群青の雲

kiri

第1話 晋三のはなし

 冷泉れいぜい為恭ためちかは十代なかばまでに八十九巻の絵巻を模写したという。

 この頃はまだ為恭を名乗る前、晋三しんぞうと呼ばれている子どもの頃だからそれほど絵を描いてはいない。


「晋三、狂言の稽古はどないした」


 今は隣家の山本やまもと長九郎ちょうくろうに狂言を習っている。

 父、永泰えいたいの問いに晋三の不貞腐ふてくされた声が答えた。


「行かへん。つまらんし。しょを読んどるほうが面白おもろい」


 とろんと垂れた目が、ぎっと横に引かれた。色白の顔にしゅが差し、ぷっと頬がふくれる。永泰えいたいの大げさなため息が晋三の耳を抜けていった。


 最初の頃こそ面白そうに隣家に通っていた晋三だったが、しばらくすると行くのが嫌だと駄々をこねるようになった。

 話の筋を追うことや所作しょさは好きらしい。だが好みがはっきりしている晋三にとって喜劇を演じるのがなんとなく気恥ずかしく感じられるようになったのだ。


「お前の好みに合う狂言芝居もあるんやないかなあ」


 晋三は父の懇願するような口調には耳を貸さず、ぷいと横を向いたままだ。

 永泰のため息がまたひとつ。


「儂のように絵師なんぞやっとっては食えへんぞ。少しも稼げる仕事をしたほうがええやろ」


 身も蓋もないことを言ったのは晋三を稽古に行かせるためだろうが、父親の威厳も何もあったものではない。


「嫌や」


 言ったきり晋三は書物に目を落とす。

 それを見た永泰えいたいが今度は本気でため息をついた。


 先々代から絵師を生業なりわいにしている家に生まれたからというのもあるだろう。晋三の好きなことは狂言よりも絵を描くことだった。

 大きな画室がしつで絵筆を握る永泰のそばにいることが好きだった。描くところを見るのも、描かれた絵も好きだった。父と共にいる時間がとても好きだったのだ。


 ある時、ふとれっ気を起こしたらしく永泰えいたいが絵筆を持たせてくれた。

 晋三はそれが嬉しくて着物が汚れるのもかまわず手を動かした。なかなかにいい出来だろうと胸を張って父に見せる。


 出来は拙いものだったが父親としては嬉しかっただろう。だが永泰えいたいは晋三の絵に絵師としての発芽を感じとってしまった。行く末を思ってしまったのか顔が苦味を帯びる。

