彼はダンスが下手なので

坂水

*

 島民たちは、踊りで意思疎通しているという。

 かつては言葉を使っていたが、彼らの声には呪力が宿っており、それを恐れた宗主国の王が禁じた。

 島民らは皆、喉を潰して声を封じ、恭順の意を示すために、王へ踊りを捧げた。

 その見事な舞に感じ入り、王は島民らを許し、保護した。


 私がその島を訪れたのは、絶望していたからだ。学問を志し、大学で教鞭を執っていたが、私の論文が盗作だとの噂が流れた。私を目の敵にする同僚に陥れられたのだ。

 信頼していた師には裏切られ、慕っていてくれた学生からは白眼視され、ほとほと嫌になったところに、学生時代の友人から便りがあった。もしよかったら、自分が研究のために訪れている島に遊びに来ないかと。

 逃げるようにしてその誘いに乗った。


「こちらの言うことは理解できるけど、彼らは踊りでしか返答できない。慣れるまでは大変かもしれないけど」


 友人は住居として小綺麗な小屋を用意してくれており、あわせて一人の女性を連れてきた。


「身の回りのことは彼女に頼むといい」


 細くしなやかな躰がくるりと回り、長い一本の三つ編みが後を追って巻き付く。伸ばされた指先が美しい。長いスカートをまとっていて、腰の位置が驚くほど高い。もしかしたら、高い靴を履いているのかもしれなかった。

 彼女の名はアリン、名を呼んでも返事はできないので気を悪くしないよう、友人は忠告してきた。

 人付き合いに嫌気が差していた私にとって、言葉がないのはむしろ救いだった。


 しばらく暮らしてみると食事、掃除、洗濯、すべてが満足ゆくもので、私がありがとうとの言葉と共に深く腰を折ると、彼女は腕を広げ、交差させた。まるで翼を仕舞う仕草に似て、優美だった。

 朝食に起こされて、寝ぼけまなこで今日の天気を訊ねると、晴れならば快活に長い脚を跳ね上げ(やはり靴のかかとは高く、きらりと光ったのは金属で補強されていたのかもしれない)、雨ならば腕と指をさざなみめいて揺らす。

 昼には二人でピクニックに出掛け、出くわした島民も加わって、輪舞を披露してくれることもあった。

 夜、本を膝に置き、暖炉の揺らめく炎を眺めていると、音もなく現れたアリンが踊り出す。小刻みにステップを踏み、影をパートナーに踊る彼女は、美しく、また寂しげでもあった。

 保護という名の支配を受け入れた、いにしえの民。島民は生涯をこの島で終える。


 彼女は、というか島民全体、つまり踊りはまったく饒舌だった。複雑な意見交換は難しいが、島で同じ日々を繰り返すならば問題ない。身体全体で表現される喜怒哀楽はまさしく血が通い、熱がこもり、言葉よりもずっと濃厚に伝わる。それは簡素な寝台の上でも同じだった。


 友人にアリンと結婚したいと言えば、驚きつつも予想していたような苦笑をこぼした。思ったよりずっと早かったと。


「なら、許しを得ないと」


 お披露目の宴が催され、そこで皆に受け入れられたなら結婚は成立するという。友人はどこか楽しそうだった。この婚姻の儀が、フィールドワークの狙いの一つだったのだろう。


 島民が集まり、私も呼ばれた。火が焚かれ、楽が奏でられ、彼らは男女に別れて二列になって並んでいた。

 いつか見せてもらった輪舞のもっと規模の大きいもので、輪になり、交差し、一列になり、また別れる。足運び、腕の流れ、腰の揺れ、一糸乱れぬその様は異様な迫力があった。巨大な一個の生命体のようにうねり、螺旋を描き、曼荼羅のように続く。私は熱に浮かされたように見入った。

 と、列の先頭となったアリンに腕を引かれ、空いていた手を最後尾の女が取る。私も円環に組み込まれる。

 ああ、これが婚姻の儀であり、共同体へ加わることへの許しなのだろう。くるくるくるくる、回り巡り、離れて再び結びつく。


 どれほど時間が経過したか、足がもつれた。けれど輪は止まらず、私は蹴飛ばされ、踏みつけられた。

 初心者になかなか手厳しい。ちょっと休憩しないか。水をいっぱい──私は手を挙げて静止を求めるが、アリンも他の島民も止まらない。私は彼らの見事な足さばきをこけつまろびつ、避けて避けて、いつの間にか輪の中央にいた。

 いっぱいに広がった輪は、二重三重となり、収縮する。オレンジ色の焔に照らされ、連動する影が何倍にも膨れ上がる。私を軸として何十人、何百本の脚が迫ってくる。力強く、迷いない、律動的な動き。止まれ止まれ、ぞっとして叫ぶ──


「彼らにとって踊りは神聖であり、誓いであり、最後の業だから」


 それは私が最後に聴いた言葉であり、最後に見たのは何百の硬い鋼の靴裏だった。〈了〉

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