乾杯
珠洲泉帆
乾杯
目を覚ますと、自分の顔のすぐ横に愛おしい寝顔が見えた。先に昼寝から起きたKは微笑み、傍らで眠るMの頬に指先を伸ばす。
Mの寝顔は安らかだった。彼女の胸は規則的な呼吸に合わせて上下し、口角は軽く持ち上がっている。ちっとも苦しそうでないことにKは安心した。悪夢も見ていないようだ。
Mを起こさないようベッドから出て、Kはキッチンに向かった。電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。湯が沸けるのを待ちながら、ガラスのポットに茶葉を入れた。
食器棚からひとそろいのマグカップを出す。Mのものには鳥の絵が描かれ、Kのものには魚の絵が描かれている。同じ作家の手になるもので、去年Kが記念日に贈ったのだった。Mはたいそう喜んで、他にカップがあっても頑なに鳥の絵のものを使いたがる。Kはくすぐったさと嬉しさを同時に感じた。二つのマグカップは、二人が一緒にいることの確かな象徴のように思えた。
ケトルから水が沸騰する元気な音がし出したとき、Mが寝室からそろりと出てきた。キッチンに立つKを見つけ、そっと隣に寄り添う。
「おはよう」
「おはよ」
笑みを含んでKが言うと、Mはまだ眠たげにあくびをした。
「おやつ食べる?」
「軽く食べようかな」
シンク下の置き場所からクッキーを何枚か取り出して上体を起こすと、Mが後ろからするりと腕をまわしてきた。
「今日も小春日和だね」
「そうだねえ」
「本当の春みたいに眠くなっちゃう」
湯が沸けた。ポットに熱湯を注ぎながら、Kは腹の上で重なるMの手をなでる。
「おやつ食べたら、散歩にでも行こうか」
「いいね」
手に手にカップを持って、二人は食卓につく。Mがとろんとした目でカップを口に運ぶのを見て、Kの口元はほころんだ。
「なに笑ってるの?」
「眠そうだなと思って」
「うん」
素直に認めるMが可愛らしい。Kは温かな気持ちで、まだ熱い紅茶を飲んだ。
二人が暮らし始めて半年になる。職場で出会った二人は、周囲には秘密にしたまま付き合い始めた。部署が違うのでそう気を遣うこともなかったが、一緒に住むとなると話は違った。思い切って転職し、それぞれ好きなことで働く道を見つけてから同棲を始めた。お互い仕事は軌道にのっていて、毎日が少しずつ充実してきている。Kは幸せだった。
さっき見た寝顔も、今クッキーをかじっている表情も、Mだって幸せだと告げている。しかしKは言葉で聞きたくなった。
カップを置き、わざと真剣な顔を作ってMに問いかけた。
「いま、幸せ?」
Kはきょとんと食べる手を止める。一瞬後、柔らかい笑いが彼女の顔に浮かんだ。
「うん、幸せ」
二人は同時に紅茶を飲んだ。それはまるで、この幸福な日々に捧げるささやかな乾杯のようだった。
乾杯 珠洲泉帆 @suzumizuho
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