリップという名前の青髪の青年は、病気の間も自分も見捨てずに養ってくれていた母に恩返しをするために一生懸命に働き、それなりの余裕のる幸せな生活を送っていた。


 そんなある日、隣国の兵士が彼の暮らす村を襲撃した。しかし、彼には神との約束があった。『何があっても人を傷つけてはならない』という。彼は隣人たちが襲われてゆくのを、ただ見ていることしかできなかった。


 そして、兵士たちの魔の手は、フィリップのたった一人の家族。母にまで伸びようとしていた。家族の命と、神との約束の間で揺れ動くフィリップ。


 しかし、母の喉元に凶刃が迫るその瞬間。彼の体は動いていた。兵士を次々となぎ倒し、その度に神の裁きたる落雷に打たれ、それでも敵をなぎ倒してゆくフィリップは兵士をすべて倒したが、神罰により彼も命を失ってしまったのだった。彼は村を救った英雄として銅像が建てられ、祀られることになったのだった。



 この劇団の売りは、魔法を織り交ぜた演出と、それによる派手なアクションシーンなのだろう。確かにあれは他には到底まねのできない芸当だった。しかし、私が惹かれたのはあの青髪の青年、カイの演技だった。それこそまさに役が体に乗り移っているよう。話の最後、フィリップが死んでしまうシーンでは、知らぬ間に涙が流れていたほどだった。


 カーテンコールが始まり、役者が一人ずつ前へ来て礼をしてゆく。

 最後に主役のカイが来て礼をする。役者が横一列に並び大きくお辞儀をして、カーテンが閉まってゆくその最中、カイはこちらを見て微笑みかけたのだった。絶対に目が合った。纏っている雰囲気は最初と同じものだったはずだけれど、もう軽薄さは感じなくなっていた。


 人込みを避けるために、観客がけるのを見てから私も席を後にする。

 劇場の長い廊下を一人歩いていると。


「お姉さん」

「きゃっ」


 後ろから突然声をかけてきたのは青髪の青年、カイ。


「だから、そんなにびっくりしなくてもいいじゃん。で、どうったった? 僕たちの劇は」

「すばらしい演技でした。まさに役が乗り移っているような感じで……」


 私は素直な感想を伝えたつもりだったのだが、彼は驚いたような表情をしている。


「……どうかされましたか?」

「えっ? ああ、いやぁね、まさか僕の演技をほめてくれるとは思わなくて」

「でも、すばらしい演技でしたよ?」

「ありがとう……でもね、やっぱり僕たちの舞台を見た人はあの派手な演出に目が行くからね。劇団はそれを売りにしてるんだから仕方のないところではあるんだけれどね」

「それは何か……もったいないですね」

「はは、そういってもらえると嬉しいよ」


 彼の笑みはどこかさみしそうにも見えた。


「また来ます。貴方あなたの演技を見るために」

 

 だから彼を少しでも元気づけたくなって、そんなことを言ってしまった。


「うれしいこと言ってくれるね、お姉さん。名前を聞いてもいい?」

「ミッシェル。ミッシェル・カルステンと申します」

「カルステン……。カルステンってあのカルステン子爵か?」

「ええ。そのカルステンです。ですが、今はただの客ですのでそう固くならないでください、カイさん」


 カイの顔には驚きが張り付いている。


「なんで僕の名前を?」

「さっきの黒髪の方があなたをカイと呼んでいましたので」

「あぁ、なるほど」

「では、私は行きますね」

「ありがとう。また次に会える日を楽しみにしています。ミッシェル嬢」


 そういって彼はひざまずき、私の手を取り口づけをするのだった。


「なっ、にゃにをっ!?」

「あ、赤くなってるね。照れちゃって可愛いねお姉さん」

「からかわないでください! 失礼しますっ!」


 その場から逃げるように私は立ち去った。

バクバクと心臓の鼓動が暴れる。顔もきっと赤いだろう。あんな積極的なこと、アルフレッド様からされることはなかったから、恥ずかしくって仕方がない。



×  ×  ×



 二日後。また国立歌劇場へと足を運ぶ私の姿があった。目的はもちろんサファイアレオの演劇。


「ミッシェルさん。また来てくれたんだね」

「カイさん。ええ、貴方の演技を見に来たのです。楽しみにしていますよ」

「珍しいなカイ。お前がお客さんの名前を覚えているなんて」

「ひどいなぁ。僕だって大事なお客さんくらい覚えてるよ。じゃあね、ミッシェルさん。ご期待に添えるような演技をしてみせるよ」


 そういって彼は劇場内へと駆けて行った。


「あんなに気合を入れてるアイツを見るのは初めてだな。よほど、お客さん……ミッシェルって言ったか? あんたのことを気に入ったと見える。しっかり見て行ってやってくれ」

