外伝(2025年):呪い解し.com

      一

 その時、美嘉みかは幸福の絶頂にあった。

 何故なら、女子高生にとって決して短くはない一年という時間を費やして、想い、乞い、そして求め続けた願いが、遂に現実になったからだ。しかもその願いの実現については、つい最近までは敗色が濃厚で、友人からは「早く諦めた方が良いよ」と口を揃えて言われていたのだから、その喜びたるやひとしおだ。僅か十六年の人生しか生きていない美嘉が、その喜びを今まで生きてきた中で最大のものと捉えても、何ら不思議はなかっただろう。

 とは言っても、その願いの内容は、決して目を見張るほど特殊なものではない。勿論、『宝くじで三億円が当たる』なんていうオジサンくさい願望でもなく、『MeTubeのチャンネル登録者数が百万人を突破する』なんていう子供の夢物語でもない。

 田舎から見たら都会、しかし都心から見たら田舎――そんな何の変哲もないベッドタウンに住まう一女子高生らしい至極平凡な願い。

 〝恋愛成就〟

 そんな単純なことが、彼女を幸福の絶頂に押し上げているものの正体だった。

 思えば、厳しい戦いだった。

 軽やかな足取りで通学路を辿りながら、美嘉はここまでの経緯を回想する。


 お相手の男子生徒は、通っている塾で出会った。

 一目惚れだった。

 しかし、美嘉が一目惚れするほどの素敵な男性だ。多くの敵もまた、存在した。

 その敵の中でも最大だったのは、間違いなく彼の幼馴染である穂香ほのかだったろう。

 彼女は初めから圧倒的なアドバンテージを持って、彼の隣に君臨していた。しかも彼女は、清楚で可憐。ステータスで見ても、とても敵わない。それでも美嘉はありとあらゆる方法を駆使して挽回を試みるが……結局届かず。遂には、穂香の告白が成就してしまった……


 その時の苦しみが蘇り、美嘉の足取りが重くなる。本当にあの時は、死にたいほど辛かった。未だに胸が苦しくなるほどに……

(でも……)

 美嘉の顔がニヤリと歪み、再び足取りが軽くなる。

(私は決して諦めなかった。だから……)

 だから、美嘉は見つけることが出来たのだ。絶望の中、ネットの海を睨め回しながら、何か挽回の手段はないかと探して探して……そして見つけた。


 『オトハの手』


 それは、そんな名前のサイトだった。

 真っ黒な背景に、白地のゴシック体で記されたその意味不明な単語。分からぬままに、美嘉はそこに記された説明書きに目を走らせる。

 それは要約すると、おまじないみたいなものだった。ページ下にあるフォームに、〝叶えたい願い〟を入力して送信すると、その願いが叶うという話。

 馬鹿らしい。

 美嘉は当然、一笑に伏した。追い詰められていても、迷信に頼って安心するほど落ちぶれちゃあいない。

 しかし美嘉は、脇に小さく付記されていた注意書きを目にした途端、考えを改めた。

(別に何かデメリットがある訳でもなし。なら、書くだけ書いてみようかな)

 そんな思いの下に、キーボードへとそっと手を伸ばして、自分の願いを文字にした。


 あれから、約一週間。

 結果はご覧の通り。美嘉はステップを踏みながら、通学路を歩いている。正直、『オトハの手』のお陰なのかは分からない。だが一つ言えることは、書き込みをした週の日曜日。大好きな彼と憎き恋敵が過ごす初デートの夏祭りで、悲劇きげきが起きたということ――

 夏祭りの混雑に呑まれて離れ離れになった、一組の男女。人が多く、電話も繋がらない。仕方なく、別れた想い人を求めて、方々をさまよう彼。

 その光景は、別段珍しくはない。どこにでも、どんなカップルにも起こり得る事態。しかしそんな僅かな綻びが、時に決定的な亀裂に変わりうる。運悪く、彼らにもそれが起こった。

 離れ離れになっているその僅かな間に――彼女がレイプされたのだ。

 相手は、五人はいたようだ。ネット上にアップされた動画から、それが確認できる。しかし、それが確かな事実かどうかは分からない。何故なら、その犯人は残念ながら捕まっていないし、被害を受けたその彼女は……もう何も話すことが出来ないのだから……


 まったくもって、酷い事件である。だが紛うことなきその悲劇も、美嘉にとっては喜劇だった。

(清楚なんかを売りにして、彼に近付いた罰だ)

 彼女に対してはそんな感想が出るばかり。だから美嘉は早々に切り替えて、頭を巡らし、彼に接近するこのまたとない機会を最大限利用した。

 幸い、これまでの努力によって、彼を慰められる位置にいる。傷心な彼の心の内に潜り込むのに、そう時間は掛からなかった。


(彼と付き合えるなんて、夢みたい)

 美嘉は目を輝かせながら、前途に広がる甘い未来に胸を膨らませて、歩を進める。最近身体の不調が続き、頭痛に見舞われることもしばしばだが、そんな些事が気にならないからこその、幸福の絶頂だ。

(今日の放課後デート。どこに行こう)

 美嘉の頭の中には、もうそれしかない。彼女の視界には、彼との営みしか映らない。

 だから彼女は……気づけなかった。

 交差点の向こう側から、恐ろしい勢いで突っ込んでくる一台のトラック。フロントガラス越しに運転席を注視すれば、一人の男性がハンドルに倒れ込んでいるのが見えただろうが……そもそも美嘉の意識は夢のなかだ。そんなものが、目に入る訳もない。

 結局美嘉は、横断歩道の中程まで来てようやく、すぐそこに迫った道路の振動と、その異常な空気圧によってトラックを認識し……

 その一瞬後には、交通安全教室で見かけるダミー人形よろしく、軽々と宙を舞っていた。

(……え?)

 しかも驚くべきことに、それでも美嘉の意識は鮮明だった。吹き飛ばされたショックで意識を手放しても何ら不思議はないのに、彼女の意識は夢想に耽っていたよりも、余程鋭敏に外界を感知する。

(……なんで?)

 舞っていた身体が、木の葉のようにアスファルトの上に落ちた。この段階で、身体の至る所の骨が粉砕しているが、幸い痛みはない。ただ、意識だけが平時の如く活動する。

(……なに、これ?)

 目の前に迫るトラックの巨体。その二つの前輪が、凶悪な形相で美嘉に迫る。

(……こんなの……あり得ない)

 美嘉は両眼から涙を流しながら、そんなことを考える。そして――

 頭蓋がタイヤによって粉砕される直前。彼女の脳が今際の際にしたことは、魂が感じた恐怖をノルアドレナリンの大量分泌という形で身体に残すことであり、そしてもう一つは、海馬に収納されていたとある記憶を、彼女の魂に改めて刻みつけることだった。

 それは、サイト『オトハの手』に関する記憶――フォーム上部にひっそりと書かれていた注意書き。美嘉が『オトハの手』を利用することにした、運命の言葉。


『あなたの願いを叶えることで、時に人が不幸になります。それでも構わないという方のみ、以下のフォームから願いをご送付ください』


 そして送信後。切り替わるページ。

 真っ黒な背景に、赤色の一文。


『人を呪わば、穴二つ』


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ぐちゃ。



     二

 今日の朝食は、久々の和食だった。俺は元来和食好きで、ベーコンよりも鮭を好み、スクランブルエッグよりもひじきを好んでいる。特に好物は佃煮で、それさえあれば、ご飯何杯だっていける口だ。だから平時より、朝食のメニューを俺の好みに寄せていれば、和食の出現が〝久々〟なんてことにはならないのだが、大変残念なことに、俺の同居人が生粋の洋食信奉家であるため、必然、洋食が多くなるのだ。

 しかし、一体何の気まぐれか。件の同居人こと、四条瑠璃しじょうるりが昨晩、

「明日は……焼き魚と味噌汁が食べたいな」

 なんて言い出したのだ。勿論、俺に異論があろうはずもなく。

 食卓には、絶妙な火加減で焼かれた鮭が二つ。ゆったりとした湯気を上げている。

「良し。起こしてくるか」

 食卓の威容に満足した俺は、エプロンを椅子に掛けると、その足で階段を昇る。

 目的地は瑠璃の部屋。幼馴染であるが故に同い年であり、花も恥じらう(?)十六歳の部屋ではあるが、入室するのに些かの躊躇いもない。

 俺はおざなりなノックを一つ。どうせ反応などないのだからと、ほぼ時を同じくして、勢いよくドアノブを捻った。


昴生こうせいさ、私の部屋に入るのは良いけど、毎回ジョージの人形始末しようとするのは止めて」

 すやすやと眠る瑠璃を叩き起こし、ぐずる身体に着替えを投げつけて、更にそこからいくつかのやり取りを経てついた食卓。

 既に湯気を出し尽くした鮭を口に運びながら、瑠璃がジトっとした目を俺に向ける。

 ちなみに……ジョージというのは、瑠璃が気に入っている猿の人形のことだ。

「おまえがあんな人形を、毎回抱いて寝てるのがいけない」

「だって抱き心地良いんだもん。昴生もやってみなよ、貸してあげるから」

「死んでも嫌だ。あんな不気味なもん」

「……はぁ。可愛いのに。昴生の猿嫌いも相当だね」

 瑠璃が呆れたように首を振る。

 その言葉の通り、俺は猿が嫌いだ。というよりも、恐れている。中途半端に人間に似た顔、知性を感じさせる仕草、そして――毛に覆われた、その太くて短い手。その全てが、幼い日の記憶を刺激して……言いようのない恐怖を覚える。

 あんなものをベッド脇に置く、瑠璃の神経がマジで理解できない。

「あ、そうだ」

 そんなことを考えていると、瑠璃が鮭をほぐす箸の動きを止めて、唐突に俺の方を見た。

「お父さんから、昨日電話あったよ」

「親父が? なんて?」

「やっぱり今年の年末も帰って来れそうにないって。お母さんも一緒に残るみたい」

「そうか……まぁ例年通りと言えばそれまでだな」

 俺の両親は考古学者で、年中世界の遺跡を巡って歩いている。だから、この日本の家に滞在している期間は実に少なく、年末やお盆といった特別なタイミングでも、帰ってくる確率は五割以下だ。だから二人だけの記念日には、もう慣れっこになってしまっていた。

(でも……瑠璃がいなくて一人きりだったら、やっぱり寂しくも感じたんだろうな)

 目の前の幼馴染を見ながら、益体もなくそんなことを考える。

 〝ただの人〟として生きることを決めた瑠璃が、この家にやって来て、俺の両親のことを『お父さん』『お母さん』と呼ぶようになってから、今年で六年になる。もう彼女と一緒ではない記念日は遠い過去の出来事だ。

(でも……)

 と、逆接の接続詞が続く。遠い過去であっても、そんな時期も確かにあったのだ。

 今は昔。けれど褪せることのない不朽の記憶。俺たちが過ごした、忘れ難い長野での日々。

 今でもこうして、ふとした瞬間に思い出す。


     ***


「おい……本当にここで見つからないんだろうな?」

「大丈夫。今までだって、あんまり見つかったことないでしょう?」

「それはそうだけど……いくらなんでもここは……」

 歴史ある四条家の屋敷。その食堂の中央に置かれた大きな机の下で膝を丸めながら、隣で同じく小さくなっている瑠璃に苦言を呈する。いくら瑠璃の〝隠遁の秘術〟が優れていると言っても、同じ陰陽術の使い手相手では限界がある。上半身を隠すだけのシーツしか遮蔽物がないというのは、些か以上に心許なかった。

 俺は改めて、隠れ場所の変更を提言すべく口を開きかけたが……その時、食堂の扉が開く音が聞こえて、再度口を閉じざるを得なくなった。机の下の隙間から、入ってきた人の下半身だけが目に映る。それだけでも、その人物が誰であるか一目瞭然だ。

 太ももを半分ほど隠した黒いニーハイと、幾分かの肌色を開けて現れるスカートの裾。少なくとも昭和以前の時代ではまず見かけないであろうそのような格好を好んでする人間は、この屋敷ではたったの二人だけであり、その内の一人が俺の隣で蹲っている以上、目の前の人物の素性は自ずと明らかなのだ。

「……音羽姉おとはねえが来た。本当に大丈夫なんだろうな?」

 声を落として、瑠璃に尋ねる。もし本当に瑠璃の術が作用しているなら、声を落とす必要もないのだろうが……そこは人間の本能。敵の目の前で堂々と喋るようには出来ていない。

「大丈夫。お姉ちゃんでも、絶対にこれは破れないから」

 対し瑠璃は、自信満々にそう答える。声量も普段通り。普通なら、確実に相手に見つかっているだろう。しかし……

 音羽姉はしばらく扉の前でウロウロしていたが、やがて何も見つけることが出来なかったのか、再度扉を開けて食堂から出て行った。

「ね? 大丈夫だったでしょ?」

 瑠璃が得意げに胸を張る。俺は素直に驚嘆し、

「凄い! 前よりもずっと精度が上がって――」

 と言いかけて、口をつぐんだ。

 瑠璃が「しまった!」という表情と共に、俺の口を両手で塞いだからだ。そして――

「み~つけた」

 頭の中で声が響く。その冷酷な宣言を聞き、俺はすぐにこの場から逃げようとするが……

「……くそ。動かない」

 やはり、とでも言うべきか。見つかったと同時に掛けられたのだろう〝不動金縛り〟によって、身体は既にピクリとも動かなくなっていた。

「……瑠璃は動ける?」

 唯一可動する首を回らせて瑠璃を見る。だが、彼女も俺と同じ状態だった。首を振って、

「……無理。お姉ちゃんの対人干渉能力には勝てる気がしない」

 そんな諦めの言葉の直後、食堂の扉が勢いよく開く無情の音が、俺たちの鼓膜を揺らした。


「あ~あ、今回はイケると思ったんだけどな」

 悔しそうな瑠璃の言葉に、音羽姉が優しく微笑む。

「うん。かなり良い線いってたわよ。昴生の感情がブレなければ、多分発見出来なかったと思うから」

「うぅ……感情の動きにはプロテクト掛けてなかった……」

「うん、知ってる。だからこそ、感情の感知網を広げたんだもの」

 全てを知り尽くしていたと言わんばかりの言。彼女こそが、瑠璃の姉。四条家始まって以来の才媛と謳われる、四条音羽しじょうおとはだ。

「はぁ……私だって、もうお父様より強いのにな……」

 これは、瑠璃の言。それは、お互いの陰陽の術を駆使して行われる〝かくれんぼ〟が終わった後、決まって交わされる会話の一つだった。

「お父様と言えば……さっき瑠璃たちを探している時に会ったのだけれど、何か用事がありそうだったわよ?」

「え!? お父様が?」

 パッと瑠璃の顔が明るくなる。幼い頃に母親を亡くした瑠璃は、自他共に認めるお父さん子なのだ。

「うん、何の用事かは分からないけれど。時間が出来たら、適当にお父様の部屋に顔を出した方が良いと思うわ」

「今から行くよ! 良いよね?」

 上目遣いで、瑠璃は音羽姉に確認する。

「良いよ。もうかくれんぼは終わったしね」

 対し音羽姉は、少し呆れたような苦笑を浮かべて、それでも優しく頷いた。

「ありがと! じゃあ、行ってくるね!」

 元気にそう言った瑠璃は、一目散に駆け出して……しかし、すぐに急停止した。

「……お姉ちゃんも一緒に行く?」

 まるで、楽しいことを独り占めするのは勿体ないとでも言うように。例えるなら、美味しいケーキを前にして、それを分け合おうとするかのように。

 瑠璃は首を傾げて、音羽姉に尋ねた。

「私は良いよ。一人で行って来な」

「うん……分かった。じゃあ……昴生は?」

「え? いや、俺も良いよ。他人の子だし」

 まさか俺にまでお鉢が回ってくるとは思わなくて、一瞬キョトンとする。別にこんなことで仲間外れにされたところで、それを気にしたりはしないのだが。

「分かった。じゃあ行ってくるね!」

 でも、瑠璃は優しい子だから。俺にもちゃんと確認してから、今度こそ勢いよく部屋から飛び出して行った。

「あの子のお父様好きも、もう少し大きくなれば治るのかしら?」

 瑠璃が出て行った扉を見ながら、音羽姉が呟く。

「さぁ? あんまり想像は出来ないけど。でも流石に、大人になれば治るんじゃない?」

「まぁ……そうよね。そうなるわよね。だってうちは――」

 音羽姉が囁くように、続く言葉を発する。それはきっと、俺に聞かせるというよりは、独り言に近いものだったのだろう。

「だってうちは――四条家だから」

 だからそう口にした音羽姉に、その言葉の真意を聞くのは躊躇われた。本家である四条家の問題に口を挟むことに、言いようのない罪悪感を抱いたのも、その躊躇いの原因の一つだっただろう。いずれにせよ……俺は僅かに首を傾げるのみで、それ以上その件には突っ込まず、音羽姉も自分から更に触れることはしなかった。ただ、今にして思えば――

 四条家に纏わる因縁めいた何かを意識したのは、あの時が最初だったのかもしれない。

 

     ***

 

 瑠璃や音羽姉の実家である四条家は、平安時代から続く陰陽師の家系の一つだった。

 詳細は良く知らないが、どうやら平安時代末期に山城国を本拠としていた四条家の何某が、同じく山城国にあった賀茂御祖神社と関係を持ったことが起源であるらしい。

 故に、その陰陽道は最高大家の賀茂家直伝のものであるようで、『我が四条家には、かの土御門家に勝るとも劣らない力があり、呪い祓いの力に限れば、どの家にも負けることがない』というのが、彼らの誇りの一つだった。少なくとも、俺は何度もその話をおじさんから聞いたことがある。事実、太平洋戦争においては、他の陰陽師が時のアメリカ大統領を呪殺する傍ら、敵からの呪詛を一身に引き受けたのは四条家であり、天皇家や政府中枢の重要人物の誰にも被害を出さずに終戦まで持ち堪えたのは、大きな功績だったようだ。

 しかも、本土決戦に備えて作られた政府中枢機能の移転先『松代大本営』の場所が長野に決まった大きな理由の一つが、〝四条家の本拠地が長野だったから〟と言うのだから驚きだ。ESP戦における守護の要として、如何に四条家が重要視されていたかが窺える。

 しかし、残念ながら実際の物理戦においては大国アメリカに敵うわけもなく……結局日本は敗戦し、その後のGHQによる統治政策によって、陰陽師の家系も軒並み解体。多くの優秀な陰陽師が闇に葬られ、四条家もそれ以降は、政治の表舞台のみならず世間からも隔絶されたあの屋敷で、ひっそりと余生を送るばかりとなっていた。

 そしてその影響は――当然のように四条家の分家にも及ぶ。

 山科やましな家、鷲尾わしお家、西大路にしおおじ家、油小路あぶらのこうじ家、櫛笥くしげ家、八条はちじょう家――古くはこれだけあった分家筋も、時代の流れと共に、そしてGHQの政策が最後のトドメとなって次々と消滅。

 俺――鷲尾昴生わしおこうせいの実家である鷲尾家を除いては、もう一つとして残っていない。その鷲尾家も、もはや両親と俺しか残っておらず、〝核家族〟そのものだ。

 つまり……平安時代から続いた四条家の歴史は、二十世紀後半から二十一世紀にかけて、遂に潰えることになったのだ。陰陽師という血筋は、誰にも受け継がれることもなく、この世界から消えていく運命であったのだ。

(にも関わらず……)

 俺は焼き鮭に舌鼓を打つ瑠璃を見ながら考える。

(あとは消えるばかりだった末期の家に、誰にも必要とされなくなった傍流の家系に、何の因果か、天才が二人も産まれた。思えばそれが、悲劇の始まりだったのかもしれない)

 俺の視界には、もう瑠璃は映っていない。見えるのは、一面の〝火〟だまり。まるで陽の光が地を照らすように、灼熱の炎が世界を赤く染める地獄の空間。断末魔の悲鳴を上げながら、毎日のように通った俺たちの遊び場が崩れてゆくその様は、俺の網膜にしっかりと焼き付いている。

「昴生?」

 だからこそ、その映像を止めることが出来るのは、同じ地獄を生き抜いた彼女の声音だけだ。気がつくと、心配そうな顔をした瑠璃が、俺の顔を覗き込んでいた。

「どうしたの? さっきから手が止まって……ぼうっとしてたみたいだけど」

 慌てて、笑顔を浮かべる。

「ごめん、何でもない。気にしないで」

 しかし瑠璃は、その表情を崩さない。

「でも……何か思い出してたんでしょ?」

 こういう時、瑠璃は流石だ。もう陰陽術を使わなくなって久しいのに、的確に俺の心の内を言い当てる。〝天才〟――再び、その言葉が脳裏を過ぎる。

「まぁ……ね。あまり言いたくはなかったけど、敢えて言っちゃうなら」

 とは言っても、術さえ使われなければ、思考の内容まで読まれることはない。だから俺は決まって――

「瑠璃は何時になったら、お腹を出さずに眠れるようになるのかなぁって……そんな将来の不安をね」

 わざとらしく遠い目をして、そんな風に紛らわすのだ。それで大概、誤魔化せる。

 かぁっと赤くなる瑠璃の顔を尻目に、急いで残っていた味噌汁を飲み干すと、俺はササっと席を立った。

「それじゃあ、学校行ってきます。ちゃんと戸締まり、しておくんだぞ?」

 瑠璃が怒り出すよりも前に、そう言って慌ただしく家を出る。怒った瑠璃に捕まると、また朝のホームルームに遅刻してしまう。

 幸い、彼女の怒声は玄関の外に出るまで聞こえて来なかった。俺は清々しい空気に心を洗われながら、深呼吸を一つ。大きく伸びをして空を見上げる。

 平凡で、平和な日々。途方もない犠牲があって、その上で、更に奇跡のような確率で得られた時間。そんな瞬間を生きられることに感謝し、そしてその幸福を噛み締める。

 今日も――実に良い天気だった。


「あぁ……やっぱり、まだいるのか……」

 満ち足りた幸福感に浸れていたのも束の間。いつもの通学路で、いつものように、その少女と出会した。

 彼女の行動は毎日変わらない。何かに逡巡しているかのように、足を道路へと向けたり、またそれを歩道に戻したり……忙しなく、そんな行為を繰り返している。

 それでも俺が近づく頃には、決まって思いが固まるようで、忙しなかった彼女の足がその動きをピタリと止め、歩道と車道の狭間に両足でしっかりと立つのだ。そこは、もういつでも車道へ飛び出せる位置。丁度折り良く、信号は赤。早朝の出勤時間帯だけあって、車が数秒おきに通り過ぎる。今、数歩を踏み出せば、間違いなく脇腹に車のボディブローを食らうことになるだろう。だから俺は、これまたいつものように、彼女に声をかけた。

「こんなところで、どうしましたか?」

 ビクッと彼女の肩が震え、彼女の首が九十度回転し、その目が俺の顔を捉える。そして、

「な……何でもありません……」

 彼女は消え入りそうな声でそう言うと、逃げるようにその場から走り去る。息つく暇もないほどあっという間に、その姿は見えなくなった。

「ふぅ……毎日毎日、良く飽きないな」

 そんな呆れ声が口から漏れる。すると、まるでそんな俺を諌めるように、少し強めの風が吹いて、思わず顔を伏せた。自分の目を風砂から守るための咄嗟の行動だったが、そのお陰で、視界の隅で可愛らしい花束が倒れたのが目に入る。

 俺はしゃがみ込んで、倒れた花束をもう一度、ガードレールに立てかけ直した。今の衝撃で、何枚か花びらが散ってしまったが、気にするほどではないだろう。何故なら――

 少女がここで飛び込み自殺をしてから、まだ一週間。花びらがすべて散るまでには、新しい花束がまた、供えられるだろうから……


 高校の正門をくぐると、騒がしい一団に遭遇した。

「おはようございます! 会長!」

橘花たちばな先輩! おはようございます!」

「おはよ、鈴華すずか。今日は遅いんだね」

 そんな言葉が場に溢れ、その中心では、一人の女子生徒がにこやかに挨拶を返している。

「おはようございます、真希まきさん」

 その一言でまず、最初に挨拶した女子生徒の顔が真っ赤に染まった。そんな可愛らしい後輩に、優しげな笑顔を向けた生徒会長は、今度は二人目の子に話しかける。

「おはよう、綾子あやこさん。今日、部活は良いの?」

「あぁ……ハハッ。それが……ちょっと寝坊しちゃって……」

「もう……駄目ですよ? あなたは部のみんなにも期待されてるんですから。それに、才能もあるのだし。私を県大会に連れて行ってくれるんでしょ?」

「はい! 頑張ります!」

「ふふっ。その調子です。頑張ってね」

 そう言って、二人目の子にウインクを送った会長は、

美玲みれい、おはよう。今日はちゃんと、宿題やってきたの?」

 と、三人目の生徒に向き合った。

 そんな調子で、会長は声をかけてきた生徒一人一人に丁寧に言葉を返しながら、ゆったりとした足取りで校舎の方へと歩いていく。それに合わせて、この場の喧騒を作り出していた群衆も、一緒に校舎へと移動していった。

「どうしてあんなに人気なんだろうな? 会長って」

 その時、俺の脇からひょこっと顔が現れて、場の空気にそぐわない冷めたコメントを口にした。その顔に向けて、視線は立ち去る会長へ固定しながら答える。

「品行方正、容姿端麗、才色兼備。ついでに雲中白鶴うんちゅうはっかく情緒纏綿じょうちょてんめん羞月閉花しゅうげつへいか……なんてのも聞いたな。それが人気の理由なんだと」

「……何だそれ? 後半の方、聞いたこともない言葉が並んでたけど」

 俺の返事に、突如現れた友人――樋口翔平ひぐちしょうへいが眉を顰める。

「女性の褒め言葉だよ。高尚だとか、気配りが出来るとか……あとは勿論、美人。要は、我らが会長は素晴らしいってこと」

「ほへぇぇ。まぁ言わんとしてることは分かるけどな。でも、それにしたって褒め過ぎだろ。俺に言わせれば、瑠璃ちゃんこそが、沈魚落雁ちんぎょらくがんだ」

 唐突に出てくる瑠璃の名前。俺たちがこっちに越して来て初めて出来た友人である翔平は、俺の家族以外で唯一瑠璃に会ったことがある人間だ。更に言えば……瑠璃にベタ惚れしている。今の四字熟語は聞いたこともなかったが、恐らく瑠璃を褒めた発言だったのだろう。

「なんでさっきの三つは知らなくて、そんな言葉が出てくるんだよ……てか、俺相手に瑠璃を褒めたって、別に意味はないぞ?」

「いや、昴生経由で瑠璃ちゃんに伝わるかもしれないじゃん?」

「別に伝えても良いけど、俺今の言葉知らないから、適当に意訳して伝えることになるよ」

「……ちなみに、どんな風な意訳になるんだ?」

 言われて、少し考える。

(なんかもう良く覚えていないが、確か〝ちんぎょ〟とか言ってたな。ちんぎょ……珍魚……深海魚?)

