第8話 春日権現験記絵巻
玄関前で
長沢と対面する
「
耳を疑うくらいに真っ当な挨拶だった。拍子抜けするほどに折り目正しい。綾野はそこにばかり気を取られていて画号が変わっていることには遅れて気づいた。
「
「私などまだ未熟やのに、そない言うてくれはるとはもったいないことです」
にこやかに長沢と話をする
画号を変えるなら言っておけと綾野は口の中で文句を言った。
「なんぞ言うたか」
振り向いた為恭に向かって綾野は頬をふくらませる。
「別に」
そうかと首をかしげながら為恭が長沢に向きなおる。
「長沢様、これは私の弟子で綾野と申します。若輩者に弟子など過分なことやと
「そうでしたか。有職を学ぶことも、やまと絵が描かれることも今はあまりに少ない。学ぼうとする意欲は歓迎しますぞ。どうぞ存分に」
長沢と
「もう線画が仕上がって
「そら、ええですね。お邪魔してもよろしやろか」
いつの間にかそういう話になっていた。
「ほら、綾野も」
目を輝かせ頬を紅潮させる
その心地よい感覚は襖を開けた途端に一変した。
「
「おや、狩野の……
「ただいまは
ふん、と鼻で笑う浮田を見て、互いにかと綾野は頭を抱えた。浮田もいい年をして大人げない。為恭とは親子ほど年の差があるだろうに。馬が合わないとはこれほどか。
「もう描かれていたのですね。私も
「二十巻もありますからね。慌てずとも年寄りの我々以上にたくさん描けるでしょう」
「模写をされる
永岳に釘をさされた為恭は彼なりに努力をしている。そこは汲み取れるのだが、あまり成功しているとは思えない。話すごとに言葉の裏に毒が混じる気がする。会話の
文句は後で聞くからと綾野は自分の胃を
「ええ
為恭の目が向けられていたのは模写ではなく元の絵巻だったようだが、綾野はそれを模写のことだと思った。後ろからからこっそりのぞき見る。
それは原本の色落ちしたところをも補完して美しく彩色されていた。
次の場面では
絵の様子を聞きかじりなから、綾野は為恭をそっちのけで絵に見入っていた。うっかり、吐息と共に声が出る。
「美しいなあ」
言ってしまってから、でしゃばって声を上げていいところではなかったと気づいた。綾野は慌てて畳に額を
「どちらさんかな」
仲立ちをしろと言われていたのに自らが不審の種になってどうする。綾野の
すかさず
「私の弟子です。すんまへん、いきなりお声をかけてしもて」
「かまいませんよ、お弟子さんもご覧になるといい。よい機会ですからな。ねえ、永恭さん」
「ありがとうございます。浮田様がご迷惑やなかったら」
はりついたような笑顔のまま
「見せてくださるそうや」
「ありがとうございます、では少しだけ」
掠れた声でそう言って綾野は前に進み出た。
木々のひとつを取っても
優美な絵を前にすると、それまでのことがどこかへ消えていく。浮田が写した絵も美しいと綾野は思った。
「あのう、ひとつお聞きしてもかまいませんか」
先に目を向けた
描かれてから時間が経っている元の絵巻は、色が
綾野はその元の絵巻と、浮田の写しを交互に指して言った。
「これ、元の絵では絵の具が剥がれたりして見えない所もありますよね。そこも描いていらっしゃいますし、色も鮮やかに塗られているのはどうしてですか。なぜそのままを描かないのですか」
以前あった江戸の
「お弟子さんはこの手法をご存じないのですか」
「はい、恥ずかしながら弟子入りしたばかりでして。為恭様にはこれからたくさん教えていただきたいと思っております」
そうですかと浮田は微笑んだ。
「これは長沢様にお話しいただくのがよろしいかもしれませんな」
そう言って浮田が長沢に顔を向けると、わかったと
「
そのために
「ですから、この絵巻もできるかぎり元の姿に戻すように写しているのです」
「
浮田が長沢の話を補完し、綾野に目を向けてくる。
この模本の価値は、原本を想起する頼みとなるということだ。
「ありがとうございました。勉強になりました。お手を止めさせてしまい申し訳ありません」
いやいやと浮田は
「私も永恭さんと一緒に絵を描けるのが楽しみですよ」
「ああ、それやけど……」
話の腰を折るように為恭が声を上げ、
「長沢様、申し訳あらへんのですが、この後、
「まあ、今日は顔合わせもできましたし。結構ですよ」
わがままを謝り長沢の元を
「永……為恭様、用事とは聞いていませんでしたが。っていうか名前変えるなら言っといてください。さすがに焦りましたよ」
「うん」
「為恭様?」
「私やっぱりこの話、断ろか
「はあ?」
なにを言い出すんだ、
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