第3話
魔王は地面に膝をついた。さつきは慌てて彼を支える。魔王は苦痛を誤魔化すように、口角を持ち上げる。
「あなた様を責めるつもりはない。そもそも、そんな時間すら残されてはいない。俺はただ……ただ、最後に名前を頂戴したい」
さつきは手で涙をぬぐった。姿の薄れつつある魔王の目をみて、親愛を囁くように言う。
「あなたの名前は、ムスカリ。あなたの真の名前は、―――」
全てを聞いた魔王は、満足そうにまぶたを閉じた。
「創造神よ、礼を言う。この魔王ムスカリ、心を砕いてくれた恩は決して忘れない」
夜が足音を忍ばせてやってくる。魔王は、最初と同じように忽然と姿を消した。
中学生の頃のさつきにとって、とても大事だった自分の城が、ネットの海の向こうで永遠の眠りについたのだ。
◇
古いノートに書き足された設定を見ながら、優芽はそっと口を開く。
「真の名前は、ムスカリ・ストレリチア。どっちも花の名前なんだね」
「うん。ネットで慌てて調べたんだ。未来が花言葉になってる花から、この二つを選んだの」
まさかの、慎一との久しぶりの会話がヒントになるとは思いもよらなかった。
沈黙が漂った。優芽はペットボトルの紅茶を口にし、二、三度視線をウロウロさせる。
「落ち込まないでよ。魔王さんは怒ってはなかったんでしょ? 彼が望んだ通りに名前もつけたわけだし、さつきは出来ることをやったと思うよ?」
「……私が書きたくて、キャラクターも続きを待っている」
「え?」
さつきは、抱えていたクッションに顎を埋めた。消えゆく前の、ムスカリの美しく悲しみに満ちた表情が忘れられない。
「それだけじゃ、書く理由としては足りなかったのか、って聞かれちゃったの。私が書くのを辞めた理由は、誰にも読まれないことにショックを受けたからだけど。それは間違いだったのかな」
また沈黙が流れた。優芽は突然スマホをいじりはじめた。やがて操作をやめ、ミニテーブルの上にことん、と置いた。
「ねえ、ヘンリー・ダーカーって聞いたことある?」
「初めて聞く。人の名前?」
「そう。私も大学の時に知り合いだった、小説オタクの男子が話してるのを聞いただけで、詳しくは知らないんだけど。ヘンリー・ダーカーはプロの作家でもないのに、半世紀以上にわたって一万五千ページ以上の小説を書き続けて、自作品の挿絵もたくさん描いた人なの。でも周囲の人は彼がそんなことしてるなんて一切知らなかったわけ。死後になって、ただひたすら黙々と書き続けていたのを初めて知られたんだって」
最初はうわの空で聞いていたさつきだが、徐々に内容をのみ込むと、衝撃でつぶやいてしまった。
「一万五千ページ?」
「そう、自分に置きかえて想像できる? 発表できるあても、誰かに読んでもらえるあてもないのに、一万五千ページもノートに手書きで大長編の小説を書き続けるんだよ。しかも価値を見いだしているのは自分だけ。この世から自分がいなくなったら、捨てられるかもしれないのに」
さつきはベッドにもたれかかった。
「時間と量が膨大すぎて、ちょっとよくわからない」
「でも、すごいよね。小説を書く人全員が出来ることじゃないよ。特に今はさ、ネットで誰でも小説を発信できる時代じゃん? 自分が読んでもらえないことや、別の誰かがたくさん読まれてることも一発でわかっちゃうし。便利だけども、すぐ他人と比較できちゃうっていうのは面倒だよね」
優芽は深い溜息をつく。そう言えば、たまに息抜きで短編小説を書いていると聞いたことがある。今の説明は、優芽自身の実感も伴っているのだろう。
「その、何でその人の説明をしたの?」
「えっと、ね。ヘンリー・ダーカーの名前が残ったのは、他の人じゃ到底出来ないことを、人生かけてやってしまったからだと思うの。そんなことが出来る人が滅多にいないからこそ、名前が知られてるんだよ。だからさ、さつきが小説を書くのを止めた理由はごく普通のことだし、私だって似たような理由で投稿サイト辞めようかなって思ったことあるし。そこまでショック受けることはないんじゃないの、って言いたいの。回りくどくてごめんね」