「深海魚みたいで美しいですね」

「なにその斬新な褒め言葉!?」

 翔平が目を剥いて驚く。どうやら違ったらしい。

「てか、雁はどこに行ったの!?」

(そう言えば、そんなようなことも言ってたな。えぇっと……そうだ、〝らくがん〟だ。漢字は『落雁』だろうな。てことは……)

「落ちて深海魚に食べられました。南無」

「深海魚に!? そんなに深く沈んじゃったの!? 可哀想だから、そんなになる前に誰か食べてあげて!!」

 もう百パーセントふざけていたが、ちゃんとツッコミが返ってくる。思わず感心してしまった。

「今度瑠璃の前で、今のコントやってあげたら喜ぶかも」

「自分のこと深海魚呼ばわりされてるのに!? 雁、食べられてるのに!?」

 翔平のツッコミが止まらない。どうやらブーストが掛かってきてしまったらしい。

「クスッ」

 しかしそんなブーストも、どこからともなく聞こえてきた笑い声によって、一瞬のうちに沈静化する。

「あ……ごめんなさい」

 笑い声がした方を振り返ると、一人の女子生徒が口許に手を当てて、まさに笑いを堪えているといった面持ちで、そこに立っていた。

 しかし、それもほんの一瞬。俺たちの視線が集まったことに気がついたその女子生徒は、ペコリと僅かに頭を下げると、一目散に校舎の方へと駆けて行ってしまった。

「あの子って……アメリだよな?」

 不意に、その後ろ姿を見送っていた翔平が、そうポツリと呟いた。

「は? アメリ?」

 フランス人みたいな響きの名前に、思わず首を傾げる。しかし翔平は、

「え? お前、アメリ知らないの?」

 と、信じられないものでも見るような目で、俺に視線を向けた。

「いや……知らない。有名人?」

「うちの学校が誇る大物MeTuberだよ。ゲーム実況系のチャンネルやってて、登録者数が三十万くらい? だったかな」

「へぇ……知らなかった。まったく興味ないからな、そういうの」

「まぁ俺も別に興味はないけどさ……普通名前くらいは聞いたことあるもんだぞ?」

 と、呆れ顔の翔平だったが、

「はぁ……」

 次の瞬間には溜息をつく。

「今の俺たちのやり取り、絶対にネタにされるよな……今日の配信、見るのが辛い」

「いや、配信見とるんかい」

 最後は俺のツッコミで締め。

 話にもひと段落ついた俺たちは、ようやく校舎に向けて、ゆっくりと足を動かし始めた。


 唐突だが、俺は友達が多い方ではない。

 日常的に会話をするのは、さっきの翔平とあと数人くらいなもので、だから基本的には、学校では静かなものだ。もし瑠璃が同じ学校にいれば、随分変わっていたのだろうが……残念ながら、現実にはそうなっていない。

 そう。瑠璃は高校に通っていないのだ。それは、〝この高校〟に通っていないという意味ではなく、文字通りの意味で、高校に通っていない。というか、何なら中学校から通っていない。

 所謂、引きこもりなのである。理由は簡単で、対人恐怖症だから。電話とかメッセージとか、直接人と顔を合わせなければ別に大丈夫なのだが、いざ対面してしまうと、文字通り恐怖心が襲ってくる。それは、緊張して話せなくなるとかそんなレベルではない。                        

 本人曰く、『例えるなら、目の前に殺人鬼がいる感じ』なんだそうだ。対人恐怖症を引き起こした原因から考えれば、別段意外な比喩ではない。本当にその通りなのだろう。

 だから瑠璃は、長野からここ神奈川に引っ越した以降は学校に通っておらず、通信教育ですべてを済ましてきた。他人とも、先程の翔平という例外を除くと、誰とも会っていない。

 とは言っても、普通の高校生と比べて学力で劣っている訳ではないことには、注意が必要だ。学校に行かずとも、真面目に努力さえすれば、今の日本では十分な学力を確保出来る。小中高全てに通いながら、瑠璃よりも学力が低い俺が言うのだから、間違いない。 

 まぁそんなこんなでご覧の通り、俺はいつも一人で登校し、学校後は部活もやらずにサッサと家に帰ることにしている。だが、食材の買い物だけは一定期間毎に必要になるので、そんな時は帰り道にスーパーに寄って帰ることになる。まさに、今日もそんなタイミングだったため、『スーパーに寄るから帰りが遅くなる』ことをメールで瑠璃に伝えると、今日の夕食の献立についてあれこれ考えを巡らしながら、普段は渡ることのない交差点の前で、信号が青になるのを待つ。

 ……いや、違う。うっかりしてた。ここの信号は押しボタン式だったんだ。ただ待っているだけでは、いつまで経っても渡ることが出来ない。

「はぁ……」

 自分の忘れっぽさに、溜息を一つ。脇に設置された押しボタンへと手を伸ばす。

 その時だった。

「ねぇ聞いた? ここで美嘉がはねられたって話」

 声が――聞こえてきた。

「え? 何それ知らない。美嘉って……あのSクラスの沢田さわだ美嘉のことだよね?」

 俺は振り返る。するとそこには、二人の女子高生の姿。制服から見て、うちの高校の生徒であることは間違いないが、見たことのない顔だった。

「そうそう。私も昨日塾に行って初めて聞いたんだけど。なんか、信号無視のトラックに轢かれたんだって」

「こわっ……大丈夫だったの?」

 二人が俺の隣に並んだ。その姿を見て、思わず目を見張る。なぜなら、ヒソヒソと話す二人の女子高生の背後に、もう一人別の女子高生が立っていたからだ。

「残念ながら。即死だったって」

「ひぇぇ……可哀想……美嘉って確か、彼氏が出来たって喜んでたよね?」

 二人は、背後の人影に気付くことなく会話を続けている。だがそれは、彼女たちにとって、きっと幸運なことなのだろう。

 だって、後ろに立つ彼女の顔は――無惨にも、潰れていたのだから。

「略奪愛だけどね。穂香ちゃんがあんなことになっちゃったから……」

「……その話は止めよ? 思い出しただけで気分が悪く……てか、え? じゃあ彼氏ってまさか……」

「そう。礼司れいじ君のこと。穂香ちゃんが亡くなって、その後釜に座った感じ」

「はぁ? 最悪じゃん。礼司君も美嘉も」

「そう。だから因果応報みたいなところもあってさ――」

 空気が澱む。顔を失くした全身血だらけの霊が、恐ろしいまでの呪詛を二人の女子高生に向けて振り撒いている。

 昔からしばしば霊を見てきた俺ではあるが、これほど禍々しい霊を見たのは久しぶりだった。流石にあのままでは……二人の心身に影響が出かねない。

(確か……鞄の中にお札が……)

 鞄のファスナーを開き、手を入れる。このお札は、瑠璃お手製だ。試したことはないが、地縛霊を一時的に祓うことくらいは出来るだろう。

「あと、これは梨沙りさから聞いたんだけどさ」

 だが、鞄の中を漁る間にも女子高生の会話は続き……次の瞬間聞こえてきた言葉によって、俺は鞄に手を突っ込んだ姿勢のまま、その場で凍りつくことになった。

「美嘉って『オトハの手』に、礼司君と付き合えますようにって書き込んでたらしいよ」

(……オトハの……手?)

「え? 『オトハの手』ってあの? ……じゃあ穂香ちゃんって本当に、美嘉に呪い殺されたんだじゃないの?」

「まぁそれは流石にないだろうけど……でも気味悪いよね。穂香ちゃんも死んで、美嘉まで死んじゃって……」

 まだ女子高生の会話は続いている。だが、もうそれは耳に入って来ない。頭を巡るのは、ただ一つの単語――オトハの手。

 『オトハ』――『音羽』。

(それに……呪いだって? 何の冗談だ?)

 不意に、かつての記憶が蘇る。四条家の屋敷――そこに設けられた書庫の中で、一冊の本を手に取り、読み聞かせてくれた音羽姉。

 あぁ……その本はとても恐ろしかった。あの時感じた恐怖は、未だに夢に見るほどだ。しかし、何より印象的なのは、怯える俺に向けて音羽姉が言い放った、あの一言だろう。

『他者を不幸にしてでも、自分が幸福になりたいと願う心。それが呪いの正体よ。人間の欲望につけ込んだ、悪魔の強力な武器の一つ。決して……忘れないで』

 その一言で、あの本は一体読者に何を伝えたかったのか、幼心に理解出来た。そう――あの物語は、怪奇現象という比喩を通して、人間の弱さを伝えた物語だったのだ。

 しかしそれが分かっても尚、怖いものは怖い。だから俺はこの歳になった今でも……猿が苦手なのだ。

(あぁ……あの本。未だに夢に見る)

 ウィリアム・ジェイコブズが著した不朽の名作。


 タイトルは――『猿の手』



     三

「……え? 昴生? なんで? あれ? 買い物は?」

 いきなり自室の扉を開け放った俺を見て、瑠璃が呆気に取られた表情で固まっている。何故か、俺が家を出る時に着させた服を脱ぎ捨てて、今まさにパジャマの袖へと腕を通そうとしているが……今は緊急事態だ。そんなことに構っている余裕はない。

「ちょっと瑠璃に話さなきゃいけないことが出来て。スーパーには行かずに戻ってきた」

 簡潔にそれだけ話すと、瑠璃の部屋に足を踏み入れる。

「え!? 入ってくるの!?」

 すると、驚愕の表情を浮かべた瑠璃がそんなことを叫ぶ。何を当たり前なことを……

「だから、話したいことがあるんだって」

「それは良いけど! せめて私が着替えてからにしてよ! 私今、上半身下着なんだけど!?」

 言われて、瑠璃を一瞥する。

「そんなこと、分かってるよ」

「分かってるなら部屋から出て行って!?」

 何故か瑠璃が興奮している。もう夕方なのに珍しい。

「何を今更……下着を洗濯してるのも、畳んで押入れに入れてるのも、全部俺じゃないか。ついでに言えば、入浴後のバスタオル一枚姿もよく見てるから、半裸も別に珍しくない」

「だからって! 着替えを見られるのは嫌なの!!」

 謎理論を振り翳し、俺を部屋の外まで押し出そうとする。

「分かった。分かったから、一旦出るから。押すのは止めろ」

 力が弱いせいで俺の身体を押し出すことなど当然出来ず、されど力は加わっている訳で、結果、上半身だけがぐいぐいと前のめりにさせられる。この体勢、結構腰にくる。

 このままでは埒が明かない。俺は深々と溜息を吐きながら、仕方なく部屋から退出した。


「昴生は、私のことをもう少し年頃の女の子として、見るべきだと思う」

 しばらくして部屋の中に招き入れられた俺は、しかし肝心の話をさせて貰うことが出来ず、椅子に座った瑠璃の前で何故か正座させられていた。

「年頃の女の子として見られたいなら、まずは一人で起きられるようになって貰いたい」

「普通に起きられるよ!?」

「朝八時までに?」

「う……そんな卑怯な……」

「卑怯じゃない。普通の人はもっと早く起きてる」

「他所は他所! うちはうちです!」

「どの口が言うか」

 頭が痛くなってきて、思わず掌を額に当てる。

「そもそも、年頃の女の子として見始めたら、共同生活に支障が生じるだろ? 風呂の度にドキドキしないといけないじゃないか」

「え? 良いじゃん別に。ドキドキしてる昴生を私が揶揄って遊ぶの。絶対楽しいって」

(……こいつ)

 下らないことに付き合うことは止めて、さっさと本題に進むことにしよう。

 正座を解いて立ち上がった俺は、瑠璃が座っている椅子に近づいて、瑠璃ごと机の端に退けた。キュルキュルとキャスターが摩擦する音が響き、「ぶぅ……」という瑠璃の不満そうな声と引き換えに、机の前にスペースができる。

 俺は、既に起動されているPCのマウスを手に取って、ブラウザを立ち上げた。

「それで? 一体全体、突然何さ?」

 ようやく話を聞く気になったのか、瑠璃は机に頬杖をつきながら、PC画面を覗き込む。

「ちょっと見て欲しいサイトがあるんだよ」

 口で言うより、見てもらった方が早い。だから俺は、それだけ言うに留めて、淡々とマウスとキーボードを操作する。やがて、『オトハの手』が画面上に表示された。

「……何これ?」

 しばらくして、瑠璃が囁くようにそう尋ねてくる。

「最近、女子高生の間で流行ってるらしい。願いを叶えてくれるサイトなんだってさ」

「願いを? そんなこと、出来るはずが……」

 そこまで口にして、瑠璃が黙る。だから俺は、その続きを俎上に上げるつもりで尋ねた。

「陰陽師なら、出来る?」

「……」

 瑠璃は答えない。探るようにじっと俺の目を覗き込み、だから俺も、その目を見つめ返す。

 先に目を逸らしたのは、瑠璃の方だった。

「……出来るよ。ただし、普通の方法じゃない」

「と言うと?」

「例えば、昴生に好きな人がいたとする。でもその人は、既に誰かと付き合っている。だからその好きな人と両想いにはなれない。そんな時……その願いを叶えるために、陰陽師は……『呪い』を使う」

 瑠璃は自分で言って、顔を顰めた。呪いを心底忌み嫌っている瑠璃にとって、それは口にするのも嫌なことなのだろう。だが……いや、だからこそ、この話は続けなければいけない。

「まさに、それと同じことが起こった。この『オトハの手』に関係する形で」

「……は? どういうこと?」

「人が死んだんだよ。瑠璃が例に挙げたのとまったく同じシチュエーションで。付き合っていた女性と、ついでに、略奪を願った女性も」

「……偶然に決まってる」

 一拍置いて、瑠璃の否定の声が部屋に響く。しかし、その語尾は確かに震えていて、そこに彼女の心境が良く表れていた。

(本当に……良いのか?)

 だからこそ、その姿を見て、もう一人の俺が自身にそう問いかける。見て見ぬふりも、今なら出来る。近いところで被害が出たと言っても、直接関係がある訳じゃない。そもそも、本当に呪いかも分からない。ならここは『偶然』だと結論づけて、もう一度平和の中に戻っていくべきじゃないのか? やっと手に入れた平凡を自らの手で捨てるのは、愚の骨頂なのではないのか?

(……でも)

 不安に揺れる、瑠璃の瞳。しかしその奥には、確かな決意も潜んでいる。

『四条家が生み出した、呪いの力を根絶する』

 そう……それが、瑠璃の決断だったのだ。

 あの日、業火に焼かれる箱庭の中で、彼女はそれを決意した。そのために、彼女は今の平凡を選び、結果ここにいる。そしてそのためなら……彼女は今の平凡をも捨てるだろう。苦しくても、辛くても、彼女は絶対にその道を選択する。

(なら俺がすべきことは、瑠璃からその選択の機会を奪うことじゃない。泣きながらその選択をした瑠璃の傍に、そっと寄り添うことだ)

「それを……瑠璃に判断してもらいたい」

 だから俺は、結局そう言った。ここに来るまでの間に何度もした逡巡を、土壇場で性懲りも無く繰り返し、そして結局、この決断をした。もう引き返すことは出来ない。

「何が起こったのか、詳しく説明する。聞いてくれるか?」

 瞬きの如き沈黙。しかしその一瞬の間に、瑠璃の目から震えが消えた。

「話して。聞いてあげるから」

 俺は話し始める。話しながら、同時に切に願う。

 どうか……この先に待ち構える未来が、後悔と共に終わりませんように――


「なるほど……確かにその話を聞くと、少なくとも何らかの呪いが絡んでるのは間違いなさそうだね」

 俺の話を聞いた瑠璃は、そう言って神妙に頷く。

「穂香がレイプされて自殺した事件。それと、美嘉が事故死した事実。その二つは、『想念の相互作用』が働いた結果だと考えれば、説明がつく」

「想念の相互作用?」

「発した想いは、必ず自分に返ってくるっていう法則のこと。例えば……」

 瑠璃が口元に手を当てて、少しだけ考える素振りを見せる。

「人に親切にした時って、された方は当然嬉しいけど、した方も心が温かくなったりするでしょ? 逆に誰かに対して怒ったら、それで益々怒りが膨れ上がったりしない?」

「あぁ……確かに。そういうことはあるな」

「それが、想念の相互作用。呪いも結局は想念の作用だから、この法則下にあるの。それも、人に実害が加わるほど強い悪想念を発する訳だからその反作用は相当でね。ちゃんと対策を講じないと、呪った方が先に倒れちゃうことすらあるんだよ」

「じゃあ今回のケースも……」

「うん。間違いないと思う。ただ、そこに『オトハの手』がどの程度関係していたかは……」

 と、そこまで話して、瑠璃は眉間にシワを寄せる。

「それにしても『オトハの手』か……まったく趣味が悪いね。昴生が言ったように、『猿の手』のオマージュなのは間違いないんだろうけど」

 瑠璃が、ベッドの上のジョージを見つめながら言う。

「過ぎた欲は身を滅ぼす……か。確かあの小説だと、願いを叶えてくれるって噂の『猿の手』に、お金を下さいって願った結果、息子が死んだんだっけ?」

「あぁ。家のローン返済のためだったんだけど……まさか、息子の弔慰金としてお金が入ってくるなんて、夢にも思わなかっただろうな」

「ホント、救われない話……んで、その救われない話を真似してこんな悪趣味なサイトを立ち上げた奴がいる……そいつ、絶対性格歪んでるね」

 そう言い捨てる瑠璃。その感情の裏にあるのは、軽蔑だろうか? それとも……憎悪だろうか? いずれにせよ、その原因にいるに違いない人物が瞼の裏に浮かんできて……思わず、口からその名前が飛び出していた。

「音羽姉が、関係してると思うか?」

 直後、瑠璃の目に力が宿った。もう不安に揺れるようなことはなく、逆に睨めるようにして俺を見ると、瑠璃は言う。

「昴生。お姉ちゃんは、もう死んだの」

「……あぁ、分かってるよ」

 だから俺は、そう答える。

 音羽姉が炎に呑まれた阿鼻叫喚の刹那。無慈悲に焼かれる彼女の目の前で、その怨嗟の絶叫を聞いたのは、他ならぬ俺自身でもあるのだから。

(でも……それでも……)

 あれ以来、考えてしまう自分がいる。

 本当に、音羽姉は死んだのだろうか? あの全てを知り尽くしていたような人が。あの若さで、陰陽師として絶対の力を有していた天才が。そして、妹を誰よりも愛していた優しいお姉さんが……あんな風に死ぬことなど、あるのだろうか?

「一つ、言っておく」

 いつの間にか、考え込んでいたようだ。一人俯いていた俺は、瑠璃の言葉に顔を上げた。

「もし万が一、あの人が死んでいなかったとしても……例え、この『オトハの手』の運営者があの人であったとしても……あの大火の中、奇跡的に生き残っていたとしても……」

 乾き切った瑠璃の目が、揺れる俺の瞳を射抜く。

「それでも、お姉ちゃんはもう戻って来ない。あの人が再び私たちのお姉ちゃんになる日は、永遠に訪れないの」

 そして瑠璃は、この件についての方針を下す。

「だから調べましょう。それでもし、あの人が本当に裏にいたのなら。その時は……もう一度、今度こそ……」

 瑠璃が、静かに宣言する。

「私たちの手で、確実に葬り去りましょう」

 そう。それが、瑠璃の決意。

『四条家が生み出した、呪い力を根絶する』

 四条家最期の当主――そして、四条家唯一の生存者である瑠璃にとって、その決意こそが、唯一絶対の十字架おきてなのだから。


     ***


「な~るほど。それで結局、俺に頼ることにしたと」

 次の日の登校時間。いつものように正門付近で彷徨いていた翔平を捕まえた俺は、昨日の件について、協力を依頼した。

「あぁ。翔平なら、『オトハの手』の利用者のことも知ってるんじゃないかと思ってさ。この間は、MeTuberの……アメリだっけ? ネット界隈のことも詳しそうだし」

「アメリを知ってるくらいで詳しい扱いされても困るんだけどな。でもまぁ……『オトハの手』については、最近流行りつつあるからな。確かに、俺も少し注目はしてた」

「やっぱり……てか、それなら何か教えてくれたって良かったのに」

「俺はこう見えて、呪いに詳しくないからな。『オトハの手』が本物かも分からなかったし、勿論、瑠璃ちゃんのお姉さんが噛んでるかも分からなかった。だから言わなかったんだよ。無用な心労を与えても可哀想だろ? それに……」

 翔平は少し困ったような顔で言う。

「俺としては、瑠璃ちゃんには〝普通の人〟として生きて欲しかったからな。今の時代、陰陽師なんてやってても碌なことにはならない。人間の倫理観が崩壊してるからな」

 そして、翔平は忠告する。

「手を引くのをお勧めするぞ? 自分から傷付きにいく必要は、ないんじゃないか?」

 その口調は、その表情は……どこまでも真剣で。翔平なりに、本気で心配して言ってくれているのが分かる。

(でも……)

「この選択が、瑠璃の生き方だから」

 それが全てだ。それ以上でも、それ以下でもない。

「はぁ……分かったよ。元より、二人の決断をとやかく言う権利は俺にはないんでね。怒られない程度に協力させて貰うよ」

 俺の想いが伝わって、諦めた様子の翔平。

「すまないな」

「良いよ。ずっと仲良くして貰ったしな」

 そう言うと、翔平はポケットから一枚の紙片を取り出した。

「数日前にたまたま聞いたんだが、この智子ともこって子が『オトハの手』に何か書き込んだらしい」

 覗き込むと、そこには『三年一組、村瀬智子むらせともこ』と書いてある。

「先輩か……お願いの内容は分かるか?」

「分からない。ただ、友達に対して『今回の中間テストでは絶対に十番以内に入りたい』って言ってたから、多分それじゃないかと思ってる」

「……聞いておいてなんだけど、やけに詳しいな。もしかして、ストーカーしてるのか?」

「『オトハの手』に注目してたって言っただろ? その一環で少し調べただけだ。願い事をした結果どうなるか――その事例が欲しかったからな」

「ふ~ん……まぁおまえがそう言うなら、そうなんだろうな」

「そうなんだよ。それに、人のこと気にしてる余裕は無いんじゃないか? 中間テスト、明日からだろ? 今日のうちに智子先輩に接触しないと、間に合わないんじゃないか?」

「う……確かに」

「……はぁ。確かにじゃないよ」

 呆れた顔で、翔平が首を振る。

「まぁ別に良いさ。それより、上手くやれよ? そう何度もネタを提供してあげられるほど、俺も情報通じゃないんだからな」

「分かってるよ。これだけで感謝してる」

 俺はそう答えて、翔平の肩をポンっと叩く。と同時に、始業五分前のチャイムが、学内に高らかに響いたのが聞こえて……慌てて玄関に飛び込んだ。


「智子? 今日休みだよ?」

 昼休み。三年一組の教室を訪ねた俺は、愕然とその場に立ち尽くした。

「……マジですか?」

「まじまじ。まぁ智子のことだから、体調不良じゃなくて、テスト勉強のためだろうけど。今回は特に気合入ってたしね。なんか、十番以内に入れば塾の先生とデート出来るんだって」

「はぁ……」

 何だそりゃ?

