第5話 永岳から永恭へ

 狩野派は大きな画派だけあって入門した者に対する教え方も整っている。

 基礎となる線描き、模写、写生、工房としての描きかたから依頼元への推挙など、絵師としての道筋がきちんとできていた。

 段階を踏んで目指すところが見えている。だからこそ皆が同じように描けるようになる。


「ほんの基礎だけや」


 綾野が習い始めた頃、永岳が言った。

 ほんの、どころではない。永岳はことさら基本にうるさく、徹底して指導する師匠だった。まずもって土台ができていない者を絵師とは呼べないという考え方が永岳の中にあるのだろう。


 これはふるいにかけるためでもある。この先の長い道をついてこられない者は指導をする意味がない。

 縦横の線が描けるようになるまで永岳がそれ以上を教えることはなかった。それができると今度は丸を描けと言う。


 二年という月日があっという間に過ぎていった。

 来る日も来る日も嫌と言うほど運筆うんぴつをやらされる。綾野は他のことも教えてくれと頼んでみたが、永岳が首を縦に振ることはなかった。


「お前の線は素直やからなあ、模写は永恭から習うほうがええやろ」


 言われたのはそれだけだ。そして本当に運筆を習っただけで送り出されたのだった。

 永岳の家から永恭の元へ慣れた道筋を辿る。

 綾野は改めて永恭の前に手をついた。


「ようやくここに来られました。永恭様、どうぞよろしくお願いします」

「ほんまに来たんやな。まあ、伯父上に言われとるし、しゃあないわ」


 言葉と裏腹に嬉しそうな顔で永恭が言う。


「では永恭様、まずは何からやればよろしいのでしょうか」

懸腕直筆けんわんちょくひつ。伯父上に絞られてきたやろ。あれを半刻はんときほどやっとき。後のことはそれからや」


 解放されるかと思った基礎の運筆だったが、そうではなかった。


「あれ、またやるんですか」


 途中で嫌になりかけたほどなのにと綾野は渋い顔をした。


「当たり前やろ。半刻でええ、当分は毎日続けてもらうからな」


 早く始めろと尻を叩かれ、綾野は観念かんねんして描きはじめた。

 途中、永恭がちらちらと様子を見てくる。しばらくすると納得できる程度のものと判断したらしい。


「綾野」


 名を呼ばれて綾野は身を固くした。


「どないした?」

「は……なんでもないです」


 初めて永恭に名を呼ばれた。

 そのことに感激した綾野は知らず涙がこぼれそうになる。こんな人がましいことで泣くような自分ではなかったのに。困惑する心がまた涙を誘う。


「変なやつやなあ」

「すみません、本当に永恭様のお弟子になったんだなと思って」


 名を呼んでもらえて嬉しいと綾野が言うと、しかめっ面の永恭に小突かれた。


「こそばいこと言わんとけ。これから高山寺の辺りまで行く。画帖がちょうを忘れんようにな」

「はいっ!」


 これから教えてもらえるあれこれを思い、綾野は高鳴る胸を抑える。

 永恭の弟子になったのだ。綾野は改めてそれを噛みしめた。


 さて高山寺への道行は例によってまっすぐとはいかない。ちょうど春先で桜が咲き始めている。


「基礎の次は写生と模写や。これ描いてみ」


 そう言って永恭が桜の木を指した。


「綾野のおもたとおりでかまわん。好きなように好きなとこを描け」


 線しか習っていない。上手く描けるのだろうか。綾野はそう思ったが、とにかく師匠の言うことだからと画帖を広げた。


「ほう、なかなかやるもんやな。見た通りを描けるんはすごい」


 綾野の画帖を見た永恭はそう言った。


「俺、見て覚えるのは得意なんです。だから気になったものは覚えておいて永岳様のいないとこで描いてました」

「そらええわ」


 手を叩いて喜ぶ永恭に、綾野はすみませんと頭を下げた。


「謝ることあらへん。伯父上も写生をするなとは言わんかったやろ。絵描きにはどうしても描きたいて気持ちは大事なもんや。綾野はこの桜の絵で私になにを伝えたい?」


 聞かれて綾野は言葉に詰まる。そこまで考えてはいなかった。描けること、それ自体が面白かった。まだそれだけだ。綾野がそう言うと永恭が、うん、とうなずく。


「綾野は木全体を描いたやろ。私が描いたんはこれや」


 永恭がひと枝だけの桜を見せた。


「ひと枝だけですか」

「せや、まだ寒くなる日もあるやろ。そん中でも咲いとるこの花が健気けなげに思えた。そこが美しく思えたんや」


 永恭が描いた五分咲きほどの桜のひと枝は、空に伸ばした女の手のようだと綾野は思う。たおやかで華やかだ。


「絵は描いたらそれだけでええいうもんやない。花も木も動物もそれ以上を描くんが絵師なんや」


 綾野はつかめそうでつかめない永恭の言葉を口の中で呟く。


「なんだか上手く言葉にできなくてもどかしいんですけど、描くだけではだめなんですね」

「綾野の中にも美しいもんに対する思いがあるやろ? それを描けるようになったらええなあ」


 わからないところは少しずつ理解すればいいと永恭が言い、うなずいた綾野は顔を上げた。


「次は寺の石段辺りを描きたいなあ、綾野はどうや」

「そこでなにか心に残る面白そうなものを探してみます」


 永恭がそれでいいと笑って歩き出す。綾野は画帖を胸に抱えその後をついて行った。

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