群青の雲
kiri
第1話 晋三のはなし
この頃はまだ為恭を名乗る前、
「晋三、狂言の稽古はどないした」
今は隣家の
父、
「行かへん。つまらんし。
とろんと垂れた目が、ぎっと横に引かれた。色白の顔に
最初の頃こそ面白そうに隣家に通っていた晋三だったが、しばらくすると行くのが嫌だと駄々をこねるようになった。
話の筋を追うことや
「お前の好みに合う狂言芝居もあるんやないかなあ」
晋三は父の懇願するような口調には耳を貸さず、ぷいと横を向いたままだ。
永泰のため息がまたひとつ。
「儂のように絵師なんぞやっとっては食えへんぞ。少しも稼げる仕事をしたほうがええやろ」
身も蓋もないことを言ったのは晋三を稽古に行かせるためだろうが、父親の威厳も何もあったものではない。
「嫌や」
言ったきり晋三は書物に目を落とす。
それを見た
先々代から絵師を
大きな
ある時、ふと
晋三はそれが嬉しくて着物が汚れるのもかまわず手を動かした。なかなかにいい出来だろうと胸を張って父に見せる。
出来は拙いものだったが父親としては嬉しかっただろう。だが
絵師という職業は
そういう思いがあったのだろう。永泰からは
まあこんなものかと評され、晋三は褒められなかったと
もちろん父の思いの奥底は届いていない。絵を描かせたくないのだと、それだけを受け取った。
このことがあってから晋三は
元々、住職の
そして
「晋三、どこです」
子どもを呼ぶ母の声。
「すみません、そちらにお邪魔してはいませんか……そう、ですか」
この
目の中に入れても痛くない我が子がいつまで経っても帰ってこない。
明かりが
「怒ってはいないから出てきておくれ」
織乃は疲れ切った様子で、だが諦めることなく
もう三日になる。必死に探し続けるが
連日のことで近所の家からも心配そうな声がかけられた。
「まだ見つからんのですか」
「いつもの高山寺かと
永泰の声にも諦めが混じりはじめる。
織乃の狂乱ぶりも
口には出さねど皆がその安否に
「ただいま」
ひょっこりと晋三は帰ってきた。
「晋三⁉」
子どもの顔を見た途端、織乃が糸が切れたようにくたりとその場に崩れる。
「織乃しっかりせえ。晋三! お前どこ行っとったんや!」
「
「なんやて?」
「
織乃を支えていた永泰もその答えを聞くと、へたりとその場へ崩れ落ちる。
結局、晋三の絵に対する気持ちは変わらなかった。描かせてもらえないことで、溜りに溜まった熱が今回の暴走につながったのだろう。きっともう止めることはできない。
「負けた」
永泰が小さく呟いた。
「晋三、頼むからどこかへ行く時は言うてくれ。もう絵を描くなとは言わへん」
「ほんまに? 描いてええの。父上おおきに!」
晋三は目を輝かせて父親に抱きついた。
それからは家でも外でも絵を描く。書を読み、また絵を描いた。
毎日のようにふらりと出かけていく。
規模の大小にかかわらず
小さい子が画帖を抱えて歩いていく姿は京では皆が知るところになった。
その日も出かけようとしていた晋三は永泰に呼び止められた。
「私、今日は
「ええから、こちらへ来なさい」
出鼻を
座るやいなや
「体壊してへんかったら、もう少しお前に教えたることもでけたんやろがなあ。儂は兄上には及ばん。存分に
そう言われるとかえって気まずく感じられる。晋三は肩をすくめ視線を外した。
「やまと絵は好きか」
突然に聞かれて晋三は言葉に詰まった。
今まさにそういう物語絵のような柔らかい表現の絵を面白く思っていたからだ。やまと絵を描きたいなら
なにが描きたいかと問われれば、どれもこれも描きたいものばかりだ。
「やまと絵は美しいて思います」
晋三はそれだけを答える。
そうか、と
「お前も
永泰から
「なんです、これ」
「
「父上⁉」
晋三は寺社に入り浸っていることもあって、子どもながら書画については中々に詳しい。
田中
「ええんやろか。これ、ほんまに……もろてええんやろか」
手にした晋三の手が
「好きなんやろ?」
そういう絵が好きならと
「京狩野はやまと絵も描いとった。九代目の兄上んとこには昔の
「おおきに。ありがとうさんです!」
やはり狂言師にはできないかと苦笑した
そして母もようやく晋三が出かけることに慣れてきたらしい。最近は弁当を
「こんにちはぁ、
今日も晋三は
「
「うん、『
ちょうど虫干しのために広げられていた絵巻を見ながら、とろりとした顔で描いていく。
「和尚さん。私、伯父上から
にこにこと機嫌よく言うその子どもは、まだ十代に足を踏み入れたばかりだ。
「
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