クジラの国にようこそ
帆尊歩
第1話 ホエールドリームス
浜には風力発電用の巨大なプロペラが立っている。
それは最近になって、いくつも作られるようになった。
そのプロペラの一つのその下辺り、
きっともう誰も思い出しもしないだろう。
この砂浜に三年前、クジラが打ち上げられたことを。
僕と美香は、そんなクジラを見ていた。
他にも町の人総出でクジラを見守った。
でも、結局クジラはなすすべもなく死に、その亡骸はこの海岸に埋められた。
その日、妻の美香は未樹を身ごもった。
あの日。
死に行く鯨を見ながら、美香が涙した。
「どうしたの」とそのとき僕は美香にたずねた。
「今、クジラの目から涙がこぼれたの」そんなことがあるわけないが、そのときの僕はなんとなくそんなことも信じたい気持になっていた。今にして思えば美香がクジラの心に触れてしまった最初だったのだろう。
その夜、僕と未香はクジラの幻想に取り付かれたかのようにお互いを求めた。
月明かりに照らされたベッドはそのときの僕らにとって海だった。
まるで二匹のクジラがじゃれ合うように、僕らはベッドの海を泳いだ。
交わされる体液は命そのものだった。
そして交換した命は未樹へと昇華した。
あの夜のことは今も忘れることが出来ない。
クジラの心に触れた美香に僕の心も共鳴していた。
それは抱き締めれば、抱き締めるほど僕と美香の中を交互に行き交い、さらに高まってゆく。
足らないものを貪るのではなく、何かを産みだすかのように。
何もない海の底で、ただ二人きり、僕らは強く、強く抱き合った。
「未樹は死んだクジラの生まれ代わりかもしれないね」
そんなことを二人で言い合っていた。
お腹の中の子供が女の子だと分ったとき、僕と美香はまだ生まれてもいない娘に未樹という名前を付けた。
あたかも未樹はすでに生まれていて、家族の一員になっているかのように僕らは未樹に話し掛けた。
それはある夜に起った。
「どうしたの?」
「未樹が、泣いているの」
「何言っているんだよ」
「未樹がすがり付いて泣くの」美香は涙声に変わっていた。
「どうしたんだ」
その直後だった、美香の腹を激痛が襲った。
原因はわからなかった。
きっととるにたらないことだったのだろう。
未樹は流れてしまった。
それはまだ人になる前の物のはずなのに、その時、未樹は僕らにとってはかけがえのない娘になっていた。
美香の悲しみはあまりに大きく、僕は美香を力一杯抱きしめた。
次第に落ち着きを見せる美香が、うれしそうに僕に言った。
「私の中には未樹がいるの」
それから三年間、未樹はみかのなかにいる。
僕らにとって未樹は家族の一員だったのだ。
そう僕はだったと過去形で認識していた。
でも美香の中に、未樹は存在した。
と美香は信じた。
生まれてくる前の子供が死んだ、その事を認めたくない美香が勝手に未樹がいると信じ込もうとしていると僕は考えていた。
だから僕は美香が信じ込んでいる未樹の人格を追い出すために、メールの交換を思いついた。
ただ話掛けても美香の奥深くにいる未樹と会話は出来ない。
僕は美香のアドレスに未樹宛にメールを打った。
未樹へ トキオより
あなたが未樹さんですか。
僕はトキオといいます。あなたとお話がしたくて、メールを打ちます。
あなたは誰なんですか?
そこは何処なんですか?
そしてあなたは何処にいたんですか?
そして返事が来た。
当然メールを打っているのが美香だという事は分かっている。でもきっと美香は自分の中にいる未樹の存在を信じている。
そしておそらく美香は、自分で未樹というパーソナリティーを作っている。
それを壊すことは、困難だ。
なら、説得して追い出せば良い。
トキオへ 未樹より
こんにちは、トキオの質問に答えます。
私は未樹です。
そして誰かという質問には、未樹であるとしか言えません。
今はママの中にいます。
どこから来たのかおぼえていません。
でもきっと私は、ここではないどこからか来た。
トキオから 未樹へ
未樹がいたのどんなところかな、おぼえていないのですか?
記憶にないのなら、心に浮かぶのはどんな所?
