第10話 法然上人行状絵

「正気の沙汰ではないと思うのですが」


 次の日、開口一番に綾野はそう言った。


「『法然上人行状絵ほうねんしょうにんぎょうじょうえ』……四十八巻?」

「せや、描きあがったら知恩院ちおんいん増上寺ぞうじょうじ、それと酒井さかい若狭守わかさのかみ様に納めることになる」

「もう一度お聞きします。俺の聞き間違いでなければ、四十八巻あるものを三本ずつ描くということですか」

ちゃう、私の分も描くから四本ずつやな」


 綾野は大きく息を吐き、心を落ち着けようとした。


「今この時にですか? 春日権現の絵巻も途中なのに。無理でしょう」

「綾野、こら今日受けて明日できるようなもんやあらへんぞ。手間ぁかかって当たり前のもんや。腰えてかからなあかん」

「それはそうだろ……あっ! 昨日のがんばろうはこれだったのか?」


 いやあと為恭が目を細める。綾野は褒めてはいないとつっこみながら、頭を胃をなだめることに全力を使っていた。


「綾野にも手伝てつどうてもらうし、他のお弟子や手伝いのことは伯父上にも相談するから大丈夫やろ」

「そこまで言うからには、もう受けたんだな」

「ようわかるなあ」


 にこにこと嬉しそうに為恭が言う。

 実を言えば、頼りにされていることも楽しそうな為恭を見ていることも、綾野にとっては嬉しいことなのだ。いつまでかかるか見当もつかないのに、こうしているとなぜか軽々とできそうな気がしてくる。


「わかりました、描きましょう」


 うっかりと言ってしまった。


「綾野はそない言うてくれる思とったわ」


 為恭は満足そうにうなずく。

 言ってから、それしかなかったなと綾野は苦笑を浮かべた。

 為恭の元にいると描く手を止める暇がない。

 ともあれ先の仕事であった『春日権現験記かすがごんげんげんき』の模写は、二年の月日と大勢の絵師の手を費やして完成した。この五月に紀州藩主、徳川とくがわ治宝はるとみに献上されたという。

 それから息つく間もなくの絵巻の模写だ。そのうちにも為恭はいくつかの依頼を受けている。


「誰ぞ、おらんか」


 止められない手を動かしていた時だ。

 綾野の耳に永岳と、それに応える織乃おりのの声が聞こえてくる。部屋へ通してくれたようで、ひょいと永岳の顔がのぞいた。


「すみません、すぐにお迎えに出られず」


 筆を片付けながら綾野が言うと、永岳はひらひらと手を振った。


「いや、かまわん。描いとったか」


 気安く言い、あちこちと視線を飛ばす。

 今日はまだ永岳が世話をしてくれた弟子たちも来ていない。


「近くまで来たから寄っただけや、気にせんでええ。あいつはどうした」

園城寺おんじょうじに行ってます」


 たずねた永岳に綾野はそう返した。


聖護院しょうごいん嘉言よしこと親王しんのう様のめいで出かけました」

「そうか」


 園城寺の黄不動きふどうを模写してきてほしいと頼まれたのだ。聖護院も不動明王ふどうみょうおう本尊ほんぞんだからだろうか。

 いや、それよりもと綾野は首を捻る。

 不思議だったのは依頼の理由より、聖護院門跡もんぜきと気安く話していた為恭のほうだ。


「あいつはあちこちの寺や神社に入り浸りやったからなあ。もちろん聖護院もや。親王様がふたつ上やったかな、あちらは年の近い者と会うこともあらへんやろし仲良うなったんやろ」

「はあ」


 永岳もか。親王とは仲良くなったで話を終えていいような身分ではない気がするのだが。綾野は返事に困り眉を寄せて唸った。


「ほんで? お前はなにを描いとるんや」

「『法然上人行状絵』です。いない間も進めておけと言われてますので」


 永岳は手元をのぞき込むと、ふむ、と言ったきりしばらく動かなくなった。


「綾野、ちゃんと毎日描いとったんやな。上手うまなっとる」


 そう言ってくれるなら少しは成長できているのか。


「ありがとう、ございます」


 褒められるということは嬉しいものなのだなと胸の辺りが温かくなる。この世界が受け入れてくれたような気がした。

 それを噛みしめていると、ぷん、と墨の匂いが立つ。目を向けると永岳が墨をっていた。


「永岳様? なにしてるんです」


 墨を磨り終わった永岳はかまえることなく筆を持つ。あまりにも自然で綾野も止める暇がない。


「儂も描く」

「は?」

「いや、仕事が落ち着いて暇なんや」


 暇だからで絵を描くのか。

 そもそも永岳に描かせていいものかわからない。綾野は混乱の末、少しばかり腹を立てた。確かに皆が総出で描いている絵巻なのだが相手は京狩野の当主だ。そんな人においそれと描けなどと言えるものか。


「なんぼでも描いたがええやろ」

「それはそうですが」


 さっさと描き始めている永岳が止まる様子はない。綾野も諦めて永岳をそのままに模写の続きを描くことにした。

 しばらく画室の中は墨の匂いとかすかな筆の音だけになる。

 綾野はひと区切りつくところまで描き終えた。まだ描いている永岳を置いて部屋を出る。そろそろ理由を話してくれる頃合いだろうかと、茶の用意をして永岳に声をかけた。


「それで永岳様、本日はなぜこちらに?」

「やまと絵を習おおもてな」


 綾野は言葉の意味をとらえかねる。


「真面目な話や。このままやと京狩野が……ちゃうな、儂が終わる」


 本朝画史ほんちょうがしには「狩野家はこれかんにしてぬる者なり」という一節いっせつがある。

 それを書いた京狩野三代目さんだいめ永納えいのうの言葉通り、和漢の絵画をひとつにまとめたものが狩野派の特色だ。


「京狩野は室町以来の狩野派の正統や。そら自負しとる。せやけどな、そんだけではどもならんのや」


 代々、京狩野の当主は画家の頂点にいることに自覚的だ。だが今は伝統的な絵よりも特色を持った新興の絵画派が台頭たいとうしている時代なのだ。

 それらの画風をも取り入れている永岳はそれでも足りないと言う。だから学ぶのだと。


「京狩野は血筋よりも画力を元に家を継承してきた。儂の代で終わりちゅうわけにもいかんしなあ。学ぶ手ぇを止めたらあかん思とる。まあ、なんでも描いとったら今後も絵師としてやってける見当もつくやろ」


 軽い調子の言葉の奥底にとてつもない覚悟を感じる。


「こらあかん。しょうもない愚痴、聞かせてしもたな」


 綾野はそれに首を振る。

 自分だけのことではなく京狩野の未来までも見据えた、これが九代目を名乗る男の矜持きょうじかと綾野は身震いした。


「永岳様、俺もっとがんばります」

「急にどないした」


 永岳が大きく笑う。


「俺も学びます。美しい絵が見たいだけで入門したようなものですけど、それだけじゃ足りない気がしてきました。もっとたくさん勉強します。もっと描けるようになりたいです」

「そうか」


 柔らかい笑みを浮かべた永岳が、そう言ってうなずいてくれた。

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