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 火葬場の建物が、いつになく陰湿に見えた。曲線的な外観が、どことなく肉の柔らかさを連想させる。出入り口のあたりには喪服の人影が行き来していた。親戚の誰かだろう。

「ついさっき、姉の骨を拾ってきたんです」美枝子は片手で携帯を握る。「告別式ではありがとうございました。姉も喜んでいたと思います」涙があふれた。気分は最悪だった。携帯を持っていないほうの手で、喪服の内ポケットをごそごそ探る。くしゃくしゃになったタバコが出てきた。

「……きみは、今どこ?」日比野の声が聞こえてくる。

 空はひどく曇っていて、風は湿気に満ちあふれていた。そのせいだろう、タバコにうまく火がつかなかった。何度か試して、やっと煙が空へ昇る。

「火葬場の駐車場……の、近くです。喫煙所が外にしかなくって、今そこに」

 アクリルでできた小さな小屋が、火葬場の敷地に置かれていた。薄っぺらい小さな扉で、辛うじて外界と区切られている。

「むぅ」不満げな声が聞こえてくる。「禁煙は? 卒業するとき、ちゃんと約束したじゃないか」

「最初の一年は我慢しました」だいたい、と努めて不満げな声色を出した。「先輩が帰ってこないからでしょう? せめて半年おきくらいには『禁煙しろ』って叱ってくれなきゃ」

 参ったなぁ、と愉快そうに日比野が笑った。少し寂しげな調子だった。

 なにかが足りない、と不意に思う。なんだろう? タバコはあるし、日比野もいる。話題もある。お金も人生設計も、それほど困っているわけではない。以前と違うのはなんだろう? ……そうだ、姉だ。

 星文堂のクッキーが大の好物だった姉……ロングヘアが似合わないのをいつも悔しがっていた姉……彼氏からもらったマグカップをうっかり割って泣いていた姉……毎年のように梅酒を作って、美枝子にわけてくれた姉……あるとき『ストーカーに追われているかも』と不安げに口を開いた姉……。

「午前中、告別式のあとに」日比野が不意に、こんなことを口にする。「きみのお母様から聞いたんだ。お姉さんの、その……ご遺体の様子」

「先輩!」無意識のうちに、叫んでいた。

「ごめん」

「……いえ」深呼吸した。「いいんです。母がいったことですし」葬式の様子を思い起こす。閉じられたままの棺を前に、ざわざわと噂が錯綜していた。遺体がどんなありさまだったか。どれほど姉の最期が悲惨だったか。「母は、なんて?」

「ストーカーに襲われた、って。本当に?」

「さあ……」胸が苦しい。心臓が痛い。喉が引きつって、うまく言葉が発せられない。「わかりません。誰も見ていないんです。姉がどうして亡くなったのか……誰も……」

 そうだ。見ていないのだ。見ることから、逃げたのだ。

 姉が亡くなったのは、我が家のすぐ目の前だった。たった一枚の扉を挟んで、美枝子はその瞬間に居合わせていた。異様な悲鳴が微かに聞こえ、奇怪なうなり声が響きはじめ……けれど、扉を開けなかった。恐かったからだ。助けなければならない、と何度も頭の中で思った。けれど、ノブに触れた手は動かなかった。暴漢が目の前にいるかもしれない。自分まで殺されてしまうかもしれない。第一、姉の悲鳴はもう微かだった。今さら出て行って、なにになる? ちゃんと安全を確保してから出て行ったほうがいいのではないか?

 いや、そうじゃない。

 自分はただ、物事が定まってしまうのを恐れていただけなのだ。

 姉がひどいありさまで、そこに転がっているだろうこと——その事実を目にすることが恐ろしくてたまらなかった。これは夢だ、と思いたい。こんなのは勘違いだ、と思いたい。だから開けなかった。開けて、この目で見てしまえば、なにもかも事実になってしまう。

 いや、それも少し違う。

 もっと心の奥深くに、根本的なところに——

 そうだ。

 恐かったのだ。

 あの得体の知れないうめき声が、この世のものではないのではないか——と。

「少し、気になったんだ。不謹慎かもしれないんだけど……なんていうか、大目に見ながら聞いて欲しい。ぼくはいたって真面目だから。……確認なんだけど、お姉さんのご遺体には大きく二つの傷があったね?」

