第8話 春日権現験記絵巻

 玄関前でおとなうと、すぐに中へ通してもらえた。

 長沢と対面する永恭えいきょうに綾野は胸の内で手を合わせる。普通の挨拶を頼むぞ。


狩野かのう永恭えいきょう改め、冷泉れいぜい三郎さぶろう為恭ためちかと申します。伯父の京狩野きょうがのう九代目、狩野永岳えいがくより、紀州藩のご関係の方からご推挙いただいたと伺いました。よろしゅうお願い申します」


 耳を疑うくらいに真っ当な挨拶だった。拍子抜けするほどに折り目正しい。綾野はそこにばかり気を取られていて画号が変わっていることには遅れて気づいた。


冷泉れいぜい為恭ためちか殿か、こちらこそよろしく頼みます。一度お会いしたことがありましたな、あれからもだいぶ描かれていると伺いました」

「私などまだ未熟やのに、そない言うてくれはるとはもったいないことです」


 にこやかに長沢と話をする永恭えいきょう……もとい為恭ためちか

 画号を変えるなら言っておけと綾野は口の中で文句を言った。


「なんぞ言うたか」


 振り向いた為恭に向かって綾野は頬をふくらませる。


「別に」


 そうかと首をかしげながら為恭が長沢に向きなおる。


「長沢様、これは私の弟子で綾野と申します。若輩者に弟子など過分なことやとおもてますけど、この者も一緒に勉強させてやりたいのですが」

「そうでしたか。有職を学ぶことも、やまと絵が描かれることも今はあまりに少ない。学ぼうとする意欲は歓迎しますぞ。どうぞ存分に」


 長沢と為恭ためちかは宮中の行事や春日権現の絵についてしばらく語り合っていたが意気投合したらしい。


「もう線画が仕上がって彩色さいしきも始まっているのもあります。見ていかれますか」

「そら、ええですね。お邪魔してもよろしやろか」


 いつの間にかそういう話になっていた。


「ほら、綾野も」


 目を輝かせ頬を紅潮させる為恭ためちかに綾野もうなずく。長沢の案内に続いた。ふすまの奥から絵を描いている場のりんとした空気が届く。

 その心地よい感覚は襖を開けた途端に一変した。


浮田うきた様」

「おや、狩野の……永恭えいきょうさんでしたかな」


 為恭ためちか得手えてではないのがこの人か。そう思った瞬間、綾野の胃はきゅっと縮みあがった。


「ただいまは冷泉れいぜい為恭ためちかを名乗らせていただいとります」


 ふん、と鼻で笑う浮田を見て、互いにかと綾野は頭を抱えた。浮田もいい年をして大人げない。為恭とは親子ほど年の差があるだろうに。馬が合わないとはこれほどか。


「もう描かれていたのですね。私もはよう描きたいです」

「二十巻もありますからね。慌てずとも年寄りの我々以上にたくさん描けるでしょう」

「模写をされるかたのお名前を伺ったとこ、大家たいかの方ばかりやないですか。足ぃ引っぱらんよう精一杯やらせていただこおもてます」


 永岳に釘をさされた為恭は彼なりに努力をしている。そこは汲み取れるのだが、あまり成功しているとは思えない。話すごとに言葉の裏に毒が混じる気がする。会話の端々はしばしにびりびりと緊張が走る。

 文句は後で聞くからと綾野は自分の胃をなだめた。


「ええ場面とこ描いてはるなあ」


 為恭の目が向けられていたのは模写ではなく元の絵巻だったようだが、綾野はそれを模写のことだと思った。後ろからからこっそりのぞき見る。

 それは原本の色落ちしたところをも補完して美しく彩色されていた。


 普請ふしんの様子が細やかに描かれていて、なにか指図さしずをしている男は棟梁とうりょうだろうか。水平を測る者、材木に目印を付けたり加工したり、木屑きくずを運ぶ子どもたちまで忙しくも嬉しそうだ。