「あぁでも、今の私から聞いたって言っちゃ駄目だよ。もしかしたら智子、内緒にしてるのかもしんないし」

 と、呆気に取られる俺を尻目に、勝手にペラペラと喋り続ける智子先輩の友達。僭越ながら、友達は選んだほうが良いよと、智子先輩に忠告してあげたくなった。

「なんとか連絡取れないですかね?」

 気を取り直して、俺はそう尋ねるが……

「無理じゃない? 今朝から既読つかないし。家に行けば、流石にいるだろうけど……」

「じゃあ家の住所を――」

「教える訳ないでしょ? 見ず知らずの男子に」

 さっきまでの情報リテラシーの低さが嘘に思えるほど、急に厳しく目を光らせた彼女は首を横に振る。

「まぁ一応、LIMEであなたが来たことくらいは伝えてあげるから。それで満足してね」

 そう言われては、それ以上否とは言えない。俺は仕方なく、自分の名前を伝えるに留めて、その場を後にした。


 呆気なく智子先輩との接触の道を絶たれた俺は、さりとてそのままオメオメと引き下がることも出来ず、その後はダメ元で、クラスの女子に聞き取り調査を行っていた。

「『オトハの手』? 聞いたことはあるけど……アレ、都市伝説じゃないの?」

 しかし、結果は芳しくない。『オトハの手』のことを知っている女子はそこそこいるのだが、しかし利用したことがあるとなれば、話が違う。そもそも、一人の女子曰く、

「例え書き込んだことがあったとしても、あんまり人には言わないんじゃない? なんかいかがわしい感じするし……何より〝がめつい〟じゃん? 人を不幸にしてでも幸せになりたいって」

 最後の言葉は、『オトハの手』に記載された注意書きのことを指している。

『あなたの願いを叶えることで、時に人が不幸になります。それでも構わないという方のみ、以下のフォームから願いをご送付ください』

 確か、こんな文章だった。成程……これを読んで尚、願い事を送ったと言って憚らない人間は、相当の豪の者(皮肉)に違いない。至極真っ当な意見だった。

「じゃあ、あんまりサイト利用者っていないのかな?」

 その意見に思わず納得した俺は、今度はそう尋ねてみるが……しかし、どうやらそうとも言えないらしい。なぜなら、

「だって人に言わないだけで、みんな悪いことくらいするでしょ?」

 ということだった。同じ高校生とは思えないその達観した意見に、ぐうの音も出ない。流石、女子は男子と違って大人びている。

 更に、そんな正論をくれたその女子は、もう一つの正論を曰って、その場を後にした。

「てかそんな気になるなら、自分で使ってみたら?」

 仰る通り。俺はサッと荷物を纏めると、放課後を待たずに、急いで帰宅した。


 家に帰ると、着の身着のままバッグも置かずに、俺は瑠璃の部屋に突撃した。

「瑠璃! ちょっとやってみたいことがあっ――」

「わあぁぁァァ!! なんで!? なんで昴生はいつも着替え中に入ってくるの!?」

 予告なく瑠璃の部屋のドアを開けたら、また瑠璃が一人ストリップをしていた。

「……あれ? その下着、初めて見るな。新しく買った?」

「買ったよ! 悪い!? 直に見てみたらサイトで見たよりも可愛くて、思わず着てみたくなったんだよ悪いか!!」

「別に悪くはないけど……いや、でも少しサイズが……」

「うるさい! サイズとか言うな! 寄せて上げるタイプだから窮屈に見えるだけだよ!」

「あぁ、そういうことか。納得した」

「納得したなら出てって!?」

 そうして、また外で待たされること一分。改めて部屋に入り直した俺は、睨みつけてくる瑠璃をまたキュルキュルと脇に退けて、PCで『オトハの手』を開いた。


「ということで、俺が実際に願い事を送ろうと思うんだよね」

「はい。じゃあ私が送る。昴生がこの部屋に勝手に入れなくなるようにお願いする」

「そんなことしたら、一週間でここが汚部屋になるぞ?」

「ならないよ失礼な! 一ヶ月はもつよ!!」

「得意げに言うな。そして胸を張るな」

 何故か「どうだ見たか!!」とでも言わんばかりの瑠璃を見て、深々とした溜息が漏れる。

「それに結局あの下着だって、洗うの俺でしょ?」

「自分で出来るし!」

 と、瑠璃はあくまで強気だが……

「パッと見たところ、あの下着の素材シルクだからね。洗濯ネットに入れて〝ポイッ〟はご法度だよ。分かってる?」

「……え? どういうこと?」

「シルクだと形崩れしやすいから、手洗いが基本なの。洗剤も中性じゃなきゃいけないし」

「うわ……めんどくさ……昴生やって」

「心変わりが早いな……まぁ良いけど」

 本当に、将来お嫁に行けるのだろうか? と真剣に心配になる。

「俺、おまえを貰うつもりはないからな?」

「安心して。貰われるつもりはないから」

 事もなげにそう言い放つ瑠璃を見て、もう一度深々と溜息を吐くと、話を元に戻した。

「それで、願い事。実際に送ってみてどうなるか、瑠璃に見てもらおうと思うんだよね」

「あぁ……そういうことね。でも……どうだろうなぁ? 上手くいくかなぁ?」

 瑠璃が首を傾げる。

「駄目なの?」

「駄目というか……昴生がやっても呪いにならないんじゃないかな? 昴生は、〝呪いの定義〟って知ってるよね?」

「あぁ……人の不幸を願う気持ち――だっけか?」

 『猿の手』を音羽姉に読み聞かせて貰った時にも言われたが、その時だけでなく、四条家にいる時には何度も聞かされた家訓のようなものだ。忘れる筈がない。

「そう。そういう意味で、あの注意書きは〝さもありなん〟って感じ。アレを読んで、知らないうちに呪いの条件をクリアさせられるって訳。んで――昴生には、人を不幸にしてでも叶えたい願いってある? 世界平和とかじゃなくて、自分のための願いね」

 別に世界平和なんて願ってはいなかったが……かと言って、人を不幸にしてでも叶えたい願いというのも思いつかない。

「……ないな」

「でしょ? だから呪いにならないんだよ。ちなみに、呪いの原動力は悪想念だから、嘘を書いても駄目。想いが伴わなければ、発動しない」

「……案外と難易度高いな」

「だと良いんだけどね。でも実際は、結構世界にはありふれてるかもよ? 人を蹴落としてでも成功したい。人の幸福が妬ましい。自分だけが幸せならそれで良い……全部呪いに通じる想いだけど、そういうことを考えたことないって人は、多分いないんじゃないかな」

「そうなのか?」

「そうなんだよ、聖人君子さん」

 からかうように、瑠璃が言う。俺は「はいはい」と、それを流した。

「でもまぁそうなると、自分で検証するのは無理か……やっぱり中間テストが終わるまで待つしかないのかな」

「ん? 中間テスト? 何それ?」

 瑠璃が頭上に疑問符を浮かべたので、簡潔に説明する。

「学期の中間に行われる試験のこと」

「知ってるよ! てかそんなお決まりのボケは要らないよ! なんで今の流れで中間テストが出てきたのかってこと」

 今度は、俺が首を傾げる番だ。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「聞いてない。賢者のように悟った女子高生の話と、シルクの下着の洗い方しか聞いてない」

 瑠璃が冷めた目で俺を見つめる。それだけで、一つ重大な情報齟齬があることに気付いた俺は、慌てて言い繕った。

「あ……そうか……ごめん。洗い方だけじゃ片手落ちだったよね。分かってる。シルクの下着には、実は〝干し方〟にも特徴があって……」

「そこは別に気にしてないよ!?」

 瑠璃の叫びが、俺の言葉を遮る。

「今のは別に、洗い方以外の注意点を確認したわけじゃないからね!? てか、もう蒸し返すな!!」

「え? でも間違った干し方をすると形崩れの原因に……」

「あなたは下着マスターか何かですか!? てかさっきは普通に流したけど、何で男子なのにそんなに女子の下着の取り扱いに詳しいの!? 普通にキモいよ!?」

 予期せぬ方向からの攻撃。思わず、素で返してしまう。

「えぇ……必要に迫られてのことなんだけど……」

「別に私頼んでないじゃん!!」

「頼んでないけど、壊れたりすると怒るじゃん」

「そりゃ怒るよ!! 高いんだもん!!」

「えぇ……」

 アラブの王族みたいなことを言い始めた瑠璃に軽く慄きつつ、流石に話が前に進まなさ過ぎるので、もうボケるのは止める。

「えぇっと……何だっけ? あ、中間テストか。実は今朝、翔平に教えてもらってね――」

 説明すると、瑠璃が難しい顔をする。

「あまり泳がせて結果を見るみたいなことはしたくないけど……でも会えないんじゃ、しょうがないか……」

「せめてあと数日早ければね……会えば、呪いの有無は分かるんだよね?」

「多分ね。祓うことも出来るから、少なくとも『オトハの手』の影響は取り除けると思う。その後の純個人的な呪いまでは、流石に面倒見切れないけど……」

「分かってるよ。じゃあこの件に対しては、明日以降注視することにする。中間テストは三日間続くから、その途中で智子先輩に接触できるようならしてみるし」

「うん、宜しく。私も、電話には出れるようにしておくから」

 瑠璃がそう言って、一先ずこの場はお開きになる。だから俺は素直に自室に戻って、最後の足掻きで教科書を開き……とも思ったが、結局その手は教科書へと伸びることはなく。

 いつものように手を中空に差し向けると、目を瞑って精神を集中させる。

 だから、そう……最終的に部屋の電灯を消したのは、十二時を少し回った頃だった。


     ***


 中間テスト初日。少しの変化も見逃さないぞと、気合を入れて登校した俺を馬鹿にするように、既にその異変はヒタヒタと学生の間に浸透していた。あたかも萌芽を待つ新緑のように。着実に、けれど爆発的に。それは学校中を駆け巡って……

 一枚目のテストが配られる頃には、既に学校中が知ることとなっていた。

 一体、この事件のせいで何人の生徒に影響が出たのか。並行世界でも覗かない限り、その実態が明らかになることはないだろうが、全校的に、全科目の平均点が例年比で五点近く下がったことは、間違いのない事実だった。

 あの日――中間テスト初日。

 〝生徒会長、櫻井鈴華が……貧血で倒れた〟

 これを小雨と見るか、それとも嵐と見るかは……各々の見解による――


『いや……やっぱり何度聞いても、私には理解出来ないわ。何でそれで平均点が下がるの?』

 週末の喫茶店。隣の席に置いたスマホから聞こえてくる瑠璃の声が、困惑の色を深く湛えている。

 それはそうだろう。この感じは、あの学校に実際に通ってみなければ中々分かるものではない。かく言う俺も、クラス内で最も権威のある櫻井親衛隊候補生である望月もちづき君に話を聞いて、ようやく人に説明できる程度の知見を得たに過ぎないのだ。

「親が倒れて入院したら、気もそぞろになってテストに集中して取り組めなくなる。どうやらそれと同じ原理らしい」

『なに? あんたの学校って、生徒会長は親の如き存在なの? ヤバいよそれ。そこはかとなくヤバいよ』

 冗談が含まれない、混じり気なしの本気な声。そんな瑠璃の気持ちも分からなくはないが、事実、会長が倒れたという報は朝のうちに学校中を駆け巡って、心配でテストどころではない人が続出したのは事実なのだ。あまり、彼らを馬鹿にするようなことを言うべきではない。

『とか言いながら、あんたも全科目平均十点以上下げたもんね。まさか昴生が、そんな会長好きだなんて知らなかった』

「待て、誤解だ。俺のは単純に勉強時間との兼ね合いであって、会長の不在は関係ない」

『ハッ……どうだか』

 瑠璃が言い捨てた丁度その時、喫茶店の扉が開いて一人の女子生徒が中に入ってきた。その女子生徒は、軽く店内を見渡すとすぐに俺に気がついて、迷いない足取りで近づいてくる。

「あなたが……鷲尾昴生?」

 その女子生徒に尋ねられ、俺は瑠璃に乱された心を整えつつ、紳士然とした笑顔で答えた。

「はい、来てくれてありがとうございます。智子先輩」

 そう。彼女こそが、今回の騒動の元凶……かもしれない人物。中間テスト十番以内を『オトハの手』に願った村瀬智子先輩だ。

「来てくれてって……来ざるを得ない状況を作ったのはあなたでしょう?」

 しかし、智子先輩の眼光は鋭い。どうやらここ数日で行った仕込みが、お気に召さなかったらしい。

「それで? どうして私のメールアドレスがバレてるのかな? 私、友達にだってLIMEしか教えてないんだけど」

「すいません。その理由はお教え出来ません。もしそれでも気になるのなら……霊能力の一種とでも思っていて下さい」

 すると、智子先輩の顔に露骨に苛立ちの色が浮かんだ。

「霊能力……メールにもそんなこと書いてあったけど、あまり私を馬鹿にしないでくれる? 今時幼稚園児でも、もう少しまともな嘘をつくわよ」

「嘘じゃないんですけどね」

 肩をすくめる。事実、今回の仕込みのために、俺はなけなしの霊能力を駆使しているのだ。

 と言っても、今のところ俺の霊能力など瑠璃の陰陽術に比べれば子供騙しも良いところで、それに結局、ほぼすべてを翔平に頼っただけなのだから、別に自慢できるようなことではない。

「それよりも、学年十位、おめでとうございます」

 だから俺は話題を変える。

 別に不毛な押し問答をするために、智子先輩をここに呼んだわけではないのだ。

「是非、そんな快挙を成し遂げた智子先輩にケーキでも奢らせて下さい。ここのチーズケーキ、とっても美味しいって有名なんですよ」

「……まぁ良いわ。話を聞きましょう」

 幸い、智子先輩もケーキの誘惑には抗えないようで、素直に席に座ってくれる。

「ありがとうございます」

 俺はそう一言お礼を述べると、手を上げて店のマスターを呼ぶ。すると、屋敷の紳士長でもやってそうな見た目の、ピシッとスーツを着こなした初老の男性が出てきた。

「紅茶二つとチーズケーキを三つ。一つは、お土産用に包んで下さい」

「かしこまりました」

 マダムを虜にしそうな渋い声で、短くそう答えたマスターがカウンターへと戻っていく。

「……あのマスター、めっちゃ色っぽい。タイプドストレートかも……」

 いや……虜にされたのはマダムだけじゃなかった。目の前の女子高生が、うっとりした目でマスターの背中を見送っている。

「ああいうタイプが好きなんですか?」

 確かに、そういう層が一定数存在することは俺も把握している。ただ現実で出会ったのはこれが初めてだった。

「うん。カッコいいじゃん。同年代の砂利くさい男子どもより、遥かに良い」

 智子先輩は「あんたらとは違うのよ」と実際に口にしてみせた。思わず、苦笑する。

「それなら、連絡先でも交換してきたらどうです?」

「しないわよ。私、好きな人いるもん」

 だが智子先輩はそう言うと、未練を断ち切るようにマスターから目線を外した。

(そういえば、十番以内に入ったら塾の先生とデート出来る、とか言ってたな……)

 とすると、塾の先生もこんな感じの初老の男性なのだろうか? なんとなく……犯罪の匂いがする。

(まぁ良いや。今はこっちの問題に集中しよう)

 頭を切り替えて、本題に入る。

「それで智子先輩。今日聞きたいのは、『オトハの手』についてです」

「あぁ……そうだったわね。ただその前に……全部話せば、本当に私があのサイトを使ったことは黙っていてくれるのよね?」

「勿論。約束は守りますよ」

「そ」

 智子先輩は少し安心したように、背もたれに身体を預けた。

「会長があんなことになって……私は何にも関係ないのに、あのサイトのせいでとばっちり受けるのは御免だもの」

 これが、智子先輩の弁。つまり、彼女は恐れているのだ。

 『オトハの手』に書き込んだことがバレて、会長を信奉している連中に吊し上げられることを。今回は、その恐怖心を少し利用させてもらった。

「でも本当にとばっちりだと思いますか? 会長がテストを受けられなくなったから、あなたが十位に入れたのは事実ですよね?」

「偶然に決まってるでしょ。確かに私はあのサイトに願ったけど……別に会長を休ませろなんて書き込んでないし。そもそも、サイトに書き込んだくらいで願いが叶う訳がない」

「じゃあ何で、そもそも書き込んだんです?」

 少し身を乗り出して、そう尋ねる。話をしてみて分かったが、この人はかなり合理的な人間だ。占いとかおまじないとか、そういうものを信じる類の人間ではない。『オトハの手』に願い事を書き込んだこと自体が、少し不自然だった。

「憂さ晴らしみたいなものよ。勉強してもしても、十位以内に入れる気がしなくて……そんな時にあのサイトを見つけたから。別に本気じゃなかったわ」

「宝くじを買うみたいなもの?」

「多分ね。どうせ叶わないけど、もし叶ったら儲けもん――みたいな」

 あくまでも軽いノリで話す智子先輩。その姿に少し呆気に取られていると、マスターが紅茶とチーズケーキを運んでくる。それでしばらく、会話が中断した。

「あ……確かに美味しい」

 早速チーズケーキを口に運んで、目を丸くしている智子先輩。

 そんな彼女に、俺は思わずこう尋ねた。

「他人が不幸になる――その記載を見て、躊躇ったりはしなかったんですか?」

 純粋な疑問だった。まともな感性があれば、普通少しは躊躇するだろう。申し訳ないと、思ったりするだろう。しかし……智子先輩は鼻で笑った。

「そもそも信じてないし。それに、人生ってそういうもんでしょ? 上に行ける人間の数は決まってるんだから、私が上に行くには誰かが落ちないといけない。当然の話じゃない」

 一瞬、耳を疑う。

「……落ちた人間に、申し訳ないと思ったりは?」

「思わないわよ? だってその人がどうなったって、私には関係ないもの。私は、自分が幸福ならそれで良いの。当たり前の話でしょ?」

「……なるほど」

 結構ショックを受けた。世の中には、こんな考え方をする人もいるのだと、頭がくらくらする。しかし同時に、瑠璃が言っていたことも思い出す。

(そうか……あり得るのか。こういう考えが……)

 瑠璃が言っていた通り、人の不幸を願うという呪いの発動条件は、俺が思っていた以上にハードルが低いのかもしれない。

『もう良いよ』

 その時だ。なんとも暗い感情に支配されかけていた俺の耳に、瑠璃の声が聞こえてくる。

 別にテレパシーではない。左耳に入れたイヤホンが、普通にその仕事をしただけだ。

「……分かりました。ありがとうございます。あと、最後になんですが……」

 だから俺は当初からの打ち合わせ通り、話をそこで切り上げて、ポケットから一枚の形代を取り出す。

「これを両手で握って、『オトハの手』のことを思い浮かべて貰っても良いですか?」

「これは……」

 智子先輩が訝しげな顔で形代を受け取る。

「厄落としの時に使うやつ? あなた、マジでオカルト研究会か何かなの?」

 馬鹿にしたようにそう言うが、一応言われた通り、形代を両手で包み込むようにして持ち、目を瞑ってくれる。あとは、瑠璃の解析が終わるのを待つだけだった。

 この形代――正式には『識神』と呼ばれる人形ひとがたの紙は、一般には『式神』と呼ばれることが多い。陰陽師が使役する妖怪変化の類で、よく映画なんかにも出てくる奴だ。とは言っても、それと同じかと問われると……少し首を傾げてしまう。少なくとも俺は、この形代が鳥獣なんかに化けたシーンを一度も見たことがない。

 瑠璃が使う識神は、ただひたすらに、瑠璃と外界とを繋げるパスに過ぎないからだ。

 瑠璃は、この識神を通して外界に接触する。それは、三次元的な物理接触を意味しない。心霊の世界にまで足を踏み入れて、人の心の内に参入し、時に時間的制約を飛び越えて、過去や未来にまでアクセスする。瑠璃はこの識神を介して、〝限定的な全智〟になるのだ。

『良いよ』

 十秒ほどの時が流れて、再び瑠璃の声が耳に届く。予定では、これで終わり。あとは俺が、全て終わったことを智子先輩に告げてお開きとする。その……予定だったのだが。

『智子さん。目を開けて下さい』

「「へ?」」

 唐突に響いた瑠璃の声に、二人分の間抜けな声。間抜けな方は、智子先輩と……ついでに俺だ。咄嗟に、隣の席に置いたスマホに視線を向ける。すると――

(いつの間に……)

 一体どんな手品……いや、陰陽術を使ったのか。スマホのスピーカーがオンになっていた。

「え? 誰の声?」

 そして当然、狼狽える智子先輩。そんな彼女に、瑠璃が優しく語りかけた。

『突然、失礼致します。今私は、スマホを介してお話ししております。四条瑠璃――と申します。そちらの鷲尾昴生と共に、あなたをここにお招きした人間です』

 久々に聞く、瑠璃の他所行きの喋り方。彼女が名家のお嬢様だった時の名残りだ。

「……ふ~ん。それが突然何の用です? というか、今までの会話も聞いていたんですか?」

『はい。聞かせて頂いておりました。ただ、録音等はしておりませんので、安心して下さって結構です。初めのお約束通り、あなたが『オトハの手』に書き込みをしたという情報が、誰かに漏洩することは決してはありません』

 落ち着き払った瑠璃の声。智子先輩も毒気を抜かれた顔をする。それでも、まるで人を信じることを禁じているかのように、『正気に戻れ』と言わんばかりに首をフルフルと振ると、

「それを私が信じる根拠は?」

 と、強い口調でそう言った。

「ふふっ」

 しかし、それに呼応して返ってきたのは、瑠璃の上品な笑い声だった。

「人が人を信じるのに、理由が必要ですか?」

 そして、瑠璃は言う。

「人は〝疑〟を基にするのではなく、〝信〟を根底に据えるべきだと私は考えます。如何ですか?」

「は? そんなの……田舎のお爺ちゃんお婆ちゃんじゃあるまいに……」

「あら、面白い例え」

 と言いつつも、今度は笑い声は聞こえなかった。代わりに、どこか冷めた感情のない声が返ってくる。

「あなたの考えは分かりました。それでは仕方ありません。理由を差し上げましょう」

 直後、空気が揺れた。

 多分、普通の人には分からない。恐らく動いたのは、〝霊圧〟と呼ばれるものだから。識神から発せられた瑠璃の力が智子先輩に直撃し、その衝撃で霊圧が振動したのだ。

「……分かったわ。私はあなたを信用します」

 そして聞こえる、智子先輩の声。それは、瑠璃の術に落ちた証左だった。

「ありがとうございます。それでは、今からは一人の友人の言葉として、私の言葉を聞いてください」

「えぇ」

 素直に頷く智子先輩。どこまで強い術を使ったのかは分からないが、恐らく瑠璃のことを『信頼できる友人』として捉えるように、智子先輩の心に干渉したのだろう。

「さて……智子さん。一つ教えて下さい。あなたは、呪いとはどんなものだと思いますか?」

「は? 呪い?」

 智子先輩がキョトンとした顔をする。

「はい、呪いです。あまり日常で考えることはありませんか?」

「そう……ね。ホラー映画とかでなら良く聞くけど。真夜中に神社で五寸釘打ったりとか……そういのでしょ?」

 分からないながらも、友人の言葉に素直に答える智子先輩。しかしすぐに、その顔に同情の色が浮かんだ。

「まさか……あなたも、この男子みたいに霊がどうとか言うんじゃないんでしょうね。悪いことは言わないから、あんまり怪しげな人間に関わらない方が良いわよ」

 あくまでも友達として忠告する。既に、その怪しげな術の只中にあることに、本人だけが気づいていない。

「あら。あまりそちら側の世界を馬鹿にしない方が宜しいですよ? 死んでから困るのは、自分なのですから」

 そして瑠璃は、智子先輩の忠告を歯牙にも掛けずにそう言うと、

「でも智子さん。今私が話しているのは、そういう話じゃないんです。だって今どき、五寸釘を打つ人なんている訳がないでしょう?」

 カラカラと、瑠璃が笑う。釣られて、智子先輩の顔にも笑みが張り付いた。

「そうよね。今どき五寸釘なんて……私も馬鹿なことを言ったわ」

「えぇそうですよ。だって……五寸釘なんて打たなくても、呪いは発生するんですから」

 智子先輩が、笑顔のまま凍りついた。

「呪い――それは、人の不幸を願う想いです。あなたの場合は、自分の望みのために、会長を邪魔だと排除した」

 さっきは俺が遠慮して言えなかった言葉を、何の臆面もなく叩きつける。

「私は別に、それであなたを責めるつもりはありません。そんなこと、決して珍しい感情ではないと知っているから。でも、もうこれ以上、『オトハの手』に頼ることは止めて下さい」

「別に……私は……」

「あなたの愛する男性。家族がいますよね?」

 直後、空気が静止した。

「今回の願いも、その男性に振り向いて貰いたいから……それは分かりました。ですが、これ以上は取り返しがつかなくなります。あなたの願いは、絶対にその家族を不幸にする。『オトハの手』は、最悪の形であなたの願いを叶えます。それを、私は許容出来ない」

 しばらく、聞こえるのは苦しげな智子先輩の息遣いだけだった。他の客もいないため、本当にこの空間が世界から切り離されたかのように感じる。いつの間にか、先程までは聞こえていた、マスターがカップを拭く音も聞こえない。

「……馬鹿らしい」

 やがて、智子先輩が呟くように囁いた。

「そんなこと……ある筈がない。私が何か書き込んで、それで何かが起こるなんてこと。何の根拠もない……迷信も良いところ」

 当然のように、そのスタンスは揺るがない。瑠璃もそれは分かっていたのか、すぐに次の言葉を発するべく「ですが――」と続けるが……

「でも良いわ。別に信じてないし」

 当の智子先輩が、瑠璃の言葉を遮った。

「そもそも、私があのサイトに書き込んだのは、ただの気まぐれ……憂さ晴らしなの。友達に止めろと言われて、尚強情を張るほどの理由はないわ」

 それだけ言うと、智子先輩は持っていた形代を乱暴にテーブルに置くと、残っているチーズケーキを口に放り込んだ。

「それで? もう話が終わりなら、私は帰るけど。今日夕方から塾だから、その予習をしておきたいのよ」

「え……えぇ。構いませんよ」

 想定外の勢いに気圧されて、瑠璃の顔から少しだけ仮面が剥がれる。しかし智子先輩はそれに気付くことなく「そ」と、小さく返事をすると俺を見て、

「じゃあ、もうこれっきりにして。あなたは私の何も知らない。それで良いわね?」

 と念を押してきた。

「あ……はい。問題ありません」

 だから俺は素直に頷く。すると智子先輩は、最後に紅茶を一口だけ啜ると、

「ご馳走様でした。それじゃあ瑠璃さん、また学校で」

 とそう言って、来た時と同じように迷いない足取りで、喫茶店から出て行った。

「……納得してくれたのかな?」

「……だと良いけど」

 後に残された俺たちは、呆然と言葉を交わす。

「にしても、瑠璃が出てくるとは思わなかったな。どんな風の吹き回しだ?」

 別に話など交わさなくとも、形代を触ってもらえさえすれば目的は果たせた。出てくる必要は無かったのだ。

「結構強い呪いの痕跡があったんだよ。んで、放置するとマズイ気がした」

「呪いの痕跡……じゃあもしかして『オトハの手』は?」

「黒。真っ黒。あのサイトは、悪想念を増幅させて生霊化させる効果を持ってる。術式は……四条家のものと一致した」

 その言葉。指し示すところは一つだ。

「もうこれで引けないよ。運営者を炙り出して殺す。それまで私は、全力をそこに注ぎ込む」

 静かな喫茶店に、瑠璃の声が厳かに響く。

 それは――宣戦布告だった。

 六年の時を経た再戦。血を分けた四条家の姉妹てんさいが始める、殺し合いの狼煙。

 賽は投げられた。



     四

 戦争の火蓋が切って落とされてから、二日後の昼下がり。俺は学校の中庭で、平和なランチを楽しんでいた。

「日本有数の陰陽師が殺し合ってるとは思えないほど、今日もこの国は穏やかだな」

「別に今この時に、殺し合ってる訳じゃないからな」

 ソーセージを咀嚼しながら、翔平が漏らす率直な感想に返事をする。

「陰陽師も魔法使いって訳じゃないから。まずは相手を特定しないと、攻撃しようにも身動きが取れない」

「サーバー辿ったりは出来なかったのか?」

「海外サーバー経由された時点でお手上げだったよ。そっちのプロがいればまた違うのかもしれないけど……残念ながら、ハッカーの知り合いはいないしな」

「……じゃあどうするんだ?」

「どうしようかねぇ……」

 つまるところ、宣戦布告をしたのは良いものの、早くも俺たちは詰んでいるのだった。日本人を標的にしている以上国内にいるだろうが……近くにいる保証はまったくない。

「長野辺りが怪しいんじゃないか? 元々はそこが、四条の拠点だったんだろ?」

 流石、翔平は良いところに目をつけてくる。

「あぁ、俺たちもそれは考えて、週末にでも帰ろうかと思ってる。まぁ聞き込みに頼るしかないから、限りなく望み薄だけどな」

 長野県と言っても広い。旧四条邸の周辺から当たるにしても、まるで干草の山から針を探すようなものだ。

「まぁ俺も新しい情報見つけたら、また伝えるからさ。気長に頑張れよ」

「気長ねぇ……」

 この間から瑠璃の様子がおかしい。物憂げな表情をすることが多くなって、疲れた笑みを浮かべることも増えた。夜だって、あまり眠れていない筈だ。

 気長にやるにしても、少しでも成果がないと精神的に保たないかもしれない。

「はぁ……」

 先行きが思いやられて、溜息を漏らしながら口を動かした、その直後――

 校内放送のチャイムが鳴り、聴き慣れた声がその後に続く。

『生徒会長より、業務連絡。生徒会長より、業務連絡』

(会長か……元気そうで何よりだ)

 先日の霊査で、智子先輩の呪いが会長に掛かっていたことが明らかになった。中間テストが終わり、僅かに残っていた呪いの残滓も瑠璃が祓った以上、もう心配はいらないが、やはりこうして元気な声を聞くと安心する。

 と、そんな呑気なことを考えていると……

『二年三組、鷲尾昴生君。二年三組、鷲尾昴生君。放課後、速やかに生徒会室までお越し下さい。繰り返します――』

 響き渡る会長の声。俺は首を傾げた。

「……鷲尾昴生って、他にいたっけ?」

「いる訳ないだろ。そんなけったいな名前のやつ」

 翔平がジトリとした目で俺を見る。そして――

「んで? おまえ、何をやらかした?」

 と、割にマジで心配そうな顔をして聞いてくる。

「会長、平静を装ってはいるが、いつになく感情的だったぞ? あんなに興奮した声の会長は、前に俺がヤンチャしてたのがバレた時以来だ」

「あぁ……あの時か……アレは傍迷惑な実験だったな……一体何枚の窓ガラスが犠牲になったことか……」

 にしても、あの時の会長は異常なほど犯人探しに躍起になっていた。もしあの時と同じくらい会長が興奮しているのだとすると……

「……早退したくなってきたな」

「やめとけ。無駄だから」

 簡潔に、翔平が真理を諭す。

「はぁ……分かってるよ……」

 一体、今日は一日で何回溜息を吐くことになるのだろうか?

