あこがれのひと

タカハシU太

あこがれのひと

 バスの走る音が低く響いている。トンネルを抜けると窓の外一面に大海原がパッと現れた。天野詩織は今、ガラガラのローカルバスの一番後ろに座っている。

 光り輝く世界と暗い表情。

 おもむろにバッグの中からリングケースを取り出す。しばし、その指輪を手に取って見つめていたが、意を決して右手の薬指にはめた。


 あの人が今年もやってくる。兄貴の命日に。

 その想いを胸に、島崎達也は小さな港町の幹線道路を自転車で全力疾走していた。バス停までやってきて、時刻表とスマホの時計を見比べた。どうにか間に合ったようだ。

「誰、待ってるの?」

 達也がびっくりして振り返ると、堤防の上に人影があった。水森マコ。ショートカットの見た目も、がさつな言葉づかいも、女子らしさがまるでない。

「関係ねーだろ」

 達也も堤防に上ると、無理やりマコを向こう側の岩場に引っ張りおろした。ちょうどバスが近づき、到着する。ドアの開閉音。そしてまた走り去っていく。

「だから、誰を待ってるの?」

「静かにしてくれ」

 しつこかったマコが怪訝そうな表情で、堤防の外れの石段に目を向けた。日傘を差す詩織がいた。そよ風に髪がなびき、ロングのスカートが揺らいでいる。大人の装い。

「詩織さん!」

 嬉しそうに駆け寄っていく達也を、マコは冷ややかに眺めた。

「タッちゃんのカノジョ?」

 詩織は相変わらず優しい笑みだが、今はちょっとからかうような雰囲気があった。

「まさかッ。高校のクラスメートだよ!」

「このあいだまで小学生だったのに、タッちゃん、色気づいたね」

「だから違うんだって!」

 詩織が先に歩き出すと、達也があわててあとを追っていく。

「何がタッちゃんだ。鼻の下、伸ばしやがって」

 取り残されたマコはフンと鼻を鳴らして、反対方向へ去っていった。


 街道沿いに建つ年季の入った食堂は、ドライブ客目当てに駐車場が広い。自宅を兼ねた裏口から達也が入ってきた。

「詩織さんが着いたよ!」

 厨房では父の幸太郎が黙々と仕込みをしていた。ちょうど昼営業も終わり、夕方までクローズしている。

「早く早く。着替えたらすぐ出かけよう」

 達也は外に向かって声をかけると、奥の自宅へ消えていった。続いて詩織が入ってきた。

「お父様、今年もお世話になります」

 だが、幸太郎は見向きもせず、しかめっ面で仕事を続けていた。詩織は奥へ行こうか迷った。

「あの……あとで……」

 その時、達也が顔を覗かせた。

「何してんの。オヤジなんかほっといて、早く支度して」

 詩織はまだ何か言いたげだ。

「オヤジが仏頂面なのは毎度のことだろう。けどね、内心、メチャクチャ嬉しいんだよ。娘ができたみたいだとか言って」

「あとで……お店、手伝いますから」

 詩織は幸太郎に一礼すると、達也とともに奥へと去っていった。今まで無関心だった幸太郎は、ようやく奥のほうへと振り返った。


 供えられた花束と線香。墓石の前で達也が黙祷している。目を開けて隣を見ると、詩織は依然としてじっと手を合わせ続けていた。

 今から五年前、まだ大学生だった詩織は恋人から打ち明けられた。

「オヤジの跡を継ごうと思っているんだ」

 英輔……達也の兄にあたる人だった。同じ東京の大学生。けれども、彼は卒業したら実家に戻るという。

「無理に決まってるでしょ! 私だって就職が決まったんだし、そう簡単にあなたと一緒に行けるわけないじゃない!」

「今すぐにとは言わないよ。俺、待ってるから」

「やめてよ、待たれるなんてイヤ!」

 こうして、英輔とは別れることになったのだ。永遠に。

 そして、すでに恋人関係を解消していたことを、彼の家族……幸太郎や達也にも、いまだに言えずにいた。


 墓参りから戻る途中、詩織のスマホにメッセージの着信があった。ちらりと目にしただけで、再びしまう。その表情が硬いことに達也は気づいたが、あえて軽い口調で発した。

「詩織さんも大変だねえ。こんなところまで来て、仕事に縛られるなんて」

「あ~あ、せっかく忘れてたのに。イヤだ、イヤだ。また、タッちゃんにいつものグチを聞いてもらおうかな」

