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母の通院に付き合い、診察を終えて、母が診察室から出たところで私は医師に、少し相談が、と切り出した。


マイナンバーカードの紛失、使用したかどうかも覚えていない。

短時間で繰り返される、物置に誰かが来て物を盗っていく話。

私は遠方に住んでいて、月に何度も実家に来るのは金銭面でも辛いが、今の状態の母を一人で置く事も不安である事。

母は、家から決して離れないだろう、という事。


それらの事を相談した。


「お母様に今処方している薬は、軽度認知症の人のための薬で、進行を遅らせるものです。緩やかに進行してしまっているのは仕方がない事なのです。

 お母様の生活に関しては、デイサービスや、地域の支援に頼んでみては、としか言えません」

「そう…ですか」


わかってはいたものの、思わずため息をついてしまった。

デイサービスも、地域包括支援も、母には告げているのですが拒否されています…。

そう言ってから、ありがとうございました、と頭を下げ私も診察室を出た。


れい、何をしていたの?」

「次の診察予定の日は、私の都合が悪いから変えてもらえないか、と相談してきたのですよ」


苦笑いで心のうちを隠しつつ、嘘をつく。


れいがもっと近くに住んでくれれば問題ないのに」


こともなげに言う母。

苦笑いを浮かべている私の目と口元が痙攣しそうだった。

ため息をこらえ、痙攣をおこしかけている顔面を叱咤しつつ会計を済ませ、病院の隣の薬局で薬を処方してもらってから、町役場まで行く。

役場入り口を入った途端、母はいぶかし気な声を出した。


れい、どうしたの、役場なんて」

「母さんのマイナンバーの再発行手続きですよ」

「マイナンバー?ここにあるわよ」


と保険証や診察券が入っているポーチを取り出して見せてくる。


「お借りしますね」


と開けてみるが入っていなかった。


「やはりありませんよ、マイナンバーカード」

「おかしいわね、さっきあったのよ、落としたのかしら。図書館に戻りましょう」


なぜ図書館なのだ……

ため息をこらえられなくなった。


「いいえ、さっき行ったのは病院ですよ、受付でマイナンバーカードが無いから健康保険証を出したのですよ」

「違うわ!図書館に行ったのよ!本を返しに!その時、図書カードと前違えてマイナンバーカードを出したのよ!だから図書館にあるわ!!!」


役場の入り口付近で怒鳴り声をあげられ、私はうつむいた。


「母さん……」

「何よ!!!」

「マイナンバーカード、もう一回発行しなくてはならない決まりになっちゃったんです。だから、我慢して手続きしていただけませんか?」

「…そうなの?面倒な決まりになったわね」


どうにか平常に近い声を絞り出しながら母にそう告げ、総合受付をちらっと見ると、察してくれたようで私に頷いてみせてから、再発行手続き窓口の人を呼び、そっと事情を説明してくれていた。

ああ……。うずくまってしまいたい……。


何とか再発行手続きを済ませ帰ってきた。必要以上の疲れを感じる。

帰ってくる途中の車の中でも、物置に誰か勝手に入って来ている、と話をされた。


「ねえ、れい、ここに住めないの?」


一息つこうとお茶の支度をしていた時、母は、私の右の手首をつかみ座らせて、そう告げてきた。

母の手を振り払いたい衝動を抑え込むのに必死にならねばならなかった。


「いえ…雅人さんのお仕事もありますし、私もあちらで働いていますので、こちらに住むわけには…」


かろうじてそう絞りだした。


「でも、子どもいないでしょ、なら引っ越しや転勤は楽なんじゃないの?

 母さんの事を考えてもくれないなんて…馬鹿な子…

 鹿


絵具で塗りつぶしたかの如く、目の前が真っ白になった。


腫瘍ができた事が、何故、馬鹿と言われなくてはならないのか。

二十一歳の時に酷い痛みを感じて診察してもらうと、腫瘍ができていて、それが周囲の管をねじらせていた。

大きさもあったため、摘出手術のために入院しなくてはならなかった。

その時に親に連絡をしてしまったのが間違いだったのだろう。


母は、幾度も幾度も、親戚や祖母や近所の方々から馬鹿と言われ続けたと嘆き、悔しがり、恨んでいた。

しかし実際に皆様へその言葉を口にしていたのは、母の方ではないのか。

母は、自分は人に対して馬鹿と言わない、と私が幼い頃から繰り返し繰り返し語っていた。

では馬鹿と言われる私はヒトではないというのか。


子どもがいないご家庭など、今の時代たくさんある。それに、私に子ども…しかも女の子が産まれていたら、母の餌食になってしまう、産んでいなくて本当に良かったと思えているのだ。


確かにそのように考える私は馬鹿なのかもしれない。


私は気が付くと夜の新幹線に乗って家に帰っている最中だった。

母がつかんできた右手首が、じんわりと痒いような違和感を持っていた。


------


「あのねれい。お母さん、次の金曜日、依子おばちゃんに会わなくちゃいけないの」


電話の向こう側にいる母は、何事もなかったかのように、そのように切り出した。

前回の訪問から二週間。

次兄に、連絡を取りたい……、メールをしても、多分、無視されるだろうけれども、とりあえず、現状を話したい……。

右の手首のむず痒さは増す一方だった。

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糸の絡んだ歪んだ人形 茶ヤマ @ukifune

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