第9話 為恭と一惠

 為恭は本気で模写を断るわけつもりではないだろう。絵を描くのがなによりも好きなのだから。これは浮田のことでそう言っているのか。

 為恭が止めていた足をのろのろと動かし、ぼそぼそと呟く。


「やっぱり、あの人の絵はあんまり好きになれんわ」

「俺は為恭様が言うほどではないと思ったんですが」


 それを聞いた為恭は考え方の違いなのだろうと言った。


「綾野はあの模写、どう見た」

「そうですね……少しこぢんまりとしているように感じましたが、元の絵に忠実に細かいところまで丁寧に描かれていたと思います」

「せやな、あの人は確かに上手いし真面目な人や。やまと絵は緻密ちみつに描く部分も多い。そんでもなあ、私はやまと絵いうのはもっと伸びやかなものやろて思うんや」


 同じ方角を向いているようで向いていない。そこが為恭の心に引っかかるのだろう。


「やめとこ。ただの愚痴ぐちや。私は師匠にやまと絵をなろたわけやあらへんから、そない思うんやろ」


 綾野の肩をぽんと叩き、振り切るように言う。


「心配そうな顔せんでええ。仕事はちゃんとする」


 本当にそうするだろうかと綾野は少しばかり不安になったが、翌日からの為恭は言葉どおり熱心に模写に取り組んだ。熱心すぎて心配になるほどだ。

 綾野は為恭の様子と絵の進み具合を計る。放っておくといつまでも描き続けるので、きりのいいところで声をかけなくてはならない。


「為恭様、そろそろ休憩されてはいかがですか」

「……ん」


 こういう時こそ目が離せないのだ。綾野は墨に向かった為恭の手を掴む。


「先日倒れたのを忘れたのですか。続きはなにか召し上がってからにしてください」


 不満そうな為恭の手から筆をもぎ取り、代わりに握り飯を渡した。

 むすっとしながら立ち上がる為恭を見送って綾野はようやく息を吐き出す。戻ってきたらすぐに使えるように筆や絵皿えざらを揃えていると横から声がした。


「お弟子さんも大変だねえ」

「浮田様のようにおひとりで何でもこなせればいいのですが。為恭ためちかは好きなものとなるとこうですから」


 綾野はそう言って浮田に苦笑を返す。


「それでも美しい絵が見られるなら、お世話をするのも苦ではありません」

「いいお弟子さんが付いていてくれるから安心しているのだろうね」


 そんなことはないと綾野は恐縮きょうしゅくして頭を下げた。


「……私も永恭さんとそりが合わないのは自覚しているんですよ。まあ、考えが違うのでしょうから仕方がないのだとは思いますが」


 浮田が少し照れくさそうに言って苦笑した。

 そこは綾野も不思議に思う。綾野と浮田の関係は悪くない。むしろ浮田からよく声をかけてくれる。

 浮田うきた一惠いっけいは田中訥言とつげんに弟子入りし土佐派の絵を学んだのだそうだ。

 訥言の模写した『伴大納言絵巻ぱんだいなごんえまき』のうち一本を与えられ、師に忠実に仕えたのだと聞く。有職ゆうそく故実こじつをはじめ、国学、水戸学なども学ぶ努力を惜しまない。

 同じようにやまと絵を描き、有職も学んだというのに為恭とはなぜか相性が悪い。外で聞く浮田は豪快ごうかい熱血漢ねっけつかんという姿だが、為恭相手にはなぜか狭量きょうりょうだ。


「私は古画の精神をひたすらに写すことが肝要だと思っているんですよ。自分の心を抑えてでも古画に向き合う努力をしなくてはならない。そこから初めて自分の絵というものが現われてくるのです」

