花火とラムネと秘密の夜

瑞葉

花火とラムネと秘密の夜

 わたしは赤嶺伊月(あかみね・いつき)。16歳の高校2年生。短い黒髪に、リップクリームのみ塗ったきりの色の薄い唇。男子みたいにきつい目力。当然、誰かの彼女になんか、なれない。

 わたしには一つ上の兄貴がいる。赤嶺葉月(あかみね・はづき)。運動神経抜群の、自慢の兄貴だった。


 最近、兄貴に彼女さんができたという話はずっと家の団欒の時に聞いてた。スポーツ雑誌と漫画雑誌だけ買ってたような兄貴が、ヘアスタイルを気にして美容院で髪を整えたり、メンズの美容グッズを洗面台に置くようになった。


 七月七日。七夕の日に家に来た「彼女さん」。愛(あい)さんと名乗ったその人は、織姫様のような、とてもほっそりとした美人さん。整った顔立ち、肩より少し長い髪はほんのり茶色く染められている。清潔感のあるヘアスタイルなので、高校の先生にだって叱られないだろう。抜群のスタイルを魅せるかのごとく、水色のワンピースを着ていた。手には白いヒラヒラした帽子があった。

「どこかのモデルさんが来たと思ったら、うちの葉月の彼女さんなんだもんねー」なんて、うちのお母さんは大喜び。

 胸の奥がモヤモヤした。はっきりと形容したら、自分のことが嫌いになりそうな「感情」が生まれた。


 七夕。そして、土曜日で、市の外れの河川敷で、毎年、小規模な花火大会があるはずだった。

 スマホ一つと財布と、そんなものだけでほとんどいっぱいになる小さなぶりっこな、ワインレッド色のカバン。わたしはそれしか持たず、夕方、ふらりと家を出てしまった。


 花火大会に行ってくるね、と母に歩きの合間にLINEしたけれど、母からは「そうなの? 急だね。まあ伊月はマイペースだからねー」とのんびりした返事。

 少しは心配して欲しかった。


 このあたりは、六月にはホタルが見られるくらいの田舎なのに、日が暮れ始めた河川敷に行ってみると、それなりには人が集まってきていた。運良く空いていた錆びたベンチに陣取って、みんなが友達同士、彼氏彼女同士で買ってるわたあめやりんご飴を、じとーっとした目で「眺めて」いた。


 喉が渇いてる。夏なのにペットボトルさえ持ってきてない。でも、このベンチから動きたくない。せっかく座れたんだもの。この場所、動いたら誰かにとられてしまうもの。

 花火が始まるまで、喉の渇きに耐えていたらいい。

 いつのまにか、ぐんと闇が深くなり、屋台の明かりだけが地上の星のように輝く暗闇となった。


 肩にヒヤリとしたものが当たった。ラムネの瓶。

 このベンチは二人がけで、ベンチの隣にさっきから座ってた人。相席したって、顔なんか見ないよね。たまたま、そこに居合わせただけの人。


「すごい汗。ハンカチも貸そうか?」

 スマートな、さらりとした物言いで、その人は言うと、わたしの手元にラムネ瓶を「強引に」押し付けた。この人が飲もうと思って、座る前に買ってきてたんじゃないの? なんで?

 

 わたしはそれでようやく、その人の顔を見た。


 会ってはならない人に会ってしまった。


 そう直感する。でも、遅い。


 葉月兄貴には、昔からとても折り合いが悪い男子が一人だけいた。兄貴と同学年に。

 物憂げそうな目。少し、生きてるのに飽きたとでも言いたげな、気だるい雰囲気を醸し出す「学年一位」の成績の人。

 気だるそうでも、その人はいつも、いかなる時も輝いていた。彦星様みたいに。

 雑誌に載ってるモデルのように、繊細で整った顔立ち。間近で見ると、ますますやばい。

 

 会ってはならない人。


 速水朔(はやみ・さく)。校内の女子からの人気が凄まじく、それでいて、彼女なんて作らないポリシーなのか。浮いた噂はなかった。でも、男子の友人も一人もいないみたいで。

 孤高の人。絵を描く才能も、ピアノを弾く才能も持つ。運動神経も人並み以上。どこにも隙のないその人の笑顔を誰も見たことがないって、そんな噂があった。


「なに? 俺の顔になんかついてる?」

 速水さんが少しだけ、笑う。得難いものを見た。優しい目で聞かれた。

 目をそらさないで見過ぎてしまったのに気がつく。反動が来て、真下を向いて、もじもじしてしまう。汗が本当にたくさん出てきて、なのにハンカチ一つ、ティッシュ一つ、今日に限って持ってない。

 速水さんは、わたしにハンカチを貸してくれた。紺色の無地のハンカチだけれど、生地が上質でしっかりしてる。折り目通りにピタリと畳まれて、シミひとつないハンカチに、わたしの汗がシミをつけてしまう。


「本当に本当に、申し訳ありません。速水さん」

 わたしは彼の顔を見られずに、ただただ、平謝りした。そして、訳のわからない言葉を続けてしまう。

「ハンカチ、洗ってお返しします。学校の下駄箱にでも、こっそり入れさせてください。本当にご迷惑をかけて、申し訳ありません。このご恩は忘れませんから」

「よしなよ。赤嶺葉月の妹なのに、ぺこぺこするな」

 今、聞こえたその言葉。速水さんはわたしが葉月兄貴の妹だって知ってる?



