第11話 岡田為恭

 永岳が帰った後、しばらくして為恭が戻ってくる。ひとしきり園城寺おんじょうじの話をした後、画室に入るなり言った。


「なんで伯父上が描いてはるんや」

「わかるんですか?」

「当たり前や。生まれてこの方、あの人の絵ぇ見とるんやぞ」


 為恭に永岳の話をすると、ふうん、と頬杖をついた。


「伯父上も禁裏きんり御用絵師ごようえしとはいえ土佐派や鶴沢つるさわ派の後塵こうじんはいしとるとこや。門人もんじんを育てるのも大変なんやろな」

「そうなんですね……あ、そうだ。永岳様から伝言です。手伝ったのだからこっちも手伝えだそうです」

「なんやて?」


 本来こちらが用件だったのだろう。永岳が言っていたのは二条城の襖絵ふすまえを修復する件だった。

 呼ばれて為恭や他の弟子たちと共に出かけ、初めてその場に立った綾野はそれだけで目眩を感じた。四方を美しい絵画に囲まれる。そんな目で部屋を見たことがなかったのだ。


「思たより色落ちとるなあ。ああ、そっちは破れを直してからや」


 永岳の声が聞こえているのかいないのか。綾野はまた次の部屋、次の部屋と美しい絵が続くところだけを見ていた。もっと見たい。


「綾野、感動しとる場合か。はよ手伝てつどうて」

「ええやないか。こないな場所、見ることもなかったんやろ」


 かす為恭を永岳は止めた。


小龍しょうりょう

「はい、永岳様」

「絵の具、溶いといてくれ」


 永岳が指示したのは土佐藩の河田かわだ小龍しょうりょうという男だ。今は吉田よしだ東洋とうように従って京に遊学中だという。しばらく前から永岳について絵を習っていた。


「綾野、今日は見とってええぞ。明日からはちゃんと働きぃ」


 まだ永岳の言葉が耳に入らないのか。綾野はしばらくほうけたようにその襖絵を眺め続けたのだった。

 妙心寺みょうしんじ法光寺ほうこうじ高野山こうやさん大通寺だいつうじなど、永岳の手がけた障壁画しょうへきがは数多くある。


 修復に駆り出されるたびに綾野も慣れてきた。

 もはや襖絵の豪華さや美しさにも呆然となることはない。それよりも見て覚えて、描けるようになるのだ。ひとつたりとも見逃すなと綾野は自分に言い聞かせた。


 永岳の手伝いを続け、絵巻の模写を続け、掛軸などの注文も描き、仕事は途切れない。

 その中でふいに為恭が言った。


岡田おかだ出羽守でわのかみ家の養嗣子ようししになる」


 嘉永かえい三年、春も盛りの頃だ。


「ちょうど蔵人所衆くらんどのところしゅうの株が売りに出されとってなあ。建前だけやけど養子に入らんとあかん」

「すみません、なに言ってるかわからないんですが?」


 こちらは仕組みをよく知らない。説明が足りないと綾野は怒ったように言った。

 為恭が言うには、地下官人じげかんじんの株というのは相続人がいないと売りに出されるものらしい。売買したにせよ家を相続するのだから養子に入ることが条件になる。


 新興の絵師たちはこうして身分を得ることがある。最低限の身分がなければ御所に出入りすることが叶わない。株を買うことで朝廷のしんとなり役にく。それにより初めて御所での障壁画制作などを請け負うことができるのだ。


 為恭も六月には正六位下しょうろくいのげ式部しきぶ大掾だいじょうを名乗ることになった。


「うっふふふ……うっふふふふふふふ……」


 蔵人所衆くらんどのところしゅう正六位下しょうろくいのげ式部省しきぶしょう大掾だいじょう菅原朝臣すがわらのあそん為恭ためちか寫之これをうつす


 長々と落款らっかんを書き終え、それを眺めながら笑い声が止まらない。

 これから何度もそれを書くのだろう。いちいち気味悪く笑われたらたまったものではない。


「それ、気持ち悪いんでやめてもらえますかね」

「綾野は師匠に対して失礼やな。まあ、これで御所の御用も受けられるようになったんやから許したるわ」

「その位階いかいっていうのはそこまで書くものなのですか」

「当たり前や」

 