未樹から トキオへ
必死で思い出しました、でも何も思い浮かびません。でも心に浮かぶイメージはあります。
トキオから未樹へ
それはどんなイメージ?
未樹からトキオへ
そこは海でも底、そしてとても静かな場所、いえ静かなんてものではない。
そこには何の音もない。
そしてあまりにも濃いブルー。
でもそれはすぐ闇へと変わってゆく、そこに私はたたずんでいる。
なぜそこに私がいられるのかわからない。
何も音がしなかった場所にかすかに水を切る音が聞こえる。
それはだんだんと大きくなってゆく。
何かが私に近づいてくる。
でもそれが何なのか私には分からない。
分からなかったけれど、その音はどんどん大きくなる。
大きくなる。
大きくなる。
そして通り過ぎた。
何かが私のすぐ近くを掠めていった。
掠めたけれど遠くに行ってしまったのではない。
すぐ近くにいることはわかる。
何かきしむ音が聞こえる。
それは。
それは誰かの泣き声だ、物悲しく私の心を引き裂く、悲しい、悲しいと訴えかける。
そしてその泣き声はさらにはっきりとした言葉になった。いえ私がそう感じただけ。
何がそんなに悲しいの?
何がそんなに悲しいの?
私の問いは想いとなって流れる。
でも
声は悲しい、悲しいとしか言わない。
そしてさらに続ける。
帰って来い。
帰って来い。
そこはお前の居場所ではない。早く帰ってこいと訴える。
でも私はその意味が理解出来ない。
帰るとはどこに?パパとママがいるここが私の居場所ではいけないの。
私は、ここにいてはいけないの?
理解できなかったけれど、その言葉は私の中に深く刻まれた。
なぜこんなにも、懐かしいのだろう。私はそのせつなさに胸を締め付けられる。私はなんとかその言葉を理解しようとする。
何が悲しいのか理解しようとする。
「帰って来い。帰って来い。そこはお前の居場所ではない」
では私の居場所場どこなのだろう。
私はいったどこにいるの。何も分からないのに、ひどく懐かしい。
ここは私の居場所ではないの?
私は。
私は誰なの?
ごめんなさい、今日はもうこれ以上、書くことが出来ません。
トキオへ 未樹より
この間はごめんなさい。
なんだか感情的になって、あの時理解出来ないと言いましたが、一つだけ分かったことがあります。
私は寂しかったのかもしれない。
あの後、私はママに寂しかったと言って、抱きついて泣いてしまいました。ママは優しく私を抱きしめてくれました。そのやさしさに私はとても安心することが出来たのです。でも一つだけ心に引っかかったことがあります。それはここが私の居場所ではないという言葉。ここが私の居場所でなければ。この安心感はいったい何なんだろうと思いました。
それを私は求めてはいけないのですか?
でもママも寂しいと言っていたの、
私がいることでその寂しさが埋められるなら、ママのために私はここにいたい、それが私の寂しさを埋めることでもあるから。
そう思うと私は確信したのです、私は寂しかったんです。
夢を見ました。
そこは何もないブルーの世界。
しずまりかえった海の底は波の音すらしない。
全く音のしないブルーの世界。
もう一度想像してみてください。
そこに唯一、来ることができる者。
それはクジラなんです。この間私を掠めたものはクジラだったんです。
クジラの姿は見ることが出来ない、でも甲高い泣き声が聞こえる。
それはひどく物悲しく、未樹の心に響く。
たまに水をきる音が聞こえる、でも未樹にはクジラがどこにいるのか分からない。
濃いブルーの世界はその視界すらさえぎっている。
またクジラの泣き声が聞こえた。
それはあまりに悲しく未樹の胸を締め付ける。
なぜこんなに悲しいのだろう。
未樹は考えました。
なぜこんなに悲しいのだろう、でもわかりません、
そして未樹はたまに聞こえる鯨の甲高い鳴き声を聞きながら、一人で海の底でたたずんでいるんです。
いえこの声は私の、未樹自身の声?
