異世界で一番悪い女 〜その悪意は止まらない

無罪きゅうさい

第一章 豹変

第1話 転性

「鬱陶しい護衛どもだ」


 華やかな就任祝賀パーティを終え、一人で夜の街を歩く。護衛を撒くのに少々苦労したが、今宵の喜びは一人で味わいたかった。


 帝都の静まり返った通りに、頬を撫でる夜風が心地よく、その男——ディオン・シルヴェストリ はうっすらと笑みを浮かべる。酒に酔いしれながら、これまでの道のりを思えば、自分の実力と幸運を改めて実感していた。


「フフ、俺もついに大佐か……」


 入隊から僅か五年。異例とも言える早さでの昇進だ。帝国軍の中でも憲兵隊は多くのエリートが集い、その中枢はとりわけ軍の中でも強大な権力を誇る。このまま順調に昇進していけば、もはや全軍を統べし将軍の座も、手の届く範囲だと確信していた。


「次期憲兵隊トップ……その先は将軍、いや、それ以上も……ククッ」


 自然と笑いが漏れる。だがその笑いは、次第に形を変えた。抑えきれない高揚が、やがて下品な高笑いに変わっていく。


「ククククク、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ、天に愛されるとはまさに俺のことよ! ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


 ただの自己陶酔と言えば、それまでだが、事実、このディオンという男ほど、権力をこよなく愛し、権力に愛された者はそうそういないだろう。

 しかし、何事にも限度はある。例え、彼が本当に天から愛されていようとも。


「ハハハハハハハ、ハ――――


 ――あガ!」


 突然だった。酔いと興奮に浸るディオンを、背後から何者かが襲った。口を手で塞がれ、強く羽交い締めにされたのだ。


 「んぐっ……!」


 普段なら腕力に自信のあったディオンだが、酔いのせいで力が入らず、上手く振りほどくことができない。

 もがくディオンの目前に、黒ずくめの覆面男が立っていた。


「ケッ、馬鹿笑いしやがって」


 覆面男がそう呟いた直後、腹部に鋭い痛みが走った。視線を落とせば、刃渡り三十センチ程の刃物が腹を貫いていた。刃は即座に引き抜かれ、再び突き立てられる。容赦ない手つきだった。


 何度も腹を刺されて、ディオンは石畳の地面に崩れ落ちた。


 必死に逃げようと試みるが、腹から下に力が入らない。周囲には覆面の男が二名。まさしく絶対絶命の状況だった。


 ならばと、大声で助けを呼ぼうとするのだが、


「ゴプッ……ひゅー、ひゅー……」


 口から血の泡が溢れ、声にならなかった。肺まで損傷したのか、呼吸すら苦しい。ただ荒い息が漏れる。


 地面に血溜まりが広がる中、覆面男は血まみれの刃物を握ったまま、ディオンを見下ろす。そして、静かに口を開いた。


「……恨むなよ」


 恨むものか。こんな使い捨て、恨んでも仕方ない。


 ディオンは見逃さなかった。

 襲われる刹那、覆面男の袖口から見覚えのある蛇の刺青が見えたのを。


 間違いない。この刺青は以前、一味全員が投獄された盗賊団のもの。

 つまり、それが意味するところは……


 と、もう一人の覆面男が、小馬鹿にするように呟いた。


「……にしても、アンタ、身内に相当恨み買ってん——」


「お、おい! バカ! 言うんじゃねぇ!」


 刃物を持った覆面男が慌てて、話を遮った。だが、別の覆面男はそれを全く意に介さず、なおも続ける。


「……良いじゃねえか。死人に口なしだ。それに、こいつのおかげで、俺らは“出てこれた”んだからよぉ、礼は言っとくぜ」


 もう決定的だった。


 何が起こったか。それはディオンを邪魔に思う憲兵隊幹部の誰かが、この盗賊どもと取引をし、彼を暗殺するように仕向けたのだ。

 そして、こいつらは文字通り使い捨ての駒。牢獄からは一時的に“出てこれた”だけに過ぎず、これが終われば、消される手筈であろうことは容易に想像がついた。

 ディオンの頭の中に次々と憲兵隊幹部の顔が浮かぶが、誰かまでは特定できない。せめて、いったい誰の指示なのかを問おうとするが、


「だ……れごぉ……」


 上手く言葉にならなかった。


「おぉ? なに言ってか分かんねえよ。……というか、まだ意識あったのか。おい! 首も掻っ捌いちまえ」


「あぁ? …………チッ、仕方ねぇな」


 指示を受けた覆面男が再び刃を構え、渋々とディオンの喉元へ近づいてくる。


 覆面男の刃がディオンの首筋に触れた。


 この時、もはやディオンの身体に抵抗できる力はなかった。視界が霞み、意識が遠ざかる。四肢がピクリとも動かせない。ただ、体温が失われていく感覚だけが、かろうじて残っている。


 つまるとこ、ディオンの肉体は確実に死に向かっていた。


 ……だが。


 ディオン自身は決して死を受け入れていなかった。

 むしろ、彼の感情は地獄の業火のように、激しく燃え盛っていた。


 ――まだだ。こんなところで終わってたまるか。


 そうだ、俺はこんなんじゃ、くたばらない。


 例え、肉体が朽ちようとも、魂は滅びない。


 いくらでも、何度でも。形を変えて、絶対に蘇ってやる。


 そして、蘇った暁には。


 今度こそ、すべてを手に入れよう。


 俺を嵌めた奴ら、全員を地獄に叩き落として――



「あばよ」


 覆面男は最後にそう告げると、刃に力を込めた。


 刃が喉を切り裂き、ディオンの視界が真紅に染まる。


 こうして、彼——ディオン・シルヴェストリ“大佐”は今日付で死亡した。

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