第2話



「あ、あった! たぶんこのノートだったはず」


 クローゼットを掻きまわしてから一時間は経っていた。幼い頃に日課にしていた日記の束の中に、厳選して買った例のノートが紛れ込んでいた。


 ぺらりと表紙を開いて早々、さつきはのけぞってしまう。


「ああ、主人公だね。懐かしい。カーティス君だっけ?」


 描かれていたのは、自ら必死で描いた少年のイラストだ。彼が仲間を集め、世界を恐怖におとしいれる魔王を倒す、という物語になるはずだった。


「……けっこう心が痛い」

「軟弱だねー。私だって一緒になって上手くも何ともないイラスト描いてたし、今更じゃん。あの情熱はこの年になると瑞々しくて羨ましくなるもんだよ」


 優芽もまだ人生の折り返しに来ていないというのに、悟りきったようなことを言う。彼女は静かにさつきの手からノートをとり、パラパラとめくりはじめた。


 自分で見てダメージは受けるのに、友達が見ても平気なんだ……と優芽がつぶやくが、さつきはまだ衝撃から立ち直れていないので耳に入らない。


 やがて、優芽がノートを閉じた。


「駄目だ。魔王の設定もイラストもあったけど、名前だけがないよ。どうして決めてなかったの?」


 さつきはうつろな目のまま記憶を手繰り寄せる。


「しっくりくる名前にしたかったから、時間をかけて考えたかったんだよね。確か、魔王の名前を知っていること事体を、すごく重要な設定にしてたはずで」

「なるほど。魔王の真の名前を呼ぶと弱体化できる、って書いてあるね」


 過去のことが芋づる式によみがえり、成功したドミノ倒しのようにひとつの光景を描く。


 ノートに設定を書きつつ、ガラケーで必死に文章を入力し、ドーパミンを脳内に満たしながら物語を書いていた中学生の頃の自分。


 だがせっかくこしらえたホームページという城への訪問者は、あまりにも少なかった。時々優芽は見てくれて感想もくれたのだが、手ごたえはそれだけ。誰かに読んでほしい宝石のような自作小説は、ネットという大海に転がる小石のひとつに過ぎなかったと、いやというほど思い知る日々だった。


 これは徒労なのではないか、とさつきは感じ始めた。ある日、情熱の炎は突如尽きてしまい、城から城主は永遠に去ってしまったのだ――





 魔王が現れてから二週間が経つが、どこかへ行ったり消えたりする気配は全くない。さつきが着替えたり眠る時は部屋から出て行ってくれるのだが、いつの間にかしれっと戻ってきている。


 彼が悪さをすることはないが、何せ架空のキャラクターとはいえ成人した異性だ。ずっと自室に滞在されるのは居心地が悪い。


 優芽との相談の結果、さつきがしっくりくる名前をつければ満足して去ってくれるのではという考えに至った。


 そういうわけでただいま、あれこれと案を出している最中なのだが――


(いろんな神話の神様の名前も調べたし、悪魔とか、歴史上の人物も調べたし。あとはどうしようかな)


 仕事中の貴重な昼休み、自席で弁当を口に運びながら、さつきは頭の中であれやこれやと考えていたのだが。


 久々に見かける顔が現れて、そちらへ目が行ってしまう。その人物へ、今年入社したばかりの社員が軽く会釈していた。


「お疲れ様です」

(慎一だ。ここに何の用事があるんだろ?)


 彼はさつきの同期で、さわやかな笑顔が素敵な重度のスポーツ漫画オタクだ。ついでにいうと、元カレでもある。彼は昨年、学生時代の後輩と結婚したそうだ。


 恋人だった期間はたった半年で、変な別れ方をしたわけではないのだが、彼の顔をまともに見るのは数年ぶりだった。


 怪訝そうに伺っていたのを察したのか、慎一は気さくに片手をあげ、こちらへ近づいてくる。さつきは、自分が緊張も未練も何も抱いていないことに心の片隅で安堵した。


「久しぶりだな。元気?」

「ぼちぼちやってるよ。そういえば、つい最近子供が産まれたんだよね? おめでとう」

「ああ、うん、ありがと」


 視線をよこにずらしながら、てれくさそうに首に手を当てる。この、素直に感情が表に出てしまうところが、さつきが慎一に惹かれた理由のひとつでもあった。


「名前はもう決めたの?」

「決めてたっていうか、奥さんとあらかじめ話してて、男の子でも女の子でも未来ってなまえにしたいなって話してたんだ」

「へえ、良い名前だね。とにかくおめでとう」


 そこでさつきのスマホが鳴った。優芽からのメッセージだった。


(めずらしいな、お昼に。オタ活の約束してたっけ?)


