第7話 紀州藩主からの依頼

 騒がしさの予感は足早にやってくる。

 久しぶりに永岳えいがくに呼び出された。


「綾野、お前もここにいろ」


 下がろうとした綾野は永岳に呼び止められ、なんの用だろうと顔を見た。見ると困ったような笑顔が貼りついている。目だけで厄介事になるのかと永岳に問うと、おそらくと応えが返ってくる。

 嫌だと言えない雰囲気に綾野は心の中だけで文句を言い、ひとり気楽な様子の永恭えいきょうのすぐ後ろに控えた。


長沢ながさわ伴雄ともお殿いうおかたを知っとるか」


 それならば知っている。永恭の横顔を見ながら綾野は永岳の問いに応えた。


紀州きしゅう藩のかたで、今は六角ろっかく御幸町ごこまち西にしにお住まいですね。高倉たかくら家で有職故実ゆうそくこじつを学んでおられます。確か以前お会いしたことがあったと思います」

「紀州藩主、徳川とくがわ治宝はるとみ様のご依頼やそうや。『春日権現験記かすがごんげんげんき』の模写をする絵師を探してはる。お前ならどうやと話があった」


 かすがなんとか? と綾野は首をかしげた。代わりに永恭が目を輝かせる。


「藤原氏一門が受けた春日権現の加護と霊験れいげんを描いた鎌倉時代の絵巻や」


 早口にそう言って、ずいっと綾野に顔を近づけた。

 

高階たかしな隆兼たかかねが描いたて言われとる。詞書ことばがき鷹司たかつかさ基忠もとただやぞ」


 綾野を押し倒しそうな勢いで永恭が詰め寄ってくる。それは誰だと聞く暇もない。


「俺はそんな人知りません! 顔が近いです!」

「知らんでもええから聞け。春日大社に奉納ほうのうされた二十一卷の絵巻物にはなあ、当時の風俗も細かく描かれとってな」

「ああもうっ! 早口で言われても何のことかわかんねえんだよ!」


 どたばたと永恭から逃げようとしていると苦笑混じりの永岳が言った。


「模写は浮田うきた一蕙いっけい殿、はら在明ざいめい殿もご一緒や。浮田殿は前にお会いしたやろ」

「そうですね、祖父じじ様と一緒にうたことがあります」


 永恭が急に熱が冷めたように永岳の前に座りなおした。ぽそっと、こぼすように呟く。


「私、あの人の絵はあんまり好きやないなあ」

「田中訥言とつげん殿の弟子やろ。土佐派の流れでずっとやまと絵を描いてはったやないか。ああ、浮田殿にも他の方々にもきちんと応対するんやぞ」

「……」


 子どもではないのだから、ふくれっ面をするなと永恭を見て眉間に皺を寄せる。それをしたのはもちろん永岳と綾野だ。


「綾野」

「……はい」


 永岳の声が妙に優しい。その人たちの間で取りなすのは綾野に任せるということなのだろう。


「頼む」


 永岳の言葉の裏側からあきらめろと聞こえた気がして天を仰いだ。梅雨の合間の青空がうらめしいほどに輝いている。綾野は目を伏せて吐息を漏らした。


 数日後、長沢の家へ挨拶に向かうことになったが先日の文句はどこへやら、駆け出しそうな勢いで永恭の足が動いている。綾野は少し落ち着けと言いたかったが、言ったところで素直に聞くとは思えない。


「綾野、早う」

「それにしてもすごいですね」


 なにがだと永恭の足取りが緩くなる。


「今回の紀州様からのご依頼といい、その前の木挽町こびきちょう狩野がのう法印ほういん様からのご依頼といい、俺の師匠はだいぶ有名人なんですね」


 江戸の法印、狩野かのう晴川院せいせんいん養信おさのぶは旗本と同じ身分で将軍お抱えの絵師だ。しかも数ある江戸狩野の中でも上格の絵師集団の当主。そこから依頼が来た時は綾野も自分の目と耳を疑った。


有職故実ゆうそくこじつ一朝一夕いっちょういっせきに習得できるもんとちゃうからなあ。法印様も古画や絵巻をかなり描かれてはるて聞いたわ」

「永恭様はそういう方からも頼りにされてるのがすごいです」


 永恭は子どもの頃からやまと絵を研究していただけあって、それについてはかなり詳しい。描いている絵巻の数も百にせまる。

 紀州藩も、木挽町狩野の当主も、永岳ではなく永恭に依頼をしてきた。そのこと自体、技量も知識も認められているということだろう。


「ふふん、褒めてもなんも出えへんぞ」

「絵はともかく永恭様は子どもっぽいとこありますからね。はしゃぎ過ぎないように気をつけてくださいよ」

「私が年下みたいな言い方やめぇや」

「ん?」


 まさか年上だったのかと綾野は永恭を見た。いや、それはない。今だ肉付きがよくない、自分より頭ひとつ背が低い、この子どもっぽい性格の男が自分より年上のわけがない。

 眉根を寄せた永恭が言った。


「私、文政六年の生まれやけど」

二十歳はたち!? 嘘だろ……俺より三つも上なのか」

「ほんまにそうおもてたんか。私そんな子どもに見られとったんやな、悲しいなあ」


 とんだ勘違いをしていたと綾野は耳まで赤くなる。

 それを見た永恭は晴れやかに、だが例によって気持ちの悪い笑い声を上げた。


「ま、ええわ。それより絵巻や」


 くるりと綾野に背を向け永恭が跳ねるように歩き出す。

 それを追いかける綾野の足取りは永恭ほどの軽さはなかった。

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