第2話 永恭と綾野

 天保十年には長く続いた飢饉ききんもようやく終わりを見せる。

 寺の前でわんを抱え施行せぎょうの列に並ぶ民の顔にも柔らかな表情が浮かんで見えた。


 御所ごしょから下鴨神社しもがもじんじゃを経て上賀茂神社かみがもじんじゃへと続く長い祈りの行列は平安の頃から行われている。祭りは季節の巡りを感じさせ人の心をはずませた。


 勅使ちょくしの馬さえ華やかで雅やかな風をまとい、誰もが斎王さいおう輿こしに目を止める。

 通りの端には画帖がちょうと筆を抱えた永恭えいきょうの姿もあった。


「おっ、と。ぼん、気ぃつけなあかんぞ」

「すんまへん」


 時折、困ったように眉を下げて謝罪の言葉を口にする。行列ばかりを目で追っていて、あちこちで人にぶつかっているようだ。永恭えいきょうのまわりを人が通り過ぎていく。


 今もひとりの少年がゆるゆると歩いてきた。

 やはり行列に見入っているようで、やんわりとした表情で人の間を抜けていく。よく見れば男も女も騒ぎそうなほどに美しい顔立ちをしていたが、通り過ぎればどういうわけか印象に残らない。


 永恭えいきょうとの距離が近づく。

 少しずつ重くなる懐具合に少年が口元を緩める。その口から知らず笑い声をこぼしそうになっていた。


「うっふふふふ……」

「う?」


 永恭の横を通り過ぎようとした時、少年の心に妙な笑い声が重なった。


「君、ちょうどええなあ。私をおぶって行列を追うてくれへんか」

「なに?」


 妙な偶然が重なって警戒する意識がれたのだろう。少年は画帖がちょうを抱えた永恭えいきょうに腕を掴まれ目をく。

 背丈も年の頃もちょうどいいと永恭が同じ言葉が繰り返した。


「なあ、頼むわ。大人には頼みにくいし子どもやったら無理やろ」


 見ず知らずの相手に言われ、少年は面食めんくらった。

 歳の頃は同じ……いや少し下か。背は頭半分低い。体格は華奢きゃしゃだが飯は口にしているらしくそれほどせてもいない。体ができあがっていないだけなのだろう。

 値踏みをしていた少年は腕を掴む力が強くなったことに顔をしかめた。


「お代は払うし、どうやろか」


 馬鹿なことを言うなと振り切ろうとした矢先の「金は払う」という言葉に、少年は一も二もなくうなずいた。金を稼ぐ手段は真っ当なもののほうがいい。

 背を向けると待っていたとばかりに軽い体が少年の背に乗った。


「もうちょっと右や。よう見えへん。ああ、揺らさんといて。絵ぇ描けへんやないか」


 少年の背中からわがままな声が聞こえてくる。それは行列が神社に着くまで続いた。


「おおきに。ありがとうさん」


 背から降りた永恭えいきょうが言い、少年の手のひらに銭が落とされる。


「ちょっと待て」

なんなん? お代ははろうたやん」

「金がありそうな口ぶりだったじゃねえか。餅一個が買えるかどうかの小銭じゃ困るんだよ」


 子どもの小遣こづかいなんてそんなものだと首をかしげられた。仕草にいちいち腹が立つ。


「くそっ、とんだ厄日やくびだ。働き損じゃねえか」


 少年は毒づいて永恭をにらみつけた。

 眉を八の字に寄せていた永恭が、ぱっと顔を輝かせる。いいことを思いついたと手を打った。


「ちょっとそこまでつきうて。紙、うてこよ」

「そんなものどうでもいい。金を払えって言ってんだ」

「ええから」


 仏頂面ぶっちょうづらのまま引っぱられていく。


「こんにちは、紙一枚欲しいんやけど」

「あらあ、永恭えいきょうはん。またなんか、やらかしはったん?」


 店先で娘がころころと笑う。


「えいきょう?」

「この人、こう見えて狩野かのうの絵描きはんで名ぁもろてるんですよ」


 紙屋の娘がそう言って永恭をつついた。


「嫌やなあ、私はそんなたいそうなもんとちゃいますわ。ほんのちょおっと絵描けるだけやもん」


 永恭えいきょうは満更でもなさそうな顔で言い、店先の床几しょうぎに座ると受け取った紙になにやら描きはじめた。


 狩野派といえば将軍家お抱えの絵師集団だ。各地の大名家も狩野の絵師を抱えている。

 その流派で名前もあるということは相当な腕なのだろう。十代の前半にしか見えないのだが筆の動きのよどみなさには目を見張る。少年もそこだけは感心した。


「そういえば君、名前なんていうたかな」

「……綾野あやの

「へえ、ちょっと昔風なとこがええなあ」


 あっという間に描きあげられた絵は祭礼の記念にと言って渡された。ろくに見もせず綾野は文句を言う。


「俺は絵より金がほしいんだがな」

「ほな、売ってもかまへんよ」


 永恭と馴染なじみらしい娘もなんとなく事情を察したらしい。綾野が気の毒になったのか口を添えた。


「綾野はん、やったっけ。売ったらええよ。狩野派の先生せんせの絵やで」

 

 娘と永恭はふたり並んでにこにこと笑っている。狐にでも化かされているような気分だ。

 綾野は子どもの絵など売れるものかと思ったが、餅代よりはマシかもしれぬと開き直って買い手を探した。


 身なりのいい、あちこちと珍しそうに視線を動かしている男を見つける。売り込んでみたところ、これがすぐに売れた。

 呆然としたままの綾野に、永恭がほっとしたような笑顔を見せた。


「紙代はそこからはろうてくれへん? 私、もう持ち合わせがあらへんし」

「おおきに」


 紙屋の娘がにこにこと手を差し出してくる。

 いつの間にやら釣銭を渡され、手の中を見れば少なくとも餅一個どころではない金額が残っていた。


「あんた本当に何者なんだ」

「さっき言うたやん。って言うてへんかったか。狩野かのう永恭えいきょう名乗なのとる絵師や」


 永恭が照れたように、それでいて矜持きょうじを持った笑みを浮かべる。


「自分にはまだ大きな名やけど、それを許されたからには下手な絵は描けへんしなあ」

「待てよ、もしかしてもっと高く売れるもんだったのか」


 考えこんだ綾野を見ていた永恭がそでで口元を隠し公家のように笑った。


「君はあの絵におぶった時間と同じ価値をつけたんやろ。うたお客さんが別の価値を見つけたら、あの絵にはもっと高い値がつくかもしれへんなあ」

「なんだそれ」


 結局は損をしたような気分になって綾野は頬をふくらませる。


「絵の価値を知るには絵を学ぶしかあらへんし、君は知らんかったんやから仕方しゃあないわ」

「じゃあ、あんたみたいに絵が描けるようになったら俺も価値がわかって金を稼げるってことか? それなら俺にも絵を教えてくれよ」


 驚いたように目を見開いた永恭えいきょうだったがすぐに顔を曇らせた。


「君が今まで何してきたかは知らんけど、絵の道も生半なまなかなものやあらへんよ。やめとき」


 ひらひらと手を振りながら去っていく永恭を綾野はただ見送る。いや、その目はどうにかして取り入ってやろうとぎらついていた。

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