 どうやら思っていたのとは別の方向から、俺の平和に終止符が打たれたようだった。


「鷲尾昴生、参りました」

「ご苦労様です。入って良いですよ」

 会長に許可を貰って、生徒会室の扉を開く。

「……会長、お一人ですか?」

「えぇ。人払いは済ませていますから」

「……失礼します」

 覚悟を決めて、部屋に足を踏み入れる。そして、その足元の感触の柔らかさに驚いた。

(なんだ? ……絨毯か?)

 教室の硬い木の床とは似ても似つかず。体重をすべて吸収してくれそうなクッション性が伝わってくる。

「こちらにお座り下さい」

 一瞬惚けたように固まってしまった俺に、会長が呼びかける。見ると、いつの間にか会長は自分のデスクから移動して、部屋の中央に設置されたソファに座っていた。彼女が指し示しているのはその向かい側の席だ。

「……失礼します」

 入室した時にも発した言葉をもう一度繰り返して、足の動きを再開させる。

(なんでこんなもんがあるんだ……)

 案の定、ソファもふかふかだった。校長室ならいざ知らず、生徒の部屋に置くには明らかに過分な代物だ。

「さて。お久しぶりですね、昴生さん。と言っても、この立場でお会いするのは初めてだから『初めまして』の方が宜しいかしら?」

 俺が座ったことを確認した会長が、早速話の口火を切る。

「そう言えばそうでしたね。遅くなりましたが、会長就任、おめでとうございます」

「ありがとう。半年以上遅いけれど、それでも嬉しいわ」

 笑顔でチクリと刺してくる。どうやら今まで挨拶に行かなかったことを、思ったよりも怒っているようだ。

「会長は多忙の身ですからね。俺なんかに時間を割いてもらうのは、申し訳ないと思ったんですよ」

「あら、昴生さん。以前も言った筈ですよ? 私はあなたのためになら、いくらでも時間を割くと」

「……そう言えば、そんなようなことも言っていましたね」

 一年前。ひょんなことから……と言うか主に翔平のせいで会長に目をつけられた時に、言われた言葉だ。正直、俺は瑠璃と平和に過ごしたいだけだったから、何かと話題の渦中に挙がる会長には近づきたくなくて、特にその権利を使ったことはなかったのだが……

「それでも、忙しい人に時間を取ってもらうのは心苦しいものですよ」

 取り敢えず、そう言って誤魔化す。まぁそんな心にもないデマカセが、この人に通用するとも思えないが。すると案の定、会長はすべて分かったような口振りで、

「まぁ今はそういうことにしておきましょう。実際私もバタバタしていて、あなたをお呼び出来なかったのは事実なのですから」

 と言うと、足を組んで身を乗り出し、俺を真正面から見据えた。

 足を組んだ拍子に大胆に顕になった太腿と、開けた制服の胸元から見える谷間が、俺の視線の自由を奪う。必然、会長の顔を見つめ返すしかなくなった。

 会長の茶色い瞳に、俺が映っているのが見える。その瞳の中にいる俺は、まるでそこで生きているかのような実体感を伴っていて――なんだか俺自身が、そのまま会長の瞳の中に吸い込まれてしまいそうな、そんな変な錯覚を覚える。

 いや……本当に錯覚なのだろうか? 身体の感覚がスーッと失せていくのを感じる。

「私があなたをここに呼んだのは……」

 そして、会長の口が開く。それに合わせて、瞳の中の俺が大きく揺らぎ……

その刹那――ここにいる俺と、瞳の中に潜む俺。つい今しがたまで一致しかけていたこの二つの俺が、その震えを通して乖離した。

「一つ聞きたいことがあったからです」

 それを認識した途端、薄れかけていた意識が、再び俺の手元に戻ってきて……

 直後、会長がそれを口にした。

「『オトハの手』――これについて詳しく教えて下さい」

「お断りします」

 即答する。会長が、呆気に取られた顔をした。

「あら? 効いてない?」

「効いてません」

「そう……」

 会長が乗り出していた身体を元に戻し、組んでいた足を解いた。ついでに、開けていた制服の第二ボタンも締める。

「流石と……言っておこうかしら」

 そして今度は、二流バトル漫画に出てくる敵役みたいなことを言い始めた。

「しかし……私は生徒会では最弱――」

「いや、あなた会長でしょ……」

 頭が痛くなってきた。

「ふざけたいだけなら、俺はもう帰りますよ?」

「待って! ちょっと待って!」

 腰を浮かしかけると、会長が縋るように俺の腕を掴んだ。もはや、冒頭から醸し出していた会長然とした空気はどこにもない。

「別にふざけたい訳じゃないの! 『オトハの手』について教えて欲しいだけで」

「だからそれは断ると……そもそも、なんで会長がそんなことを――」

「だって面白そうだったから!」

 キラキラした目で、会長が言う。本当に頭が痛くなってきた。

「別に面白くないですよ……それに会長、あなただって実は被害者で――」

「知ってるよ。智子ちゃんが、私に呪いをかけたんでしょ?」

 浮かしかけていた腰が落ちる。

「会長……それをどこで?」

「うちの喫茶店。この間、うちに来て話してたでしょ?」

 ……ちょっと待て?

「あの喫茶店って、会長の家だったんですか?」

「そうだよ。あれ? パパが言ってなかった?」

 記憶を辿ってみる。

「そう言えば……最初マスターに、『いつもありがとうございます』……みたいなこと言われたな」

「でしょ?」

「いや、『でしょ』って……てっきり、リピーターか何かと勘違いしてるかと思いましたよ」

「そんな馬鹿な。パパがそんな勘違いする訳ないでしょ?」

 と、カタカタ笑う。キャラの崩壊も、ここまで来るといっそ清々しい。とはいえ、ここで誰かが入って来たら面倒なことになりそうな気もするので、一応やんわり指摘してあげる。

「……会長。さっきからキャラがおかしなことになってますよ」

 すると会長は一瞬面倒臭そうな顔をして「はぁ……」と小さく溜息を吐くと、

「あら? そうでした? それは失礼」

 と、ちゃんと元のキャラに戻した。俺も不用意に薮を突きたくないので、もうそのことに触れるのは止める。

「というか、会長の家は街外れの屋敷だったと、記憶しているんですが」

「あっちは本邸ですね。でも我が櫻井家は、街中にもいくつか私邸を持ち、また商いもやっていますから。あそこは、父が趣味でやっている喫茶店です」

 元のキャラに戻った途端、話が仰々しくなってきた。

「それに、大衆が集まるお店をやるのは、うちの伝統でもあるんです。市井の民と交流することが櫻井家の家業にとって重要なことでしたから」

 櫻井家の家業――既に廃れてその面影も残ってはいないが、歴史を辿れば、四条家よりも余程家格の高い家柄である櫻井家は、日本で唯一、朝廷より〝案内人サルタヒコ〟の役を仰せつかった一族なのだ。現代人にも分かりやすい言葉で言えば……要は『死神』のことである。亡くなった人の魂をあの世へと導く。それが、彼らの家業だった。

 だからなのだろうか? 会長は所謂『オカルト』が大好きなのだ。自身はほぼ、ただの人に過ぎないが(さっきのように、精神干渉系の術を仕掛けてくることがあるから、まだ多少はかつての血が残っている可能性はある)、それでも何らかの郷愁を感じるのかもしれない。

「と言うことで、私はあなたと智子さんの会話を聞いてしまったのです。所々、聞こえないところもありましたが……それでも話の大筋は掴めました。『オトハの手』――どうやら本物の呪いに関係しているみたいじゃないですか!」

 また、少しキャラが崩れ始めた。相当興奮しているのだろう。

「だからこそです。事は遊びじゃないんですよ?」

「私にだって、案内人の血が流れています。多少役に立つことくらい――」

「そういうことは、霊の一つも見えるようになってから言ってください」

「うぐっ……」

 会長が口籠る。だから俺は、話は終わりだとばかりに再び席を立つ。しかし――

「……四条……瑠璃……」

 唐突に会長がその名前を呟いて、ビクッと身体が震えてしまった。

「あの電話の方、そう名乗っていました。四条――知っていますよ。陰陽師の名家ですね?」

 なんとか平静を装おうと表情を作る。だが……無理だった。会長の目が妖しく光る。

「まさか本当に? だとしたら大変です。確か四条家は数年前に潰えたと、風の噂で耳にしました。そんな家の生き残りがいらっしゃるなら、すぐにでもお屋敷で保護しないと――」

「会長」

 自然、声が低くなる。

「それは止めてください」

「あら? 気に障りました?」

 だが、会長はそんなことは気にも留めない。

「ですが困りました。そのような方が近くにいて見て見ぬ振りをする。そんなこと、私に出来るかしら? 他に気を紛らわすことがあるのなら、ともかく」

 会長がニッコリと微笑んだ。

「昴生さんも、そうだとは思いませんこと?」 

(この女狐め……)

 まさかこんな形で足元を見られるとは思わなかった。あの日、あの喫茶店を待ち合わせの場所に選んでしまった自分を呪う。三度、俺はソファに座った。

「それで? 何を知りたいんです?」

「全てです。あなたの知っていること、全て」

 とんだ強欲狐も、いたものだった。


「ふむ……では、ひょんなことから『オトハの手』のことを知ったあなたと瑠璃さんが、正義感で動き出したと……そういうことですか?」

「正義感と言って良いほど立派なものかは分かりませんが……凡そ、その通りです」

 四条家にまつわる因縁を省いて説明した結果、このような内容に収束した。不本意ではあるが、痛い腹を探られるよりは余程マシだ。会長は、俺の言葉に何度も頷く。

「実に立派な行いです。そして私も、自校の生徒が巻き込まれている以上、対策に動かざるを得ませんね」

 今まで見たこともないほど目をキラキラさせながら、それでも精一杯深刻な表情を作ろうとしているのは流石だ。

「では目下のところ、新たな被害の防止と運営者の特定が目標だと考えて宜しいですか?」

「えぇ。その理解で間違いありません」

 半ば諦めモードで答える。こうなってしまった以上、会長の圧から逃れることは不可能だ。

「ふむふむ……なるほど……」

 対する会長は、ワクワクしながらあれこれ考えているようだった。やがて顔を上げて、ポンっと手を打つ。

「分かりました。そっちは私が何とかしましょう」

「何とかって……」

 そのあまりに呆気ない言種に、少々意表を突かれる。

「こればっかしは、櫻井家の威光を使っても難しいんじゃないですか?」

「馬鹿ですね。使うのは、威光ではなく頭ですよ」

 会長が、自分のこめかみを指でコツンコツンと叩く。

「大丈夫。心配しなくとも、きっと結果を出してご覧に入れて――」

 と、そこで不意に会長が黙る。

「失礼。電話です」

 どうやら、スマホに着信が入ったようだった。そう一言断りを入れると、ポケットからスマホを取り出して耳に当てる。

「はい。鈴華ですが――」

 目の前で電話を始める会長。電話中の人をじっと見つめるのも失礼なので、視線を外して室内を改めて見渡す。入室した時にも思ったが、やはり異様な部屋だった。恐らく櫻井の屋敷から運び込んだのだろうが、庶民では使うことのない高そうな調度品がそこかしこにあり、何なら高そうな絵画まで壁に掛けられている。櫻井家は地元の名家だ。うちの高校ではないが、とある私立高校のオーナーでもある。恐らくそんな家の一人娘に頼まれて、学校陣も嫌とは言えなかったのだろう。

(はて……それにしても、何で会長はその私立高校に入学しなかったんだろうな?)

 素直にそちらに入っていれば、うちの高校の理事たちも苦労することはなく、そして俺もこんな気苦労をする必要も無かったのだが……

「はい、そうですか。分かりました、ご苦労様です」

 そんなことを考えていると、いつの間にか電話は終わったようだった。会長が最後に別れの言葉を述べると、スマホを机に置く。そして――

「残念なお知らせです」

 俺の目を見て、唐突にそう言った。

「残念なお知らせ?」

 訳が分からず、おうむ返しに繰り返す。すると会長は「えぇ」と頷いて、

「つい今しがた、村瀬智子さんが亡くなったようです」

 と、はっきりとそう口にした。

「はい? 村瀬智子さんって……智子先輩?」

「そうです。三年一組、村瀬智子。先日、うちの喫茶店であなたがお会いした人物ですね」

「どうして……」

 呆然として呟く。『オトハの手』の呪いは確かに瑠璃が祓った筈だ。

「聞いたところによると、あまり良い死に方ではなかったようです。なにせ、身元確認に学生証を要したみたいですから」

「それって……」

「えぇ。遺体の損傷が大分激しいようです。どうやら死因は、落下してきた看板の直撃による失血性ショックのようです。丁度、上を見上げてしまったのでしょう。監察医によれば、看板の角の部分が顔に直撃したみたいで」

 言葉も出ない。何より……その死に様が美嘉と被る。頭を潰した、あの地縛霊と被る。

「と言うわけで、お話はここまでです。私は今から病院に行かねばならなくなりましたから」

 と、会長がそう言ったタイミングで、部屋の扉が開き、副会長が顔を覗かせた。

「会長。お車を外に用意しております」

「ご苦労様です」

 まるで秘書のような副会長に会長は優しく微笑みかけると、音もなくサッと立ち上がる。

「それでは昴生さん。もう部屋を閉めますので、一度外に。先程の話は、目処がつきましたらまたご連絡致します」

 その言葉に従い、俺も外へ。颯爽と歩き去る会長の後ろ姿を視界に収めながら、俺の脳裏に浮かんでいたのは、音羽姉の言葉だ。

『人は考える葦である――どういうことか分かる? 人はね、考え続けているのよ。似たようなことを何度も何度も、飽きることなく。だから人はね、〝考える〟葦なの。その葦の性質を決定するのは、その土壌でも気候でも、ましてや世話の有無でもない。『何を考えてきたか』――その一点のみ』

 畢竟、智子先輩は智子先輩だったのだ。瑠璃が祓っても、瑠璃が忠告しても、そんなことは関係ない。彼女は今までと同じように考え続け、そしてその結果、その考えに殺された。

 結局……そういうことなのだと。

 離れていく会長の後ろ姿を見つめながら、俺は呆然と、そんなことを考えていた。


     ***


 翌日は全校集会が開かれて、校長先生から簡単に事のあらましについて説明を受けた。と言っても、何故このような不幸が起こったかについての説明はなく、取り敢えず事故現場に足を伸ばすことにした。

 万が一、死んだ智子先輩に会えれば、話が聞けるかもしれない。そんな思惑もあったのだ。


 事故現場は、既に片付けられた後だった。まぁそれも当たり前。そこは、そこそこ人通りがある普通の通りなのだ。いつまでも死亡事故の残骸を残しておく訳がない。それでも、ビルの壁面に立て掛けられた一束の花束が、ここで事故があったことを雄弁に物語っていた。

 と――ここまでは普通の人の感想。ここを訪れた万人が目にすることになる現実だ。対して俺には、少し違う世界も見えていた。

「こんにちは」

 俺は、その事故現場から少し離れて立っている初老の男性に話しかけた。恐らく誰の目にも、彼はただの通りすがりか、或いは精々、野次馬の類にしか映らなかったことだろう。

「え? あぁ、こんにちは」

 男性は、俺に挨拶されたことに驚き、そして少しバツの悪そうな顔をする。その顔に向けて、俺はこう尋ねた。

「ここで昨日、女性が亡くなったんですよ。ご存知でしたか?」

「あぁ……えぇ、はい。知っていますよ」

 男性は躊躇いがちに答える。その反応と彼の様子から、凡そ彼の素性が分かった。

 明らかになった事実に軽く目眩を覚えつつ、確認のために言葉を重ねる。

「あなたは、村瀬智子さんの塾の先生ですね?」

「!? どうしてそれを……」

「私も実はあの塾に通っているんですよ。それで、ここであなたの姿を見つけて少し心配になって。先生は、智子先輩と仲良く見えたものですから」

「……ハッ! 仲良くね」

 突然、男性はそう言って吐き捨てる。

「アレは疫病神のような女ですよ。よりにもよって……あんなところを家内に見られるなんて……」

「あんなところ?」

「あぁ、いえ。こちらの話ですよ。何でもないんです。とにかく、私の人生を滅茶苦茶にしたあの女が死んだと聞いて、この街を離れる前に、最後にここを拝みにきたんですよ」

「……塾、やっぱりお辞めになったんですね」

「知ってるでしょう? あの塾の生徒なら」

 苦々しげにそう呟いて、男性は事故現場の方に向かって唾を吐き掛けた。

「天罰だ。ざまあみろ」

 男性は酷薄な笑みを浮かべると、思い出したように眉間を指で揉み始める。

「どうかしましたか?」

「え? あぁ……何だか今日は頭痛が酷くてね。一向に収まる気がしないんですよ。それでも、君と話せて、少しは気が紛れた気がします」

 そして男性は、「もう電車の時間だから」と片手を上げて俺に別れの挨拶をすると、駅の方に向かって歩き出した。

「先生!」

 その後ろ姿に、俺は最後に呼びかける。

「新しい街に着いたら、神社がお寺か……ちゃんとした宗教施設に行ってお祓いをして貰って下さい。一度リセットして新生活を始めるのに、良いきっかけになると思いますよ」

 すると男性は驚いた顔で振り返ったが、

「あぁ……分かりました。そうさせて貰いますよ」

 と、疲れた笑みを浮かべると、今度こそ、この場を歩き去った。

 背中に……血塗れの智子先輩を乗っけたまま。


「結局、どういうことだと思う?」

 その日の夜。夕食を食べながら、瑠璃に尋ねる。

「推察するしかないけど……私が解いた呪いとは、また別の呪いが働いたのかもしれないね。前回はテストで十位以内だったけど、今度はもっと直接的な。その男性の話から察するに……家庭崩壊かな?」

「なんか……家内に見られたとか言ってたな」

「塾も辞めることになったことも併せて考えると……もしかしたら、智子さんとホテルから出てくるところでも見られたのかもしれないね。当然、家庭は崩壊するだろうし、塾側も教え子と未成年淫行した人を雇い続けないでしょ?」

「……よく捕まらなかったな」

「公にはしたくなかったんでしょ。奥さんも、当然塾側も。智子さんも、先生を今の奥さんと別れさせたかっただけだから、自分から告発するわけ無いしね」

「なんと言うか……自業自得な気がするな」

「そうだね。でも、そこに四条の力が介入していたのなら、許すことは出来ない」

 改めて、瑠璃が強い口調で言う。

「何にせよ、なんとかして相手の尻尾を掴まないと……それについては、会長が手伝ってくれるんだっけ?」

「あぁ、そう言ってな」

 会長の一件は、一応報告している。最初は嫌がるかとも思ったが、使えるものは何でも使おうと考えているらしく、特に反対はされなかった。

 それに瑠璃も……当然、櫻井の家のことは知っているのだ。

『力がないせいで、この世に適応して生き残ったカブトガニみたいな一族だよ。他の力ある恐竜たちが、どんどん死滅していく中でね。良く言えば利口。悪く言えば節操がない。そんな印象かなぁ』

 それが、瑠璃の櫻井評だった。しかしそう評した直後、こんなことも言う。

『でも、その一族にオカルト好きがまだ残ってるなんてね。しかもそれが、あの神の如く崇拝されている生徒会長。いやぁ、世の中分からないね』

 それについては、俺も同感だった。いつもは完璧無比な生徒会長が、ことオカルトとなると年相応の女の子になる。世の中には本当に完璧な人などいないのだと、痛感させられる。

「まぁいずれにせよ、四条家の手腕に期待しますか。世俗的な力は、私達よりよっぽど上なんだしね」

 瑠璃が肩をすくめて言う。残念ながら、まだしばらくはもどかしい時間が続きそうだった。



     五

 事態が動いたのは、それから約一週間後。

 瑠璃の部屋で、先週末に行ってきた長野で見聞きした情報について、整理していた時のことだった。と言っても、それ自体に収穫らしい収穫があった訳ではない。時間とお金をかけた割に成果は皆無。費用対効果、最悪。良かったことと言えば、久しぶりに長野の銘菓を、お土産として買うことが出来たくらいだった。

「ねぇ、馬鹿なの? 昴生は馬鹿なの?」

 しかし、どうしてかそのことに瑠璃は酷く不満げなようで、先程から罵詈雑言が止まる気配がない。あろうことか、遂にはスマホを取り出して、『銘菓』の意味を調べ出す始末だ。

「特別な銘を持つ由緒あるお菓子。ねぇ? これのどこがそうなの?」

 瑠璃が、お土産が入っていた桐の箱をバシバシと叩く。既に中身は取り出していて、四つの瓶が机上に出ているのだが、それにはどうも触りたくもないようで、代わりにその入れ物が犠牲になっているのだ。

「ちょっと待て。お菓子についても調べてみろ。ほら、お菓子は『食事以外の嗜好品として食べる食品』とある。あながち、間違ってはいない筈だ」

「間違いしかないよ! こんなものが嗜好品であってたまるか!」

 興奮した瑠璃がついに瓶の一つを手にとって、俺の眼前に掲げた。

 『いなご 田舎炊』という文字が目に飛び込んでくる。

「おまえ……信州人として、いなごの佃煮くらいお菓子みたいなものだろ?」

「酷い風評被害! 信州の人に謝れ!」

 掴みかからんばかりの剣幕で瑠璃はそう叫ぶと、更に隣の瓶にも手を伸ばした。

「まぁでも良いでしょう。百歩譲ってイナゴの佃煮は許す。でも、これは何?」

 再び、眼前の文字を読む。

「ざざむし 田舎炊」

「もはやムカデじゃん!!」

「……確かに。何かに似てると思ったら、ムカデに似てるのか……」

「確かにじゃないよ! これ、今日の食卓に出したらホントに許さないからね!」

「それは大丈夫。まずは蚕から食べようと思ってたから」

「何一つ大丈夫じゃない!? てか、こっちの瓶に入ってるのって蚕なの!?」

「うん。さなぎだから、パッと見では分からないと思うけど」

「幼虫か成虫だったらパッと見で分かる前提で話すの止めて? 私、そんなに虫詳しくないから。むしろ普通に嫌いだから」

 そこで、瑠璃が力無く肩を落とす。

「昴生一人で長野に行かすんじゃなかった……成果がないのはある程度覚悟してたけど……まさかこんな副産物を連れて帰ってくるなんて……」

 無念そうに唇を噛む瑠璃。一応、聞いてみる。

「……んで、結局瑠璃は何が気に入らないの? もしかして、〝わかさぎ〟を買って来なかったことを怒ってるの?」

「わかさぎは好きだけど、別にそれがないことを怒ってるんじゃないよ」

 瑠璃がツンとした態度でそっぽをむく。

(まぁ……やっぱりそうだよな……仕方ない、そろそろ本命を出すか)

 もとより、洋食好きの瑠璃が佃煮を見て喜ぶことはないだろうと予想はしていた。それでも、やっぱり自分が好きなものを好きになってくれたら嬉しい。そんな思いから、最初に『信州四大珍味セット』を紹介したのだが……

 しかしだからこそ、喜んでくれなかった時の次善の策も考えてある。

「じゃん。雷鳥の山」

 これなら、欧風せんべいにクリームの組み合わせだから、洋食舌の瑠璃も満足するだろう。個人的には当たり前過ぎてつまらないの一言だが……次善の策ならこれくらい定番なくらいが丁度良い。

「……最初からこっちを出してよ」

 瑠璃が俄かに顔を綻ばせ、『雷鳥の山』に手を伸ばす。

 ふむ……やはり五十年の歴史の重みは強いな。

 まぁ……こっちの佃煮たちの歴史はその比でないんだけど……

 瑠璃によって乱雑に捨て置かれた瓶たちを拾い集めて、桐の箱に戻す。これは大事に大事に食べることにしよう。それに、ハンバーグの具材として仕込めば、瑠璃も美味しく食べられるかもしれない。

 俺は、早速『雷鳥の山』の包み紙を呑気に開け始めた瑠璃を眺めながら、

(うちに、ミキサーってあったかな?)

