第3話 京狩野の絵師
「子どもの
自分の
「ここか」
首を突っ込むなと言われたのも悔しかった。お前にはできないと言われたも同然だったが、そんなことはやってみなければわからないはずだ。苛つく心にも後押しされ、綾野は
それでわかったのは相手は思った以上に京の有名人だったことだ。子どものくせに寺社から公家まで顔が広い。家は貧乏などと言ってはいるが三十両もする絵巻を買える財はあるようだ。
これは上手いこと食らいついていればいい目が見られそうな予感がする。逃がしてはならないと綾野はにんまり笑った。
先日の遊び人のような格好ではいくらなんでも
「まあこんなもんだろ。玄関先で追い返されたら目も当てられねえからな」
綾野は土産を片手に
「ごめんくださりませ、狩野永恭様はご在宅でしょうか」
「なんでおらんのや!」
「あ?」
目の前に立ち
「約束しとったんやが……忘れとるな。まぁた、ふらふら歩き回っとるんか。ええ加減落ち着きそうなもんやろ」
「申し訳ありません。せっかく
背の向こうでおろおろと女の声がする。母親の
これは出直すかと
「この家になんぞ用やろか」
綾野はとっさに人好きのする笑顔を作る。
「お取込み中とは知らず失礼いたしました。先日、永恭様よりご
「せっかく来てもろたんやが、あやつはいてへんらしい」
すまないと大の大人が子どもに頭を下げた。これが
取り込んでいるようであるし出直そうと綾野は口を開きかけた。
「ただいま。あれ? 君、確か祭りの時の……どないしたん」
ずいぶん綺麗になったと綾野の後ろから永恭の声がした。
三人の男でごった返す玄関先で、綾野は
「先日はお世話になりました。改めてお礼
「ふうん?」
「儂もお前に話がある。あがってもろたらええんやないか」
そう言ったのは永岳だ。
同意した
「まずはお客様のお話を聞け」
座敷に通された永岳が口を開いた。
深みのある声。年相応の落ち着きと、京狩野を継承したことが
今のは
「いえ、お話はどうぞそちらから。こちらはすぐに済みます」
綾野が言うと、永岳は軽くうなずき永恭へ向き直る。
「絵巻の模写は済んだんやろな」
「もひろんれす」
「見てもろてええですか」
「
永岳の
「我ながら、よう描けたんです」
そう言った永恭にうなずいて永岳が
なにげなく目をやった綾野は息が止まった。
世界は華やかに金の
「母上……」
綾野は思わず口の中で呟いた。
背伸びはしていても綾野はまだ
その心を知らぬふたりが綾野の横で笑って話していた。
「にしても、今日はなんで来られはったんです?」
「やっぱり忘れとったんやな。約束しとったやろ。お前に貸しとった絵巻を取りに来た。
「いやあ、もうちょっと貸してほしいなあて」
「こっちでも必要や。また借りたままにされたらかなわんわ」
絵はあちこちで見たがこんなに美しいものがあったとは知らなかった。もっと見せてほしい。
いい出来だと満足そうに言った永岳の手が世界を閉じようとする。
閉じてしまう。ああ、頼むからその世界を広げたままに。綾野は思わず腰を浮かせた。
「あの、これは……」
「ん? ああ私が描いた『
ぎり、と綾野は唇を噛む。
「俺を弟子にしてくれ」
「嫌や」
先日、断っただろうと永恭がにベもなく切り捨てた。
「こんな美しいものがあるなんて知らなかったんだ。あんたはこういうのもっと知ってるんだろう? それを見せてくれよ。弟子になるから教えてくれ。あんただけこんな美しいものを知ってるなんてずるいじゃないか」
そう言って綾野が、ずいっと顔を近づける。
「ち、ちょっと……近い、近いて。なに言うてはるかわからんわ」
永恭が綾野から逃げようと身を
「弟子になるから俺にも絵を教えてくれって言ってんだよ!」
永岳の手元からパンッと大きな音が部屋に響いた。
綾野はびくりと身を震わせ我に返る。
「狩野に弟子入りしたい、ということかね」
重い声でそう問われ、綾野は
「こちらの狩野永恭様のお弟子に加えていただきとうございます」
「私は嫌や」
露骨に拒否された。
「なんで駄目なんですか。なんでもしますから俺を弟子にしてください。もっと美しい絵を見たい。俺も、絵を描いてみたいです」
為恭も同じように京のあちこちで頼み込んで絵の模写をしていた。過去の自分を見るような気がしたのかもしれない。
「嫌やて言うとるやろ」
綾野と永恭のやりとりを聞いていた永岳の口からため息が落ちる。
「狩野ではなくこいつの弟子か……」
永岳の言葉に綾野は、あっと気がついた。京狩野という大きな
「もしや永岳様のお弟子でなくてはならないのですか」
「わあ、君もよう言うなあ」
綾野の問いに呆れたような永恭の応えが返される。
「どっちか言うたら狩野より
「やまと絵ってなんですか」
再び問うた綾野に、そこからかと永恭も永岳も天を仰いだ。
「狩野の絵はこれや」
そう言って永恭は床の間の絵を指す。
それは先程見た絵とは全く雰囲気が違った。削り取られたような岩肌がそそり立つ水墨画。勢いのある多様な線。松のひと枝さえも雅やかな絵巻とは違う。
「そういうのは前に見たことがある」
「全然ちゃうやろ。せやから土佐派に入門したらどないやて言うてる」
「でもあんたも絵巻を描いてるじゃないか」
「やかましいわ。私、弟子は取ってへん。嫌や言うたら嫌や」
「くそっ、なんでなんだよ!」
「一から教えとったら私の描く時間が減るやろ!」
黙って聞いていた永岳の肩が震えだした。
「あっはっはっはははは!」
大きな笑い声。
「伯父上?」
「もうええやろ、基礎は儂が教えたる」
目尻に浮かんだ涙を拭きながら永岳が言った。
「狩野の基本はすべての絵の元になるもんやと儂は思とる。あれをやるから狩野の絵師は皆、同じように描けるんや。そこを教えたる。ほんまにやる気があるんやったら当分の間、儂のところで勉強せえ」
「永岳様、俺、弟子にしてもらえるんですか」
すがるような綾野の声に永岳がうなずいた。
「永恭、儂んとこで逃げ出さんかったら弟子にしたれ。京狩野は江戸と
「伯父上がそうまで言わはるんやったらしゃあないわ」
嫌そうな顔のままの永恭だったが
「ありがとうございます」
「名は」
「綾野と申します。よろしくお願いいたします」
永岳が
「綾野、明日から来い」
綾野に永岳の屋敷の場所が告げられた。
帰り際、綾野は玄関先で永恭を振り向いて礼を言う。
「本日はありがとうございました。明日から永岳様の元で修業を始めさせていただきます」
「ほんまに入門するとは思てへんかったわ」
「あんたに引っついてれば金が稼げそうだと思ったのは確かだ。けど今、そっちはどうでもいい。あの美しい世界に触れていたい。修業してやまと絵を描けるようになりたい。だから待っててくれ」
「へえ、ずいぶん変わったもんやなあ」
永恭が言葉を切り、綾野の目をのぞき込んだ。
「こないだは別に絵ぇが好きいうわけでもなさそやったから、やめとき言うたけど、今の君やったらええかもな」
そう言った永恭は、また別れ際にひらひらと手を振った。
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