第3話 京狩野の絵師

 永恭えいきょうの後を追うのは容易たやすい。綾野には何が面白いのかさっぱりなのだが、永恭はあちこちを見ながら時々立ち止まってなにかを描いている。


「子どもの道行みちゆきはまっすぐってわけにはいかねえな」


 自分の年齢としは棚に上げ、綾野は絵を描きながら家路を辿る永恭を追う。


「ここか」


 永恭えいきょうが中へ入っていくのを見届け、綾野はさりげなく家の前を通り過ぎた。


 首を突っ込むなと言われたのも悔しかった。お前にはできないと言われたも同然だったが、そんなことはやってみなければわからないはずだ。苛つく心にも後押しされ、綾野は狩野かのう永恭えいきょうを調べはじめた。まずは相手をもっと知らなくてはならない。


 それでわかったのは相手は思った以上に京の有名人だったことだ。子どものくせに寺社から公家まで顔が広い。家は貧乏などと言ってはいるが三十両もする絵巻を買える財はあるようだ。

 これは上手いこと食らいついていればいい目が見られそうな予感がする。逃がしてはならないと綾野はにんまり笑った。


 先日の遊び人のような格好ではいくらなんでも胡散臭うさんくさい。きちんとした姿ならよい印象を持たれるだろうと、まずは小綺麗こぎれいに身なりを整える。


「まあこんなもんだろ。玄関先で追い返されたら目も当てられねえからな」


 綾野は土産を片手に永恭えいきょうの家をおとなった。


「ごめんくださりませ、狩野永恭様はご在宅でしょうか」

「なんでおらんのや!」

「あ?」


 目の前に立ちふさがる男の突然の怒声に、ぽかんと口を開けたまま綾野はその背後で立ちつくした。


「約束しとったんやが……忘れとるな。まぁた、ふらふら歩き回っとるんか。ええ加減落ち着きそうなもんやろ」

「申し訳ありません。せっかく永岳えいがく殿にお越しいただいたというのにあの子ときたら……」


 背の向こうでおろおろと女の声がする。母親の織乃おりのだろうか。

 これは出直すかと綾野あやのが足を動かそうとした時だ。不意に気づいたらしく振り向いた男が問いの矛先ほこさきを向けてきた。


「この家になんぞ用やろか」


 綾野はとっさに人好きのする笑顔を作る。

 

「お取込み中とは知らず失礼いたしました。先日、永恭様よりご厚情こうじょうたまわりました者です。ご在宅でしたらお礼をと不躾ぶしつけにも伺わせていただいたんですが」

「せっかく来てもろたんやが、あやつはいてへんらしい」


 すまないと大の大人が子どもに頭を下げた。これが狩野かのう永岳えいがくかと綾野は男を見上げる。

 取り込んでいるようであるし出直そうと綾野は口を開きかけた。


「ただいま。あれ? 君、確か祭りの時の……どないしたん」


 ずいぶん綺麗になったと綾野の後ろから永恭の声がした。

 三人の男でごった返す玄関先で、綾野は神妙しんみょうに永恭への礼を口にする。


「先日はお世話になりました。改めてお礼方々かたがたお話させていただきたいことがございまして」

「ふうん?」

「儂もお前に話がある。あがってもろたらええんやないか」


 そう言ったのは永岳だ。

 同意した織乃おりのに座敷をすすめられ、三人は家へ上がった。


「まずはお客様のお話を聞け」


 座敷に通された永岳が口を開いた。

 深みのある声。年相応の落ち着きと、京狩野を継承したことがかもし出す自信。一家いっかを成すということを体現しているような声だ。永岳の人柄があふれるようだと綾野は思う。


 今のはなかば呆れ声だったがそれも道理。声の行く先には茶菓子に黒文字くろもじを突き刺す永恭の姿があった。

 

「いえ、お話はどうぞそちらから。こちらはすぐに済みます」


 綾野が言うと、永岳は軽くうなずき永恭へ向き直る。


「絵巻の模写は済んだんやろな」

「もひろんれす」


 小言こごとの中身は予想していたのだろう。永恭は菓子を飲み込みながら横に置いていた巻子を差し出す。


「見てもろてええですか」

巻装かんそうするとは聞いとらんかったぞ。それならそうと言うてくれたらええのに」


 永岳の声音こわねが幾分柔らかくなった。


「我ながら、よう描けたんです」


 そう言った永恭にうなずいて永岳が巻子かんす紐解ひもとく。しゅる、と紙の音がすべり世界が広がる。

 なにげなく目をやった綾野は息が止まった。


 世界は華やかに金のかすみに彩られる。続いて目に飛び込んできたのは鮮やかな緑。松の枝ぶり、畳のすがしさ。深い群青ぐんじょう色にも目を引かれる。垣根の先から娘たちに目をやる男。そこに微笑む女性の美しさ。


「母上……」


 綾野は思わず口の中で呟いた。

 背伸びはしていても綾野はまだ十三歳じゅうさんだ。描かれていた女人にょにんに母の面影を重ねたのも無理はない。この数年、里の様子も母の生死も知らぬままだ。今はどうしているのだろう。