「え?」

「それは口と、肛門だね? 違う?」

「…………どうして、ですか?」いくらなんでも母だって、そんなことまでいわないはずだ。美枝子はタバコを取り落とした。「先輩、わたし怒りますよ」

「待ってくれ」

「怒ってもいいですよね? 先輩、それってあんまりですよ」涙が出た。「ねぇ、なんでそんなこというんですか? どこで知ったんですか? 母に聞いたんですか? ねぇ」

「県内で同じ事例が複数あるんだ」

 思考がまっさらになった。

 なにをいっているのか、よく、わからない。

「それ、どういう」

「文字通りだよ。暴漢に襲われ、死亡し、犯人が捕まっていない例だ。ここひと月の間に、わかっただけで五件もある。警察関係の知り合いを当たって、色々話を聞いたんだけど——十中八九、同一犯らしい。彼らがいうには、あんなひどい遺体は見たことない、って。猛獣か化け物か宇宙人にでも襲われたんじゃないか——冗談のつもりでこういわれたよ」ちなみに、と付け加えた。「不思議なのは、五人の被害者それぞれで傷の度合いが違うことだ。初期に殺害された人ほど、遺体の様子は悲惨らしい。それがだんだんと穏便になって、きみのお姉さんは……いうなれば一番『マシ』なんだ。これ、どういうことだと思う?」

「知りません」

「僕が思うに、犯人は手慣れてきたんだよ。目的がなんなのかはわからないけど」

「そんなの、知りません」混乱した。何が何だか、わからなかった。「聞きたくありません、そんなの、先輩、だって、ついさっき骨を、姉さんの、拾ったばかりで、なのに」

「先走り過ぎたかもしれないね」日比野はゆっくりと、言葉を続ける。「ただ、これだけは聞いておかなきゃ。お姉さんの骨を見て、なにか不可解なところはなかった?」

「……不可解なところ」

「なにか、気がつかなかった?」

 気がつくもなにもない——美枝子は嗚咽を漏らした。泣きたくなった。なにもわからない。わかりたくもない。世界が怖いのだ。なにが起こっているのか、目の前のものがなんなのか、何一つわからないのが恐ろしいのだ。

「焼け焦げた真珠、みたいで」

「あったんだね」

「たくさん……」

「同じだ」呟くように、日比野がいう。「他の犠牲者と、同じだ」

 プツリ、と唐突に通話が切れた。

 美枝子はボンヤリと携帯を眺める。真っ暗な画面に、痩せこけた顔が反射していた。頭上から、微かにパラパラと音が聞こえる——雨だ。ガラス張りの天井に、水滴が細かな模様を描いた。周囲がどんよりと暗くなる。

 喫煙所から火葬場まで、少し歩かなければならなかった。土砂降りになってしまう前に、早いところ戻らなければ。美枝子は袖で目元を拭い、扉へ向かった。

 また、幻が視界を覆った。

 二重写しの写真のように、現実の扉を幻のドアとが歪に重なり合っている。

 粘っこい暖気に包まれながら、美枝子は玄関に突っ立っていた。姉の悲鳴が聞こえてくる。おぞましいうなり声が聞こえてくる。電灯の明かりが、煌々と周囲を照らしていた。ミルク色の壁紙は、どことなく人間の皮膚を連想させた。

 ドアを開けていれば、死ななかったかもしれない。姉を助けられたかもしれない。犯人を逮捕できたかもしれない。後悔が胸に渦巻いている。それ以上に、恐怖が身体を引きつらせている。

 美枝子はゆっくりと足を踏み出す。白く塗装されたドアの表面に、針で刺したような点が見えた。魚眼レンズがはめ込まれている。ドアスコープだった。

 目を細める。外部の様子に目を細める。軒先に据え付けられた電灯が、ボンヤリと周囲を照らしていた。向かいには家々が並んでいて、手前には車道が延びていて——そして、姉が転がっていた。色とりどりの派手な衣類が、暗がりで無茶苦茶にもがいている。

 美枝子はいっそう目を凝らす。姉に覆い被さるように、なにかが蠢いているのがわかった。真っ黒い身体をしているせいだ、夜闇にまぎれてよく見えない。軒先の電灯も月光も、家々の窓から漏れる明かりも、怪物の姿を照らせなかった。影絵のように、黒い影がぽっかりと空間を切り抜いている。辛うじてわかるのは輪郭だけだ。無数の突起が、細く長く伸びていた。姉の四肢に絡みつき、押さえつけ、突き刺すような仕草を見せる。

 不意に、姉がこちらを見た。

 血みどろの顔が、なにかを必死に訴えている。

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