 パァアアア、という音が響き、金色と緑色と赤色の花火が空に打ち上がった。

 

 会場が一瞬だけ、しんとなって。

 そして、誰かの歓声がそこかしこで湧き上がる。

「きれい」

 わたしも上を見上げた。息を呑んで、口にしてた。こんな片田舎の空を彩る芸術を、ただ見つめている。

 花火が上がるのはわずか十分間。地元なので、その知識はあった。こんな田舎なんだもの。でも、その十分が、神様がプレゼントしてくれたみたいな時間。

 花火が上がってる。そして、校内の女子が憧れる男子、速水さんの隣にいる。わたし。

 胸がドラムの高速連打のように鳴りっぱなし。


 ラムネの瓶はずっと持っていた。ハンカチで顔を拭いた時も。瓶は「汗」をかいていた。でも、口をつけるのが恐れ多くて、結局、飲んでいなかった。

 速水さんもそのことについては何も言ってこなかった。

 夜はしんしんと更けていく。

 夜空に花火が生まれる十分間。終わりの花火がひときわ高く打ち上がるまでの時間。神聖なおごそかな祈りの気持ちをわたしは感じていた。


✳︎ ✳︎ ✳︎

「速水さんに、女子たち誰も、声かけませんね」

 高校での人気を思うに、誰かから声をかけられて不思議はないのに。


 花火大会が終わって、だんだんみんな帰っていく。屋台も撤収し始めていた。でも、残ってる人たちもいた。わたしもなんとなく、速水さんの隣を動けなかった。

 それで、彼に話しかける気持ちになったんだ。


「君が隣にいるからじゃない? 俺の彼女だって、みんな思ってるんじゃない?」

 さらりとした言葉になんの毒もないのに、心が鋭利なガラスで撫でられたように、ズキズキと痛む。 

 わたしはラムネ瓶をギュッと握りしめる。

 そんなに握ったら瓶が割れるのではないかと思うくらい強く。

 わたしの手からするりと、ラムネ瓶がさらわれた。なんで? 強く握りしめてたのに、あっさり持ってかれた。


「いつまでも飲まないなら、やっぱり返してもらうかな」

 速水さんは子供がイタズラをするような目で笑う。

 もちろん、彼のお金で買ったものなのに、そしてわたしが飲まなかったのに。

 巨大な機会がするりと逃げてしまったみたいで寂しくなった。もう花火もないこの会場で、わたしはひとりきりだな、と感じてた。


「それとも、半分こにするかい?」

 速水さんの言葉に毒はないのに。ないのに、わかる。わたしにはわかってしまう。

 この人に悪意がないだけ、その言葉が鋭利なガラスだってこと。葉月兄貴がこの人を嫌う理由が、今はすごくよくわかる。

 

 だから、絶対、ダメなのに。

「のど、とてもとても渇いてるんです。やっぱりもらえませんか?」

 わたしは速水さんにお願いしてしまう。 

 速水さんはラムネ瓶を開けて、ほんの一口だけ口をつけて軽く飲んだ後、わたしにその瓶を差し出してきた。


「あなたは、性格悪いですよね」

 

 わたしはそれだけ、やっとの思いで言って、そのラムネ瓶に口をつけて、中身を飲む。半分だけ飲んだ時に速水さんの顔をチラリと見た。でも、彼が優しくうなずいたので、残りもわたしが飲み干してしまった。

 

「じゃあ、瓶もらうよ。屋台のおじさんが帰っちまう前にかたそう」

 わたしから上品に瓶をまた奪いとり、速水さんは暗闇の中にかけていく。その先では屋台の撤収があらかた終わってる。


 いつか、わたし。

 いや、もう始まってるのか。

 

 花火は終わってるのに、胸の鼓動が速すぎて。周り中の何も見えない。


 きっと、速水さんを好きになってしまう。

 それは「今」か「少し先の未来」か、わたしにはわからない。


 わたしはいつか、この人のために涙を流す。

 速水さんが戻ってくる気配がしたので、彼にわたしは大声で言う。

「遅いからもう、かえりまーす」

「何言うの。夜道暗いから、送ってくよ。途中まで」

 まるで本物の彼氏みたいに、速水さんは言った。

「でも、一人で帰れますからー」

 

 わたしたちがそんなやりとりをしてると、


「お前ら、バカじゃねえの?」

 わたしが今、一番聞きたくなかった声が聞こえてくる。兄貴の、ダミ声が。


 兄貴は意外にもとても落ち着いていた。

 その様子を見るに、ラムネ瓶を速水さんがかたしに行ってたタイミング辺りで到着していたのだろう、と思った。

「妹の帰り、遅いから迎えにきた」

 とだけ、兄貴は速水さんに言う。そして、

「行くぞ。伊月」

 と、身内特有のライトな感じで言って、わたしの手を少し強引に引っ張った。

「愛さんは?」

 わたしが聞くと。

「とっくに帰った。あっちも大学生の兄さんがいて、兄さんと帰ってた。だから、俺はお前を迎えにきたんだ」

 兄貴はそう言うと、何かおかしかったのか、ぷふふ、と吹き出していた。


 速水さんはどんな様子だったっけ?

 別れの挨拶、できなかったな。

 

 でも、帰り道にわたしは気づいた。速水さんのハンカチが、この小さなワインレッドのバッグの中にある気配がした。

 わたしが無意識に入れてしまった? それとも速水さんが入れたのかな?

 返さなきゃな。きちんと洗濯して、アイロンをかけて、月曜日、下駄箱に入れるんじゃなくて、彼のクラスに行こう。


 胸の中に、隠せない想いが生まれてくる。それはなにも、今日が花火大会の夜だったからだけではなくて。

 わたしはもっといい夜を、その時はそうと気づかずに過ごしてたんだな。


 ラムネ瓶ひとつだけ経た、初めての口づけの夜を。

 

 


 

 

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花火とラムネと秘密の夜 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro

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