第12話 西洞院通
「言うたやろ、私こないな暮らしがしかったんや」
狩衣姿の
「これ……本当に貸して下さったんですか」
綾野は目の前に掛けられた
「
「うん、そこの和尚さんにええなあ言うたら、ええよて貸してくれたわ」
「は……」
意味がわからない。寺で大事にされている掛軸ではないのか。そんなに気軽に貸し借りしていいものだろうか。
自分は為恭の影響力を下に見積もりすぎていたのだろうか。考えてみればあちこちの
もしかしなくてもとんでもない人物と関わっているのかもしれない。今更ながら綾野は頬を引き
「綾野も着てみ、ほら」
そうしている間に、さらりと着物を
「
「はっ……え? なんだこれ、いつの間に」
「立ったままでええ。そろそろ月も出る頃や。空ぁ見とおみ」
母親似だという綾野の顔は整って美しく
そこへ
「師匠、僕は? 僕も
「
最近、出入りし始めた小さな弟子は為恭の
「僕も描きたい。おふたり並んだとこがええな」
「へ?」
「ええで。ほら綾野、こっちで
為恭と綾野が並んだところは月夜に映える姿だった。これは絵になるとひとしきり互いに互いを写す。
そうしているうちに、さすがに子どもは疲れたらしい。
「有美、今日はもう終いにし」
「うんん……
「泊まってったらええ。家には言うておくから」
綾野が有美を寝かせて戻ってくると、為恭は
「綾野、ええ月やなあ」
「はい」
描き散らした紙を集めていた綾野が顔を上げると、為恭が見返してくる。
「刀傷か?」
ぴたりと綾野の手が止まった。
「私は綾野のことをよう知らんな」
言ったきり為恭はまた空を見上げる。いずれ訳ありの身の上だと察してはいたのだろう。話さなくてもかまわないと為恭の背中が言っていた。
「……為恭様、どうかそのままで」
いつか為恭には話そうと思っていた。だが話すことで傍にいられなくなるならこのまま姿を消そう。そう思った。綾野の気配が夜に溶けていく。
「俺は
今は絵を描くことが面白くて、為恭の傍にいられることが嬉しかった。
「為恭様の弟子になって本当によかったと思ってます。もし叶うなら、どうかこのままお傍に置いていただけませんか」
「……綾野」
こんな優しい声で名を呼ばれたことがない。綾野は覚悟を決めて顔を上げる。
「また狩衣着てほしなあ。今度は髪もちゃんと結うたるからな」
そう言って為恭がいつもの妙な笑い方をした。
翌朝、
この墨の線だけで描かれる
朝、画室に置かれたそれを見つける度に綾野はぎりぎりと歯ぎしりをした。
為恭の絵を見るのは好きだが、見ていると自分がどうしようもなく下手に思えてくる。横に並べた同じ歌仙の、自分が描いたものだけが雑に見えて仕方がなかった。
形は描けるようになってきたと思う。だが、なぞっているだけに見えて納得できない。どうやったら叙情的な気持ちを表現できるのだろう。この繊細で優美な線はどうすれば描けるのだろう。
十年描いているのに全く追いつける気がしないのが悔しい。それでも綾野は必死に為恭を追いかける。
厳しくも嬉しい画業の日々ではあったが、
人の世というものは、よいことばかりが続くわけでもなかった。
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