第2話 幻想なのかもしれないね

 ひとたび礼節を知り、人々を愛することを啓示されると、今度は彼らに寄り添いたくなってくるものである。それが気高い行為なのだと胸を張って、二限はしゃんとして受けた。受講生友達に偉そうに統計を教えてみせて得意だった。親切にすることで自分の穢が少し祓えたような気がした。しかし、礼節をもって傲慢を粛正するなどと満足に決意したものの、僕というやつは駄目なんだ。僕というやつは、こうして修羅を潜るような顔をして決意を新たにするのだけど、それが三日もつということは多くない。数日経ってまた同じような決心をして、三日後には忘れているんだ。そういうことを繰り返してきた。煙草だって、結局やめられず仕舞いなんだ。でも今度こそは、もうだらだらとうだつの上がらない顔をしていないで、背筋を伸ばすのだ。


 そのように思っていたのも束の間、昼休みになって恋人に会った途端に、僕はふにゃふにゃと浮かび上がった。それで良いような気もした。人間、いつも背筋を伸ばしていると疲れてしまうものだ。祖母も言っていた。

「人生にはね、遊びが必要なのよ」

「そうだね」

 この遊びというやつは、ここではゆとりのことだ。婆さんは今ふうの言葉遣いではないし、説教臭くて嫌になることもあるが、たまに年の功か真理らしいことを言う。そうだ、恋人は僕の人生にゆとりを持たせてくれるのだ。顔を見ると、抱きしめたくなる。この熱意を否定して、何が人生か! この熱が鉄の意志を鍛造するのだ。言葉では語り尽くせないほどの熱だ。むしろ、どうして、言葉でおそよ語られ得るものを愛と呼べようか。愛とは、そのために命をかけて闘うものだ。そのために全てを破壊、蹂躙、粉砕するものだ。そして同時に、流れる川のごとく。川は変化していくものであり、大いなる力動であり、そして静けさである。落ち着きである。ああ、貴女への想いは言葉になどならない。そんなことできやしないんだ。僕は結局、独りで生きていける人間だ。自活せよと言われたらできなくはない人間だ。他者を通さずに自己を愛する人間だ。自閉だ。それでも僕は思うことがあるんだ。


 ――僕は人間を愛しているんだ。


 自閉症者である僕と、他の多くの人たちは大きく異なるけれど、それでも僕は彼らと関わっていたいんだ。僕たちは同じじゃないかもしれない。僕たちは異なる人々なんだと思う。「同じ人間だよ」なんて雑に優しい生ぬるい言葉で包摂されたいわけじゃない。僕たちは僕たちとして生きているんだ。それでも――異なることを受け容れて、きみが僕と違うということ、僕がきみとは違うということ、それらを受け容れて、その上で僕たちは仲間なんだって、僕たちは理解し合えるんだって信じ合うこと。それよりも美しい祈りが、優しい信仰が、穢なき愛が、この広大な宇宙の中の淡い青のドット――地球と呼ばれる、僕たちの母――の上に、存在するだろうか。これはきっと、僕のことがお気に入りで仕方のない例の教授が講義で言っていたのと同じなんだ。多文化共生は、僕たちと彼らが異なることを承認して、その上で僕たちと彼らがともにあるということなんだ。それがほんとうの包摂なんだ。そして、彼らが望まないならば、僕たちが望まないならば、その異なるさまを自分だけのものにしておけるということだ。


「そういえば、明後日誕生日だよね」

 そう言われたのをきっかけに、僕は急に恥じ入ってしまった。浮かれていた。全く浮かれていた。僕は大学に入るのに二年も遅参したんだぞ。もう明後日には二十一歳になってしまう。二十一からが真の二十代だ。もう大人なんだ。急に僕は焦りを感じた。昼食時の人がごった返す食堂付近で、僕だけが世界から責められているように思うのだ。人間は眩しい。人工灯は痛々しくて眩しいが、人間だって実際眩しいのだ。相変わらず鬱陶しいくらい晴れた空から差す光が、人混みに乱反射して硝子みたいだ。いったい、僕は何者なんだろう。僕は最近になって、僕自身が分からないのだ。恋人の前で見せる多種多様な、愛されたい自分、入学式の頃からの腐った仲を引きずり回している知己たちと一緒にいる自分、例の学科の女子の前で、下手に無用なことを考えずに済むから落ち着いている自分、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。どれがほんとうの自分か。素の自分とは何か、今の僕にはそれが分からなくて仕方がないのだ。あるいは、全てがほんとうの自分なのかもしれぬ。みなが思うような「自分そのもの」なんていうのが幻想なのかもしれないね。アイデンティティというやつは、一部、どうやら他者からの承認や歪んだ承認や不承認によって形成されるらしい。件の教授が講義で何度も繰り返した話だ。たしかにそうだ。そのとおりだ。きみたちは他者を通して自分を見る人々なのでしょう?


 とにかく、二十一歳になるんだから、もっと僕はきちんと身嗜みをして、振る舞いを正して、高貴さをもってきっと精進します。勉強するのだ。これもまた、二十歳になったときに同じような決意をして踏ん張った記憶がある。僕は思ったよりも間抜けなのかもしれない。僕はずっと、自分の理想像に近づけていないような気がする。きっとそうだ。そうした焦りが、きっと匂いのように恋人なんかのほうへ漂っていって、彼女が心配してしまうのだ。全く極めて迷惑なことである。謝りたい。僕はずっと焦っている。淋しい男だ。僕は誰かに理解されたいのだ。僕は淋しい男だ! 無罪過の天は、きっと嘲笑すらしないほどに清らかなのだろう。僕は嘲笑にすら値しないような人間なのである。

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精神貴族 夜依伯英 @Albion_U_N_Owen

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