何に祈っても無駄なことは知っている

朝桐

何に祈っても無駄なことは知っている(SS)


 神様はいない。

 夢は叶わない。

 何に祈っても、無駄なことは分かっている。


 現実は生温い絶望だ。

 窒息しそうな日々が続いている。延々と、延々と。

 毎晩、緩く首を絞めて、まだ生にしがみついているのかと自問する。


 馬鹿みたいだ。


 結局、死に損ないが生きている。

 生命を全うすることが苦しいのに、生命を絶つことを恐れる。

 中途半端な生き物が、横たわり続けている。胸の内で、ずっと。


 


 田舎というものは、生まれも育ちも東京の私からすると、死んだ街のように思える。

 夜は特にそうだ。何の音もしない。果てない静寂が海のように茫洋と広がっている。

 都会から越してきたばかりの頃、私はこの夜が苦手だった。

 孤独が浮き彫りになるようで怖かった。圧倒的な静けさを前に、太刀打ちできることなどなかった。

 東京は眠っていても騒がしい街だ。特に私が住んでいたアパートは、すぐ近くに銭湯があって、絶えずその音が響いていた。人々の活気、生命の躍動、営みというものを鼓膜や皮膚で感じることができた。音の膜が私を包み、窓から差し込む外灯の眩さが人工的な月光のようなものだった。


 だが、田舎に移り住んで私の生活は百八十度変わった。

 まず車がなければ何処にもいけないことを痛感した。車必須の社会というものは、自らの足で歩き回って、どこへでもいけた私から自由を奪った。お気に入りのパンプスで、お気に入りのピアスをつけて、街へ繰り出して飲み歩くこともできなくなった。私が愛したジャズバーも名曲喫茶も、この土地にはない。

 剥奪されたことは他にもある。気の置けない友人と気軽に会うことができなくなったこと。カフェにパソコンを持ち込んで執筆作業ができなくなったこと。ジャズイベントなど音楽の祭典に容易に行けなくなったこと。指折りで数えれば、大した数ではないのかもしれない。それか、私の脳からもう零れ落ちてしまった何かがあまりにも多くて、覚えていられなかった可能性もあった。


 車を運転できない事情があって、人より脆い私は、一体どこへ行けるのだろう。

 行けるとすれば、それは小説のなかだけだ。

 小説のなかなら、私はどこへでも行ける。

 それだけをよすがにして、私は生きているというのに、神様は無感情だった。


 どうか与へてください、と希っても、神様は一度たりともわたくしにお与へにならなかった。


 小説の神様に愛されたかった。

 その祈りだけが、私の中に切々と響いている。

 風前の灯火のような祈りだった。

 蜘蛛の糸よりも頼りのない、祈りだった。


 消えてしまえば、切れてしまえば、あとにまつのは底無しの地獄だ。


 だが今私がいるこの茫漠とした地と、地獄と、一体何が変わるというのだろう。

 温度が違うくらいだろうか。ここは常温の絶望が広がっていて、地獄はきっと灼熱の温度の蝕みだ。

 まだ私は生きた人間なので、常温の絶望くらいなら肺呼吸できる。


 それでも。

 救いなどないこの地で、私はどう生きればいいのか。

 白昼夢のように思案することがある。答えは出ない。

 ただ救いがあるとするなら、生の答えが出ない人間なんて、ごまんといることだ。


 共に呼吸困難になりながら生きよう。

 今を苦しむ、同志たちよ。


 微かな喜びを見つけて、繋ぎ止めていこう。

 たぶんそれが、今の私達に必要なことだから。



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何に祈っても無駄なことは知っている 朝桐 @U_asagiri

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