 次の場面では竹林ちくりんの上に女性が現れる。それが春日大明神だいみょうじんだという。


 絵の様子を聞きかじりなから、綾野は為恭をそっちのけで絵に見入っていた。うっかり、吐息と共に声が出る。


「美しいなあ」


 言ってしまってから、でしゃばって声を上げていいところではなかったと気づいた。綾野は慌てて畳に額をりつける。


「どちらさんかな」


 仲立ちをしろと言われていたのに自らが不審の種になってどうする。綾野の臓腑ぞうふが盛大に悲鳴を上げた。冷や汗が吹き出る。

 すかさず為恭ためちかが謝罪を口にした。


「私の弟子です。すんまへん、いきなりお声をかけてしもて」

「かまいませんよ、お弟子さんもご覧になるといい。よい機会ですからな。ねえ、永恭さん」

「ありがとうございます。浮田様がご迷惑やなかったら」


 はりついたような笑顔のまま為恭ためちかが綾野を振り向く。


「見せてくださるそうや」

「ありがとうございます、では少しだけ」


 掠れた声でそう言って綾野は前に進み出た。

 木々のひとつを取ってもねじくれたような枝振りではなく、清々しい程のびやかに天を目指す。

 優美な絵を前にすると、それまでのことがどこかへ消えていく。浮田が写した絵も美しいと綾野は思った。


「あのう、ひとつお聞きしてもかまいませんか」


 先に目を向けた為恭ためちかに顔をそむけられ、綾野は仕方なく浮田に問うた。

 描かれてから時間が経っている元の絵巻は、色がげ落ちたり、欠けていたりする。それでも仕事に精を出す人々の声が聞こえてきそうだ。屋敷の中の人からは華やかさや美しさが伝わってくる。

 綾野はその元の絵巻と、浮田の写しを交互に指して言った。


「これ、元の絵では絵の具が剥がれたりして見えない所もありますよね。そこも描いていらっしゃいますし、色も鮮やかに塗られているのはどうしてですか。なぜそのままを描かないのですか」


 以前あった江戸の法印ほういんからの依頼では、絵の具の落ちたところから紙が切れた所まですべてそのままに写した。模写というものはそういうものと思っていたのだ。


「お弟子さんはこの手法をご存じないのですか」

「はい、恥ずかしながら弟子入りしたばかりでして。為恭様にはこれからたくさん教えていただきたいと思っております」


 そうですかと浮田は微笑んだ。


「これは長沢様にお話しいただくのがよろしいかもしれませんな」


 そう言って浮田が長沢に顔を向けると、わかったと首肯しゅこうした長沢が話しだした。


一位いちい殿とののご所望しょもうなのですよ。殿は有職故実ゆうそくこじつの研究に熱心で、絵巻物語を解釈することで古典を理解したいお考えなのです」


 そのために模本もほんを手に入れたいのだと長沢は、嬉しそうに誇らしげに徳川とくがわ治宝はるとみめいを語る。


「ですから、この絵巻もできるかぎり元の姿に戻すように写しているのです」

剥落はくらくしたまま一部分だけを模写したものでは、ご自身の考察の助けにはなりがたいということなのでしょう。それにこの先、火災で消失して見ることさえ叶わない。そんなことも絶対にないとは言えないですからね」


 浮田が長沢の話を補完し、綾野に目を向けてくる。

 この模本の価値は、原本を想起する頼みとなるということだ。のちに残ることも考えての模写か。綾野は深々と浮田に頭を下げ、礼を言う。


「ありがとうございました。勉強になりました。お手を止めさせてしまい申し訳ありません」


 いやいやと浮田は鷹揚おうように手を振った。


「私も永恭さんと一緒に絵を描けるのが楽しみですよ」

「ああ、それやけど……」


 話の腰を折るように為恭が声を上げ、眉尻まゆじりを下げる。


「長沢様、申し訳あらへんのですが、この後、所用しょようがありまして。描かせていただくのは明日からでもええですか」

「まあ、今日は顔合わせもできましたし。結構ですよ」


 わがままを謝り長沢の元をした為恭は、すたすたと歩き出した。


「永……為恭様、用事とは聞いていませんでしたが。っていうか名前変えるなら言っといてください。さすがに焦りましたよ」

「うん」

「為恭様?」


 いぶかしげな綾野の声に為恭がぴたりと足を止めた。あの部屋の空気を全部吐き出すかのように大きく息を吐く。


「私やっぱりこの話、断ろかおもててん」

「はあ?」


 なにを言い出すんだ、為恭こいつは。

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