「それが浮田様のやまと絵に対するお考えなのですね」


 それが浮田の習い覚えた絵画への向き合い方だとすれば、為恭が描く基本は狩野派の教えということになるだろう。

 画派の様式をひたすら写すことで自己を見出した浮田にしてみれば、自分の持つ技術をなんでも入れ込んでいくような為恭の描き方は異質に見えるのかもしれない。

 少し語弊ごへいのある言い方かもしれないが、為恭の吸収の仕方は有職ひとつをとっても自由で大らかだ。好きなものをあちこち摘んでいるだけに見えて密度は異様に濃い。

 やまと絵というものに別の方向から辿り着いたから相容れない。そんなこともあるのだろうか。


「綾野、戻った。もう描いてええやろ」

「おかえりなさいませ為恭様。そんなに急がなくても。ああほら、飯粒めしつぶがついてます」


 綾野は戻ってきた為恭に小言を言い、取った飯粒を自分の口に入れた。こんなところは弟のように手がかかると手拭いを取りだす。


「大事な絵巻にこぼしたらどうするんですか。きちんとしてください」


 つい年下の子どものように扱ってしまった。綾野は途中でそれに気づいたが今更手を止めることもできない。為恭が黙って顔を拭かせてくれたので素知らぬ顔を通す。


「仲がよろしくてええですなあ」


 誰かの弟子の妙な声音が飛んでくる。それには曖昧あいまいな笑顔を返し、綾野は小さな声で為恭に謝罪を告げた。

 そんなことを繰り返しながらも絵巻は着実に仕上がっていく。

 最近は綾野も為恭の傍で画帖がちょうに写している。

 見て覚えておけるからと、模写が始まった頃は帰ってから画帖を広げていた。だがそれならここで好きなところを写せと言われ、それからは為恭の隣で画帖を広げている。

 本来なら浮田のようにその流派の手本を写すものだろう。

 好きなものなら画派も問わないという為恭の教え方は少し変わっているのかもしれないが綾野には合っていた。美しい絵に向き合えるのは、なによりも嬉しいことになっていたのだから。

 その日は綾野に筆を任せると為恭に言われた。


「ほな、私は少し休んでくるわ。ここ色つけといてな」

「俺がですか? いいんですか」

「かまへん。これやったら線画がでけとる。色は綾野がやってみ」


 それは少なくとも人前に出せると為恭によって保証されたと言っていい。

 部屋を出る為恭を見送り、席を替わる。言われたとおりに彩色を始めた。綾野は緊張で体がこわばるのを覚えながら筆に色をとる。描き終わって、詰めていた息を吐いた。


「お弟子さんも描かれるのですか」

「浮田様。勉強させていただけと為恭様がおっしゃってくださって。ありがたいことだと思っています」

「そうですか。お弟子さんは有職ゆうそく故実こじつも学ばれたのですね」

「宮中の作法のことですよね。あれはなかなか難しいです」


 さすがにあの細かいきまりを覚えきるのは難しい。覚えた部分はまだまだ少ない。


「その作法に従って儀礼を行うことが宮廷人の大事なお勤めだったのですよ」


 宮中のことは先例を知らなければ儀式のひとつも行えない。

 それを知るための手がかりが有職故実ゆうそくこじつというものだ。儀式、官職、服飾など専門的に細分化されたものまであり、要するに公家の約束事についてまとめられた手引書と言っていい。高倉家のようにそれを教えることを仕事とする家もある。


「まだ覚えていないのならもう少し勉強したほうがよいのではないですか。きっといいものができると思いますよ」


 うっ、と綾野は言葉に詰まった。確かにそれを覚えていれば自分が模写をする際にも有用だろう。

 剥落はくらくした部分を想起するのに為恭の手をわずらわせることもない。むしろ確認できる分、正確さが増すだろう。


「それは描きながら覚えてけばええておもてます」

「為恭様!」


 ふてぶてしいほどの確信を持った為恭の声が聞こえた。今日に限って妙に圧倒される。

 浮田の模写と絵皿の絵の具を見ていた為恭がぎちりとにらむ。


「浮田様こそ、なんでそないな色なんです」

「私はいつも絵巻の通りに模写しておりますよ。元の絵に敬意を払っておりますからな」

「そこはもっと鮮やかな色やと思います」

「どこがですか。聞かせていただきましょう」


 浮田が筆を置いて為恭に向き直った。

 元はと言えばお前のことだと綾野の胃のが自らをなじる。これはどうやって間に入ればいいのか。


「そもそも復元して往事おうじを学ぶ為の模写なんやから、その時に描かれた気風きふうを写さなあかんのではないですか」

「ここは同じ色で描きましたよ」


 為恭はふるふると首を振った。


「そんな拙い色やあらへんでしょう。この時代の公家の心を大らかに表したほうがええのとちゃいますか。線画もそれに合わせたがええと思います」

「模写はあくまでも模写ですよ。それ以上は永恭さん個人の絵です。模写はもっと自分を抑えて元の絵に忠実に描かなくてはなりません」

「そらわかってます。けど模写の範囲でも豊かな線で描くことができるはずや」


 日頃の鬱屈が爆発したように為恭が拳を握る。

 それをひと睨みし、今日はこれでと浮田が席を立った。


「絶対、ちゃう……もっとあでやかな色使つこたやろ。春日権現やぞ、神様なんやぞ。敬意を持っとるんやったら、もっと綺麗な色で仕上げたんやないんか。なんや、あのうっすい色。もっと重ねなあかんやろ。やまと絵は、もっと美しいもんや」


 涙目で呟く為恭は最後には項垂うなだれてしまう。

 なんと声をかけたらいいのか。綾野は自分の不甲斐ふがいなさと申し訳なさで言葉が見つからない。


「為恭様、今日はもうしまいにしましょう」


 綾野はなんとかそれだけを言った。

 こくんとうなずいた為恭がのろのろと立ち上がる。


「俺のせいで浮田様と争いになってしまって申し訳ありません。もっと勉強して有職ゆうそくも覚えます。だから為恭様の傍で美しい絵を見せてください」

「綾野、おおきにな。ちょっと心かるうなったわ」


 帰り道、そう言って空を見上げた為恭は、明日からがんばろうと綾野に微笑んでくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る