悲しいのは私、だからその甲高い声が未樹の心に響く。
響くなんてものではない。だって悲しいのは私なんだから。
未樹へ トキオより
未樹の夢の話に僕も胸が締め付けられました。しばらくそのことだけを考えていました。
朝方目がさめました。
夜が明ける少し前です。
窓から濃いブルーの光がさしてきます。
暗闇ではないけれど、明るくもない。
そこは未樹が言っていた海の底のようでした。
頬を涙が伝わりました。
そのクジラが未樹自身なのかどうかは僕には分かりません。ただそのクジラは孤独なんだと思いました。
未樹がそこにいないからなのか、あるいは未樹自身がたった一人でいたからなのかはわからないけれど、クジラは海の底でたった一人の孤独に耐えている。
いや耐えてなんかいない。苦しくて、苦しくて。自ら命を絶つことができたらどんなにか楽だろう。
死んでしまいたいほどの孤独。死にたい、死にたい。
でもそれすらもクジラにはできない。だからクジラの鳴き声は悲しいのだろうと思います。
トキオへ 未樹より
トキオの話しを聞いていて、私は考えました。あのクジラは私なのか。
それともかつてそこで一緒にいた人なのか。
「帰ってこい、帰ってこい、そこはお前の居場所ではない」あの言葉は、ママと一緒にいる私が幸せだからですか?ここにいれば私は孤独を感じなくていい。
では帰ったらそこは孤独な場所ではないの?
でもあのクジラの声が私自身なら、あの海の底は孤独な場所ではないの?
もし誰かが私を待っているなら、私がその人を孤独にしているの?
孤独が辛いといっていたのに、私自身が誰かを孤独にしているの?
トキオの言う、「死んでしまいたいほどの孤独」その孤独から開放されるには死ぬしかないの?
死ぬってどんな感じなの?
死ねばこの孤独から解放されるのかしら、たった一人でいること、その辛さに耐えられなくなったら。
死ぬことは楽なのかしら。
そういえば。
死って、どういうものなの、トキオ死について教えてださい。
未樹へ トキオより
ずいぶん前にある海岸にクジラが打ち上げられたことがある。
クジラはその大きな体を半分以上砂に埋らせて、身動き出来なくなっている。このままではクジラは確実に死んでしまう。
瀕死のクジラを見てえらい学者は言った。
もう脳がくるっていたんだと、もともとそのクジラは海岸付近までくるクジラではないと。だからもし助けることができても遅かれ早かれ、クジラはまた海岸に打ち上げられたと。
未樹。
僕は思うんだ。
あのときの鯨は寂しかったんじゃないかって。
だから自ら命を絶つためにクジラの国からやって来て、浜に上がった。
それを狂ったというなら、きっとクジラはその孤独に耐えられなくて自ら狂ったんじゃないかって。
トキオへ 未樹より
きっと私はここにいることが幸せ。
ママだって幸せなはず。
ママも私が居ることを喜んでいてくれるはず。
だってわたしが甘えればママはやさしくわたしを愛してくれる。
未樹へ トキオより
違うママは何かを失ったんだ。
だから未樹を愛してくれるんだ。未樹は何かの代わりなんだ。
ママが失ったものはもう、この世の中には存在しない。
未樹は代わりでしかないんだ。
きっとママはその失ったものを自分の中で享受して生きていかなければならない。未樹がいることはが今は、ママにとって救いだろう。
でもそれはいつか必ず辛くなるはずだ。
決していいことではない。
トキオへ 未樹より
ママは何を失ったの?
それは未樹では本当に代用できないの?
失ったものの代わりに未樹がいてはいけないの?