 なんてことを考え始める。

 だがその問いに答えが出る前に、俺の思考は響き渡るチャイムの音によって中断された。

「誰かな? 別に荷物とか頼んでないよね?」

 包み紙から手を離した瑠璃が、窓から外の様子を見る。しかし家の構造上、たとえ身を乗り出しても、ここから玄関は見えない。

「特に頼んでないけど……回覧板とかかもしれないから、ちょっと様子を見てくるよ」

「ついでにその珍味セット、全部お裾分けしてきて良いよ」

「馬鹿だなぁ。そんなことしたら、嫌がらせだと思われるだろ?」

「おまっ!? それが分かっていながら――」

 瑠璃の声を無視して部屋を出て、後ろ手にドアを閉める。

 さて……早く行こうか。


 玄関まで降りてきたところで、俺は絶句した。

 何故ならそこには、我が校の生徒会長こと櫻井鈴華が、にこやかな笑みを浮かべて立っていたからだ。

「久しぶりです、昴生さん。大体一週間ぶりかしら?」

 会長は顔を可愛らしく傾けながらそう言うと、しかしすぐにその眉を曇らせた。

「それにしても、少し不用心ですよ?」

 言うなり、ドアノブを手でそっと触る会長。その仕草を見て、俺はハッと気がつく。

「もしかして……鍵、閉め忘れてました?」

「いえ。鍵のタイプがディスクシリンダー錠でした」

「……はい?」

 咄嗟に、何を言われたのか分からなかった。

「だから、ディスクシリンダー錠です。不用心ですよ? 開けるのに一分もかかりません」

「……」

 ようやく理解した。どうやら鍵を閉め忘れたことではなく、ピッキングされやすい鍵を使っていたことを、注意されているらしい。

「……用心の難易度、高くありません?」

「そんなことありませんよ。私みたいな普通の女子高生でも、道具さえあれば簡単に出来てしまうんですから」

 普通の女子高生はピッキングツールを持ち歩いたりしません――というツッコミが喉元まで上がってくるが、ここはグッと堪えて、もう一つの疑問に焦点を当てる。

「それで……会長はどうしてここに? 家の場所、教えましたっけ?」

「教えたでしょ? 学校に」

 ……ここ、日本じゃなかったっけ? 個人情報の保護は一体どうなってるんだ?

「そんなことより、せっかく麗しき生徒会長が尋ねてきたのだから、家の中に上げて下さる? 玄関口で立たせたままなんて、紳士にあるまじき振舞ですよ?」

「別に紳士ではないですが……」

 そうは言いつつ、会長の場合下手な扱いをすると後がうるさい。ここはひとつ居間にでも通して、お茶菓子の一つでも振舞った方が良いだろう。幸い、俺の手中には良質な動物性たんぱく質が握られている。見方を変えれば、この会長の訪問は最高のタイミングだったと言っても良いかもしれない。

「わかりました。では、居間にご案内します」

 俺は、彼女が靴を脱いだのを確認してから、廊下の先にある居間へと向かう。

「さて。では会長、そこのソファに座ってもらって……あれ?」

 居間に到着し、会長に席を勧めようと振り返った俺は、パチパチと目を瞬かせた。何故なら、どこを見ても、会長の姿が見当たらなかったからだ。

「会長?」

 廊下に出て、周囲を見渡す。やはり、どこにも会長の姿はな――

「!?」

 と、思ったその時。上階から、割れんばかりの悲鳴が響き渡った。

「瑠璃!?」

 聞き覚えのあるその悲鳴。俺はすぐに誰のものかを理解して、慌てて階段を駆け上る。

 上った先には……案の定、会長がいた。

 会長は半開きになったドアの前で、凍り付いたように立ち竦んでいる。

 しかし俺は、会長へは声を掛けない。彼女の横をさっとすり抜け、迷いなく瑠璃の部屋へと足を踏み入れる。そこにいる、頭を抱え身体を大きく震わせている幼馴染の許へと、一目散に向かう。

「瑠璃。もう大丈夫だ」

 そんな状態の瑠璃を優しく抱き締め、背中をゆっくりとさする。すると瑠璃が、ギュッと俺にしがみついてきた。その顔は、涙でぐっしょりと濡れている。

「お姉ちゃんが……お姉ちゃんがいるの。それで、お姉ちゃんの身体が燃えていて……私が、私が呪いを返したから……ごめんなさい。ごめんなさい。お姉ちゃん、ごめんなさい」

 ほとんど、半狂乱だ。叫ぶように、呻くように、慟哭するように自身の罪を告白すると、もうそれ以降は、ただ虚ろに『ごめんなさい』と呟くばかり。そんな彼女に俺が出来ることは、彼女が落ち着くその時まで、ただ背中をさすり続けることだけ。

 結局、彼女の震えが治まり、小さな寝息を立て始めたのは……それから、およそ三十分後のことだった。


「申し訳ありません。まさかこんなことになるとは、思っていなくて……」

 瑠璃をベッドに寝かし、居間に移動した俺と会長は、向かい合ってソファに座っていた。

「いえ、俺も事前にちゃんと説明しておくべきでした」

 会長の謝罪にそう返す。実際、会長を責める気持ちよりも、自分の迂闊さを後悔する気持ちの方が大きかった。会長の性格を考えれば、今の事態は充分想定できたことだ。

「いえ、私のせいです。久しぶりに、自分の性格を反省しました」

 しかし会長も、今回のことは随分悔いているようだ。項垂れたまま、顔を上げない。

 三十秒ほど、沈黙が流れる。

「……お姉ちゃんと、言っていましたね」

 だがやがて、会長が口を開いた。

「瑠璃さんのお姉さん。私が持つ情報が正しければ……四条音羽さんのことですよね?」

 思わず、顔を上げる。その名前が会長から出てくるとは思っていなかった。

「瑠璃さんのこと、私なりに調べたんです。その過程で、その名前は何度も出てきました。瑠璃さんが慕っていた天才陰陽師。確か、四条家が潰えた時に一緒に亡くなったと聞いていましたが……」

 会長の情報網に舌を巻く。まさか、そこまで調べられているとは思わなかった。何しろ、あの事件の関係者は、もう俺と瑠璃しか残っていないのだから。

「流石ですね。やはり、櫻井家の情報網は恐ろしい」

「そんなことはありません。実際、瑠璃さんがあんな状態になっているとは知らず、彼女を随分と苦しめてしまいました。知っていれば、もしかすると苦しめるのではなくて、お役に立てたかもしれないのに」

「……役に?」

 思わず、その単語に反応する。ピクリと、眉が動いたことを自覚する。そして……

 やはり俺も、普通の状態ではないのだろう。声が荒ぶることを抑えることが出来なかった。

「どういうことです? 会長が、精神科医の真似事をするということですか? お言葉ですが、それは無駄以外の何ものでもありません。今まで、俺たちがそういったことを試してこなかったとでも思っているんですか?」

 会長に当たっても仕方ない。それでも、声が大きくなってしまうのは、自分の無力さを痛感しているためだろう。俺も……俺たちも、色々な方法を試してきたのだ。それでも、今の現状を見ればわかるように、それらが効力を発揮したとは、お世辞にも言えない状況だ。

「怒らないでください」

 声を荒げた俺に、会長は落ち着いた声で続ける。

「私も、なにも適当に気休めを言っているわけじゃないんです。忘れているかもしれませんが、私はこれでも案内人の末柄なのです。錯乱した霊をあの世に導くために、精神に干渉する術は相応に修めているんです」

「精神に……干渉?」

 俺はハッとして、動きを止める。

 その発想は……正直なかった。というか、そんなことが出来る人間が俺の近くにはいなかったから、選択肢に挙がったこともなかった。けれど……

 ついこの間、会長に危うく魅了されそうになったことを思い出す。だから、もしかすると……そういう方面からのアプローチも、あり得るのかもしれない。

「ではその力を使って、瑠璃の対人恐怖症の原因を取り除けると?」

「可能性はあります」

 会長の返答は早い。断定調ではなかったが、確かな自信のようなものが滲みだしていた。

「……どうすれば、良いんです?」

 口が勝手に動く。何かに駆り立てられるように、一歩身を乗り出す。

 俺だって……泣き叫ぶ瑠璃の姿なんて、もう見たくないのだ。

「話してください」

 そしてそれが、会長の答えだった。

「瑠璃さんの対人恐怖症が発症した原因を。そのわけを。その起源を」

「それ……は……」

 束の間、凍り付く。

 分かってる。それは、俺の独断で決めて良いようなことではない。瑠璃に相談し、瑠璃の許可を得て、初めて他人に話すことが許されることだ。けれど……

「………………………………」

 それでも、俺は縋りたかった。もし、瑠璃が恐怖に震えずに済む未来があるのなら。音羽姉を殺したあの瞬間を思い出して、泣き叫ばずに済む未来があるのなら……

 その可能性がどれだけ低かろうとも縋ってみたい。どうしても、そんな風に考えてしまう。

「もちろん、誰にも他言はしません。私達だけの、秘密です」

 そんな俺を後押しするように、会長は穏やかな声でそう告げる。だから、それが……

……決め手になった。

「……わかりました」

 ゆっくりと、会長に向き直る。一度深呼吸をしてから、目を瞑って話し始める。

 物語るのは、六年前のあの日のこと。

 音羽姉が四条家を継ぎ、その四条家を更に瑠璃が継いだあの日。そして――

 四条家がこの地上から姿を消した、運命の日。


     ***


 その日は、四条家にとって極めて特別な一日だった。

 瑠璃の十歳の誕生日。五年ごとの誕生日を特に盛大に祝う風習がある四条家にとって、それだけでも充分、特別と呼ぶに相応しかったろう。だがそれ以上に、その日が音羽姉の十五歳の誕生日であったことが、その特別を類稀なものへと押し上げていた最大の要因だった。

 十五歳――それは、陰陽師として一人前であると認められる年齢であり、同時に、四条家の当主として認められるために執り行われる『伝授禅譲の儀』が始まる最初の歳でもあった。

 ……とは言うものの、戦後の厳しい統治政策によってその力を封じられた四条家では、もはやそれは形骸化しており、かつてのような特別な意味合いが無くなっていたことも、また事実だった。が、しかし――

 もしかすると、その年だけは違ったのかもしれない。理由は勿論、それが〝四条音羽〟の『伝授禅譲の儀』だったからだ。

 若くして圧倒的な才覚を見せていた彼女は、戦前の輝かしい時代を知っている数少ない長老たちから――そして当然彼女の父親からも、大変な期待を寄せられていたことは、まだ十歳に過ぎなかった俺にも良く理解出来ていた。だからこそ、俺と瑠璃は文句の一つも言わずに、二人で瑠璃の部屋に篭って『伝授禅譲の儀』が上手くいくことを祈っていたのだ。

 本音を言えば……瑠璃は寂しかったことだろう。まだ十歳の女の子なのだ。折角の誕生日。大好きなお父さんと、そして敬愛する姉と一緒に、その一日を楽しく過ごしたいと願うのは、極々当たり前のこと。それでも――姉の晴れの日。大好きな姉のためならば、誕生日の一日が潰れることなど何でもない。たとえケーキすら用意されておらずとも、彼らと過ごす日々こそが特別なのだからと――あの日の瑠璃ならきっと、笑ってそう答えたに違いない。


 異変が起こったのは……外が赤くなり出して、しばらく経ってからのことだった。

 突如、屋敷が大きく振動し、俺と瑠璃はその場で飛び上がった。

「地震!?」

 咄嗟に、身を隠せる机の位置を確認する。もし今の振動が初期微動なら、もっと大きな揺れがすぐに襲ってくるかもしれない。

(なんにしろ、早く避難を!!)

 そう思った俺は、瑠璃の手を取って机の下に避難しようとする。だが……瑠璃はその場を動かなかった。

「……瑠璃?」

 そんな状況ではないのは分かっているのに、思わず瑠璃の顔を覗き込む。瑠璃の顔はそれくらい、なんとも形容し難い表情をしていた。

 驚愕――とも少し違う。唖然――というには違和感がある。呆然――というほどに呆けてはいない。敢えて言うなら、それらをすべて適当な量だけ掬い取って、ない混ぜにしたような感じだろうか? いずれにせよ、それは初めて見る瑠璃の表情で……状況を忘れて動きを止めてしまうくらいには、衝撃的な表情だった。

「……今、お姉ちゃんの霊圧を感じた」

 やがて、瑠璃が宙に視線を彷徨わせながら呟く。

「一瞬で、まるで爆発したみたいに大きくなって……その直後に地震が……何かおかしい」

「……おかしい?」

 音羽姉の霊圧を感じたのなら、逆に安心なのではないだろうか? 今は『伝授禅譲の儀』の真っ最中なのだから、力を使うことくらいはあるだろうし……音羽姉なら、屋敷を揺らすくらいのことがあっても、俺は別に驚かない。

「霊圧の感じが……普通じゃなかった」

 だが、瑠璃の考えは違うようだった。

「霊圧はその人の魂の力そのものだから……魂の性質や状態がそのまま現れる。今感じた霊圧は……凄く怖い感じがして……いつものお姉ちゃんとは全然違う」

 そう言うなり、瑠璃は立ち上がった。

「私、様子を見てくる」

「見てくるって……今日は外に出るなって言われてるだろ?」

 神聖な儀式に雑念が入らないように、俺と瑠璃は部屋に一日篭ってるようにキツく言い付けられている。それを破ったら間違いなく怒られるだろうし、何より音羽姉の邪魔をすることになる。

「でも! ……なにか、おかしな感じがするの。胸がモヤモヤするって言うか……凄く落ち着かなくて……このままここにいちゃ、いけない気がする」

 不安げに瞳を揺らしながら、しかし瑠璃ははっきりとそう言った。こうなった瑠璃には、もう何を言っても無駄だ。

「……音羽姉やみんなが無事だって分かったら、すぐ戻るんだからな?」

 仕方なく立ち上がる。そんな俺を見た瑠璃は、少しだけ不安げな表情を緩めて、

「うん」

 と返事をして、笑顔を浮かべる。

(はぁ……怒られるにしても、その笑顔を見れただけでも良かったかな……)

 低い妥協点で自分を納得させてから、俺は瑠璃を伴って部屋を出た。


 部屋を出てすぐに、異常に気がついた。

「……煙っぽい?」

 まるで、近くで花火をしたみたいな……そんな匂いが漂ってきて、鼻を少しひくつかせる。

「行こう」

 対し、瑠璃は少し眉を顰めただけでそれ以上は何も言わず、迷いない足取りで歩き始めた。

「目的地は、禅譲の間か?」

 急いで瑠璃の横に並びながら、確認のつもりで音羽姉がいる筈の場所の名前を出す。しかし、瑠璃は僅かに首を振った。

「いや……玄関広間に行こう」

「玄関広間?」

(なんでそんなところに? まぁどうせ禅譲の間に行くまでの通り道だから、明後日の方向というわけじゃないけど……)

 瑠璃の意図がわからず疑問に思うが、それについて深く考えるよりも前に、俺の思考は別の情報によって占有された。

 ――煙だ。歩けば歩くほど、煙がどんどん濃くなっていく。部屋を出た頃は煙っぽい程度だった廊下に、既に黒煙がもくもくと立ち込み始めている。流石にこれを見せられたら、間違えることはない。

屋敷が――燃えている。その理由はさっぱりわからないが、火元から離れている場所でも確認できる程強く……そして広く。

 あまりに現実離れした光景に、俺は思わず足を止めそうになるが、瑠璃はそれでも止まることはない。厳しい顔をしたまま前方一点を見つめ続け、ただ黙々と歩を進める。

(この煙が何なのか、瑠璃は何か知っているのか?)

 その迷いない様子を見て、ふとそんな疑問が頭を掠める。だが、深刻そのものの瑠璃の横顔を前にして、俺は遂にその問いを口から出すことが出来なかった。

 出来ないまま、廊下を進み続け……遂に、玄関広間に出る。

「そんな……」

 それが、第一声だった。正面に大階段を備えた、この屋敷の顔とでも言うべき立派な空間。それが既に、深紅の世界へと様変わりしていたのだ。

「ここが……火元なのか?」

 そう思っても不思議ではないほど、広間は酷く燃え上がっていた。これに比べたら、今まで俺たちが歩いてきた廊下など、何も起こってないに等しいだろう。

「違う」

 しかし、瑠璃はそれを否定する。否定して、指差す。

「火元はこの先。禅譲の間……だよね? お姉ちゃん?」

 その声に、ハッとして周囲を見渡す。しかし、俺がその影を見つけるよりも前に、声が上から降ってきた。

「あら? 流石は瑠璃。よく私がここにいるって分かったわね」

 見上げると、階段の上。既に黒煙によって完全に視界が奪われていたその中から、音羽姉がゆっくりと姿を現した。

「お姉ちゃんの霊圧が移動してるのは分かったから。むしろ、分かるようにしてたんでしょ? でなきゃ、私に知覚できる筈がない」

 瑠璃の言葉に、音羽姉はさもおかしそうに笑う。

「あら。そんなに自分を卑下しなくても良いのよ? なんて言ったって、あなたは一族に選ばれた人間なんだもの」

「……へ?」

 その言葉の意味を理解できなくて、瑠璃が呆けた声を上げる。俺も、まったく同じ気持ちだった。

「一族に選ばれたって……それはお姉ちゃんでしょ?」

 言うまでもなく、今日は音羽姉の『伝授禅譲の儀』なのだ。そこで音羽姉は、正式に四条家次期当主になる。

「呪いの力が、気に食わないんですって」

 すると唐突に、音羽姉が呆ける俺たちに向かって、吐き捨てるように言葉を投げた。

「四条家は代々呪い祓いの家系。にも関わらず、お前の力は『呪う』に傾き過ぎている。半世紀前ならいざ知らず、今の時代にその力は危険すぎる――だって。まったく……老人たちは頭が固くて困るわね。全くの逆よ。呪いに満ちた今の時代だからこそ、それを制圧した私の力は何にも増して強力になる。人の心を自由に操ることが出来る」

 呆れたと言わんばかりに、音羽姉は首を振る。

「そして挙句に、四条家は瑠璃に継がせるとまで言ったわ。そして私には、陰陽術を使うのを禁じると」

「そんなことって……だってお父さんはあんなにお姉ちゃんを評価して……それに別に呪いの力なんて全然――」

「それはあなたが何も見ていなかったからよ。小さな小さな私の妹」

 瑠璃の言葉を遮り、音羽姉が俺たちを見下す。

「私はね、あなたが思っているよりも、余程陰陽術に通じているの。だから……こんなことも出来る」

 音羽姉がそう言った瞬間、背後から強烈な熱風が押し寄せてきて、瑠璃と一緒に振り返る。

 いつの間にか……廊下が炎で閉ざされていた。

「不思議よね。炎って可燃性のガスと酸素があれば、どこにでも作り出せるのよ? つまり、気体分子を少し弄れば、こんなことも出来てしまうの」

「こんなことって……こんなの、もう陰陽術じゃない……」

 瑠璃が呆然と呟く。だが、音羽姉の声がそれを否定した。

「陰陽術よ。陰陽は人の想いを扱う。そしてそれは、あくまでもエネルギーの一存在形態に過ぎないの。物質も――気体も、液体も、物体も。全部同種のエネルギーが、変態して現れているに過ぎないのよ」

 まるで諭すように、あるいは妹の無知を糺すように、そう言葉を投げ掛けた音羽姉は、しかしすぐに自嘲げな笑みをその顔に浮かべた。

「でも今更、そんなことを言っても無意味ね。四条家は、今日ここで滅びるんだもの」

 その一言で、瑠璃が気付いたように大声を張り上げた。

「お父さんは!? みんなは!? 儀式に参加してた人たちは今――」

「みんな殺したわよ」

 あっけらかんと、何の躊躇いもなく。まるで日常的な瑣事に過ぎないとでも言うように、音羽姉がそう言い切る。

 信じられない――いや、信じたくなかった。

 音羽姉が四条家のみんなを殺した……そんなこと、ある筈がない。

「瑠璃には分かるわよね? みんなの霊圧、感じる?」

 そんな俺の心境を読んだかのような、音羽姉の言葉。

 すぐに、横に立つ瑠璃の顔を見る。瑠璃の顔面は……死人みたいに蒼白だった。

「感じない……でも、そんなことある筈がない。例え死んでいても霊体は残るんだから。だから霊圧が消えるなんてこと――」

「あなたは本当に何も見ていないのね、瑠璃」

 心底呆れたと、音羽姉が溜め息を吐く。

「みんなの霊圧が消えて、代わりに感じる霊圧があるでしょう?」

「あるけど! でも……こんなの人間の霊圧じゃない……」

「知ってる? 人の魂も極限まで退化すれば、動物の魂と変わらなくなるのよ?」

「……」

 隣で、瑠璃が絶句している。だからそんな瑠璃に代わって、俺が音羽姉を問いただした。

「つまり……音羽姉はみんなを殺して……ただ殺すだけでは飽き足らず、魂自体に干渉してそのエネルギーを奪い取って、人間とは呼べない魂にまで貶めたってことか?」

「元々、堕ちていたのよ、あの人たちは。だから、私が真実の姿にしてあげただけ」

 事もなげに、さも当然と言った風に、音羽姉はそう言って肩をすくめる。

 しかし俺の瞼の裏に浮かぶのは――優しげなみんなの姿。子供たちを可愛がる、二人の父親の姿。どうして、彼らを動物と同じなんて思えるだろうか?

「どうして?」

 その時――そんな俺の心の内を、形にしたかのような声が聞こえた。

 しかし、それは俺の言葉ではない。絶句していた瑠璃が、その顔色を更に白くさせながら、それでも縋るようにして、音羽姉に問いかけていた。

「優しかったのに……お姉ちゃんはあんなに優しかったのに……何でそんなことを言うの? 何でこんなことをしたの? ねぇ……何で?」

 後半は、もうほとんど啜り泣きだった。大好きなお姉ちゃんへの想いと悲惨な現実との狭間で、瑠璃はただただ涙を流す。

 そんな瑠璃を……音羽姉は一笑に付した。

「そんなの決まってるじゃない……邪魔だったからよ」

 小学生に常識を教えるように、何の気負いもなく、言う。

「私は、この力を極めるの。呪いの力を通じて魂の深淵に至り、世界の人心を掌握する。そのために、もうあの人たちは邪魔なのよ」

 そして、音羽姉は冷笑を浮かべたまま、ゆっくりと階段を降りてくる。

「あなたに優しかったのわね、あなたが案外使えそうだったからよ。家族に優しかったのはね、四条家の力を利用するのに、その方が都合が良かったからよ。でも……もうそれも無意味になった。私は四条家の力を手に出来ず、これからは独力ですべてを賄わねばならない」

 そして、小さな溜め息。

「それについては、確かに私の落ち度ね。油断して、一族を籠絡する手間を惜しんだ。その僅かな傲慢がこの結果を引き出したのだから、それは反省しないといけないわ」

 そんな風に後悔を述べる音羽姉に、瑠璃は信じられないという顔をする。

「反省って……みんなを殺したことについては? そのことには何もないの?」

「ないわね。壊れた道具の使い方を反省することはあっても、それを捨てる事に躊躇いを覚える人はいないでしょう?」

「壊れた……道具?」

 まさしく、壊れた人形のように、瑠璃はその言葉を繰り返す。音羽姉は愉快そうに頷いた。

「そうよ、壊れた道具。それで? あなたはどうするのかしら? 今までみたいに、私の可愛い道具でいることを選ぶ? それとも……壊れた道具になる?」

 言い終えた時、丁度音羽姉が階段を降り切った。瑠璃と同じ床に立ち、しかし目線は瑠璃より未だ高い。元々背が高い音羽姉と瑠璃が並ぶと、姉妹というよりは、まるで大人と子供のようだ。

「……許さない」

 だが、そんな差などには目もくれず、瑠璃がゆっくりと顔を上げる。

「そんな理由で……そんな考えで……そんな下らない気持ちで生きてきたあなたを……みんなを殺したおまえを……私は絶対に許さない」

 未だ、顔面は白い。病人と見間違うほどの蒼白な顔で、しかしその両眼だけは、赤々と燃え滾っている。瑠璃は心の底から、目の前の人物に激怒していた。

「許さない? ……それは結構なことだけれど、でも、あなたに何が出来るの? 私の劣化版でしかない、あなたが」

 その言葉に、瑠璃は明確な否を叩きつけた。

「違う。私は……私が使うのは呪い祓いの力。呪いを操るあなたとは、根本的に力の源流が違う」

 そう言うなり、瑠璃は静かに手を合わせた。目を瞑り、口元が僅かに動く。

「あらあら。一体瑠璃は私に何を見せてくれるのかしら? 良いわ。じゃあ今この瞬間を、伝授禅譲の儀としましょうか。先代を全て殺して奪ったこの地位を、果たしてあなたは奪還出来るかしら?」

 挑発するように言葉を連ねる音羽姉に、しかし瑠璃はもう反応すらしない。一心に、心の中で何かを念じている。

 ……その時だった。

 音羽姉の口元が緩んだ。今まで浮かべていた嘲笑や冷笑とは違う。いつもの音羽姉が浮かべていたような優しげな笑みが、その口元に広がって……

 思わず俺は、音羽姉の名前を呼び掛けそうになる。

 でも……そんな俺を一瞥した音羽姉は、口元に指を当て可愛らしくウインクし……

 そして――

 その仕草に魅せられて固まっていた俺を尻目に、黒闇こくあんが天井付近まで立ち昇った。その黒闇とは、黒煙ではない。火によって作り出される不完全燃焼の代物とは異なり、それは一酸化炭素ではなく、霊的な怨念によって構成されている。一般人である俺にも見えるほどの、怨念の塊。音羽姉の呪いが生み出した副産物であることはすぐに分かった。

『想念の相互作用』

 呪いとは怨念であり、その怨念は発した瞬間形を得て、まるで生き物のように動き出す。そして呪った相手を殺すように、呪った自分をも取り殺す。

『だからね。呪いなんて、本来あるべきじゃないのよ。でも……人間は弱いからね。その自分の弱さに、往々にして負けてしまう』

 これも、音羽姉の言葉だ。とても呪いを積極的に使うような人間の言葉には聞こえない。

(……何でだ? 音羽姉)

 瑠璃が手繰り寄せ、集積させた怨念が音羽姉に返っていくところを見ながら、俺はただただ問い続ける。

(何で音羽姉は……呪いの力に手を出したんだ?)

