第4話 永岳の内弟子

 綾野は内弟子として永岳えいがくの家に住み込むことになった。通いではない住み込みの弟子は朝餉あさげ支度したくから始まって生活全般に至るまで師匠の世話をすることも仕事のうちだ。


 掃除洗濯など家事の手際は体が覚えていたが、厄介だったのは京風の味付けを叩き込まれたことだった。綾野の里は京から大して遠くはないが、ふとしたことで田舎風の味が顔を出す。味に文句を言われなくなるまでには少し時間がかかった。


 これは綾野が生活に慣れるための期間だったのだろう。本格的に絵の教えに向かったのはそれからだった。


 和紙と絵絹えぎぬ、墨、岩絵の具の選別、筆の善し悪しや交換時期。同時に和歌、俳諧はいかい、茶の湯、書画しょが骨董こっとうの鑑賞。今まで綾野の周りに全くなかったもので埋め尽くされていく。

 その上で当然のように描くことを習うのだから、朝から晩まで休む間がない。


「綾野、茶を習いに行く。支度したくを」


 しばらくすると、こう言ってくる永岳に対する綾野の返答も変わってきた。


「できています。こちらでお着替えを」

「ほう?」


 身支度から食事、作画の準備まで。元々物覚えのいい綾野にしてみれば、もはや先回って永岳の好みを揃えるのも手間ではない。


「茶には行かへん言うたらどないした」

「近頃、評判の菓子があるそうですから求めて参ります」


 続きをと黙ったままの永岳にうながされる。


「ご注文の絵は一段落いちだんらくされています。散歩か読書をされるのではないかと。それならば休憩がてら茶を入れてくれと言われたでしょう。その折りにお出ししようと思います。お気に召されたら次の茶事にお使いになられるかもしれませんし」


 それを聞いた永岳が困ったように眉を寄せてかぶりを振る。

 主の心に添うのはいいことだろうと綾野は不満を顔に出した。


「なにもかも全て師匠に寄り添う必要はあらへん。駄目なところは駄目て言え」

「では『お約束されているのですから参りましょう』と言えばよかったのですね」

「そうやな、特にあいつは我がまま放題や。締めるとこはきちんと締めなあかん」


 さとされて永恭えいきょうのことかと気がついた。弟子入りするのなら最低限この程度の心得が必要になるということなのだろう。


「あれはお前が気ぃつけてやらんとなんもせえへんし何でもするぞ」


 着替える、そう言って話を断ち切った永岳が支度を始めた。


「ほな行こか。今日は茶道具をよう見ろ。それから掛物かけもの花入はないれも飾られた花も、目に入るものは全部や」

「はい」

「とにかく目を肥やせ。ええな」


 永岳の日常につき合うと美しい物に触れられる。訪ねた公家の屋敷で絵を描くだけでなく、ある時は寺を巡り神社を回り、また次の日は和歌をみ茶をたしなむ。


 綾野にはそれがなによりの楽しみになったが、時に永恭への使いに出されることはだんだん重荷になってきた。


永恭えいきょう様いらっしゃいますか」

「画室におる。こっち回ってくれ」


 奥から永恭に呼ばれる。綾野は覚悟を決めてそちらに向かった。


「ふうん、なんや見た目はそれなりの雰囲気になってきたやないか」

「ありがとうございます。本日は永岳様のご用でお邪魔しました。来月のご予定はいかがですか。実は九条くじょう尚忠ひさただ様より三十六歌合うたあわせを見せていただ……」

「今から?」


 永恭が食い気味に突っ込んでくる。

 綾野の額にびきりと青筋が浮かんだ。口の端をひくつかせながらそれでも役目を果たそうと永恭に問う。


「来月初めの頃です。ご都合を伺ってくるよう言われたのですが……」

「今すぐでもええよ」

「手を引っぱるな! 俺にもまだ寄るところがあるんだ」

「早う行こ」

「待てっつってんだろうが!」


 永岳が言っていた通りだ。これをあしらうのは骨が折れる。先日も同じような苦労をした。

 ほかはともかく絵に関しては毎回これだ。こちらのいきどおりも意に介さず、都合も無視、話も聞かない。というよりも自分に都合のいいところしか聞こえていない。


 綾野は心の内にひとつ、ふたつ、みっつと数を数え、大きく息を吸って吐く。目を輝かせる永恭に例の人好きする笑顔を向けた。


「永恭様のご予定が空いているのはわかりました。ですが永岳様にも九条様にもご都合というものがあります。日が近くなりましたらまたすぐにお知らせしますので」

「……」


 途端に永恭の目がどんよりと曇る。

 んで含めるようにしてまで言ったのだが。綾野は額にはちきれんばかりの血管を浮き立たせた笑顔で永恭を睨んだ。


「本当に! 絶対にお誘いします! そのためにご予定を伺いに来たんです」

「……わかった」


 その声にふと嫌な予感がした。綾野は去り際にひと言付け加える。


「今、九条屋敷に行っても絵は見られねえからな」


 途端に永恭が口をへの字に曲げた。

 綾野はにやりと笑って、ふんっと鼻息荒く永恭の元を辞する。どかどかと音がしそうな勢いで通りを歩いていった。

 帰って永岳にその顛末てんまつを伝えると爆笑が返ってくる。


「ほう、少しは大人になったんやな」

「あれでですか?」

「骨が折れる言うたやろ」


 だから頼むのだと永岳が身内の顔になった。


「わかりやすい事例に当たって納得しました。要するに永恭様と世間とのすり合わせをしろ、ということなのでしょう」

「理解が早くて助かるわ」


 ため息をつく綾野に苦笑とわずかに憐れみの目を寄越して、永岳が絵の具を準備し始めた。


「弟子入りを止めるなら今やぞ」


 道具を出しながら、永岳はさりげなく言う。

 それに対して綾野はきっぱりと言い切った。


「あの時、絵巻を見た感動が忘れられないんです。俺は永恭様の弟子になるのを諦めません」

「そうか」


 永岳の顔に柔らかい笑みが浮かんだ。

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