第4話 永岳の内弟子
綾野は内弟子として
掃除洗濯など家事の手際は体が覚えていたが、厄介だったのは京風の味付けを叩き込まれたことだった。綾野の里は京から大して遠くはないが、ふとしたことで田舎風の味が顔を出す。味に文句を言われなくなるまでには少し時間がかかった。
これは綾野が生活に慣れるための期間だったのだろう。本格的に絵の教えに向かったのはそれからだった。
和紙と
その上で当然のように描くことを習うのだから、朝から晩まで休む間がない。
「綾野、茶を習いに行く。
しばらくすると、こう言ってくる永岳に対する綾野の返答も変わってきた。
「できています。こちらでお着替えを」
「ほう?」
身支度から食事、作画の準備まで。元々物覚えのいい綾野にしてみれば、もはや先回って永岳の好みを揃えるのも手間ではない。
「茶には行かへん言うたらどないした」
「近頃、評判の菓子があるそうですから求めて参ります」
続きをと黙ったままの永岳に
「ご注文の絵は
それを聞いた永岳が困ったように眉を寄せて
主の心に添うのはいいことだろうと綾野は不満を顔に出した。
「なにもかも全て師匠に寄り添う必要はあらへん。駄目なところは駄目て言え」
「では『お約束されているのですから参りましょう』と言えばよかったのですね」
「そうやな、特にあいつは我がまま放題や。締めるとこはきちんと締めなあかん」
「あれはお前が気ぃつけてやらんと
着替える、そう言って話を断ち切った永岳が支度を始めた。
「ほな行こか。今日は茶道具をよう見ろ。それから
「はい」
「とにかく目を肥やせ。ええな」
永岳の日常につき合うと美しい物に触れられる。訪ねた公家の屋敷で絵を描くだけでなく、ある時は寺を巡り神社を回り、また次の日は和歌を
綾野にはそれがなによりの楽しみになったが、時に永恭への使いに出されることはだんだん重荷になってきた。
「
「画室におる。こっち回ってくれ」
奥から永恭に呼ばれる。綾野は覚悟を決めてそちらに向かった。
「ふうん、なんや見た目はそれなりの雰囲気になってきたやないか」
「ありがとうございます。本日は永岳様のご用でお邪魔しました。来月のご予定はいかがですか。実は
「今から?」
永恭が食い気味に突っ込んでくる。
綾野の額にびきりと青筋が浮かんだ。口の端をひくつかせながらそれでも役目を果たそうと永恭に問う。
「来月初めの頃です。ご都合を伺ってくるよう言われたのですが……」
「今すぐでもええよ」
「手を引っぱるな! 俺にもまだ寄るところがあるんだ」
「早う行こ」
「待てっつってんだろうが!」
永岳が言っていた通りだ。これをあしらうのは骨が折れる。先日も同じような苦労をした。
綾野は心の内にひとつ、ふたつ、みっつと数を数え、大きく息を吸って吐く。目を輝かせる永恭に例の人好きする笑顔を向けた。
「永恭様のご予定が空いているのはわかりました。ですが永岳様にも九条様にもご都合というものがあります。日が近くなりましたらまたすぐにお知らせしますので」
「……」
途端に永恭の目がどんよりと曇る。
「本当に! 絶対にお誘いします! そのためにご予定を伺いに来たんです」
「……わかった」
その声にふと嫌な予感がした。綾野は去り際にひと言付け加える。
「今、九条屋敷に行っても絵は見られねえからな」
途端に永恭が口をへの字に曲げた。
綾野はにやりと笑って、ふんっと鼻息荒く永恭の元を辞する。どかどかと音がしそうな勢いで通りを歩いていった。
帰って永岳にその
「ほう、少しは大人になったんやな」
「あれでですか?」
「骨が折れる言うたやろ」
だから頼むのだと永岳が身内の顔になった。
「わかりやすい事例に当たって納得しました。要するに永恭様と世間とのすり合わせをしろ、ということなのでしょう」
「理解が早くて助かるわ」
ため息をつく綾野に苦笑とわずかに憐れみの目を寄越して、永岳が絵の具を準備し始めた。
「弟子入りを止めるなら今やぞ」
道具を出しながら、永岳はさりげなく言う。
それに対して綾野はきっぱりと言い切った。
「あの時、絵巻を見た感動が忘れられないんです。俺は永恭様の弟子になるのを諦めません」
「そうか」
永岳の顔に柔らかい笑みが浮かんだ。
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