 どんなに状況証拠は揃っていても、しかしどう考えても音羽姉らしくない。そして……今の笑顔。瑠璃が目を瞑った瞬間、瑠璃が呪い祓いをした途端浮かべた笑みは、一体何だったのか? だが……それを確認する術はない。今の一瞬の間で、雌雄は決してしまっていた。

 燃え盛る屋根が……落ちてきたのだ。

 大した量ではない。だが、下にいる音羽姉を下敷きにして、そして辺り一面を火で染め上げるには十分過ぎる量だった。真っ赤に燃える木片に身体を打たれ、音羽姉は堪らずその場で膝をつく。その次の瞬間、大きな梁が一本。音羽姉の背中を打った。

「ガッ……」

 声のような、音のような何かが、音羽姉の口から漏れて……気付くと、音羽姉は地面にうつ伏せに倒れていた。身体の上には、先ほど音羽姉を襲った一本の梁。更に次から次へと火球のようになった木片が降り注ぐ。音羽姉の身体は、あっという間に火だるまになった。

「お姉ちゃん……」

 その様子を、合わせていた手を解き、閉じていた目を開いた瑠璃が見つめる。今更ながら、目の前の光景に後悔を覚えたのか……震えながら、一歩二歩と、倒れる音羽姉に近づく。

「お姉ちゃん!」

 遂に、瑠璃が叫んだ。だが、それ以上に大きな慟哭が瑠璃の声に被さる。

「瑠璃!!」

 髪を炎で巻き上げながら、悪鬼のような形相で顔を上げた音羽姉が、瑠璃のことを睨みつける。瑠璃が、泣きそうな顔で足を止めた。

「あり得ない……呪いが!! 私の呪いが!!」

 信じられないと、その声が言う。瑠璃は悲しげに首を振った。

「……悪想念は術者に還る。全部、お姉ちゃんが教えてくれたことでしょう?」

「そんなこと……私には関係ない! 私は! すべて! 完璧に! 制御できていた!」

「だから私が……お姉ちゃんの呪術を祓った。そうすれば、行き場を無くした悪想念は、法則に従い術者に還る」

「不可能よ! 瑠璃には! そんなこと!」

 音羽姉が瓦礫の下から右手を引き抜く。変な方向に折れ曲がり、赤く爛れ、今この瞬間にも燃え続ける右手を、瑠璃へとかざす。

「認めない! 絶対に!! 私の力があなたに負けるなんてこと……陰陽術の真髄は『呪う』以外にない!」

 そう叫んで、音羽姉は瑠璃に向かって手を振る。しかし炎は瑠璃ではなく、音羽姉自身を包み込んだ。

「ギャアァァァァァァ!!」

 絶叫が木霊する。その響きは屋敷を震わせ、俺たちの心を震え上がらせる。

「お姉ちゃん……」

 瑠璃の目から涙が溢れた。溢れた涙は床に落ちて、あっという間に蒸発していく。

 流れる涙と気化する液体。しかしその供給が止まるまで、そう長い時間はかからなかった。

「四条家は……呪い祓いの家だった。それなのに、あなたはその力の本質を〝呪う〟と捉え、その力ですべてを燃やした」

 瑠璃が焼ける天を仰ぐ。

「でも……因果応報なのかもしれない。いくら呪い祓いの力でも、扱うのは呪い。祓われた呪いは術者に還り、結局新たな苦痛を生み出す。そしてそれが……次なる呪いの原動力へと変わっていく。結局、怨嗟の連鎖は止まることがない」

 大人びた言葉。覚悟した表情。瑠璃は、燃える姉の姿を見て、決意していた。

「だから……私が終わらせるよ。四条家が生み出した呪いの力を、私が根絶する。それが……四条音羽から当主の代を引き継いだ、最期の当主である四条瑠璃の……最後の仕事」

 そう言い放った瑠璃を、もう音羽姉は見ていない。燃え盛る炎に包まれて、事切れたように動かない。だが――


『瑠璃を宜しくね』


 最後の刹那。

 焼け落ちる屋敷にこれ以上留まることは出来ないと、立ち竦む瑠璃の手を取ったあの瞬間に、頭の中に聞こえてきたその言葉は、一体誰の言葉だったのだろうか?

 あれから六年経った今でも、俺はその問いに答えを出しかねている。でも……

 四条音羽――

 家族はみんな道具だったと、冷酷に宣言した女性が一瞬浮かべた微笑みを、俺は忘れない。

 何も話すなと、俺に対して口止めしたあのお茶目なお姉さんの仕草を、俺は忘れない。

 そして――火を操るほどの力を有した天才陰陽師が、可愛い妹に呆気なく焼かれていったその姿を、俺は決して忘れない。そして同時に――

 俺が見たものが何であれ、俺が聞こえた声が何であれ、俺がするべきことは変わらない。

『瑠璃を宜しくね』

 あぁ、分かっている。だから俺は、今もここにいる。誰かの遺志を引き継ぎ、ここにいる。もしその結果、その誰かを再び殺すことになったとしても……

 それでもやっぱり俺は……ここにいる。



     六

 昔語りが終わる。

 それは、今の俺たちの起源とも言える物語。俺たちがここ神奈川で一緒に暮らしているのも、瑠璃が四条の力を根絶することに決めたのも、その手始めに、自ら陰陽師であることを捨てたのも、すべてはこの一日に原因がある。この一日が、俺たちの全てを変えたのだ。

「話してくださって……ありがとうございます」

 そんな運命の物語を聞き終えて、会長がゆっくりと頭を下げる。その表情は分かりやすく強張っていて、目の端には、きらりと光るものが見え隠れしていた。

「本当に、酷いお話です。家族も、親族も、家もすべてを失って、その原因が最愛の姉だったなんて……普通なら、とても耐えられません」

 指で涙を拭いながら呟く会長。かなりショックを受けたようだが、それでも会長は俺から目を逸らそうとはせずに、続く言葉を発した。

「でも、今の話で分かりました。瑠璃さんの恐怖症の正体は……自分に対する恐怖ですね?」

「……はい」

 もう隠す必要はない。俺は素直に頷き、瑠璃が感じている恐怖の真相を語る。

「瑠璃は心の奥底で、姉を焼き殺したことを後悔しています。そして、そんな残酷なことを可能にした自分の力を恐れている。だから瑠璃はあの日以来、陰陽師でいることを止めたんです。もう二度と、自分の力で誰かを傷つけないように」

 そう。それが、あれ以来瑠璃が抱え続けてきた恐怖の正体。自分を殺そうと迫ってきた音羽姉に対してではなく、実の姉を殺めてしまった自分自身への恐怖の感情。普段それを押し殺している分、他人を前にすると一気に噴出する。                                

 その対象の例外は、世界中で俺一人だけだ。あの地獄を共に経験した俺以外、彼女の前に立つことは誰にもできない。

「やはり……そういうことでしたか」

 沈鬱な面持ちで、会長が俯く。

「思っていたよりも、酷い状態です。ちなみに、音羽さんの最期の言葉や仕草について、瑠璃さんは知っているんですか?」

「いえ、知りません。伝えていませんから」

 首を振る。

「多分瑠璃は、それに耐えられない。罪悪感に抗えない。押し殺すことが出来なくなって、瑠璃はきっと壊れてしまう」

 俺の言葉に同調するように、会長は何度も頷いた。

「えぇ、そうですね。それが良いと思います。自分の行為に疑問を抱かせるような情報は、今の瑠璃さんにとっては容易に凶器たりえます」

 それから、顎に指をあてて眉根を寄せる。

「さて……じゃあ今度は、彼女の対人恐怖症をどう解消するか、考えなければいけません」

「……出来そうですか?」

 過度な期待はしていない。それでも、そう尋ねずにはいられない。でも、だからこそ――

「瑠璃さんの中にある自責の念を、抑制させることは出来ると思います」

「!? 本当ですか?」

 その言葉を聞いて、気付いたら立ち上がっていた。

 会長は頷く。

「えぇ。厳密に言えば、生じる罪悪感をぼかした上で、音羽さんに関する記憶にフィルターをかけてしまうという方法です。そうすれば、完全に恐怖心を感じなくするところまではいかずとも、少なくとも恐怖で前後不覚に陥る事態は避けられるはずです」

 俺は、その言葉で動きを止める。

「音羽姉の記憶に……フィルター?」

 それは、音羽姉のことを忘れてしまうということだろうか? もし本当にそうだとしたら……いくら恐怖心を抑えるためとはいえ、流石に、そう易々とは頷けない。

「安心してください。音羽さんのことを忘れるわけではありませんよ」

 だが、そんな俺の考えを読み取ったのか、会長がすぐに否定の言葉を口にした。

「忘れるわけではなく、ダイレクトに思い出せなくなるイメージです。たとえば、顔を思い出そうとすると霞がかかっていてぼんやりとしか分からない。その時感じた感情も、まるで他人事のように少し距離を置いて感じられる。そんな感じです」

「そう……ですか」

 それでも、やっぱり安易に了承はできない。

 瑠璃が音羽姉に対して抱いている感情は複雑だ。罪悪感を抱きながらも、呪いの力に墜ちた音羽姉を生かしておくべきではなかったという気持ちも確かにあり、一族を皆殺しにした音羽姉に対する怒りだって当然燻っている。そういった感情が複雑に絡まり合っていて、その結果、ここまで瑠璃の情緒は不安定になっているのだ。しかし、だからこそ……

 その感情が多少なりとも薄まれば、瑠璃の状態が安定するのは間違いない。

(でも……)

 それらの感情を、瑠璃が捨ててしまっても良いと考えているかは、また別の話だ。いくら瑠璃のためとは言え、彼女の想いを無視して、その内面を変質させてしまうようなことに、やはり独断で頷くことはできない。

「すいません……」

 だから、俺は口にする。

「やっぱり、一度瑠璃に相談させてください。それでもし、瑠璃がそれを望むようなら……その時に、またお願いしたいと――」

 でも結局、その言葉は途中で遮られる。


「そんなの……いらない」


 そんな声が、聞こえたからだ。

「すべて、私が背負うべきものだから。目を逸らしちゃ……いけないものだから」

「――!?」

 驚いて、振り返る。すると居間の扉の前に、ベッドに寝かせたはずの瑠璃が立っていた。両腕で自分を抱きかかえ、震えそうになる自分を必死で抑え込みながら。

「瑠璃!? なんで降りて来たんだ!」

 慌てて、瑠璃のそばまで駆け寄って、その身体を抱きかかえようとする。けれど――

 その手は、瑠璃によって払われた。

「昴生の服にね、実は識神を仕込んでたの」

「え?」

 一瞬、何のことだか分からなかった。でもすぐに、その言葉が示すことに思い至って、咄嗟にジャケットの内ポケットに手を突っ込む。

「……いつの間に」

 ポケットから、人型の識神が現れた。

「ずっと前からだよ。もともとは、ただの悪戯で仕掛けただけだったけど……目が覚めたら、会長のさっきの提案が聞こえてきたの。だから……ここまで降りてきた」

 瑠璃が、その瞳を真っ直ぐ会長に向けた。信じられないことに、もう瑠璃は泣き叫ばない。

「私は……大好きだったお姉ちゃんを、この手で殺した。それは、本当に辛い記憶だけど、吐き気がするほどゾッとする思い出だけど、でも、それでも――」

 唇を震わせながら、瑠璃は口を動かし続ける。

「あの時感じた憎しみと恐怖は……それ以来私を苦しめ続ける自責の念いは……私に残った最後のお姉ちゃんとの〝絆〟なの。それは決して、手放してはいけないものだから。忘れてはいけないものだから。だから――」

 顔面は蒼白で、手は小刻みに震えていて、今にも、その場に崩れ落ちそうなのに。

 それなのに、瑠璃は会長から目を離さない。

「私から……お姉ちゃんを奪わないでください」

 ゆっくりと、でもはっきりと……瑠璃は会長に頭を下げた。

 俺も会長も、呆然として動けない。

「そんな……頭を上げてください」

 それでも、会長はなんとかそれだけは口にして、動揺した顔で俺を見る。瑠璃の前からすぐにでも消えるべきか、それともこの場に留まっていた方が良いのか、きっと判断しかねているのだろう。俺も、咄嗟に答えあぐねる。

「だい……じょうぶです」

 そんな中、答えたのは瑠璃だった。

「もう私は……甘えません。お姉ちゃんから目を逸らさない。自分の罪から逃げたりしない。本当は、ずっと前からそうしなきゃいけなかったんです」

 そう答えた瑠璃が、頭を上げた。額には、脂汗すら浮かんでいる。

「きっと、これが最後のチャンスだから。お姉ちゃんの影が私の前に現れて、会長みたいな力を持っている人も現れて……それでまだ目を逸らし続けたら、会長の力に甘えたら、私は多分、もう一生自分を許せなくなる。だから私は――」

 瑠璃が、右足を一歩前に出す。

「今度こそ、自分の足で歩きます。昴生も……それで良い?」

 更に左足を前に運んでから、震える瞳で俺を見る。その瞳は絶え間なく左右に揺れていながら、確固とした意志が宿っていて……

 俺は悟った。瑠璃の覚悟と、その想いの強さを。生半可な決意で……いっときの気まぐれで、自分の部屋からここまで歩いてきたわけではないことを。音羽姉に手を伸ばすために、彼女はその両手で握りしめていた罪悪感を、手放すことに決めたのだ。

(あぁ……だとしたら……)

 俺も覚悟を決めよう。瑠璃の身体を抱き締める代わりに、震えを止めようとする代わりに、その傍らにただ立とう。瑠璃が前に伸ばした手を降ろしてしまわないように、左手では熱を伝え、右手は瑠璃と同じように前へ伸ばそう。

 この先瑠璃が、決して一人にならないように……

「……ありがとう」

 そんな俺の想いに、それが瑠璃の返した言葉だった。ただ瑠璃の瞳を見つめるばかりで何一つ口にしなかった俺に対して、瑠璃も同じように俺の瞳を真っ直ぐ見つめ返すと、静かな微笑を浮かべてそう言った。もう、彼女の頬は強張っていない。

 そして一つ、深呼吸。

「では、会長さん。もう一度、私の部屋にご案内します」


 部屋に戻るまでに、瑠璃は何度かふらついたものの、それでも結局最後まで一人で歩き切った。俺も、決して瑠璃のそばから離れなかったが、しかし、肩を貸したりはしない。

 必要がないことを、知っているからだ。

「実は、今日ここにお邪魔した理由は、これをお見せするためだったんです」

 瑠璃の部屋に着くなり本題を切り出した会長が、ずっと肩から掛けていた鞄から一台のノートPCを取り出した。

 瑠璃を追い詰めた責任を、恐らく今も、会長は強く感じている。けれど、瑠璃の覚悟に触れて、それを引き摺るべきではないと判断したのだろう。努めていつも通りを維持しようとしているようだった。ただそれでも、瑠璃に触れるような距離には安易に近づかないように、自分の立ち位置には気を使っている。

 だから、そのノートPCは俺が受け取り、机の上に置いた。

「私なりに、オトハの手の情報を得るための方法を考えてきたのですが、そのために必要不可欠なツールが、このノートPCなんです。だからこれは、そのまま二人に差し上げます」

「……良いんですか?」

 多分、市場価格で二十万円は下らない。高校生には、かなり過分な贈り物だ。

「構いません。むしろ管理者設定をしてあるので、新しく別のPCで設定し直す方が面倒なんですよ」

 薄く微笑んでそう答えた会長が、ノートPCの電源を入れる。瞬きをする程度の僅かな時間で、ディスプレイ上に見慣れたビーチと、いくつかのアイコンが表示された。

「さて……お二人に見せたかったのは、これです」

 迷いない操作でブラウザを立ち上げ、一つのページを表示させた会長が、そう言ってPCの前から退く。

「星稜高校 生徒会公式サイト?」

 それは、うちの高校の生徒なら知らぬ人はいないほど有名な生徒会の自主運営サイト――と言う名の、会長の公式ファンサイト。会長のブログも併設されており、その月間閲覧数は千の単位を数えると、会長親衛隊候補予備軍のたちばな君が言っていた――ような気がする。

「これが何か?」

 だが、その人気サイトと今のこの件がどう関係しているのか、いまいち分からない。

 だが、瑠璃は違った。

「特設ページ……『呪い祓い.com』?」

「……え?」

 言われて、再度ページを見る。すると確かに瑠璃の言う通り、ページ上部の一番目立つところに、新しいコーナーが作られていた。

「はぁ……何でこんな目立つのに、パッと見て気付けないかな……どうせ、会長の水着姿でも見てたんでしょ?」

 ジトリとした瑠璃の視線。いつも通りのその雰囲気に、胸を撫でおろしたい衝動が襲ってきたが、それを表に出したりはしない。普段通りの声音で返す。

「男なら、このお知らせに視線が吸い寄せられるのが道理だろう?」

 ちなみに、それはれっきとした本心だ。

 今、やり玉に挙がっているのは、星稜高校が来年から導入予定の新しいスクール水着の案内ページに飛ぶバナーだ。時代の最先端を行っているのかどうかは知らないが、星稜高校は生徒の自主性と多様性を重んじて、一定の基準の下に身につける水着の自由を認めている。だが一方で、学校推薦の水着も多数用意しており、そのモデルを会長が務めているのだ。

 このバナーには、数あるスクール水着の中でも最も旧来のそれに近いものを着用した、会長の肢体が写っている。

「なんだかんだ、こういう水着が一番人気なんですよ。体操服と変わらない地味な水着を着るよりは、やっぱり可愛いのが良いって。ほら、よく見ると、フリルとか付いてるでしょ?」

 確かに言われてみると、見慣れたスクール水着とは違って色々な装飾が施されているようだった。これで、会長人気が更にうなぎ昇るのは確実だろう。

「んで? そろそろ話を戻しても良い?」

 そんなことを思っていると、相変わらずの表情で、瑠璃が横目で睨みつけてくる。

「勿論。それで……『呪い祓い.com』でしたか?」

「えぇ。平たく言えば、お悩み相談コーナーみたいなものですね。例えば……誰かに呪われているかもしれない。誰かを呪ってしまったかもしれない。何故か最近不幸が続く。なんとなくついてない――こんな悩みを抱えている人に、このコーナーを利用して貰うんです」

 会長はマウスを操作して、更に詳細ページへと飛ぶ。そこにあったのは、白地の背景の上に黒字が踊る、簡素ながらも綺麗なページ。その中に、呪いに関する簡単な説明と、実際の体験談がいくつか。そして、相談内容を書き込む専用フォームがあった。

「凄いな……よく数日でこんなものを。呪いの体験談とか、集めるの大変だったでしょう?」

 単なる恋愛問題やらとは訳が違う。そう滅多に転がっているものではない筈だ。

「それほど大変ではありませんでしたよ」

 だが、会長は笑顔で答える。

「体験談は、すべて創作ですし」

「えぇ……」

 それはいくらなんでも駄目なんじゃないか? それに創作で書いちゃったら、もう参考事例として意味を成さない。

「でも……やけにリアルだよ、これ。呪いって、本当にこんな感じだから」

 しかし、体験談を読んでいた瑠璃は感心したような声を上げた。

「欲望につけ込んで他人を貶める呪い。怒りを増幅させて自分も他人も破滅させる呪い。間違った思想で多くの人を惑わせる呪い。自分の身勝手で他人を利用する呪い――よくもこんな色々なパターンの呪いを……しかも全部実際にありそうな……」

「興味がありましたから。それに私、副業でホラー小説家なんかも良いなと思って、色々と勉強してるんです」

 少し照れ臭そうな笑顔で口にしたその会長の夢は、確かにこの人にぴったりな気がした。だが、今大事なのはそんなことではない。

「これならいけそう?」

 瑠璃は大きく頷いた。

「文章も分かりやすいし。自分の体験とも重ね合わせて考え易いと思う。これなら、本当に呪いで苦しんでいる人が相談してくるかもしれない」

「では、決まりですね」

 嬉しそうに会長が微笑む。

「では、早速このページを明日から生徒会サイトに載せることにします。寄せられた相談はそのPCにインストールしてあるメールソフトに入りますので、毎日チェックして下さい。一応、生徒会サイトの管理者権限もそのPCに付与していますから、気になる箇所があれば修正しもらって構いません。一応その時は、私に一言頂きたいですけれど」

 会長の説明を聞きながら、少しPCを弄ってみる。問題なく、言われた機能は使いこなせそうだった。

「ありがとうございます。これで一歩前進できた気がします」

 一時はどうなることかと思ったが、結果的にはかなり収穫が大きかった。

 まだ解決したわけではないが、瑠璃は自分の想いと向き合って、目をそらない決意を固めた。恐怖心に流されず、それに立ち向かう覚悟を決めた。その結果、こうして俺以外の人と隣り合うことが出来ている。

 オトハの手についても、このサイトを運用していけば、きっと何らかの手がかりを得られるだろう。少なくとも、ネットの大海の中を当てもなく彷徨うよりも、よほど効率的だ。

「ありがとうございます」

 瑠璃も、多少ぎこちなくはあったが、会長に向けて頭を下げた。

 会長の顔が、パッと明るくなる。

「良かった。これで少しは、さっきのリカバーが出来ました」

 本当に嬉しそうに、あるいは安心したように微笑んだ会長が、ググっと一つ背伸びをする。

「じゃあこれで、今日は帰ります。あんまり長居をしても、瑠璃さんの負担になってしまうと思いますから」

「……すみません」

 瑠璃が、少し目を伏せる。でも会長は「こちらのセリフです」と、手を振った。

「私のせいで、今日は瑠璃さんを苦しめてしまいました。本当にごめんなさい」

 頭を下げようとする会長。だがその頭を、瑠璃の手が押し止めた。

「違います。会長はきっかけを与えてくれました。今度お姉ちゃんの前に立つとき、取り乱さないで済むように。正面から向き合うことが出来るように。だから――」

 会長が、顔を上げる。その顔に、瑠璃が精一杯の笑顔を向ける。

「ありがとうございました。私はもう、大丈夫です」

 その笑顔は、満面の笑みとは言えなかったけれど。それでも瑠璃が、俺以外の人に向けた、六年ぶりの笑顔で……

 きっと、この時の瑠璃の笑顔を、俺は一生忘れないだろう。


     ***


 『呪い祓い.com』が生徒会サイトに掲載されてから、一週間はなんの音沙汰もなかった。

 閲覧数を見るに、学内のほぼ全ての生徒が見ていることは明らかだったが、それが相談に繋がるかと言えば、また別の話。

 もしこれが別の学校で行われたのであれば、冷やかしや興味本位を動機とした書き込みも行われたのであろうが、うちの学校において、会長に対してそんな不純なことをする人間は極めて稀である。そしてそんな稀な人間も、会長親衛隊の存在によって一掃させられる以上、生半可な気持ちでの相談は皆無になるのだ。

 だからまぁ……そういう風に考えると、一週間で音沙汰があったのは、逆に早いと言えるのかもしれない。


 コンコン――

 生徒会室のドアをノックする。時を置かず、中から会長の透き通るような声が返ってきた。

「良くいらっしゃいました。人払いは済んでいますから、どうぞお入りください」

 その声に導かれるままに扉を開いた俺は、いつかの時と同じように、部屋の真ん中に置かれていたソファに腰掛けた。

「瑠璃さんは、やはり来れませんか?」

 少し残念そうな顔で、会長がそんな声を漏らす。

「はい。本人は頑張ろうとしていましたが、俺が止めました。人込みに出るのはまだ不安がありますし、今回は相談者に対応しなければいけませんから。動揺していたら、いつも通りの力を発揮出来なくなる可能性もあります」

「……えぇ、そうですね。無理をする必要はありません。少しずつ、慣れていきましょう」

 会長は納得したように頷いて、「では、今日は電話参加ですか?」と首を傾げる。

「はい。その予定です」

 それから、俺からも聞く。

「ちなみに、相談者はいつ頃ここに?」

「多分、あと五分もすれば来ると思いますよ。一応相談者の方には、こちらの出席者の概要だけ伝えてありますので、そのつもりで」

「概要と言いますと?」

「私は勿論、昴生さんの名前とクラス。あとは、外部からの助っ人として、美少女陰陽師が一名いることも伝えています」

「……今日の相談者って、男子じゃないですよね?」

 もし翔平みたいな性格の奴だったら、色々と面倒な事態が発生しそうだ。

「ご安心下さい。記念すべき相談者第一号は、可愛らしい女の子ですよ」

「可愛らしい?」

 その表現に疑問を覚える。なぜなら、今日来る予定の相談者の素性は、今の段階ではまだ分かっていない筈なのだ。『事が事だけに、プライバシー保護の観点は重要です』と、会長自らが方針を定め、実際に会うまでは個人情報の開示は不要とした。性別くらいなら事前に教えて貰うこともあるかもしれないが、個人を特定できる情報があるとは思えない。

「『何故可愛らしいと言えるのか分からない』――そういう顔ですね」

 そして俺のそんな疑問は、当然会長には伝わっていて。特に焦らす訳でもなく、すぐに種明かしをしてくれた。

「簡単な事です。この学校にいる女の子は、総じてみんな、可愛らしいですから」

「……」

 いや……特に、種はなかった。

「……そうですね」

 だから結局、そう答える。ここで変に異論を唱えたら、普通に俺が嫌な奴だ。

「さて……じゃあそろそろ瑠璃に電話しますね」

 もうこれ以上この話題を続けていても良いことは無さそうなので、俺は早々に瑠璃に逃げることにした。スマホを取り出し、瑠璃の連絡先をタップする。

『もしもし』

 ワンコールで、瑠璃が出る。スピーカーにしていたため、生徒会室に瑠璃の声が響き、会長の相好が嬉しそうに崩れた。

「お久しぶりです、瑠璃さん。今日は宜しくお願いしますね」

『はい、こちらこそ』

 瑠璃と会長が会話を始める中、俺は席を立ち、会長の隣にスマホを置いた。そして自分はその後ろに回り込む。

「昴生さん? なんでそんなところに立っているのですか?」

 すると、そんな俺の行動に疑問を抱いたのか、会長が首を傾げる。

「いえ、会長と同じ席に座る訳にはいきませんから」

 この学校の常識だ。

『やむを得ない理由もなしに、長時間、会長のパーソナルスペース(目安として五十センチ以内)に居座ってはならない』

 それが、会長親衛隊の定めている不文律。俺はその組織に属していないため、本来遵守義務はないのだが、無用な争いを避けるためにも従わない理由はない。これから来る相談者が、どんな立場の人間かも分からないのだから。だが――

「ここに座りなさい」

 珍しく命令口調で、会長が自分の隣をポフポフと叩く。

「いや……そういう訳には。俺は全然ここでかまわな――」

「私が構います。しのごの言わずに早く座りなさい」

 有無を言わなさないその圧力に怯む。そして――

 ――コンコン。

 丁度会長がそう言ったタイミングで、部屋のドアが外側からノックされた。少し早いが、どうやらもう相談者が来たみたいだ。

 俺はほとほと困り果てて、もう一度、会長の顔を見る。それで……諦めた。

 〝笑顔〟――そこにあったのは、何人にも逆らうことを許さない、無言の圧力だった。


「あれ? あの時の面白い人?」

 それが、部屋に入ってきた女子生徒の第一声だった。そして、仲良くソファに座っている俺と会長を見て、目を丸くする。

「しかも、会長とあんな近くに……え? 一体どういうことですか?」

 困惑の表情を浮かべて、俺と会長の間で視線を行ったり来たりさせる。と思ったら……次の瞬間には、顔を真っ青にして、ガクッと肩を落とした。

「まさか……会長とそんなに近い関係の人だったなんて……私、思いっきりMeTubeでネタにしちゃったよ……」

 相談者――以前正門で会ったことのある、人気MeTuberのアメリが項垂れる。

「……なんだか、ただならぬ雰囲気ですね。昴生さん、一体何をしたんですか?」

「別に何もしていませんが……」

 心当たりがなくも無かったが、実際何も咎められるようなことはしていないから、取り敢えずそう答える。それより今は、アメリの不安を取り除く方が先決だ。

 俺はアメリに、ソファに座るよう促しながら、誤解を解くべく努める。

「大丈夫、安心して。俺は今回の件に限って会長と行動を共にしてるだけで、それ以上の関係ではないから。なんなら、会長親衛隊にも属してないから」

「え? そうなんですか? 私てっきり、桜華四天王だとばかり……」

『桜華四天王? 何その厨二な単語は』

 スマホから瑠璃の声が聞こえてきて、アメリが身体をビクッと震わせる。

「え? 誰?」

 ビクつくアメリに向かって、俺はスマホを掲げて見せた。

「これだよ。事前に話していた陰陽師。今日は、電話参加なんだ」

「あ……そうなんですか……」

 アメリが浮かしかけていた腰を落とす。それを確認しながら、俺は瑠璃に桜華四天王につい説明した。

「会長親衛隊の幹部四人に付けられる尊称だよ。副会長とかがそうなんだけど、親衛隊の中では会長に次いで尊敬されている人たちだから、彼らに対する不敬な行動は、罰則の対象になるんだ」

『えぇ……何その学校……嫌すぎるんですけど』

 スマホ越しでも、瑠璃の顔が引き攣っているのが分かる。だが、今は後回し。

 未だ、自身の身の安全に確信を持てていない風のアメリに、更に言葉を足して説明する。

「そもそも、男の俺が会長の隣に座ってること自体おかしいでしょ? こんなの聖域侵犯そのものなんだから。いくら桜華四天王でも、いや四天王だからこそ、彼らが不文律を破るようなことはしない。でしょ?」

「た……確かに……」

 これには流石のアメリも納得せざるを得なかったのか、深々と頷く。そして浮かべる安堵の笑み。心なしか、頬にも朱が差し始めている。

『今ので納得するとか……この学校、封建社会が過ぎるでしょ……』

 対照的に、瑠璃の戸惑いが時を追うごとに増大していく。やはり長年学校に通っていないから、久々に触れる組織のシステムに戸惑うことも多いのだろう。

「さて、では問題にひと段落ついたところで」

 するとそのタイミングで、件の問題の元凶が、手を打って俺たちの視線を集めた。

常磐天莉ときわあめりさん。説明して貰えますか?」

 そして会長は、アメリの本名を呼びながら、今回の相談内容についての説明を――

「昴生さんが、一体何をしたかについて」

 ……促しはしなかった。え? 何だって?