 詩織もわざと明るくふるまう。

「いっそのこと、こっちで暮らしちゃえば。前に言ってたじゃん。ウチの店で働こうかなあって。従業員なら募集中だよ」

「私には勤まらないわよ」

「そうだよなあ。東京のOLじゃ、こんなド田舎は退屈だもんな」

 二人は店に着く。夜の営業はまだなのに、表戸が開いていた。

「いらっしゃいませ!」

 中に入ったらエプロン姿のマコがいたので、達也はびっくりした。

「どう? 似合う?」

 厨房に父の姿はない。

「おじさんなら、買いだしに行ったよ。バイトで雇ってってお願いしたら、OKしてくれた」

「君じゃ、無理無理」

「従業員の空きならあるから。そうでしょ、タッちゃん」

 詩織があいだに入ってきた。

「大丈夫。ちゃんとここで働けるようにしてあげるから」

「もういい!」

 マコはエプロンを投げ捨て、飛び出していった。

「ちょっと待って!」

 詩織があと追って店の外へ来てみるが、マコの姿はすでにどこにも見当たらなかった。四方八方、ぐるぐる見回すが……。


 詩織はスーツ姿で、ぐるぐる見回していた。都会のオフィス街なのに、ひと気がなく、静まり返っている。

 視線の先、車道の端にバイクが停まっていた。またがっているのは英輔だった。ヘルメットをかぶり、バイクのエンジンをかける。

 もうとっくに故郷に帰ったはずなのに、どうして東京に?

「英輔!」

 詩織は叫んだものの、英輔は気づかずに、バイクとともに走り去ってしまった。

 スマホの着信音が激しく響き、詩織はびくっとした。画面には何も表示されていない。

 英輔だろうか? 鳴りやまないので通話に出たみた。耳元に届く中年男性の声。

「あの、島崎幸太郎と言いますが……息子が……」

 一瞬の静寂。

「英輔が亡くなりました。バイクの事故で」


 詩織はハッと目覚めた。亡き英輔の部屋に、毎年、泊まらせてもらっていたのだった。

 布団から起き上がると、外はまだ暗い。お手洗いに寄ったついでに、お店のほうへ来てみた。テーブルでひとりでお酒を飲んでいる幸太郎の背中が見えた。

「まだ、お休みにならないんですか?」

「眠れないだけだ」

 振り向きもせずに返答した。

「そうでしたか……それではお先に失礼します」

 奥へ戻ろうとする詩織は呼び止められた。

「もう、ここへは来ないでくれないか」

 詩織は驚いて見返した。

「あんたのせいで、忘れたくても忘れられないんだ。毎年、毎年、この日が近づくたびにな」

「私は忘れたくありません」

「もしかして、無理して忘れないようにしているんじゃないのか」

 詩織は言葉に詰まった。

「もういいじゃないか。いつまでもつらいだろう」

「……最近、英輔さんの顔が思い浮かばなくなる時間のほうが多いんです」

 絞り出すように口にする。

「今、付き合っている人がいて……その人にプロポーズされました」

 ようやく幸太郎が振り返った。

「何を迷うことがある? その人といると幸せなんだろう?」

「だって、私だけが……」

 詩織はこらえきれなくなって、ついに吐露した。

「私、英輔さんとは別れていたんです。なのに、ずっと黙ってて……」

「だったら、なおさらだ。あんたは幸せになる義務がある。それが残された者の役目だ。あいつだって、きっとそう言うさ」

「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」

 詩織は逃げるように出ていった。そして、物陰から達也がすべてを立ち聞きしていた。


「いつか連れていってやるよ」

 英輔の言葉がよみがえる。

「何もないところだけど、空気はうまいし、眺めも最高なんだ」

 故郷のことをいつもそんなふうに語っていた。皮肉にも、この地を初めて訪れたのは、彼の葬儀だったけれども。

「詩織さん、朝ごはんできたよ!」

 達也の声に、詩織は我に返った。毎年、翌朝は幸太郎が食事を作ってくれるのだが、今朝は起きてこなかった。代わりに、達也が作ってくれることになった。この店を継ぐことに決めたそうで、修行中の身でもあった。