「ええ。言われなくても。そのために来たのですから」


「「ありがとうございました!」」


 演者たちが舞台上で横並びになり、礼をする。

 そして、カーテンが閉まりゆくその中で、カイはまた私の方へ笑いかけるのだった。しかも今日は手を振るおまけつき。

 私も小さく手を振り返すと、『待っていて』とでも言うかのように、掌をこちらへ向け手を伸ばしてくるのだった。


「ミッシェルさーん!」


 緩いカーブを描く廊下の窓から、劇場の外を眺めていると、カイの声。


「お疲れ様です。カイさん」

「あのジェスチャーで伝わった?」

「ええ、前もこうして、ゆっくりと会場を出れば会えましたので、そのことだと分かりました」

「それならよかったよ」

「いいのですか?」

「? 何が?」


 私は窓の外を指差す。

 そこには観劇に来た客と、演者との交流会が行われており、人だかりがいくつもできている。


「あーあれね。もともと僕はやってないんだ」

「どうして? あなたが主役なのに」

「もちろん、僕が主役だし、僕が行けば盛り上がるだろうね」

「なら……どうして?」

「僕のところに来たみんが、僕になんていうかわかる?」


 彼は私に問いかける。


「それは、もちろんすばらしい演技をしているのですから、そのことを褒めるのではないのですか?」

「みんなね、僕を見て『格好良かった』ってそればっかりなんだ。まるで、僕が顔だけで主役を張っているような口ぶりに聞こえてね。もちろん、そういう意味じゃないのは分かっているつもりなんだけれど、どうしても……『お前の演技は、魔法の演出ありきのまがい物だ』って言われているような気がしてね」


 彼は笑顔を浮かべていたけれど、その瞳は揺れていて、どこか悲しそうに見えた。


「そんなこと……」

「だから、君に感想を聞いたとき、うれしかったんだ。真っ先に僕の演技を褒めてくれたから」

「それは、貴方の演技がそれだけ素晴らしかったからで」

「……演者をしているとね、その言葉が一番うれしいんだよ。だって、あの広いステージの中で、たくさんの一流の役者がいて、その中で僕を見てくれている。僕の技術を、努力を見てくれている」