「……会長、それを今聞きますか?」

「当然です。入ってきて真っ先に天莉さんが言った『面白い人』という単語。そしてその後に続く意味深な言葉の数々。気になって夜も眠れません」

「いや……お願いですから寝て下さい」

 普通の人なら冗談で済むその言葉も、会長が言うと洒落にならない。会長に不眠の原因を与えたなんてことが校内に知れれば、最悪、懲罰委員会が開かれる可能性すらある。

「では教えてください。天莉さん、どうなんです?」

 会長が問い詰める。

 アメリも、まさかそんなことをこんなにも真剣に問い詰められるとは思っていなかったのだろう。最初は目を白黒させていたが、やがて何かを思い出したのか、可笑しそうに肩を震わせた。

「クスクス……では、話しますね。三週間くらい前になるんですけど、実は昴生先輩が、正門の前で、〝一人で〟コントの練習をしていたのを目撃しちゃったんですよ」

 さっきまでのビクビクした態度が嘘みたいに、生き生きとした表情で話し始める。

「なんか『珍魚なんとか』っていう四文字熟語を使ったコントで……まぁそれ自体は面白くもなんともなかったんですけど。でも、あんな所で一人で真剣にやってるのが面白くて。それが、無性にツボに入っちゃったんですよね」

 そしてアメリは、もう一度クスクスと笑った。

「なるほど……それでそのことをMeTubeでネタにしたと。それは……自業自得と言うか何と言うか……まぁ、仕方ないですね」

『あんた……往来で一体何やってんの?』

 アメリの話を聞いた二人が、方や可哀想な人を見るような目で、もう片方は蔑みを含んだ声で、それぞれの反応を示す。

 冤罪も良いところだ。

「勘違いするな。あの時は、翔平といつもの如く、世間話をしてたんだ」

 だから俺は、そのまま真実を話す。するとその一言で、二人が先程まで纏っていた気配が変化した。

「「翔平さんと?」」

 興味深げに声を弾ませた会長と、蔑みから呆れへと声音を変化させた瑠璃の声が被る。

「翔平さん?」

 そして残りの一人――アメリは訳が分からないという顔で首を傾げる。

「あの時、昴生先輩一人でしたよね?」

「……違うよ」

「へ?」

「あの場には『翔平』っていう俺の友人がいたんだ。そいつと、話をしてたんだよ」

「……またまた。いくら恥ずかしいからって、嘘ついちゃダメですよ。だってあの時、確かに私は昴生先輩が一人で――」

「普通の人には見えないんだよ」

 仕方なく、俺はアメリにも奴のことを説明する。

「あいつ――樋口翔平は生きてないから。分かりやすく言うと、幽霊なんだよ」

「……はい?」

 アメリが呆気に取られた顔で俺を見て、次いで、瑠璃と会長を見る。そして――顔が青くなった。

「いや……嘘ですよね? 先輩だけならいざ知らず、会長までそんな……だって幽霊ですよ? あんな白昼堂々、コントしてるわけないじゃないですか」

 そう言われると、返す言葉がない。

「まぁ普通の幽霊と違って、彷徨ってる訳じゃないから。そういう意味なら、幽霊というより〝霊人〟って言った方が正しいのかも」

「いや……同じですよそんなの。だって……死んでるんでしょ? テレビから出てきたりするんでしょ? 携帯に……着信残したりするんでしょ!?」

 興奮した様子でアメリが半身を乗り出す。

 それにしても……随分とお化けのイメージが古いな……何歳だ? この女子高生。

「それは悪霊な。それに悪霊だって、実際にそんなこと出来るわけないだろう? 悪霊如きに首を捻じ切られてたまるか」

「捻じ切らないんですか!?」

「捻じ切らないよ……」

 はぁ……なんだか頭が痛くなってきた。

「とにかく、翔平は生きてはいないけど、アメリが思ってるような極悪な存在ではないから、怖がらなくて良いよ」

 そう言うと、会長もそこに助け舟を出してくれた。

「昴生さんが言っていることは本当ですよ。私はその翔平さんを見ることは出来ませんが、まぁお話ししたことはありまして。彼は確かに霊人ですが、それでも危険な存在ではありませんでした」

「……そうですか。会長が言うなら、きっとそうなんでしょうね……」

 会長からもそう言われて、アメリが納得したようなしてないような、微妙な顔で頷く。

 そんなアメリを横目で眺めながら、俺は『やれやれ』と首を振って、会長に話しかけた。

「会長。もう気は済んだでしょ? 早く本題に入りましょうよ」

「えぇ……そうですね。そうしましょう」

 会長は頷き、改めてアメリに問いかける。

「では天莉さん。今回『呪い祓い.com』を利用して下さった訳を、説明して貰えますか?」

「あ……はい。分かりました」

 未だショックは残っているようだったが、それでも会長に促されて、アメリはポツポツと話し始める。

 最初は、少し考えながらゆっくりと。次第にペースが戻ってきたのか、途中からは流れるように。人気MeTuberらしく、慣れたトークを披露してくれた。


「事の始まりは、とあるゲームの生配信中に流れてきたコメントでした」

 そんな言葉から始まったアメリの一人語りは、最初のうちはそれほど珍しくもないような話だった。

『調子に乗るな。死ね』

 きっかけは、そんな一つのコメント。中々にパンチの効いた悪口だが、ネットの世界には色々な人がいる。多くの人の目に触れることをしていれば、批判コメントが来るくらいは当たり前。だからアメリ自身、その時はそれほど気にはしていなかったようだ。だがそんな批判コメントが、翌日の配信でも、更に次の配信でも続き、むしろその数が増え始めたことで、ようやく何か普通ではないことに気が付いた。

 アメリは言う。

「今になって考えると、その段階で一度、配信を休止にするべきだったんです」――と。

 だが、結局それも結果論だし、例えそうしていたとしても、あまり意味は無かったと思う。

 何故なら……

 最初の批判コメントから五日後。教室のアメリの机から『調子に乗るな。死ね』と、血のような真っ赤な文字で書かれた紙片が出てきたのだから。


「流石にその紙を見た時は怖くなりました。まさか、同じ学校の人だとは思ってませんでしたから」

「そりゃあそうだよね……」

 ネットの中だけであれば、精々罵詈雑言で済むが、相手が自分の生活圏内にいるとなれば話は別だ。具体的な危険に晒される可能性だって出てくる。

「でも……本当に大変なのはそこからでした」

 しかもアメリは、そこまでは単なるプロローグだったと言う。

「金縛りに頻繁になるようになりました。しかもただ動けなくなるだけじゃなくて、誰かが私の上に乗って首を絞めてるみたいな感じがするんです。首が痛くて苦しくて……それで一度、金縛りの後に鏡で首を見てみたら……」

「……もしかして……手形?」

「はい……」

 もしやと思って聞いてみると、案の定だった。

「私の見間違いかもしれないんですけど、まるで手形みたいなアザが残ってて……その後すぐに消えちゃったし、怖くて動転してたから、写真とかも残ってないんですけど」

 無理もないだろう。心霊現象として、それは相当に恐ろしい部類だ。

「それからは、金縛りになっても何とか首を振って抵抗してるので、そこまでいくことはないんですけど……でも金縛り自体は本当に多くて……最近は少しウトウトするだけで、どこでもなるようになってしまって。あとは、配信機材。なんでか上手く動かないことが多くて……何度か買い替えてるんですけど」

 電子機器トラブル。これは俺にも経験があるから分かるが、霊は何故か電子機器に干渉しやすい性質を持っている。

 アレ、マジで迷惑だから止めて欲しいんだが……

「それで、現実世界でそうこうしてるうちに、配信自体も荒れるようになってきて。今はこんな感じなんですけど……」

 そう言って、アメリが自分のスマホを俺たちに見せてくる。

「……酷いな」

 それは、一枚のスクリーンショットだった。

 アメリの最新の実況動画についたコメント欄。好意的なコメントも多いが、それと同じくらいに、罵詈雑言も数多く並んでいた。

「見つけ次第、こういうコメントは消すようにしてるんですけど、私は個人でやってるからそれも大変で……何より、精神的にキツい……」

 確かに……このコメント欄だけで、普通の女子高生が受けるだろう一生分くらいの悪口が書かれているかもしれない。並の精神力では厳しいだろう。

「私、顔出し配信してるから『目立ちたがり』とか『ブスなのに勘違いしてる痛女』とか……そういうのも多くて……最近はもう生配信とか怖くて出来ないんです」

 そう俯くアメリは、控えめに言っても普通に可愛い方だ。俺なんかは、だから顔出し出来るんだなぁと素直に感心するだけだが、それを気に入らないと感じる層も一定数いることは、まぁ分からないでもない。

 要は……単なる嫉妬だ。普通にありふれている。誰でも簡単に抱くような、庶民的な感情。

 でもだからこそ……最も頻繁に呪いの原因になる。

「どうだ?」

 俺としては、もう呪いと断定して良いような気がするが、念のため瑠璃にも確認してみる。

 すると瑠璃は――

『実際にそのコメントを見たり、動画を上げてるチャンネルを調べてみないと断定は出来ないけど……』

 と、専門家らしく慎重に前置きした上で、

『多分、〝嫉妬の呪い〟だろうね。ある意味、一番分かりやすくて普遍的な呪い。目立つことしてるから、その分、嫉妬の対象にはされやすくなる』

 俺と同じ見解を口にした。だが……瑠璃は俺よりも、数段厳しい。

『天莉さん。人の生命を救うために寝る間も惜しんで努力して、お医者さんとして実際に沢山の生命を救いながら年収三億円を稼いでいる医者と、コツコツ十年間宝くじを買う〝努力〟を続けてたら、遂に当選。三億円を得て仕事もせずに、悠々自適のタワマン生活を送ってる人。悪口言うなら、どっちに言いたい?』

「……え?」

 突然の瑠璃からの質問に、アメリは言葉を失う。対し瑠璃は、そんなアメリの様子を歯牙にもかけず、アメリの答えを待たずに話し始める。

『言うまでもなく、後者に――だよね。だってその人、結局自分のことしか考えてなくて、それに客観的に見て大した努力もしてなければ、人の役にも立ってないんだもん。それなのに、人が羨む生活をしてる。だから人は、そんな人を妬むの』

 剣のように鋭い舌鋒が、容赦なく吹き荒れる。思っていても、俺には言えない。こういうところは、流石瑠璃だ。

『凄い努力してる人とか、人の役に立つ行動をしている人に対して、中々悪口って言えないもんなんだよ。だってそんな立派な人に嫉妬して悪口言ったら、自分が凄い矮小な存在に見えちゃうからね』

「……はい」

 何を言われているのか、薄々勘付きつつあるアメリが、俯きながら呟くように答える。

『だから――勿論、嫉妬して人の悪口を言う人は悪いし、それを正当化できる理由はないけど。だけど……』

 そんなアメリに、瑠璃な結論をぶつけた。

『自分が嫉妬されやすいことをしている――ということは、自覚した方が良いよ。だからこそ、嫉妬されない工夫をしないといけない。そうしないと、結局また同じ問題が起こるから。それじゃあ、一時的に解決しても何の意味もない』

「……」

 アメリは答えない。俯いたまま、僅かに震え……良く見ると、目尻に少し涙が溜まっているようにも見える。呪いの専門家からの正論故に、下手な悪口よりも堪えたのかもしれない。

「ま……まぁでも、天莉さんだって悪気があった訳じゃないですから。知らなかっただけで」

 アメリの様子を見かねた会長が、すかさずフォローを入れる。だが瑠璃は、そのフォローも問答無用でぶった斬った。

『いえ。知らないと歯止めが効かなくて、しかも反省も出来ない分、更にタチが悪いです。『知らなかった』なんていう言い訳が、成り立つ世界じゃありませんから』

「そ……そうですか……」

 会長もそれ以上言葉を継げなくて、押し黙る。

(まずいな……流石にこれは、俺もフォローを入れないと)

 一瞬にして地獄のようになってしまった空気を見かねて、俺もフォローするべく口を開く。だが……結局それは不要だった。

 瑠璃が、再び話し出したのだ。

『じゃあ次の質問。私みたいな引き篭もりと、友達が沢山いる人気者。どっちの方が、多くの人の役に立てると思う?』

「え?」

 俯いていたアメリが顔を上げ、呆気に取られた表情でスマホを見る。そして……

「………………人気者?」

 恐る恐るそう答えた。

 するとスマホの向こうで――瑠璃が笑った。

『そう思うなら、頑張れ人気者。天莉さんには、友達のいない私なんかよりもずっと力があるんだから。人のためになる発信が出来るんだから。だから、悪口を言う方が恥ずかしくなるくらいの、そんな立派なチャンネルを作ってみてよ』

(また難しいことを……)

 瑠璃の言葉を聞いて、俺は心の中で苦笑いする。言うのは簡単だが、それを実際にやるとなったら容易なことではない。

(でも……力ある者には責任が伴う、か)

 ただの人だったら、あり得なかった悩みだ。だが、アメリは登録者数三十万人のMeTuber。多くの人に見られる以上、発信した内容には責任を負わなければいけない。

(大変な仕事だな……MeTuberって)

 楽して稼げるなんてとんでもない。その稼ぎの対価はきっちり発生しているのだ。そしてその対価を支払わなければ、それは呪いとなって確実に本人に返ってくる。

 でも……だからこそ――

「はい! 頑張ります!」

 きっと、やり甲斐があるのだろう。俺だったら尻尾を巻いて逃げ出したくなるような瑠璃の言葉に、真正面から答えるアメリを見て、そう思う。

 きっともう――アメリは大丈夫だ。

「…………ってあれ? 『オトハの手』は?」

 危うく目の前の大円団に満足しかけてしまった俺だったが……よく考えたら全然良くない。俺たちの目的は『オトハの手』のしっぽを掴むことだ。

『あぁ……それは多分無理だね。『オトハの手』は、今回関係ないから』

 だが、瑠璃は呆気なくそう言い切る。

「え? そうなの?」

『うん。識神使ってないから、あくまで簡易的に解析しただけだけど、天莉さんに掛けられてる呪いに四条の術式は使われてなかった。極々平凡な、普通の呪い。だから今回は、そういう意味ではハズレだね』

「そう……か……」

 安心するべきか、残念に思うべきか……いや、普通に前者だろうな。

「『オトハの手』って……あの願いが叶うサイトですか?」

 すると、俺たちのやり取りを聞いていたアメリが不思議そうな顔で尋ねてくる。

「そうそう。やっぱり知ってるんだね」

「はい。けっこうSNSとかでも人気ですから。アレって良くないんですか?」

『良くない』

 瑠璃が、間髪入れずに答える。

『分かりやすく言えば、呪いの増幅装置みたいなもの。SNSも大概呪いの温床だけど、『オトハの手』は培養器みたいな感じ。だから天莉さんも、間違っても使っちゃ駄目だよ? 下手すると、人死ぬからね』

「え……怖っ……てか、それじゃあ願いが叶うサイトじゃないじゃないですか」

『呪いだから、誰かを不幸にして願いを叶えることは出来るの。問題は、確実に不幸になる人が出ることと、多くの場合は返ってきた呪いのせいで、自分も不幸になること』

「なにそれ……致命的な欠陥じゃないですか……」

 アメリが信じられないという顔で首を振り、次いで「うぅ……」と唸り出す。

「でも、結構使ってる人いる気がするんですよね。Twinterとか見てる限りはですけど。それって……ヤバいですよね?」

『ヤバいね、かなり。地獄行きの特急券を買うようなもんだから。だから天莉さんも、近くにそういう人がいたら、止めてあげてね? 人助けだと思って』

「分かりました」

 神妙そうな顔でアメリが頷き、それを聞いた瑠璃が締めの言葉を投げかける。

『宜しくね。じゃあ、あとは……肝心の呪いを、解呪しましょうか』

「すぐに出来るのか?」

『一応は出来るけど……ここでその呪いをただ祓っても、結局その場しのぎにしかならないし、返された呪いがまた不幸をまき散らすだけだから、あまりその方法は取りたくない。だから――』

 瑠璃が言う。微かに一回、深呼吸をして。

『私も出るよ。アメリさんと一緒に、呪いを生み出した人に会いに行く。呪いが発生した、その元にある想いを祓うために』

 もう、震えたりしていない。確かな意思が籠った力強い言葉が電話口から聞こえてきて。

「あ、ありがとうございます!!」

 アメリが机に頭をぶつける勢いで、思いっきり頭を下げた。



     七

「お……そろそろ始まるかな?」

 瑠璃の部屋で椅子に座って、右手でおやつを摘みつつノートPCの画面を見る。

 予定だと、ライブ開始が深夜十二時丁度だからあと三分ほど。既に待機画面には大勢の視聴者が集まり、思い思いのコメントを寄せている。

「俺もなんか、コメントしとくかな」

 ふとそんなことを思い立って、キーボードに手を伸ばす。

「えぇと……『佃煮を肴に、配信見せてもらいます』っと」

 こういうコメントはしたことがないから、少し緊張する。当たり障りのない内容だから、別に何もないのは分かってるけど……

「文頭に〝ざざむしの〟って付け加えたら、阿鼻叫喚になるけどね」

 すると、先程から一歩離れた所に座っていた瑠璃が、そんな茶々を入れてきた。

「分かってるよ。だから〝佃煮〟としか書いてないだろ?」

「それが分かるなら、なんで女子の部屋でそれ広げるかなぁ」

 本当に嫌そうな顔で溜息を吐く。

(仕方ないだろ? 食卓に出そうとすると嫌がるんだから)

 食事以外で食べるとなると夜食しかないが、最近はなんだかんだとバタバタしていて、そもそも夜更かしする気が起きず、結局食べる機会がなかった。

 だから、今日は絶好のざざむし日和だったのだ。

「なんにしろ、それ絶対こぼさないでね。拾い忘れて踏み潰した日にゃ、私ガン泣きする自信あるよ」

「はぁ……お前はいつだって大袈裟だな」

「大袈裟かどうか、その身で確かめてみると良いよ――――いや、やっぱりダメ。絶対確かめないでね? 確かめたら、マジで殺すからね?」

「お、もう十二時だ」

 勝手に一人で騒いでいる瑠璃は放っておいて、再びPCの画面に意識を集中させる。するとその直後、パッと画面が切り替わり――

「みんなぁ~。こんな夜遅くにありがとう~。アメリだよ~」

 今日も学校で顔を合わせた後輩が、元気な姿で現れる。いつもと違って少しラフな私服姿。

 なるほど……これで五割方、人気の理由が分かってしまった。

「凄いよねぇ……良く顔出し配信なんて出来るよ」

 さっきまでのゴタゴタはもうすっかり忘れたようで、感心したような顔で瑠璃が横合いから覗き込んでくる。

「だよなぁ……あんなことがあったのに……でも、もう一応解決はしたんだよね?」

「何事もなければ、そのはずだよ。彼女も、しっかり反省してたから」

 彼女――紅月茉莉奈こうづきまりなが、今回の呪いの生みの親だった。

 アメリの呪いを解析し、その発生源を速やかに突き止めた瑠璃は、宣言通り自分で足を運んで、紅月のもとを訪れた。けれど、決して詰問しに行ったわけではない。

 瑠璃は、知っていたのだ。

「彼女も、苦しんでいる筈だから」

 呪うには、呪うだけの理由がある。だからこそ、本当の〝解呪〟とは、呪いを祓うことではなく、呪いの原因を断つことにある――ということを。

 紅月さんに面会した俺たちは、そんな瑠璃の言葉通り、彼女の苦悩に触れることになった。

 彼女も、MeTuberだった。それも、アメリよりもずっと長いこと。

 そしてジャンルは、アメリと同じゲーム実況。

 初めてアメリの配信を見たのは、二年前だったらしい。アメリがこの高校に入学する前年だ。そしてその頃、まだアメリは駆け出しだった。

 最初は応援していたようだ。辿々しく緊張するアメリを見て、年長者らしく「頑張れ!」なんて呟いたことも一度や二度ではない。それでも……一年後、形勢は変わった。

 アメリが顔出し実況をするようになって、人気が爆発したのだ。登録者はあっという間に逆転し……何となく悶々とした日々を送っていたところに……アメリが入学してきた。

 そしてアメリは、あっという間に学校のアイドルに。

 その後、何度も自制はしたようだ。何度も振り払ったようだ。それでも……

 繰り返し、繰り返し、湧いてくる。

『面白くもないくせに。ゲームも上手くないくせに……顔だけで人気になった。同じゲーム実況者として、許せない』

 気付くと、コメントを送信していた。それ以降は、自覚してコメントを送信した。

 すると、次第に共鳴する人も出始めた。快感だった。自分が間違っていなかったと、認められたような気がした。それはとても心地が良くて……

『同時に……吐き気がするほど、不快でした』

 そう話す彼女の顔は、どことなく憑き物が落ちたみたいにサッパリしていて。その言葉通り、心のどこかで罪悪感と自己厭悪を抱き続けていたのだろう。

 だが同時に見逃してはならないことは、彼女はそれでも、呪うことを止められなかったということ。まるでそれは中毒性のある麻薬のように、湧き上がる罪悪感を麻痺させながら、活動をし続けた。

 そんな人もいるのだ。いや、そんな人の方が多いのかもしれない。自分の心の弱さに勝てず、〝良くないこと〟と理解しながら、あるいは自己の正当性を必死で叫び続けながら、呪い続けている人たち。表面に出て来ていないケースも含めると、相当数あるに違いない。

 だから瑠璃は、香月茉莉奈と別れた後、俺にだけ聞こえるように、こう呟いたのだ。

「陰陽師は……四条家は、呪い祓いの専門家だった。でも……本当に必要なのは、祓うことじゃなくて、そんな彼女たちの呪いの原因を無くすこと。その執念を断ち切ること。そのために……私はこの力を使いたい」

 そう話す瑠璃の横顔は、今までに見たことがないほど穏やかで……そして今、アメリの配信を見ながらも、その時と同じ表情を浮かべている。

 それはきっと、彼女の決意が既に固まっているからなのだろう。


「さて……実は今日、発表があります。コラボ企画です」

 画面の中で神妙な顔をしたアメリが、冒頭から本題に入る。その唐突な発表に、一気にコメント欄が沸いた。

「と……その話をする前に。皆さん、三次元の女の子と二次元の女の子、どっちが好きですか?」

 思わぬ質問に、一瞬コメント欄が静まり返る。しかしすぐに、怒涛の勢いでコメント欄が下にスクロールし始めた。

「ふむふむ……若干三次元が多いですかね。まぁアメリが顔出しやってるから、そっち系が好きな視聴者さんがやっぱり多いのかな? でも……それでもいますね、二次元好きな方。割合的には……三割くらい?」

 飛ぶように現れては消えていくコメントを見ながら、アメリがそう評する。一体どんな動体視力をしているのか……やはり、人気MeTuberは凄い。

「さて、ではそんな二次元好きな方に朗報です。今夜は、みんな大好きVTuberさんが、アメリのチャンネルに登場します」

 更に沸き立つコメント欄。

 『別にアメリだけで良いよ』というコメントもなくは無いが、それらはまるで、泡沫の如く。歓迎コメントに押し流された。

「では発表します。私の大親友――VTuberのくれないさんです!」

 その声が終わると共に、くノ一の格好をした可愛らしい女の子のアバターが出現した。

 言うまでもなく――彼女は紅月茉莉絵。今回の呪い事件の首謀者だった人だ。

「……相変わらず、会長は凄いよな。こんなのを数日で作っちゃうんだから」

 アメリから今回の提案があって、俺も少しばかりVTuberを調べてみた。本当に様々なVTuberが存在していたが、その中でも、アバターのクオリティで言えば、紅は文句なしのトップクラスだろう。おまけに――