未樹へ トキオより
未樹でない何かだ。
未樹は未樹がそこにいたいから、自分が失ったものの代りになろうとしている。
それは結局ママを苦しめるんだよ。
未樹はママが苦しむのを見ていられるのかい。
ママがもっと大きな悲しみに沈むのを見ていられるのかい。
この世には、出会わなければよかったということがある。
初めから出会わなければ、別れの悲しみを感じることはない。
未樹がそこにい続ければ。未樹がいなくなったときママは立ち直れないほど苦しむ。そんなママを未樹は見ていられるのかい。
ひどく残酷なことを言っているのは百も承知の上だった、でも失ったものが
「未樹」とは言えなかった。お前は未樹ではない。とは言えなかった。
お前は僕と美香が勝手に作ってしまった未樹だ。お前は未樹じゃない。
とは言えなかった。
トキオへ 未樹より
未樹がその失ってしまった物の代わりなのはわかりました。
でも私はママにとって必要なの、わたしが居なくなったらママはまた何か別の何かをさがさなければならない。
いえママはわたしのことを愛してくれている。もし私が居なくなったら、ママは生きていかれないかもしれない。わたしが居ることでママは精神の安定を保っていられるの、もしわたしが居なくなったらママはその悲しみのためにどうにかなってしまう。
未樹へ トキオより
ママは自分が未樹のことを愛していると思っている。嫌それは決して間違ってはいないと思う。でも未樹はきっとママが失ってしまったものの代わりなんだ。未樹が居続ける限り、ママはその失ってしまったものの穴に向き合うことが出来ない。
トキオへ 未樹より
わたしが居ればママはその穴に向き合わなくてもいいんでしょう。それはきっとわたし自身の孤独も癒してくれる。そういう関係ではだめなの。
我ながらなんてひどいことを言っているんだと思った。
孤独に耐えられなくなった者を美香のために出て行けといっているんだ。そして考えた。
未樹を、美香の中に拘束しているのは、どっちなんだ。美香が未樹を拘束しているのか。それとも未樹が美香を拘束いるのか。
美香は未樹を必要としている。
未樹という人格が美香の中にあることで美香の精神を紙一重で支えている。
しかしそれは同時に美香が未樹という人格に依存し、その存在なくしては生きられなくなっていくということに他ならない。
いや美香には僕がいるんだ。
「あなた」と僕は美香に話しかけられた。
最近の美香からは考えられないほどの冷静な言葉だった。紙一重で精神を保っている美香としては、あまりに理性的だ。
「何?」
「未樹にメールで何か言った?」
「えっ。美香の中から出て行けと」
「本当に?あなたはそれでいいの」
「だって未樹なんて」そこで僕の言葉は止まった。未樹はお前が作り出したこの世に存在しない人格だとは言えなかった。
「やっと授かった、私達の子供よ」
「いやそれは」
「本当にそれでいいの」と言って美香が僕の目を見つめる。その深い瞳に僕は吸い込まれそうになる。
「思い出して。二人で、想像したでしょう。未樹の成長を」
「ああ、した」
「その未樹がいなくなるのよ」
未樹がいなくなる。そんな言葉が僕の中で響いた。
未樹がいなくなる。
その時僕の中に、決定されていた、未樹の成長の記憶が蘇る。そうそれは美香と作りあげた物だ。生まれたときの、未樹の成長、小学校、中学校、高校、様々な思い出。あたかもそれは現実だったように僕の中に蘇る。
僕の頬から涙がこぼれる。
「未樹」
「未樹」
「未樹」
言葉はいつしか想いへと代わる。
そして繰り返す。
でもその想いが繰り返せば、繰り返すほど、未樹への想いが強く、そしてリアルになってゆく。
「未樹」
「未樹」
「未樹」いつかその声は涙声になっている。
そして途切れる。
そして僕の目の前に、美香がいる。
「未樹は本当にいるんだね」かすれた声で言うと美香が大きくうなづいた。
パソコンのディスプレーに目をやると僕のメールが現れていた。
熱心に読んでいるのが、美香なのか未樹なのか、でもその目から一粒の涙がこぼれた。
それはだんだん多くなっていって、しまいにぽたぽたと流れると美香は声を殺して泣いた。
「私がママを縛っているの?」美香がつぶやいた。
いや美香ではない。
未樹だ。ここにいるのは美香ではなく、
未樹だ。僕は何の疑問もなくそのことを思った。
僕はなんてことをしてしまったのだろう。こんなにもか弱い自分の娘、未樹を美香から引き離そうとした。
「未樹」僕は後ろから美香を抱きしめた。
「パパなの。パパなのね」美香は嬉しそうに言うと僕を見つめた。いやそこにいるのは僕にとって美香ではなくなっていた。
未樹だった。
「どうしたんだ。未樹。何かひどいことを言われたのか」
「ママを縛っているのは私なんだって、ママのために私はここから出て行かなければならないと。
パパもそう思う?
私、ここから出て行かなければならないの?
