扉の向こうで

亜済公

1

 印刷した論文を胸に抱いて、早水美枝子は教授室の扉を叩いた。

「入っていいよ」と中からしわがれた声が返る。

 金属の冷たいノブを握った。歪曲した表面に、喪服姿の自分が写る。伸ばしっぱなしの乱れた髪、寒風のせいで荒れた肌、心労のせいで染みついた隈……。まるで幽霊か怪物だ。

 ドキリ、と胸が痛んだ。

 幽霊、怪物……いやな記憶が脳裏にちらつく。そういう夢や幻を、どうしてか最近よく見るのだ。

 大丈夫、きっと扉の向こうにはいつもの教授室の風景がある。奇怪なうめき声も姉の悲鳴も、聞こえてくることはない。大丈夫……な、はずだ。

 少し迷って、扉を開けた。

 金属製の分厚い扉は、ギィ、と重たい音を立てる。

「……え?」室内に目をやって、美枝子はあんぐりと口を開けた。「日比野先輩?」

「あ、早水さんだ。久しぶり」黒縁の丸眼鏡をかけた青年が、教授のそばで微笑んでいる。「用があって、東京から帰ってきたんだ。……博士論文の構想、聞いたよ。すごいじゃないか」

 美枝子が修士課程に在籍した頃、世話になった先輩だった。今は東京で学芸員をしていると聞く。相も変わらず、色白で柔和な面立ちをしていた。不正や不義理などという言葉が、これほど似合わない人間も珍しい。

 室内はひどく雑然としていた。ステンレス製の書棚には、ペーパーがぎっしりと詰め込まれている。棚に収まらなかった書籍の類いが、机にも床にも積み上がっていた。窓から差し込む陽光の中で、銀色の埃が舞っている。むっとするような古書の匂いが、鼻を心地よく包み込む。

「私としては、日比野くんにも大いに期待しているんだがね」デスクに肘を載せながら、教授が悪戯っぽい口調でいった。しわくちゃの顔に、立派な髭をたくわえている。身につけているセーターは、奥様が手編みしたものだと聞いた。赤や黄色の派手な色が、少し年齢に不似合いだった。「今からでも構わないよ。きみの業績なら試験はいらない」

「力不足ですよ」てらいのない調子で、日比野が答えた。それから美枝子に目をやって、いう。「今日はね、きみの様子を見に来たんだ。駅前できみのお母様と出くわしてさ、落ち込んでるらしいって聞いたから。それと……」少し迷うような表情で、いった。「お姉さんのこともうかがったよ」気まずそうに、ボサボサの頭をかき回す。「残念だったね」

「……はい」美枝子は頷いた。胸がいやに苦しくなった。目を瞬く。日比野の前では泣きたくなかった。「明日、火葬するんです。よければ告別式にいらしてください」それから教授に視線をやって「博論の修正が終わったので、確認をお願いできますか?」

「よし、わかった」しわがれた声で、教授は端的に返事する。ゆっくりと椅子から腰を上げ、そのまま部屋をあとにした。

 美枝子が思うに、教授は喫茶店に向かうのだろう。お気に入りの喫茶店でお気に入りのコーヒーを飲み、お気に入りの弟子が書いたお気に入りの論文を読む……。

「そういえば」扉が閉まるのを横目で見て、美枝子は日比野に向き直った。「先輩の論文、読みましたよ」

「どれ? ダダイズムのやつ?」

「ええと……」思い出した。「確か『オカルティズムとメディアの交差点における視覚的実在:UFOと心霊写真の哲学的考察』です」

「参ったね。ほとんどエッセイみたいなものじゃないか、あんなの。第一ぼくの専門は美術史で、オカルティズムは趣味みたいなものなんだけど」

「いい論考だと思いますよ。ロラン・バルトの解釈については、手つきが乱暴な気はしますけど」そういえば、と不意にちょっとしたことを思い出した。「最近、学部の子からUFOの話を聞きました」

「そう! それ!」日比野が興奮した様子で声を上げた。照れくさそうに咳払いして、いくらか声の調子を落とす。「東京から帰ってきたのは、それを調査するためなんだ」

「このあたりに出るんですか?」今ひとつピンとこなかった。

「いかんせん怪しげな話だからね……街なかでおおっぴらに話題になることはあまりないみたいだけど」教授の椅子に腰を下ろし、ギシギシと鳴らしながらこちらを見上げる。人のいい柔らかな目つきに、学者の鋭い眼光が宿った。「曰く、UFOが空を飛んでいた。曰く、UFOが山に着陸していた。曰く、UFOから出てきたお化けが夜更けに人を襲っている。曰く、お化けが歩き回ったあとには綺麗な真珠が残されている」

 知らなかった。ここのところ論文にかかりっきりだったせいだろう。自分の認知しないところで、胡乱な噂が広がっている——なんだかいやな感じがした。世間と自分とが、なにか致命的にズレていくような……突然、異界に放り込まれでもするかのような……知らぬ間に、開けてはいけない禁忌のドアをくぐり抜けてしまうような……。

「夜更けに、人を?」美枝子はうめく。

「それも、女性だけ」日比野がいった。「全身が真っ黒のお化けだってさ」

「不思議な話ですね」

「そうだね」少し考える様子を見せた。「宇宙人のデザインには類型があるんだけど、この件には当てはまらない。真っ黒い姿形でいえば、妖怪には先例があるね。江戸の奇談集にある黒坊主とか、『今昔百鬼拾遺』の影女とか」

