第6話 永恭のこと

 綾野が永恭えいきょうの元に弟子入りしてしばらく経った。

 わがままを通す永恭と世間を取り持ちながら絵を習う。早く絵を習うことに主眼をおきたいと思いながら永恭のために走り回る。


 そういう永恭との暮らしぶりに綾野が慣れるのは早かった。それも永岳えいがくがよく出入りさせてくれていたからだろう。


 今は幕府が出した布令ふれひとつで騒ぎになる世の中だ。その荒波は京にも押し寄せてはいたが、そのことよりもこの家にとっての気がかりは寝ついている永泰えいたいのことだった。このところ目に見えて具合が悪くなっている。

 永恭えいきょうが画室に入っても筆を持てない様子など見ていて不安になるほどだ。


「あかんな、手ぇつけられへん。父上の具合が気になる。綾野、注文の絵も納めるのはおそなると思う」

「わかりました。ご依頼の方々の所を回ってきます。帰りになにか滋養じようのあるものでも見繕みつくろって参りましょうか」

「うん、あんまり負担にならんのを頼むわ」


 母子おやこで寝る間を惜しんで看病していたのだが、しばらくして永泰えいたいは消え入るように世を去ってしまった。

 病ゆえに覚悟はしていただろうが、ふたりの声は途絶えた。織乃にはことに堪えたらしく日に日に痩せていく。それに寄り添う永恭もまた言葉少なにひと言ふた言ぽつぽつと落とすだけだった。


 ようやく永恭えいきょうが動き出したのは四十九日を過ぎてからのこと。永泰の似絵にせえ一幅いっぷく仕上げ画室に掛けた。織乃おりのを呼び、共にその前で手を合わせている。


「母上、こうして拝んどったら父上が見守ってくれとるようで安心しますね」

「そうねえ」

「これから毎日、一緒に手を合わせましょ。元気出さんと父上に叱られてしまいますよ」


 永恭が言うと織乃おりのがうなずく。それからは少しずつ家の中に声が聞こえるようになった。

 母親が落ち着くのを待っていたのだろう。それからは以前にもまして絵の依頼を受けている。それが少し痛々しく思えて綾野は遠慮がちに声をかけた。


「永恭様、そのようにたくさん依頼を受けられて大丈夫ですか」


 永恭が、うん、と綾野にうなずき返す。


「心配せんでええ。ちょっと考えとることがあるんや。しばらく書画骨董しょがこっとうの鑑定は全部受ける。模写の依頼も断らんといてな。とにかく絵ぇ描くんは全部やる」

「なにかされるおつもりなんですか」

「まぁだ言えへんなあ。今はとにかく描いてたいわ」


 片方だけ口の端を上げ、それだけを言った永恭がまた絵に向かう。

 描くことで心が落ち着くならそれはいいことだろう。だが永恭は自分を酷使こくしすることをいとわない。描きあげた絵の傍で倒れているのを見つけたことも一度ではなかった。


「体のことも考えてください。ちゃんと寝て、食べてくださいね」

「そこは綾野が見といてくれるんやろ」


 これはまた倒れないように気をつけなくてはならない。綾野は小さくあきらめと愚痴をこぼす。

 それでも画室に広げた絵を描き続ける永恭の姿からは、なにかが起こりそうな予感がしていた。

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