渦
@ksk226
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おそらく、ぼくが言っている。
たとえば、一つの絵画をずっと眺めていると、どこかで何かが静かに変わったように思える、色がほんのわずかにずれ、形が揺らぎ、そうして世界が少しずつ別のものに変わっていくような予感が、ゆっくりと訪れる。それは、自分の内側で何か新しいものが生まれ始める感覚で、たぶん待ち望んでいたもの、もっと言えば探していたものがそこにあるようで、いつもと違う景色がぼんやりと広がっていく。
それが、本来人が持つ「感覚の新陳代謝」、同じ景色も視点が変わればまったく違うものに見えてくる、新しい絵が透かし絵のように浮かび上がり、色が滲み、線が形を変え、光が差し込み、空間がゆっくりと染められていくようで、その中でどこか遠くから音が聞こえ始める。それが何の音かはわからないけれど、耳を澄ませばそれは声で、誰かの声で、その声ははっきりと、でも君はそうではないね、と囁いた。
その瞬間、ふわりと何かが剥がれるように、景色は静かに溶けて消えた。そして、冷たく硬い現実だけが残った。
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昼寝は、いつもすぐに終わる。
昼下がりのやわらかな光に包まれると、ぼくはいつもすっと眠りに落ちる。
不思議と昼寝だけは寝つきがよく、夜のようにどれだけ努力しても眠れない感覚とは正反対。でも、その安らぎも長くは続かず、おそらく三十分ほどしか眠っていなかったはずで、目を覚ましたときには少しだるさが残り、体の芯がどこか空っぽになったような感じがしていた。
がたんごとん……がたんごとん。
ベランダ越しに博多駅の方から電車の音が響いてくる。
加速していくそのリズムが、窓を開けたままの部屋にいつもより鮮明に届いていた。ベッドに横たわりながら、ぼくはただ天井を見つめていた。
とくに何かを考えるでもなく、ただ音の波に揺られているだけだった。
九月半ばとはいえ、福岡の夏はまだしっかりと居座っている。
湿気を含んだ空気がじっと肌にまとわりつくようで、体が汗ばんでいるような気がした。エアコンをつけようかと迷ったが、いやいや、と自分を制して、手探りでそばにあるはずのスマホを探した。
指先が硬い感触を捉えると、中指と人差し指でそれを引き寄せる。
画面には、14時26分とだけ表示されている。相変わらず通知は何もない。
そのままアプリをそっとタップし、自分のアカウント『透海(すかい)様の何でも屋』を開く。投稿やコメント、メッセージを慣れた手つきで確認するが、いつもと変わらない空白がそこにあるだけだった。
「今日も、何も起きないか…」ぼそりとつぶやいた声が、自分の耳に低く響いた。
画面を閉じ、息を吐きながら「まぁ、いつものように配信か…」とつぶやき、ベッドから体を起こす。
立ち上がった瞬間、ぬるい風が頬を撫でた。その曖昧な感触が、ぼんやりとした意識をゆっくりと引き上げていく。
いつも目覚めるたびに感じるのは、ただ自分が生きているという事実。
それだけは確かで、それ以上の何かをつかもうとする気負いは、ぼくにはなかった。
洗面台で顔を軽く洗い、ちらっとだけ鏡を覗く。
自分の顔を見るのは、いつもほんの数秒。それ以上じっと見つめるのは、どこか自分を追い詰めるような気がして、ぼくはすぐに視線をそらしてしまう。
口の中の不快感を消したくて、歯ブラシに歯磨きを落とし、それを口に放り込むと、そのまま洗面台を離れた。
歯を磨きながら、デスクの前に腰を下ろし、平たくのっぺりとしたノートパソコンが静かに眠っている。ぼくはそれを開き、電源ボタンに軽く指を置く。
ほんのわずかな力を加えると、ごおん、と短い音が立ち、画面が起動する。
その音に特別なにかを感じることもなく、ただ、がしがし、と歯ブラシを揺らし続けた。
デスクトップが明るく浮かび上がるのを見つめながら、ただ手を動かし続けた。奥歯に歯ブラシを押し付けるたび、顎の奥にじんと重たさが広がる。
泡が口の中にもぞもぞと溜まり、限界まで口に泡をためてやろうと思った。
唐突に体を起こし洗面台へ向かい、鏡を見るのは避けようと努めながら、口を何度かゆすぎ、ついでに顔もさっきより丁寧に洗った。
タオルで顔を拭いていると、ふと鏡に映る自分と目が合ったので、その瞬間、軽く息を止めて視線を逸らし、短く息を吐き出すようにつく。
タオルを首にかけたまま部屋に戻り、目の前にクローゼットが見えると、自然とその前に立ち、扉に手を伸ばしていた。
「そっか、今日は配信だしな…」
さすがに部屋着のままではと思い、その場で服を脱いだ。
選ぶ服は決まっている。綿百パーセントの白いスタンドカラーシャツと、黒のワイドイージスラックス。どちらも洗いを重ねて馴染んでおり、ゆったりとしたシルエットがいつものルーティンだ。
同じものを数着揃え、着ては洗ってを繰り返している。
シャツのボタンは窮屈だから一番上だけは外す。
スラックスはドローストリングタイプで、腰骨あたりで軽く紐を結ぶだけ。
体型は痩せ型だが、ぼくはラインが目立つ服は好まない。身なりを通して、個性やアイデンティティーのようなものを表に出すより、静かに隠す方が今は心地よかった。無彩色の服を選び、それが社会の中にひっそりと溶け込める気がしていた。
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