3

 また、記憶が飛んだ。喫煙所を出たあとのことが、ぽっかりと頭から抜け落ちている。

 気がつくと、美枝子はトイレの個室にいた。便座に腰を下ろしながら、ぜいぜいと肩で息をする。腹痛がひどかった。唇を強く噛んだせいで、微かに血が滲んでいた。

 火葬場のトイレだろうか。きっとそうだろう。腕時計に目をやると、喫煙所を出た時刻からすでに一時間が経過している。

 トイレットペーパーで汚れを拭い、腹部を押さえつつ立ち上がった。背後で自動的に水が流れる。早く自宅へ向かわなければ。親族はきっともう集まっている。妹が欠席するわけにはいかない。

 ごぼり、と異音が耳を打った。

 振り返ると、便器に汚水がたまっている。配管の奥から、嘔吐くような湿っぽい音が断続的に聞こえている。なにかが詰まってしまったらしい。いったいなにが?

 汚水がぐるぐると渦を巻いた。急速に水かさが増していく。便器の縁から、汚物が一塊流れ出した。足下に汚水が広がっていく。個室が瞬く間に穢されていく。

 美枝子は慌てて、個室の扉に手をやった。

 また、幻が視界を遮る。

 ドアの向こうで悲鳴が聞こえた。靴底に汚水が染みこんでくる。うなり声が響いていた。汚物の塊が一つ、二つ、とあふれだした。どうして開けなかったのだろう? ぐずぐずになったトイレットペーパーが、べったりと足にまとわりついた。どうして姉を見捨てたのだろう? すえた臭いが鼻を包む。姉は自分を恨んだだろうか? 汚水が靴下をぐっしょりと濡らした。姉は自分のせいで死んだのだろうか——?

 ドアスコープの向こう側で、血まみれの顔が訴えている。仮にこの幻が心霊の類いであったとしたら、姉の目的はなんだろう?

 いや——

 はたと気がつく。

 姉がなにを思うかは、きっと重要ではなかったのだ。

 後悔しない選択はなにか? 自分がなにをすべきなのか? もしもあの瞬間をもう一度だけやり直せるなら——。

 そうだ。後悔はもう、たくさんなんだ。

 鍵を解いた。

 ゆっくりと、ドアが——扉が——開いた。

 姉がいる。血まみれの顔が、ぎょっとこちらを睨めつけてる。怪物の輪郭が、暗闇の中で蠢いていた。光を反射しない、本当の黒だ。おぞましいうなり声が聞こえてくる。背骨をアスファルトですりおろすような、湿っぽく硬いうなり声だ。

「姉さん……」ドアの向こうに、踏み出した。「わたし、あのとき、見捨てて、だから」

「来るな!」姉が叫ぶ。「早く閉めて! 出てこないで! 逃げて!」

 大きく開かれた姉の口に、怪物の腕が差し込まれた。唇がざっくりと引き裂かれる。怪物の腕は、ずるずると絶え間なく喉の奥へと入り込んだ。ぎょっと見開かれた姉の目から、涙のような血が垂れた。

 真っ黒い影から、十も二十も腕が伸びる。あるものは姉の口を押し開け、あるものは衣類を引きちぎり、あるものは肛門を引き裂いていた。体内へ、奥深くへ、無数の腕が侵入していく。姉の腹部がぼこぼこ波打ち、四肢が小刻みに痙攣し、耳からしっとりと汁が流れた。

 やがて、流出が停まった。

 配管の奥では相も変わらず、ゴボゴボと異音が続いている。美枝子は個室の外へ出ると、懐から携帯を出した。微細でしつこいバイブレーションが、日比野からの着信を報せる。

「UFOを見つけたんだ」と、藪から棒にこういった。

「……そう、ですか」

「目撃情報を頼りにして、山の中腹を当たってみたんだけど」切迫した様子だった。いつになく早口で、ぜいぜいと荒い呼吸音が言葉に混じる。「プラスチック製の球体があった。大きさは一人用のテントって感じで、それで……」ガサガサと草葉をかき分けるような物音が聞こえる。「透明な、窓みたいな、ところが、あって、中を、覗いて」ぜいぜいと苦しげに呼吸する。山道を走っているらしい。「真珠だった」

「……真珠?」

「内壁にびっしり貼り付いてたんだよ! 真珠みたいな、固い粒が」興奮したように、いっそう言葉が早くなる。「でも、厳密には真珠じゃない。あれは無機物じゃないんだ。生きてるんだよ! きっとタマゴなんだ。触ればわかる。生温かいし、中でなにかが動いているし……それだけじゃない、それに、それに」ひゅう、と大きく息を吸った。「増えるんだ! 細胞が分裂するみたいに……タマゴ自体が分裂している……倍々的に……下手すると無限に!」

「……わかりません」

「きみのお姉さんは、きっとタマゴを植え付けられた。口や肛門が損傷したのは、そのせいと見て間違いない。他の犠牲者も同じだよ。そして、連中は『手慣れてきた』んだ!」

「わかりません! わかりたくありません!」悲鳴を上げた。なにも知りたくない。なにも見たくない。なにもかもが怖い。

「試行錯誤だ!」悲鳴に似た声だった。「実験を繰り返して、より適切な托卵の方法を編み出しているんだ。もしかすると、すでに方法論を確立させているかもしれない。たとえば『手術』だ! 催眠に類するなにかを使って、被害者の意識がないうちにたっぷりタマゴを植え付ける……」

 携帯が、汚水まみれの床に落ちた。両手が震えて、なにを持つこともできそうにない。スピーカーからは相も変わらず、日比野の言葉が聞こえてくる。なにかを叫んでいた。『逃げろ』とか『東京に』とか、それに類するような優しい言葉だ。

 腹がぎゅるぎゅると鳴っている。

 激痛が走った。四肢から力が抜ける。美枝子は床に這いつくばった。床に広がった茶色い汚水が、じっとりと衣類に染みこんでくる。

 自分のものだろう糞便が、あちこちに固まって転がっていた。

 ひときわ目を惹いたのは、排泄物に含まれた大粒の輝かしい真珠たちだ。電灯の明かりを受けながら、上品な虹色に輝いている。

 真珠の一つが、脈動をはじめた。

 表面に細かなヒビが入って、するり、と真っ黒い怪物が姿を見せる。怪物の輪郭は影絵のように、空間を黒く切り抜いていた。あまりに体表が黒いせいで、光を反射しないのだ。指先に載るくらいの大きさで、ひょこひょこと真珠から這い出してくる。ナメクジに手足をくっつければ、ちょうどこんな具合になるだろう。

 腹痛がひどくなった。

 腸の内側を、ずろろろろ、となにかが擦った。

 やがて——

 弛緩した美枝子の肛門から、無数の怪物が這い出してくる。

 後悔はなかった。

 ただ、苦しみがあった。

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扉の向こうで 亜済公 @hiro1205

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