第7話 紀州藩主からの依頼
騒がしさの予感は足早にやってくる。
久しぶりに
「綾野、お前もここにいろ」
下がろうとした綾野は永岳に呼び止められ、なんの用だろうと顔を見た。見ると困ったような笑顔が貼りついている。目だけで厄介事になるのかと永岳に問うと、おそらくと応えが返ってくる。
嫌だと言えない雰囲気に綾野は心の中だけで文句を言い、ひとり気楽な様子の
「
それならば知っている。永恭の横顔を見ながら綾野は永岳の問いに応えた。
「
「紀州藩主、
かすがなんとか? と綾野は首をかしげた。代わりに永恭が目を輝かせる。
「藤原氏一門が受けた春日権現の加護と
早口にそう言って、ずいっと綾野に顔を近づけた。
「
綾野を押し倒しそうな勢いで永恭が詰め寄ってくる。それは誰だと聞く暇もない。
「俺はそんな人知りません! 顔が近いです!」
「知らんでもええから聞け。春日大社に
「ああもうっ! 早口で言われても何のことかわかんねえんだよ!」
どたばたと永恭から逃げようとしていると苦笑混じりの永岳が言った。
「模写は
「そうですね、
永恭が急に熱が冷めたように永岳の前に座りなおした。ぽそっと、こぼすように呟く。
「私、あの人の絵はあんまり好きやないなあ」
「田中
「……」
子どもではないのだから、ふくれっ面をするなと永恭を見て眉間に皺を寄せる。それをしたのはもちろん永岳と綾野だ。
「綾野」
「……はい」
永岳の声が妙に優しい。その人たちの間で取りなすのは綾野に任せるということなのだろう。
「頼む」
永岳の言葉の裏側から
数日後、長沢の家へ挨拶に向かうことになったが先日の文句はどこへやら、駆け出しそうな勢いで永恭の足が動いている。綾野は少し落ち着けと言いたかったが、言ったところで素直に聞くとは思えない。
「綾野、早う」
「それにしてもすごいですね」
なにがだと永恭の足取りが緩くなる。
「今回の紀州様からのご依頼といい、その前の
江戸の法印、
「
「永恭様はそういう方からも頼りにされてるのがすごいです」
永恭は子どもの頃からやまと絵を研究していただけあって、それについてはかなり詳しい。描いている絵巻の数も百に
紀州藩も、木挽町狩野の当主も、永岳ではなく永恭に依頼をしてきた。そのこと自体、技量も知識も認められているということだろう。
「ふふん、褒めてもなんも出えへんぞ」
「絵はともかく永恭様は子どもっぽいとこありますからね。はしゃぎ過ぎないように気をつけてくださいよ」
「私が年下みたいな言い方やめぇや」
「ん?」
まさか年上だったのかと綾野は永恭を見た。いや、それはない。今だ肉付きがよくない、自分より頭ひとつ背が低い、この子どもっぽい性格の男が自分より年上のわけがない。
眉根を寄せた永恭が言った。
「私、文政六年の生まれやけど」
「
「ほんまにそう
とんだ勘違いをしていたと綾野は耳まで赤くなる。
それを見た永恭は晴れやかに、だが例によって気持ちの悪い笑い声を上げた。
「ま、ええわ。それより絵巻や」
くるりと綾野に背を向け永恭が跳ねるように歩き出す。
それを追いかける綾野の足取りは永恭ほどの軽さはなかった。
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