優芽は再び紅茶を口にし、でも、と唸った。
「さつきの場合はまた、特例か。キャラクター本人が直々にお出まししてきたもんね」
さつきは、テーブルの上にあるクッキーを何となくかじった。ものすごく甘い。甘いお菓子は甘いのだというのを、ここ数日忘れていたような気がする。
「ありがと、優芽」
「ううん、何も出来なくてごめんね。気分変えたかったら、いつでも言って。聖地巡礼とかライブとか関係なしに、またどこかへ出かけようよ?」
◇
職場での昼休み、さつきは通勤カバンをそっと開いた。
そこに忍ばせてあるのは、中二病の名残を示すノート。勇者カーティスや魔王ムスカリの設定等が書かれてるノートだ。
表紙を数秒見つめた後、さつきは自分で自分に突っ込んだ。
(さすがに職場にノート持ってくるのはやりすぎたなあ。誰かに見られちゃう可能性だってあるのに)
だが、クローゼットに再びこのノートを封印することが、どうしても出来なかったのだ。
それは、自分好みの美形キャラが目の前に現れたせいだろうか。彼が悲しそうな顔をして、目の前から消えていったからだろうか。
それも理由のひとつだろうけれども。
(忘れ物、なんだよね。波風の無い平凡な私の人生で、この小説を納得いく形で完成できなかったことが、大きな忘れ物になってるんだ)
そのことを、自作キャラの魔王に教えられたのだ。
過去の後悔など、いくつでも指折り数えられる。これはそのうちのひとつだ。人は誰しも、痛みや悲しみとどうにか折り合いをつけ、前へ進んでいるに違いない。
魔王ムスカリと直接会い、そしてこのノートを発見したことで、さつきの胸にはあの頃の熱がよみがえりつつあった。
誰から強制されたわけでもない、体の奥からわき出る想いが、さつきを動かそうとしている。
この感覚は久しぶりだった。
昼休みでも電話対応の声が行き交う。隅の方では、まだ他社の担当者と打ち合わせをしている社員もいる。
さつきはスマホのメモ帳アプリを起動させた。
ガラゲー時代とは全然違う、フリック入力で文字を紡ぐ。
―――――
「魔王様、ムスカリ様! ここにおられましたか」
「どうした、うるさいぞ。せっかく小鳥にエサをやっていたというのに」
「勇者一行がこちらに近づいていると、報告がありました」
ムスカリは鼻で笑う。ぬばたまのように濡れ光る長髪が風に揺れる。
「また命知らずがやってきたか。いいだろう、私が直々に出向いてやる」
―――――
(……)
はたと手が止まる。この出だしでいいのだろうか。
どこかに掲載したとしても、あの頃のように閲覧者が少なすぎて途中で止めてしまうかもしれない。あるいは展開に迷って投げ出してしまうかもしれない。
それでも、たとえ誰にも存在を知られなくても、さつきにとっては唯一無二の宝石だったのだから。
また、あの頃のような熱が心に灯ったのだから。
思いが続く限りは、この作品に向き合いたい。
――礼を言うぞ、創造神よ。どうか思うままに、世界を紡いでほしい。
「……?」
周囲を見回すが、勿論ムスカリの姿はない。
口を開く代わりに、さつきは小説本文の続きにこう入力した。
『また途中で書くの止めちゃったら、ごめんね。でもあなたたちのこと、すごく大事で大好きだよ』
ムスカリが、鷹揚に笑ってくれたような気がした。
自席の電話が鳴り、さつきは慌てて受話器を持ち上げる。
平凡な人生だけども、さつきしか知らないひそかな楽しみがひとつ増えたことに、そっと唇をほころばせながら。
中二病、三次元に現れる。~過去に書いてた小説に出てくる魔王が私のベッドで寝てるんですが~ 永杜光理 @hikari_n821
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます