第12話 西洞院通

 西洞院通にしのとういんどおり下立売しもだちうりの屋敷に移ってみれば、そこは思った以上に宏壮こうそうな公家風の屋敷で、絵を描くにもかなりの余裕がある。ただ、どう見ても三十路みそじ手前の若者がひょいと買うような屋敷ではない。あれだけ描き続けたのも納得がいく。


「言うたやろ、私こないな暮らしがしかったんや」


 狩衣姿の為恭ためちかに屋敷の中を案内され、綾野はその中で呆然と立ち尽くしていた。


「これ……本当に貸して下さったんですか」


 綾野は目の前に掛けられた双幅そうふくの『中将姫ちゅうじょうひめ絵伝えでん』を震えながら指さした。


当麻寺たいまでらって、この伝説の姫様をまつってるところですよね」


 継子ままこいじめに遭っても仏心ぶっしんを忘れず、一夜にして当麻たいま曼荼羅まんだらを織り上げた。そういう姫君の伝説がある。


「うん、そこの和尚さんにええなあ言うたら、ええよて貸してくれたわ」

「は……」


 意味がわからない。寺で大事にされている掛軸ではないのか。そんなに気軽に貸し借りしていいものだろうか。

 為恭の影響力を下に見積もりすぎていたのかもしれない。

 考えてみればあちこちの古刹こさつ名刹めいさつ、公家の屋敷にも気楽に出入りし、門跡もんぜきである親王とも気安く話す。

 もしかして自分はとんでもない人物と関わっているのか。今更ながら綾野は頬を引きらせた。


「綾野も着てみ、ほら」


 そうしている間に、さらりと着物をがれ手早く狩衣が着せられる。それでも呆然としたままの綾野を見、為恭がにんまりと笑った。


似合におとるなあ。髪結うとらんから烏帽子えぼしは勘弁したる」

「はっ……え? なんだこれ、いつの間に」


 狼狽うろたえる綾野はそのままでと止められる。為恭が画帖を取り出した。


「立ったままでええ。そろそろ月も出る頃や。空ぁ見とおみ」


 母親似だという綾野の顔は整って美しく上背うわぜいがある。狩衣も似合っていた。

 そこへ水干すいかん姿の子がぱたぱたと駆け寄ってくる。


「師匠、僕は? 僕も似合におてる?」

有美ゆうび似合におとる。ええなあ、描きたなるわ」


 最近、出入りし始めた小さな弟子は為恭の従兄弟いとこ田中たなか有美ゆうびという。やはり絵師の血は争えないものらしく上達が早い。


「僕も描きたい。おふたり並んだとこがええな」

「へ?」

「ええで。ほら綾野、こっちで有美ゆうびに描いてもらお」


 為恭と綾野が並んだところは中々に絵になる様子だった。

 ひとしきり互いに互いを写し、さすがに子どもは疲れたらしい。有美ゆうびがとろとろと夢見心地な顔になってきた。


「有美、今日はもう終いにし」

「うんん……ねむいぃ」

「泊まってったらええ。家には言うておくから」


 綾野が有美を寝かせて戻ってくると、為恭はとろけそうな顔で空を見上げていた。


「綾野、ええ月やなあ」

「はい」


 描き散らした紙を手に顔を上げると為恭が綾野を見ていた。


「刀傷か?」


 ぴたりと綾野の手が止まる。


「私は綾野のことをよう知らんな」


 言ったきり為恭はまた空を見上げた。いずれ訳ありの身の上だと察してはいたのだろう。話さなくてもかまわないと為恭の背中が言っていた。


「……為恭様、どうかそのままで」


 いつか為恭には話そうと思っていた。

 だが話すことで傍にいられなくなるならこのまま姿を消そう。そう思った。綾野の気配が夜に溶けていく。


「俺は甲賀こうかの出です。里を出た理由は話せませんが、そのことで為恭様に迷惑をかけるつもりはありません」


 今は絵を描くことが面白くて、為恭の傍にいられることが嬉しかった。


「為恭様の弟子になって本当によかったと思ってます。もし叶うなら、どうかこのままお傍に置いていただけませんか」

「……綾野」


 こんな優しい声で名を呼ばれたことがない。綾野は覚悟を決めて顔を上げる。


「また狩衣着てほしなあ。今度は髪もちゃんと結うたるからな」


 そう言って為恭がいつもの妙な笑い方をした。


 翌朝、有美ゆうびを家に送っていった後、綾野は画室で白描画はくびょうがを見つけた。三十六歌仙さんじゅうろっかせんは、このところ為恭の気に入りで依頼の絵でもよく描いていた。


 この墨の線だけで描かれる白描画はくびょうがが夜ごと一枚ずつ増えていく。描いてみせろと言わんばかりに朝になると必ず置かれている。

 朝、画室に置かれたそれを見つける度に綾野はぎりぎりと歯ぎしりをした。為恭の絵を見るのは好きだが、見ていると自分がどうしようもなく下手に思えてくる。

 横に並べた同じ歌仙の、自分が描いたものだけ色褪せて見えるのだ。


 形は描けるようになってきたが、なぞっているだけに見えて納得できない。どうやったら叙情的な気持ちを表現できるのだろう。この繊細で優美な線はどうすれば描けるのだろう。

 十年描いているのに全く追いつける気がしないのが悔しい。それでも綾野は必死に為恭を追いかける。


 厳しくも嬉しい画業の日々ではあったが、禍福かふくあざなえる縄のごとしという。

 人の世というものは、よいことばかりが続くわけでもなかった。

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群青の雲 kiri @kirisyu

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