「論文になります?」

「どうだろう」とにかく、と続けた。「これから商工会議所のほうで、目撃者と会うつもりなんだ」腕時計に目をやった。「もう行かないと。明日は必ず参列するよ」椅子から立ち上がり、のんびりと扉へ足を向ける。ノブを握った。ギィ、と扉が軋んだ。

「……あ」美枝子は息を飲む。

 まただ。

 また、あの幻がはじまった——。

「どうしたの?」日比野がノブから手を離し、心配そうに振り返った。

「……気にしないでください」頭痛がする。視界が滲む。見えないはずのものが、眼球の奥から湧き上がる。「最近、少し、疲れて、いて」

「参ったな。大丈夫そうに見えたんだけど……思っていたより重症だね」美枝子の顔を覗き込んだ。「なにが視える?」

「………………なんで」

「視線の動きでわかるさ。なにが視える? そこになにがある?」

 美枝子は目を閉じた。額にびっしょりと汗が浮いた。

 心労のせいか、腹がぎゅるぎゅる鳴っている。

「ドアです」

「ドア?」

「家の……わたしの家の、ドアです」

「どっち?」

「え?」

「決まってるだろう、きみは扉のどっち側? 重要なのはそこだよ。内側なのか、外側なのか……」

「内側、だと思います」

「……なるほど」重々しい口調だった。「他には? なにがある?」

「声が、聞こえます」呼吸が荒くなる。肺がぜいぜいと悲鳴を上げる。肋骨が痛んだ。心臓が派手に飛び回るせいで、頭の中が変になった。「姉の……」

 姉が亡くなって以来、ずっとだった。ふとした瞬間に幻を見る。大抵はドアノブを握ろうとしたとき、視界に突然わりこんでくるのだ。幻が消えるまでは数分間で、五分続くことはめったにない。

 最初に見えるのはドアだった。美枝子は玄関に突っ立って、じっとドアと向き合っている。やがて、向こう側から音が聞こえた。耳を引っ掻くような姉の悲鳴と、ねっとりとしたうめき声だ。美枝子はドアのこちら側で、選択を迫られる——開けるか、それとも閉めるか。

 ドアの隙間から、するすると寒風が吹き込んでいた。冬は盛りに近づきつつある。室内の暖気を押しのけて、寒風が美枝子の頬を撫でた。悲鳴が聞こえる。喉を引き裂くようなしわがれた悲鳴が、少しずつ細くなり、やがてぷっつりと途絶えてしまった。あとにはただ、怪物のような唸り声が低く響いてくるばかりだ。この世のものとは思えない、なにかをあざ笑うような唸りだった。

「なるほどね」

 美枝子はゆっくりと瞼を開けた。幻はいつの間にか消えている。目の前には、いつもの教授室の光景があった。古書の類いが積み上げられ、埃と紙の匂いが充満している。暖かく心地よい部屋だった。

「もしかすると……姉さんが……」美枝子は少しばかりためらいながら、自嘲するような口調でいった。「わたしを恨んでるんじゃないか……わたしを呪ってるんじゃないか、って」

 日比野はじっと、こちらを見つめた。なにかを見通すような、けれど肝心な部分がうまく見えずに困っているような……そういう不思議な表情をしている。

 窓から差す陽光が、黒縁の丸眼鏡に反射していた。

「呪い、ね」悩ましげな口調でいう。「そういう考え方はよくないよ。なぜって『これは呪いだ』と考えるたび、暗澹たる気持ちになるだろう? 要するに『呪い』という言葉はね、それ自体が文字通り『呪い』だ……」とにかく、と続ける。「きみの見ている幻について、すべきことは簡単だよ。心霊によるものであろうと、心因性の病であろうと、ね」

「すべきこと?」

「いいかい、きみが幻視する『ドア』というのは『外部』と『内部』とを繋いでいる。壁じゃないんだ、開けられるんだよ。だけど、きみはそうしない。外部から聞こえる物音にずっと怯え続けている。開けないのは怖いからだ。でも、乗り越えるにはドアを明けて『向こう側』と向き合うしかない。ぼくが思うにこの葛藤こそ、きみの心労の根本だね」

「開けろっていうんですか?」

「まさか。ぼくが同じ状況に置かれたとして、きっとそんな勇気はないよ」

「じゃあ」

「ぼくは昔、きみの家に何度か伺ったことがある。そのときの記憶が正しければ」にっこりと人のいい笑みを浮かべて、いう。「ドアスコープがあったはずだ」

 美枝子は手洗いに向かった。

 心労のせいだろう、この頃はやけに腹痛が多い。


   □□□


 ——気がつくとベッドの上だった。

 真っ暗な部屋で、毛布に一人くるまっている。

 壁掛け時計の音だろうか——カチン、カチン、カチン、カチン。

 じっと暗闇を見つめていると、やがて少しずつ目が慣れてきた。

 夜だ。

 いつ夜になったのだろう?

 いや——

 いつ、ベッドに入ったのだろう?

 日比野と別れたあとの記憶が、どうしてかすっぽりと抜け落ちている。

 心労のせいだろうか。

 ここのところ、自分はどこかおかしかった。

 ふと、ベッドのそばに光を見る。

 真珠のようななにかの粒が、ボウッと微かに輝いているのだ。

 それがやけに、綺麗だった。

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