ママやパパの前から姿を消さなければならないの」
「そんなことあるもんか。未樹は未樹のままでいいんだ。このままここにい続ければいい」
「本当に、本当に未樹はここにいてもいいの?」
「あたりまえじゃないか。未樹は僕の娘なんだから」
「でもトキオは言ったの、ママを縛っているのは未樹だと、私が居続けるかぎり、ママは決して未樹から逃れられない。未樹がママを監禁しているんだって言っていたの」
トキオは僕だ。いったいどうしたらいいのだろう。
「未樹、クジラを見に行こうか」
「クジラ」
「そう未樹がこの世に生を受ける少し前に死んでしまったクジラ。パパとママは未樹がこのクジラの生まれ変わりなんじゃないかってずっと思っていた」
「そのクジラに会いに行くの?」
「そうだよ」
美香は一週間ぶりに家の外に出た。
でも彼女は僕にとっては美香ではなく、未樹だった。
未樹は本当の父親と一緒に出かける女の子のように楽しげにはしゃいでいた。
未樹になってしまった美香を車の助手席に乗せてしばらく走っていると、巨大なプロペラが見えてきた。
「パパ」
「うん」
「あれ」と未樹が言う。
「あそこだ」といって僕はハンドルを切った。
巨大なプロペラはゆっくりと回転している。
それは何だかクジラが海の中を泳ぐ速度に似ていると僕は思った。
「パパ、あれに見覚えがあるの。でもどこで見たのか思い出せない」
美香は当然この風景を知っている。
未樹が美香の記憶からその映像を拾っているのか、それとも未樹は本当にこのプロペラを知っているのか。
僕等は巨大なプロペラを見上げた。
海まですぐだ。
「ねえパパ」
「うん」
「このゆっくりとした回転、クジラが海の中を泳ぐ早さに似ていると思うのは未樹だけ」
「いやそんなことはない。パパもそう思うよ」
「胸が苦しい。なんなのこの思いは、なぜこのプロペラは未樹の心をかきむしるの?」
「未樹。鯨のところに行こうか」
未樹は苦しさに耐えるようにうなづいた。
「ほら未樹、来てごらん。ここが今はもうまったく分らないけれど、クジラが横たわっていたところなんだ」そこはただの砂浜になってる。
風が強く、ただでさえ砂の起伏が激しい浜辺である。きっと砂自体も動き、全く入れ替わっている。
砂浜は日が暮れかかっていた。
「クジラが死んだ日にママは未樹を身ごもったんだよ」
未樹はただ黙ってその場にたたずんでいた。何かを感じているかのように。
そしておもむろに僕の方を向く。
「パパ。私ね、思い出したことがあるの」
「何を」
「わたし、この場所を知っている。あのプロペラを知っている」
「どういうことだ」
「今はっきり分かったの。私、きっとそのクジラだったんだわ。
思い出したの。
たった一人で漆黒の闇の海に暮らしていた。
そこはとても濃いブルーの世界、甲高い声で鳴いても誰もいない。
わたしはたった一人でいることに耐えられなくなったの。そしてこの浜辺まで来たとき、あのプロペラを見たの、その動きは私の生きているサイクルに似ていた。
だから私はここにくれば仲間がいると思った。
必死で泳いだのよ。
だんだん海は浅くなっていくの、それまで私のいたのはあまりに濃いブルーの世界、いくら声を出しても何の音も返ってこない。
誰もいない世界。
海が浅くなってゆくと、そこはとても明るくて、たくさんの魚たちがいるにぎやかな場所。ああ、こんなところがあったんだと思うと、さらに私は一生懸命泳いだの。
そして私は浜に上がった。
息苦しい地上で私は、この生の最後にこんなにも明るく、暖かい、そしてたくさんの生き物がいるところに来れてよかったと思ったの。たくさんの人がよってきて私に水をかけてくれた。
そんなもの何の役には立たなかった。
依然私はその息苦しさにさいなまれ、ここで命が尽きることを悟った。
でも嬉しかった。
こんなにたくさんの人に囲まれるなんて、そしてみんなの心が伝わってくる。
みんな私に同情してくれる。
誰からも愛されなかった私が始めて、人から哀れみを掛けられたの。
嬉しかった。
とても嬉しかった。
さっきまでこんなにたくさんの人に見守られながら死ぬことに喜びを感じていたのに、私は次の瞬間思ったの。
死にたくないと。
せっかくこんなにも明るく。
こんなにも暖かく。