 食事ができるまで店内の席でひとり、ぼうっとしていたらしい。詩織は元気よく立ち上がった。

「さてと、タッちゃんの料理、毒見するかな!」

「ひどいなあ」

「このあとなんだけど、私とデートしない?」

 帰りのバスが来るまで、まだ時間はあった。

 達也の漕ぐ自転車の荷台に詩織が腰かけ、二人乗りで出発しようとした。しかし、すぐにふらつく。詩織は小さく悲鳴を上げ、達也にしがみついた。

「タッちゃん、危なっかしいなあ~」

「しっかりつかまっていないからだよ」

 詩織は達也の腰に手を添える。達也は彼女の両手を取って、自分の腰に回させる。詩織は両腕に力を入れ、しっかり掴まる。

「さあ出発!」

 自転車は海沿いの道を行く。二人だけの世界。二人きりの時間。

「兄貴のバイクにも、こんなふうに乗っていたの?」

 詩織は達也の背中に頬をそっと寄せた。じっと前方を見つめて漕ぎ続ける達也。

「英輔の匂いがする。だんだんそっくりになっていくね。毎年、来るたびにびっくりしちゃう」

「兄貴になれたらなあって思ったこともあるよ」

「だから、つらいのよ……」

 峠道を上りきると、急カーブがあり、その先にひらけた退避スペースが海側に突き出ていた。詩織は仏壇から拝借した花をガードレールの下に供えた。

「どうして急にここへ来ようと思ったの? 今までずっと行きたくないって言っていたのに」

「よーく目に焼きつけておこうと思ってね」

 大きく深呼吸した詩織は、さっぱりした顔で振り返った。

「よし、帰ろうか!」

「その前に、返してあげようよ」

 達也が自分自身の右手を示す。彼の薬指には、何もはめていない。しかし、詩織の薬指には英輔からのプレゼントを、毎年この日だけつけていた。

「せっかくここまで来たんだ。兄貴に返さなきゃって、ずっと思っていたんだろ」

 詩織は無意識に指輪に触れいた。

「詩織さん、いつまでも未練タラタラで、みっともないよ」

 達也は催促するように手を差し出してくる。詩織は指輪を抜き取ると、思いきり海へと放り投げた。達也はぽかんと眺めているだけ。

「バイバ~イ!」

 詩織は海に向かって両手を口に添えて叫んだ。

「バイバ~イ!」

「バイバ~イ!」

 達也も横に並んで声を張り上げた。交互に、交互に、交互に。


 今、停留所にバスが停まっている。開け放たれたドア越し、車内の詩織と路上の達也は向かい合って挨拶を交わした。

「タッちゃん、また来年ね」

「うん、また来年」

 いつもの約束。けれども、もう二度と会えないことを分かっていた。笑顔の二人をドアが遮断した。

 どんどん遠ざかっていくバスを、達也は見送っていた。

「あー、フラれちゃったね」

 堤防の上にマコがいた。達也は自転車を押しながら歩き出し、マコも同じ歩調で堤防を行く。

「仕方ねえから、雇ってやるよ」

「仕方ねえから、働いてやるよ」


 誰もいないバスの一番後ろの席。詩織はスマホにメッセージを打ち込み、恋人へ向けて送信する。

 流れていく窓の外の波光に目を向けた。その表情は、来た時とは打って変わって穏やかなものだった。

 やがてバスがトンネルに入り、すべてが闇に包まれた。


               (了)

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