 そこに書かれた文章を読むうちに、どんどんさつきの口元は間抜けに開いていった。





 幸いにも仕事が溜まっておらず、ほぼ定時で退社することができた。


 車をとばして帰り、自室へと駆けこむ。だが、日常の風景と化しつつあった魔王の姿はそこにはない。


「どうしたの、さつき?」


 母の疑問の声を置き去って、駆け出した。仕事着のままで、崩れかけた化粧のままで。


 優芽からのメッセージは、衝撃的なものだった。



『昔の手帳を探したら、さつきのホームページのURLがメモしてあったの。それでアクセスしてみたんだけど。


あのホームページ、サービス終了しちゃうんだって。しかも、今日いっぱいで。

だから、あの魔王さんもこのままだったら消えるかもしれないよ。


まだ名前考えてる最中だよね? それとももう決まった?

ごめんね。もっと早く手帳が見つかっていれば、さつきに教えてあげられたのに』



 メッセージには、懐かしいURLも載せられていた。


 久々に訪れた自分の城のあちこちを、さつきはとりあえずスクリーンショットで記録した。特に小説本文は、バックアップなど一切とっていなかったので、より丁寧に。


 拙くても、出来が悪くても、その時は宝石のように輝いていたのだから。


 やがてさつきが辿りついたのは、家から一番近い小さな公園だ。子どもの姿はない。その代わり、真っ黒なマントが夕闇に紛れてそこにあった。


 息を切らしながら近づいたさつきは、魔王に尋ねた。


「何で部屋にいないの、何でブランコに座ってるの? 他のキャラと待ち合わせでもしてるの?」


 俯いていた魔王は、ゆっくりと顔をあげる。浮かべた微笑に力が宿ってないように思えて、さつきは恐ろしくなった。


「ここは……ここは、創造神が俺を作り上げた聖地ではないのか?」

「え、聖地?」


 言われてみれば。優芽やほかのオタク友達数人とでこの公園で道草し、互いの作品の設定を近所迷惑も考えず興奮気味に話していたような気がする。


(夢中になったオタクって危険だな。今さら反省しても仕方ないけど)


 魔王は無言でひとつ息を吐き、立ち上がった。そして、さつきへと向きなおる。


「創造神よ、ひとつ尋ねたい。あなた様は、俺が嫌いになったのか? あるいは、俺たちの世界を嫌ってしまったのか?」


 さつきはつばを飲み込んだ。悲哀の滲んだ声音。なぜさつきが書くのを放棄してしまったのか。なぜ自分の城から去ったのか。


 魔王はこちらを責めているのではない。ただ、答えが切実に欲しいのだろう。


「……嫌いになってないよ。最後まで書きたかった。でも、私にはそれが出来なかった。それだけだよ」


 そもそも中学生の頃のさつきに、長編小説を書き切る力量があったのかは不明だ。だがそれでも、諦めるのは早すぎたかもしれない。一万文字にも満たないまま、物語は途切れたのだから。魔王も序盤の方に思わせぶりな、いかにも悪役らしい台詞を少ししゃべっただけで、再び登場はしていないのだ。


「誰にも読まれない。気づいてもらえない。評価されない。褒められない。それがあんなにきつくて寂しいなんて、味わうまで知らなくて。でもそれを手に入れてる人もいて、うらやましくて悔しくて。時間の無駄だってわかってたのに、人気のあったホームページを見て、そこの作品を読んでみて、私と違って上手すぎてものすごく落ち込んだりして、さ……」


 話しているうちに、瞳から温かい何かが流れてきた。


 過去の出来事のはずだ。黒歴史だ中二病だとレッテル張りして、記憶の奥底に押し込めて忘れてしまえばいいのに。


 頬に何かが触れる。魔王の手だ。だが、温度がない。


「創造神よ。俺にとって創造神は、唯一、あなた様だけ」


 屈んだ魔王と、視線が合う。彼は、こちらを心配そうに見つめている。


「俺とあの世界を嫌いになったわけではない。そう思ってもいいのだな?」


 さつきは無言で頷いた。おえつが、溢れてきそうだったから。


「紡ぎたい意思があったこと、信じてもいいのだな?」


 再び無言で頷く。新しい涙が、流れていく。


「あなた様が紡ぎたくて、俺も続きをずっと欲していた。たったそれだけの理由で充分だとは思うのだが。いかんな、創造神の考えなど、俺ごときには推しはかれるはずもないのに」

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