 目眩めまいを感じるほどのあでやかな世界を見つめ、そこに母がいたらよかったのにと綾野は胸の痛みを覚える。

 その心を知らぬふたりが綾野の横で笑って話していた。


「にしても、今日はなんで来られはったんです?」

「やっぱり忘れとったんやな。約束しとったやろ。お前に貸しとった絵巻を取りに来た。わしが取りにんかったら返す気ぃあらへんかったな」

「いやあ、もうちょっと貸してほしいなあて」

「こっちでも必要や。また借りたままにされたらかなわんわ」


 永恭えいきょう永岳えいがくもうるさい。少し黙ってそれを見せてくれ。綾野は心中に毒づいた。

 絵はあちこちで見たがこんなに美しいものがあったとは知らなかった。もっと見せてほしい。


 いい出来だと満足そうに言った永岳の手が世界を閉じようとする。

 閉じてしまう。ああ、頼むからその世界を広げたままに。綾野は思わず腰を浮かせた。


「あの、これは……」

「ん? ああ私が描いた『伊勢物語絵巻いせものがたり えまき』の模写や。元の絵巻を伯父上に借りとってな。返さなあかんし、描いたのも見てほしいておもとったんや」


 ぎり、と綾野は唇を噛む。永恭えいきょうにらみつけ、食いしばる歯の間から言葉を絞り出す。


「俺を弟子にしてくれ」

「嫌や」


 先日、断っただろうと永恭がにベもなく切り捨てた。


「こんな美しいものがあるなんて知らなかったんだ。あんたはこういうのもっと知ってるんだろう? それを見せてくれよ。弟子になるから教えてくれ。あんただけこんな美しいものを知ってるなんてずるいじゃないか」


 そう言って綾野が、ずいっと顔を近づける。


「ち、ちょっと……近い、近いて。なに言うてはるかわからんわ」


 永恭が綾野から逃げようと身をらせた。


「弟子になるから俺にも絵を教えてくれって言ってんだよ!」


 永岳の手元からパンッと大きな音が部屋に響いた。

 綾野はびくりと身を震わせ我に返る。


「狩野に弟子入りしたい、ということかね」


 重い声でそう問われ、綾野は居住いずまいを正す。


「こちらの狩野永恭様のお弟子に加えていただきとうございます」

「私は嫌や」


 露骨に拒否された。


「なんで駄目なんですか。なんでもしますから俺を弟子にしてください。もっと美しい絵を見たい。俺も、絵を描いてみたいです」


 為恭も同じように京のあちこちで頼み込んで絵の模写をしていた。過去の自分を見るような気がしたのかもしれない。


「嫌やて言うとるやろ」


 綾野と永恭のやりとりを聞いていた永岳の口からため息が落ちる。


「狩野ではなくこいつの弟子か……」


 永岳の言葉に綾野は、あっと気がついた。京狩野という大きな一門いちもんには弟子入りにも作法があるのかもしれない。


「もしや永岳様のお弟子でなくてはならないのですか」

「わあ、君もよう言うなあ」


 綾野の問いに呆れたような永恭の応えが返される。


「どっちか言うたら狩野より土佐とさ派に入門したらええんちゃうか。やまと絵が描きたいんやろ」

「やまと絵ってなんですか」


 再び問うた綾野に、そこからかと永恭も永岳も天を仰いだ。


「狩野の絵はこれや」


 そう言って永恭は床の間の絵を指す。

 それは先程見た絵とは全く雰囲気が違った。削り取られたような岩肌がそそり立つ水墨画。勢いのある多様な線。松のひと枝さえも雅やかな絵巻とは違う。


「そういうのは前に見たことがある」

「全然ちゃうやろ。せやから土佐派に入門したらどないやて言うてる」

「でもあんたも絵巻を描いてるじゃないか」

「やかましいわ。私、弟子は取ってへん。嫌や言うたら嫌や」

「くそっ、なんでなんだよ!」

「一から教えとったら私の描く時間が減るやろ!」


 黙って聞いていた永岳の肩が震えだした。


「あっはっはっはははは!」


 大きな笑い声。


「伯父上?」

「もうええやろ、基礎は儂が教えたる」


 目尻に浮かんだ涙を拭きながら永岳が言った。


「狩野の基本はすべての絵の元になるもんやと儂は思とる。あれをやるから狩野の絵師は皆、同じように描けるんや。そこを教えたる。ほんまにやる気があるんやったら当分の間、儂のところで勉強せえ」

「永岳様、俺、弟子にしてもらえるんですか」


 すがるような綾野の声に永岳がうなずいた。


「永恭、儂んとこで逃げ出さんかったら弟子にしたれ。京狩野は江戸とちごてやまと絵の需要もあるやろ」

「伯父上がそうまで言わはるんやったらしゃあないわ」


 嫌そうな顔のままの永恭だったが不承不承ふしょうぶしょううなずいた。


「ありがとうございます」

「名は」

「綾野と申します。よろしくお願いいたします」


 永岳が女子おなごと間違えそうな名を数度、口の中でころがした。


「綾野、明日から来い」


 綾野に永岳の屋敷の場所が告げられた。

 帰り際、綾野は玄関先で永恭を振り向いて礼を言う。


「本日はありがとうございました。明日から永岳様の元で修業を始めさせていただきます」

「ほんまに入門するとは思てへんかったわ」

「あんたに引っついてれば金が稼げそうだと思ったのは確かだ。けど今、そっちはどうでもいい。あの美しい世界に触れていたい。修業してやまと絵を描けるようになりたい。だから待っててくれ」

「へえ、ずいぶん変わったもんやなあ」


 永恭が言葉を切り、綾野の目をのぞき込んだ。


「こないだは別に絵ぇが好きいうわけでもなさそやったから、やめとき言うたけど、今の君やったらええかもな」


 そう言った永恭は、また別れ際にひらひらと手を振った。

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