 宮中ではそれが普通だと言われ、そういうものかと感心し、また別の謎を見つけて首をひねる。


「菅原って、なんでです? 岡田ではないのですか」

「岡田の家紋が梅やった。うじは菅原やろ」

「はあ……」


 やっと夢が叶ったと為恭は上機嫌で何枚も絵を描いていた。

 薄墨うすずみの背景に浮かぶ朧月おぼろづきながめる『大江千里観月図おおえのちさと かんげつのず』にも、『大和絵御所車図やまとえ ごしょぐるまのず』にも。この時期からの為恭の絵には長々と落款が入る。


 本当に子どもの頃からこういう世界が好きだったのだろう。こうまで幸せそうな為恭を見ていると嬉しいやら羨ましいやらだ。


 綾野はそろそろ暑くなってきた京の空へと目を向ける。今だけはその後ろに絵巻四十八巻の仕事が山積みになっているのは忘れておこう。

 そしてそれだけではなかった。しばらくすると為恭はまたも大きな驚きを持ってくる。


「綾野、西洞院通にしのとういんどおりに屋敷をうた」

「買っ……た⁉」


 うん、と嬉しそうにうなずく為恭が踊るように綾野の周りを回る。


「画室は離れの十二畳や。母屋には八畳と十畳の客室もあるし結構広い」


 株を買うのでも五十両は使ったはずだ。そんな屋敷を買う金をどこからとつっこみかけて、絵を描く他にも写本や鑑定をことごとく受けていたのを思い出した。


「もしかしてそのために依頼をたくさん受けていたのですか」

「うっふふふ……」


 例の気味の悪い笑い声を上げた為恭の口の端が三日月のように上がる。

 こんな欲深な目の為恭を見たことがない。

 もう手を入れているのかと綾野が問い返すと、倍以上の言葉が返ってきた。


「床はひのきの板張りや。道風とうふうがくも飾ったし……そうそう、当麻寺たいまでらから双幅そうふくのええ掛軸かけじくをお借りしたんや。ちょっと掛けてみよ思うててん」

「ちょっ……近い、顔が近いです!」

「昔っから憧れやったんや。絵巻の暮らしを私もしてみとうてなあ。あの世界にずっといられたら幸せや……せや、狩衣かりぎぬあつらえたから綾野も後で着てな」


 どこまで自分の好みを貫こうというのか。まさかそれを現世いまに持ってくるとは思ってもみなかった。

 為恭という男は見た目はふわふわと捉えどころがないのに、どこまでも貪欲に自分の世界を欲しがる。


 冷泉れいぜい為恭ためちかと画号を改めた時は、ずいぶんあっさりと狩野かのうの名を捨てるのだなと思った。だがそれすらも自分好みの世界に浸りたいがためだったのだろう。欲深な目のまま受領ずりょうの名も欲しいと為恭が呟く。


 面白い。

 綾野はやっと為恭をとらえたような気がした。


「なんや、綾野。そんな改まった顔して」

「為恭様がそこまで考えていたとは知りませんでした。なに考えてるのかよくわからない人だけど、傍にいてあの美しい絵が見られるならそれだけでもいいと思ってたんです。本当は欲の深い人だったんですね」

「もしかして私、けなされとるんかな」

「なんていうかようやく為恭様が人に見えた気がします。俺、為恭様が好きです」

「……綾野、私は化け物か。それに男色の趣味はあらへんぞ」


 そう言って為恭が顔をしかめた。

 そういう意味じゃない。綾野はぎちぎちと拳を握りしめる。真顔でからかわれ、ここは殴っておこうかと綾野は本気で考え始めた。

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