こんなにもたくさんの仲間がいるところに来たのに、私の命は尽きようとしている。
嫌だ。
嫌だ。せっかくこんなにすばらしいところに来たのに。
見上げるとプロペラが回っていた。
その回転は私の心臓の鼓動。
そのプロペラが一瞬早く回った。目をおろすと。ママが私のために泣いてくれていた。
生きたい。
生きたい。
思いは私の中に広がり、あたかも洪水のように外へと流れていく。
そして私は意識がなくなって、そして記憶すらなくなってママの中にいた。
私は浜に迷い込み、そしてママの中に迷い込んだの。
私はクジラだった。
だからこんなに海を見ると心が騒ぐ、海なんて見たことないと思っていたのに、誰よりも海が恋しい。
クジラの甲高い声が私の心をかきむしるの。
帰って来い。
帰って来い。
そこはお前の居場所ではないって。
でもママの中にいることはあまりに居心地がよかった。
だって、そこは、たった一人ではないんだから」
「そんなことはないさ未樹は、僕と美香の娘だ」未樹の言葉に僕は圧倒されながらもの、やっとそれだけ口にすることが出来た。
「でもトキオは言ったの、私がママに縛られているんじゃない。私がママを縛っているんだって、もし私が孤独を癒すためにママとパパの娘になったのだとしたら、それによってママを拘束しているのなら、私はここから出ていかなければならないのかもしれない」
「いいじゃないか。未樹が孤独で、ママやパパのそばで暮していくというなら、それはそれで。パパは今なら自信を持って言えるんだ。たとえ未樹がクジラだったとしても未樹は未樹だ。パパとママの娘なんだ」
「でも、でも。ママをママを解放してあげなくちゃ」
「ママは、未樹といることが幸せなんだよ」
「そうかもしれない、でもトキオは言ったの、それがママにとって決していいことではないと、私がいればいるほどママを縛る鎖は強くなってゆく、そしてそうなってからではもう遅いの。
パパ、私、行くわ、やっぱりここに来たことは間違いだった」
「待て未樹。待つんだ」
未樹が海に向かって走り出した。
「未樹、未樹」
僕はそんな未樹を追った。
海はすぐに深くなる。
僕は必死になって未樹を追った。
海水が胸の高さまで来たとき僕は未樹に追いついた。
つかんだ腕に未樹が振り返る。
「パパさようなら」未樹の手が僕の手をすり抜けたような気がした。でも腕の中には美香がいた。美香が叫んだ。
「未樹、未樹、未樹がいない。未樹がいない」明らかに美香はパニックに陥っていた。
僕は美香を抱きしめた。強く、強く抱きしめた。容赦なく波が僕らにかかる。
僕らは波にもまれた。
手をつないだまま、いったい今どういう状態なのか分からなかった。
不意に完全に海の中に沈むとひどい静寂の世界が広かる。
息が出来ないのに気持ちがいい。
ここは海の底か?。
ここは未樹がかつていたところか。
ここがクジラの国なのか?
こんなにも寂しい、こんなにも静かな世界。
こんなところに未樹が戻ろうとしている。
未樹、行っちゃいけない。
未樹は僕の娘だ。
こんな寂しいところに戻ってはいけない。
僕は思った、なんてひどいことをしてしまったんだ。
こんな孤独に耐えて、やっとやって来た娘を、僕はまたこんな所に戻そうとしてしまった。
ごめんよ未樹
ごめんよ未樹。お願いだから戻っておいで。
今度こそ。
今度こそ。
一緒に暮そう。
「ありがとうパパ。ありがとうママ。でも未樹は戻ります。短い間だったけど未樹は幸せでした。そしてさようなら」僕は確かに聞いた。それは物悲しいくじらの甲高い声だったはずなのに、きちんと言葉として僕の耳に届いた。
そしてこっちに来いといっているようだった。
僕は必死になって泳いだ。
ふと顔をあげる巨大なプロペラが見えた。僕は美香の手をつないだまま最後の力を振り絞って泳いだ。
クジラの声はいつしかきこえなくなっていた。
浜はいつも通りの表情で日が暮れかかっていた。
美香は僕に抱きつき、声を上げて泣いた。それは二度子供を失った涙だったのか、やっと子供から自立できた涙だったのか、僕にはわからなかった。
クジラの国にようこそ 帆尊歩 @hosonayumu
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