 絵師という職業は生半可なまなかな覚悟でできるものではない。好きなもので生活していける者などそう多くはいないのだ。できれば別の道を示してやりたい。


 そういう思いがあったのだろう。永泰からはなかくさすような言葉がかけられた。

 まあこんなものかと評され、晋三は褒められなかったと悄気しょげかえる。


 もちろん父の思いの奥底は届いていない。絵を描かせたくないのだと、それだけを受け取った。

 このことがあってから晋三は高山寺こうざんじに入りびたるようになる。

 元々、住職の慧有けいゆうとは顔見知りだったので居やすいのだろう。やいのやいのとせっつかれる狂言の稽古から逃げるように家を空けることが増えた。


 そして七歳ななつを数えた時にそれは起こる。その日、晋三は昼前に家を出たきり日が落ちても帰ってこなかった。


「晋三、どこです」


 子どもを呼ぶ母の声。


「すみません、そちらにお邪魔してはいませんか……そう、ですか」


 このころ織乃おりのの母としての愛情はいささか過剰なほどに晋三へと向けられていた。

 目の中に入れても痛くない我が子がいつまで経っても帰ってこない。

 明かりがともり人々が戸を立てていく中、母の声が狂乱のていで路地を渡る。


「怒ってはいないから出てきておくれ」


 織乃は疲れ切った様子で、だが諦めることなくかすれた声を上げた。

 もう三日になる。必死に探し続けるがようとして行方は知れない。

 連日のことで近所の家からも心配そうな声がかけられた。


「まだ見つからんのですか」

「いつもの高山寺かとおもたんですが、そちらにはいてへんと……」


 永泰の声にも諦めが混じりはじめる。

 織乃の狂乱ぶりも永泰えいたい憔悴しょうすいぶりも、子どもより自身の心配をしたがいいほどだ。

 口には出さねど皆がその安否に暗澹あんたんたるものを感じていたその時だった。


「ただいま」


 ひょっこりと晋三は帰ってきた。


「晋三⁉」


 子どもの顔を見た途端、織乃が糸が切れたようにくたりとその場に崩れる。


「織乃しっかりせえ。晋三! お前どこ行っとったんや!」

壬生寺みぶでら

「なんやて?」


 永泰えいたいの問いに、晋三は夢を見るようなとろけた顔になった。


地蔵尊じぞうそんを写しとった。美しかった」


 織乃を支えていた永泰もその答えを聞くと、へたりとその場へ崩れ落ちる。

 結局、晋三の絵に対する気持ちは変わらなかった。描かせてもらえないことで、溜りに溜まった熱が今回の暴走につながったのだろう。きっともう止めることはできない。


「負けた」


 永泰が小さく呟いた。


「晋三、頼むからどこかへ行く時は言うてくれ。もう絵を描くなとは言わへん」

「ほんまに? 描いてええの。父上おおきに!」


 晋三は目を輝かせて父親に抱きついた。

 それからは家でも外でも絵を描く。書を読み、また絵を描いた。


 毎日のようにふらりと出かけていく。

 栂尾とがのお高山寺、壬生寺、聖護院しょうごいん。どこにでも出かけていった。

 規模の大小にかかわらず古刹こさつ書画しょが骨董こっとうの宝庫でもある。古画こがの模写をさせてくれと頼みにいくのだ。


 小さい子が画帖を抱えて歩いていく姿は京では皆が知るところになった。

 その日も出かけようとしていた晋三は永泰に呼び止められた。


「私、今日は永岳えいがく伯父上のとこに行こておもとるんやけど」

「ええから、こちらへ来なさい」


 出鼻をくじかれたことにむっとしたが、なにか大事な話だろうか。晋三は考え考え、画室へ向かう父を追う。

 座るやいなや永泰えいたいが言った。


「体壊してへんかったら、もう少しお前に教えたることもでけたんやろがなあ。儂は兄上には及ばん。存分になろうてきたらええ」


 そう言われるとかえって気まずく感じられる。晋三は肩をすくめ視線を外した。


「やまと絵は好きか」


 突然に聞かれて晋三は言葉に詰まった。

 今まさにそういう物語絵のような柔らかい表現の絵を面白く思っていたからだ。やまと絵を描きたいなら土佐とさ派や住吉すみよし派に行けと言われるかもしれないが、そこまでしたいわけではない。

 なにが描きたいかと問われれば、どれもこれも描きたいものばかりだ。


「やまと絵は美しいて思います」


 晋三はそれだけを答える。

 そうか、と永泰えいたいがうなずいた。


「お前も十歳とおを過ぎた。この年まで生きてこれたんは神さん仏さんのおかげや。せやからその記念にな、これをやる」


 永泰から巻子かんす一巻いっかん差し出される。


「なんです、これ」

田中たなか訥言とつげん殿が模写した『伴大納言絵巻ばんだいなごんえまき』や」

「父上⁉」


 晋三は寺社に入り浸っていることもあって、子どもながら書画については中々に詳しい。

 田中訥言とつげんは土佐派に学び、描かれることの少なくなったやまと絵を復興させようと尽力じんりょくした人物だ。晋三が生まれた年に亡くなったが、その訥言とつげんが描いた絵巻なら三十両はくだらない。


「ええんやろか。これ、ほんまに……もろてええんやろか」


 手にした晋三の手がふるえた。


「好きなんやろ?」


 そういう絵が好きならと永泰えいたいが続ける。


「京狩野はやまと絵も描いとった。九代目の兄上んとこには昔の下絵したえ画帖がちょうも少しは残っとるはずや」

「おおきに。ありがとうさんです!」


 やはり狂言師にはできないかと苦笑した永泰えいたいの声は、夢中になって絵巻を辿たどる晋三の耳には届いていなかった。


 そして母もようやく晋三が出かけることに慣れてきたらしい。最近は弁当をこしらえて持たせてくれるようになった。母の弁当と父が買ってくれた絵巻を抱えてまだ小さい足が高山寺の石段を上る。


「こんにちはぁ、和尚おしょうさんいてはるぅ」


 今日も晋三は堂宇どううの前で大きな声をかけた。


しんさんか、今日も描くのかい」

「うん、『鳥獣戯画ちょうじゅうぎが』が描きたい」


 ちょうど虫干しのために広げられていた絵巻を見ながら、とろりとした顔で描いていく。慧有けいゆうめられるとますます目尻が下がった。


「和尚さん。私、伯父上から画号がごうをもろた。京狩野の絵師になったんよ」


 にこにこと機嫌よく言うその子どもは、まだ十代に足を踏み入れたばかりだ。


狩野かのう永恭えいきょうて呼んでくれはる?」

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