 そんな話をする彼は、心の底から嬉しそうで、見ているこっちまで笑顔になってしまいそうな少年の笑みをしていた。


 私の言葉でこれだけ喜んでくれている人を見るのは初めてだった。だから、決めた。


「私が見ています。貴方の演技を……貴方の努力を。だから、貴方はステージで輝いていてください。私がその輝きを見届けます」

「うん……うん」


 そういって頷く、彼の目には涙が浮かんでいた。

 私は微笑を浮かべながら、その頭をそっと抱き寄せ、頭を優しく撫でるのだった。


「……いやぁ、恥ずかしいところを見せちゃったね」

「いいえ、私もこの前大泣きしたばかりなので」

「最初に会った日、ちょっと暗い顔をしていたのってそのせい?」

「……そうです。できるだけ表情に出さないようにはしていたのですが」

「こっちは演技のプロだよ?」


 こと演技において、彼を出し抜ける者はいない。そういう自負が彼の自慢げな表情から見えた。


「そうですね。貴方に演技なんて通用しない」

「でも、今はそんなに辛そうには見えないね」

「そうですか? だとしたら貴方のおかげですね。私は悲しい事なんてどうでもよくなるくらいに貴方の演技に夢中なのです」

「……ミッシェルさんって、時々とんでもないこと言うね。誰にでも言わない方がいいよ、そういうの」

「? 貴方にしか言いませんよ」

「だから~! そういうのを言ってるんだって!」


 何か彼のかんに触れることを言ってしまったのだろうか。だとすれば反省しなければならない。


「……でもミッシェルさんが僕を推してくれるなら、ぼくも気合を入れて頑張らないとね。腑抜けた演技なんて見せられないや」

「推し……ですか」


 確か演劇を見るにあたって勉強した中にそんな言葉があった気がする。


「うん。推し。違った?」


 意味は……特定のグループの中で、特に応援している人。みたいな意味だったはず。


「いいえ、違いません。貴方は私の推しです。間違いなく」


 そういって、私は破顔した。



×  ×  ×



「ミッシェル、最近は少し楽しそうだな」


 夕食の席で、父はふと私にそう問いかけた。


「ええ、お父様が下さった演劇のチケットのおかげです」

「それは良かった。私もチケットを渡した甲斐があるというものだ。しかし、そんなにも楽しいものだったのかね。あの演劇は」

「ええ、何せ『推し』ができましたから」

「おし? ……何はともあれお前が立ち直ってくれたようで、私も嬉しい」

「ええ、そのことばかりを考えています」

「私が決めた婚約のせいでお前を振り回してしまった。すまなかった」


 そう言うと父は私に向かって頭を下げた。


「おやめください。悪いのはお父様ではありません」

「……ありがとう。それで、私も考えたのだがな、次の結婚相手は自分で選べ。身分など気にせず、自分の好きな相手を選べ。もちろん多少は私も口出しするやもしれぬが、基本はお前に任せる。家のことはセオドアに任せて、お前は好きに生きろ」


「ありがとうございます! お父様。ですが……そんなことを言われると私……」


 推し活なんかじゃ留まらなくなってしまいます。


「そんなことを言われると……どうした?」

「いっ、いえっ! なんでもございませんッ! とっても嬉しいです!」

「そうか、ならばよかった」


 その日の夕食は、なんだか味がよくわからなかった。



×  ×  ×



「カイさん」

「お、ミッシェルさん、来てくれたんだね」


 そういって彼はにっこりと笑顔を向けてくる。


「これを」


 私は一つのバスケットを彼に手渡す。


「これは?」

「クッキーです。ぜひ皆さんにと思いまして」

「まさか、ミッシェルさんの手作り!?」

「ええ、ですので味の保証はできませんよ?」

「これは僕の物です。決めました」

「何を言って……」

「ッ! ミッシェルさんの手作りクッキーを他の奴らにくれてやることなんて……できないっ!」


 たいそう気に入ってくれたようだ。なんだかあの日から、彼はいろいろな表情を私に見せてくれるようになった気がする。


「また、作ってきますから。今度はカイさんのために」

「本当に? 約束だよ?」

「はい。約束です」

「じゃあ、持っていってくるね。ありがとうミッシェルさん」


 彼は子供のような笑顔を浮かべながら、劇場の控室へと走って消え去っていった。


「クッキーとってもおいしかったよ!」


 終演後、いつものように、彼は廊下の先から走ってきた。


「それは何より。こんなに『推し』に喜んでもらえるなんてファン冥利に尽きますね」


 推しが尊いなんて言葉を聞くけれど、こういうことを言うのだろうか。


「また今度、お返ししないといけないね。また来てくれる?」

「ええ、頼まれなくても。『推し』を応援しないといけないので」


 くすりと笑みをこぼす。


「……そうだね。推される側として最高の演技を君に届けられるように頑張るよ」

「ねぇ、ソフィアさん。この後って、時間ある?」

「ええ。婚約者から破談を食らった身ですので、時間ならたっぷりあります」


 少し皮肉っぽい笑顔が私の顔には張り付いていることだろう。


「君の元婚約者さんは、もったいないことをしたね。こんなにいい女性を手放すなんて」

「……口説いているんですか?」

「そうだよ?」


 そういって、彼は、悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「破談になって、父から相手は自分で選んでいいと許しを得たんです。だから、そんなことを言うと本気にしてしまいますよ?」

「いいよ? 本気になって。ステージの上でも僕を見てくれる君となら、僕だって嬉しい」


 そう言うと、彼は私の顎をその手で引き揚げて、顔が近づいて……。


「っと。今はここまでにしておこうか」

「……え?」

「続きはあとでね?」


 私の『推し』はステージの外でも私を魅了してやまない。

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婚約破棄された令嬢が、推しを作って急接近する話。 小白水 @koichan

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