「皆様、ご機嫌よう。紅と申します。甲賀の里から出て来たばかりで世情には疎い身でありますが、どうぞ優しくお導き下さい」

 話が上手い。そして声が綺麗。人気が出ずとも、何年も配信をやっていただけのことはある。地力は十分にあったのだろう。

「うわぁ……お淑やかぁ……でもこれ、ゲーム始めると豹変するんだよね」

 瑠璃が、やや顔を引き攣らせながら言う。

 そうなのだ。今回のコラボが決定し、一度だけテスト配信を見させて貰ったのだが……それはもう凄かった。例えるなら、白バイに乗ったどこぞの警察官みたいな感じだ。

 アグレッシブなプレイ。容赦のない追撃。一体どこから出てくるんだと驚くほど、レパートリーに富んだ悪態。

 恐らく、彼女のお淑やかさに心打たれた今日の視聴者の全てが、今度は金槌で打ちのめされることになるだろう。

「……人気出るかな?」

 心配そうに、瑠璃が言う。

「出るだろ」

 根拠はないが、確信を持って答える。あんなにゲームが上手くて、キャラが立っている彼女だ。きっとすぐに人気者になるだろう。


     ***


「昴生さん、私思うんです」

 昼休み。俺のために開放された生徒会室の一室で、香り高き紅茶で喉を潤していたその時、唐突に向かいに座る会長が切り出した。

「瑠璃さんに頼めば、私の霊道を開いてくれたりはしないでしょうか?」

「……何の話ですか?」

 本当に唐突すぎて、意味が分からない。そんな俺に、

「だからこういうことですよ」

 と、会長は前のめりに説明を始める。

「瑠璃さんと昴生さんとお友達になって、多分私はこれから霊現象に立ち会う機会が劇的に増えると思うんです」

「良かったじゃないですか」

 普通の人はどうか知らないが、会長にしてみれば願ってもない状況だろう。

 会長も当然のように、俺の言葉に頷く。

「それは勿論です。勿論ですが……同時に歯痒くもあるのです。目の前で起こっている事態を、私だけ見ることが出来ないというのは」

「あぁ……成程」

(それで、霊道云々の話に繋がるのか……)

 会長の言いたいことは理解した。理解したが……ここは正直に話さなければいけないだろう。

「意図は分かりました。分かった上で、俺は会長に残念なお知らせと、嬉しいお知らせを話さなければいけません」

 そう言うと、会長は訳知り顔で頷く。

「分かってます。悪霊たちと戦わなければいけなくなるんですよね。勿論、覚悟していますよ」

「……一体なんの覚悟ですか」

 予想の斜め上を行く覚悟に、思わず呆れてしまう。この人は、霊感のある人はみんな悪霊と戦っているとでも思っているのだろうか? 本当に、会長はオカルトが関係するとポンコツになるな。

「〝残念なお知らせ〟というのは、瑠璃に他人の霊道を開かせる力なんてないってことです」

「!? そんな!!」

 会長が悲痛な叫び声を上げる。

「そんな残酷なことを言って……昴生さんは良心の呵責を覚えないのですか!?」

「覚えません」

 会長には感謝しているが、霊能力の開花にまで責任を負うつもりは毛頭ない。

「なんという……見損ないました。明日の生徒会で、このことは議題に挙げさせてもらいます」

「止めて下さい。本当に止めて下さい」

 恐らく生徒会の面々には、何のことだかさっぱりだろうが、それでも採決の結果は火を見るよりも明らかだ。俺は最終学歴を高校中退で終わらせるつもりはない。

「それに嬉しい方のお知らせを聞いたら、そんな気は起きなくなると思いますよ」

「そういえば、そっちもありましたね。でも……さっきの絶望を覆すようなお知らせだとは、到底思えません。私明日、寝込むかもしれません」

「だから止めて下さい」

 隙あらば、俺を退学に追い込もうとするな。どんな脅迫だよ、まったく……

「良い方のお知らせは、瑠璃の近くにいたり、霊現象に頻繁に遭遇したりしていると、自然にその影響を受けることになるということです」

「……? その心は?」

「霊現象に立ち会い続けてれば、そのうち勝手に霊道は開きますよ」

 かく言う俺も、その口だ。

 最初は霊なんて見えなかったが、瑠璃と一緒に遊んでいるうちに、いつの間にか霊が見えるようになっていた。どうやら、その人が持つ素質にも因るみたいなので、絶対とは言えないが……精神干渉の力をこれほど色濃く受け継いでいる会長なら、まず大丈夫だろう。

「成程!!」

 そして会長は、今のを聞いて狂喜乱舞している。

「じゃあどんどん霊現象を起こしましょう。そのために早速瑠璃さんをここに……いえ、呼びつけるのは失礼ですね。私から向かいましょう」

「向かいましょうって……まさか今から家に来るつもりですか?」

「昴生さん。時間は有限なのです」

「それは真理ですが、会長が午後の授業をブッチする理由としては弱いですね」

「そんな馬鹿な……」

 会長が信じられないという顔をする。こんな会長を信じたくないのは俺の方だ。

 俺は、「うぅむ……」と唸っている会長を見つめながら、紅茶を一口啜る。

(今日の昼休みは、このまま会長の愚痴を聞いて終わるかもしれないな……)

「決めました」

 しかし意外なことに、会長は早々に唸るのを切り上げ、おまけに愚痴も言わずに、何かを決意したように頷いた。

「『呪い祓い.com』を次のフェーズに移しましょう」

「次のフェーズ? ですか?」

 思いがけない話題転換に、首を傾げる。

「そうです。今は生徒会サイトに掲載していますが、それでは相談数が伸びません。範囲も学内に限定されてしまって発展性がない。更に『オトハの手』に近づくために、そして霊現象を発掘するためには、次のフェーズに移行する必要があります」

(成程……そっちから攻めることにしたのか……)

 その執念に半ば呆れるも、俺たちにとっても都合の良い話なので、素直に頷く。瑠璃が積極的に動けるようになり、そして会長もこれまで以上に関わってくれるなら、相談数の増加にも耐えられるだろう。ただ……

「それについては別に反対しませんが、具体的にはどうするんです? 無策でネットに上げても、アクセス数なんて伸びませんよ?」

「無策? この私が、無策で動くとでも?」

 すると、会長が不敵な笑みを浮かべる。

「元より、すべては計算済みなのです。何故私が最初、生徒会サイトにアップしたと思っているのですか?」

「え? それは、生徒みんなに知ってもらうために……」

「学内の生徒の数など、たかが知れています。そんな中に、運良く『オトハの手』の尻尾を掴める情報があるなんていう楽観論を、私は支持しません。だから私は、不特定多数の生徒にではなく、〝ある人〟に見てもらうためだけに、生徒会サイトにアップしたんです」

「ある人って……まさか……」

「そう。天莉さんです。彼女は登録者数三十万人のMeTuber。その発信力は、たかだか数百人しか見ない生徒会サイトとは桁が違います」

 そして会長は、おもむろにスマホを取り出した。

「事前の調査から、天莉さんが呪いに苦しんでいることは分かっていました。ですから、とあるルートから、天莉さんに生徒会サイトを見るように働きかけて……あとはご存知の通りです。相談に訪れた天莉さんの呪いを、瑠璃さんが理想的な形で解決してくれました。そして天莉さんは、そんな瑠璃さんのことを心から尊敬し、力になりたいと思っています。他人の役に立つMeTuberになりたいと、瑠璃さんの言葉で決意したんです」

 スマホのディスプレイに映っていたのは、一通のメール。アメリから、会長に宛てた請願書。

『どうか……『呪い祓い.com』のことを、私に紹介させて下さい!』

 そこには、そう書いてあった。

「どうです? インフルエンサーとして、これ以上の適任はいないでしょう?」

 流石に、唖然としてしまった。

「まさか……この一文を引き出すためだけにあんな手の込んだことを? 会長なら、鶴の一声で言うことを聞かせることだって出来たでしょうに」

「熱意、そして使命感。それが、仕事を成功させるために必要な要素です」

 すると、会長はそう言って微笑む。

「言われてやっても、良い成果など挙げられません。私は天莉さんに、彼女の意志で協力してもらいたかった。すべては、そのための必要な投資です」

 そんなことを平然と言ってのけた会長は、「では、出発しましょう」と立ち上がる。

「? 出発って……どこに?」

 会長の行動力の高さについていけず、ポカンとしてそう尋ねると、会長は苛立たしげに眉を顰めた。

「どこにって……瑠璃さんの家に決まってるじゃないですか。あなたは鳥頭ですか?」

(……はい?)

「どうして今の流れで家に? アメリと打ち合わせに行くならまだしも」

「天莉さんと打ち合わせをするために、事前のすり合わせを瑠璃さんとする必要があるでしょう? どこの世界に、社内会議を経ずして他社に商談を持ち掛ける会社があるんですか」

 例えが分かりづらい。高校生が高校生に使う例えじゃないだろ、それ……

 でもまぁ……言いたいことは分かった。なら――

「では、電話で確認しましょう」

 スマホを取り出し、アドレス帳から瑠璃の名前を表示させる。電話ですぐ済むことを、わざわざ時間をかけてする必要はない。

 だが瑠璃に電話をかける前に、肝心のスマホを会長にヒョイっと取り上げられてしまった。そして、言われる。

「そういうの、良くないと思います」

 頭が痛くなってきた……

「そういうのって……どういうのですか?」

「すぐにリモートで済まそうとすることです。私たちは生きた人間なのですから、もっと人と人との接触――温もりを大切にするべきです。効率を求めるあまり、大切なものを見失っているのではないですか?」

 なんとなく……良いことを言っている気はする。だが、それで騙されるほど俺は馬鹿じゃない。

「だからさっきも言いましたが、それは授業を休む理由にはなりません。授業にも出席しながら、瑠璃とのすり合わせも終わらせる。文明の利器はそうやって活用しましょう」

 会長に向けて、俺が何故か真面目ぶった正論を吐くという、意味のわからない構図がそこにあった。もうこれっきりにして貰いたい。

 俺は「やれやれ」と首を振りながら、会長からスマホを取り戻そうとする。だが、会長はその手からスルッと逃れると、頬をぷくっと膨らませてこちらを睨みつけた。

「もう良い、分かった。昴生君がその気なら、私にだって考えがあるもん」

(あ……また幼児退行してしまった……)

 久々に見た子供会長に、少しだけホッコリとした気分になって目を細める。すると、その隙に会長が何やら俺のスマホを操作し始めて……そして――

「あ、校長先生ですか? ごきげんよう、櫻井鈴華で――え? あぁ……いえいえ、今日はそうではなく。実は一つ、お願いがあるのです。私と、今から名前を挙げる生徒の今日午後分の授業を、公欠扱いにして頂きたいと思いまして――」

 俺のスマホを使って、側から聞いていても恐ろしい会話を交わし始める。そして、唖然としながら見守ること二分。電話を切った会長は、俺に向けてニコリと微笑んだ。

「さて、課外授業です。瑠璃さんの家に行きましょう」

 その満面の笑顔を前にして、もうこれ以上反抗する気力は、完全に失せてしまった。


 家に帰ると、会長に急かされながら、そのままの足ですぐに瑠璃の部屋へと向かった。

 心の中で溜め息を吐きつつ、部屋のドアを開ける。

「瑠璃。ちょっと話したいことがあっ――」

「ギャアアァァ!!」

 瑠璃の絶叫が、部屋の空気を震わせた。

「ねぇ? 三度目だよ? もう三度目だよ? 何でいつも昴生は着替え中に入ってくるの? 仏の顔も三度までって知ってる!?」

 そして、プリプリとした様子で詰め寄ってくる。どうやら、また着替え中に部屋に入ってしまったようだ。それにしても……この状況でその諺は瑠璃的に合ってるのだろうか?

「それで言うと、三回目の今回はまだギリギリセーフってことになるんたけど?」

 俺のその的確なツッコミに、瑠璃は更にまなじりを吊り上げる。

「私は仏じゃないからアウトだよ! むしろ一回目からアウトだったよ!」

 アウトだったのか……では、その諺をここで言う意味とは一体? 

 いや……違うな。そういうことか……

「なるほど。じゃあ瑠璃は、もっと仏に近付けるように頑張るってことだね」

「今のがそんな決意表明に聞こえました!?」

 ようやく分かったと思ったが、何故か瑠璃は愕然とした顔をする。

「てか、回数を重ねるごとにどんどん状況が悪くなってるのは一体何なの? 私遂に、上半身何も付けてないんだけど」

「そうみたいだね。さっきからずっと腕を組んでるから、そうなんだろうとは思ってたよ」

「冷静に状況を分析するな。そんな反応を私は求めていない。『わ……悪い!』とか言って、背中を向けるくらいの可愛げを見せても、この場合罰は当たらないと思う」

「はいはい、分かりましたよ」

 そこまで言われたら仕方ない。俺はしぶしぶと振り返り、ドアの方を向いて立つ。すると、ドアの隙間からこちらの様子を覗いている会長と目が合った。

 会長がウインクする。俺は首を傾げる。すると、会長が大きく頷き――

「瑠璃さん。今日は私からもお話したいと思って――」

「きゃああぁぁ!!」

 さっきとはまるで違う、艶っぽい叫び声が響く。

「なんで!? なんで会長が!?」

「今日の話は私から提案したものでしたので。お邪魔でしたかしら?」

「お邪魔ではないけど! 今は出てって下さい! 着替え中なんです! 見て分かるでしょう!?」

「でも……私、女性ですよ?」

「だから何か!? たとえ女性でも、裸を見られるのは嫌に決まってますよね!?」

「あら。意外に高い貞操観念」

 会長が面白そうに呟いて、しかし素直に瑠璃から視線を外した。そして、俺に向けて一言。

「あまり瑠璃さんを怒らせたくないので、私は一旦外に出てますね」

「分かりました。すいませんが、お願いします」

「いえいえ、お気になさらず」

 そんな短い会話を交わすと、何故か満足げなホクホク顔を携えたまま、会長は部屋の外へと出て行った。その背中を見送ってから、俺は改めて瑠璃に向き直る。

「瑠璃、会長には出てもらったぞ?」

「じゃあ昴生も出て行って!?」

 だが瑠璃は、相変わらず牙を剥いている。

「てか、とうとう人まで連れてきたよこの人は。今度はアメリさんも連れてきて、『ライブ中継です!』とかやる気じゃないでしょうね?」

「おまえ……俺を何だと思ってるんだ。そもそも、それはMeTubeの規約に引っ掛かるからアウトだ。アメリのチャンネルがBANされてしまう」

「BANされなければ良いのか……」

「あ、そうだ。アメリのチャンネルと言えば、実は今日早く戻ってきたのは、それに関連して瑠璃に相談したいことがあったからなんだよ」

「おい。何事もなかったかのように本題に入るのは止めろ。私まだ裸だから。いい加減服着させて。寒い」

 確かに。夏も過ぎ去り、秋もそろそろ中頃。肌寒くなってきた今日この頃だ。

「エアコン、入れようか?」

「それよりも早く出て行って!?」

 それからもしばらくの間、瑠璃の元気な声が、部屋の空気を震わせ続けた。


「そういうわけで、アメリさんのチャンネルで『呪い祓い.com』の宣伝をすることを、許可して欲しいんです」

 瑠璃の着替えが終わり、その間に俺が用意した紅茶で一服した後、速やかに本題に移った。一通りの説明は会長に任せ、今のところ俺は聞きに徹している。

「それは……確かに悪くない話だとは思いますけど……」

 説明を聞いた瑠璃が、思案げな顔をする。

「でも……流石に私、ネット経由じゃ呪い祓いは出来ませんよ? 呪いの解析だって、ちゃんとやろうと思ったら識神を介さないと無理ですし」

 瑠璃が遠隔で陰陽術を行使する場合、力を媒介する識神が必要になる。郵送等で送れるならまだやりようがあるだろうが……住所まで教えてくれる人がそういるとは思えない。

「それに関しては、ある程度妥協しましょう。基本的には呪いを避けるための心構えをお伝えするに留めて、希望者がいれば、どこかで待ち合わせをして呪い祓いをする。可能ならば、解呪まで。件数とか距離とか日程とかの調整は、私の方でやりますから」

「まぁ……それならなんとか……」

 宙に視線を漂わせながら、懸念事項を頭の中で確認している風の瑠璃。しばらくしてから「ちなみに……」と、こちらの世界に戻ってきた。

「最優先は『オトハの手』関連の案件にしたいんですが……その辺りの峻別はどうしますか?」

「一応『オトハの手』との関係性は、調べられる範囲ではこちらで調べるつもりです。ですが、恐らく完璧には無理ですので、その場合は深刻さの程度で優先度を決めようかと。『オトハの手』が関係している方が、被害が大きくなる傾向にあるんですよね?」

「それは……そうですね。被害が起きてからじゃないと判断出来ないのが、問題ではありますが」

「その辺りは、妥協する必要があるかもしれせんね。その被害は最悪止められないかもしれませんが、それをきっかけに『オトハの手』に迫ることが出来れば、次の被害は防ぐことが出来るのですから」

「そうですね……」

 瑠璃も、その言葉を聞いて頷く。そして、会長に頭を下げた。

「ではお手間を取らせますが、その方向でお願いします。情報の整理とかも、出来る限り手伝いますので」

「いえいえ。それは我が家の人海戦術で何とかしますから。瑠璃さんは瑠璃さんしか出来ないことに集中して下さい」

 頼もしい口調でそう言った会長は、今度は少し声を落として、「ところで……」と切り出す。

「呪い祓いや解呪の際には、基本的に私も同席して宜しいですか?」

「え? 別に、良いですけど……」

 瑠璃が「何故そんなことを?」という顔でポカンとしているが、先のやり取りを経た俺には分かっている。会長的には、こっちが本題だ。

「ありがとうございます!!」

 嬉しそうに手を打つ会長。本当に、こういう時の会長は楽しそうだ。

 生徒会長の時には見せることのない表情をした会長と、訳が分からずポカンとしている瑠璃を見ながら、俺は俺で、久しく無かったほど心が温かくなっているのを感じる。

 照れくさいから口には出さないが……それは思いがけない程に、幸福な時間だった。



     八

「今日も学校大変だったよぉ。みんなはどう?」

 ノートPCから、可愛らしくもダルそうな声が聞こえてくる。

 ゲーム実況を配信している時のアメリは、こんな感じで雑談をしていることか多い。

「昨日アメリ、一時くらいまで配信してたでしょ? その後どうしたと思う? 宿題だよ、宿題! 何でテスト前でも無いのに、てっぺん回ってから勉強しないといけないんだよぉ……」

 俺の視線は、今目の前に聳え立つ木製の塔に注がれていて、画面を見ることは叶わないが……きっと今頃大量のコメントが、アメリを励ましたり茶化したりしていることだろう。

 それにしても……

(もう無理なんじゃないか? これ……)

「わぁぁぁ!! 聞きたくない聞きたくない。そういう正論は聞きたくない。そも、それでも宿題をやった事実を褒めて欲しい。アメリは、褒めて伸ばすタイプの女の子だよ?」

 先程から、瑠璃の〝してやったり〟という顔が視界の端にチラチラ見える。今は、すべての精神力を投入しなければ乗り切れない局面であるにも関わらず……その顔のせいで、どうしても集中力を保てない。

(まずい……汗で指先が滑る)

「科目? アメリカ語だよ、アメリカ語。アメリ、こんな名前でも生粋の日本人だからさ。アメリカ語とかまぢ無理。はぁ……何で最後に『カ』を付けちゃったかなぁ……それさえ無ければ、アメリの独壇場なのに」

(それ……ただの国語だろ……)

 と、一瞬アメリの言葉に気を取られ、その刹那、不用意に指が塔に――既に穴だらけになったジェンガに触れる。その衝撃で、風に吹かれた小枝のように、ジェンガが左右に軋んだ。

「決まったかな?」

 瑠璃の勝利宣告。だが……まだ早い。上手いタイミングで指を当てることで、揺れを最小限に抑えることが出来れば……

「あ……そんな馬鹿な話をしてたらまさかのスパチャ。しのぶさん、スパチャありがとうございます! えぇっと、なになに……『この前アメリが話してたあのサイト。もしかしたら噂の出所、私かも知れません』」

 ガシャーン!!

 直後、盛大な音を響かせながらジェンガが横様に倒れる。恐らく、統制から逃れた指先がジェンガに致命的な力を加えたのだろう。だが……今はそんなことを気にしている余裕はない。

 俺はジェンガの倒壊を無視して、勢いよく顔を上げる。瑠璃は既に立ち上がり、ノートPCが置かれている机へと近付いていた。

「あのサイトって言うと……もしかして『オトハの手』のこと?」

 しばらくの沈黙。俺たちだけでなく、コメント欄もその動きを止めて、しのぶさんの次のコメントを待つ。

 約十秒後、コメント欄が動いた。

『そうです。少なくともうちの学校では、私が最初でした。それから一ヶ月くらいで、ビックリするくらいに噂が広まって……』

『うちの学校では?』

『サイトの制作者ではないのか?』

『結局どういうこと?』

 しのぶさんの再コメントが皮切りになり、再びコメント欄が下にスクロールを始める。しのぶさんのコメントに対して、疑問を呈するものが多い。

 そんな中、アメリの優しげな声が響いた。

「しのぶさん、教えて下さい。学校へはあなたが広めた。では、あなたはどこから聞いたんですか?」

 再び、静寂。だが今度は、時間は掛からなかった。

『病院』

 たった一言、一つの単語が、コメント欄に記される。

「びょう……いん?」

 思いがけない答えに、瑠璃が首を傾げる。恐らく、俺や瑠璃含め、視聴者のみんなも同様に。

 だから、外野のコメントが表示されるより前に、しのぶさんの追加コメントが、白い背景を黒く染めた。

『六年くらい前に新しくできた内科の病院で。『西惺さいせいクリニック』って言って、目黒区にある病院なんですけど。そこの医院長先生が、そのサイトのことを教えてくれて。それで、友達にも教えてあげて欲しいって……』

(六年……前……?)

 それは、俺と瑠璃が神奈川に引っ越してきた年であり、そして――

 四条家が、この地から消滅した年。

(こんな偶然、あり得るか?)

 偶然の一言では片付けられない数字の一致に、眉を顰めていたその矢先、再び、コメント欄が動いた。

『実は……私も、その病院で同じこと言われました』

「え!? 中の人さんもですか!?」

 信じられないことに、もう一人の証言者が出てきた。その突然の爆弾投下に、遂に我慢出来なくなったのか、コメント欄が滝のように流れ始める。

「ちょっと!! みんな落ち着いて!! ここは、しのぶさんと中の人さんの話を聞こうよ!」

 アメリがそう叫んで、ようやくコメント欄が落ち着きを取り戻す。

 緩やかになった流れの中で、沈んでいた木の葉が水面に浮き上がるように、中の人さんのコメントがポッと現れた。

『私の妹もそこに通ってるんですけど、妹も同じように言われたって。もしかして、患者さんみんなに言ってるのかな?』

「う~ん……どうなんだろ?」

 そのコメントに、アメリは難しい顔で腕を組む。

「素人目で見ると、かなり怪しい気がするけど……その西惺クリニックの医院長ってどんな人なんですか?」

 先に答えたのは、しのぶさんだった。

『外人です。多分ヨーロッパ系。でも自分のことは、西惺にしさとるって名乗ってました。日本名がそれだって』

 すぐに中の人さんも続く。

『今、妹に聞きました。年齢は多分四十くらいじゃないかと。見た感じは、まんま〝イギリス紳士〟みたいな感じだそうです』

 その二人のコメントに、アメリは目を丸くする。

「外人のお医者さんかぁ……何だかちょっと珍しい。そして……どうなんだろう? これって黒かなぁ?」

 少しだけ考え込む素振りを見せる。だがそれも一瞬だ。すぐに『分からない』という結論に至ったのか、組んでいた腕を解いて――

「瑠璃先輩、見てますか? 今の話、どう思います?」

 画面越しに話を振ってきた。

『瑠璃先輩?』『瑠璃先輩!?』

 コメント欄に、クエスチョンマークとエクスクラメーションマークが溢れる。

 当然だ。瑠璃の名前は、『呪い祓い.com』の紹介時にしか登場していないから、そもそも聞いていない人も多いだろうし、逆に聞いていた人は、その存在に興味を持っていただろうから。

「……瑠璃、呼ばれてるぞ?」

 俺は、先程から静かにアメリとコメントのやり取りを見つめていた瑠璃に呼びかける。

 瑠璃は困ったように溜息を吐いた。

「あんまり……目立ちたくは無かったんだけどなぁ」

 そう言いながらも、キーボードへと手を伸ばす。

 やがて、瑠璃の初コメが表示された。

『瑠璃です。その病院とサイト運営者が同一であるかは分かりませんが、何らかの関連はあると思いますので、調べてみて損は無いと思います』

 そんな瑠璃の回答を読みつつ、俺は直に瑠璃に聞く。

「音羽姉が、自分の見た目を外人に見えるように眩ましてる可能性はあるかな?」

 すると、瑠璃は首を振った。

「出来なくはないけど、可能性は低いでしょ。外人なんて目立つ見た目、選ぶメリットがない」

「……確かに」

 じゃあコメントした人の言う通り、その病院の医院長は外人だと考えた方が自然だ。そして当然ながら、四条家に海外の血は入っていない。だとすると――

「音羽姉の協力者?」

「それか、洗脳されているか……いずれにせよ、乗り込んでみる必要はあるね」

 瑠璃の言葉に頷く。突然の瑠璃の登場に、沸き立つコメント欄を眺めながら。

『瑠璃先輩、誰!?』

『瑠璃先輩、遂に出た!!』

『確か、呪いの専門家だっけ?』

 揶揄うようなコメントもチラホラ見えるが、概ね、瑠璃の登場に興奮していた。そんな視聴者に、アメリが嬉しそうに説明している。

「そう! 凄い人なの! 私が呪われて困ってた時に、その呪いを解いてくれた人なんだ。だから……そう! 多分、〝呪い解し師〟!」

「は?」

 アメリの言葉に、瑠璃は呆気に取られる。

「呪い解し師って何?」

「いや、知らん」

 当然、俺も初めて聞く。完全にアメリの造語だ。しかしその造語が、同接二千人の力によって、あっという間に市民権を得つつあった。

『呪い解し師!?』

『現代にそんな人いるんだ……陰陽師の亜種みたいな?』

『はい! 質問! 呪い解し師の瑠璃さんって、可愛いですか!?」

 〝呪い解し師 瑠璃〟という言葉が、コメント欄に踊る。既に、否定出来ない空気になっていた。

「……『呪い解し師 瑠璃』誕生の瞬間だな」

「意味が分からないんですけど……てか、語呂悪いし……」

 嫌そうな顔で、瑠璃が呟く。だが、俺は……

「でもまぁ……」

 思いがけず、新しくこの世に誕生してしまった称号に苦笑しながらも、

「瑠璃は陰陽師を名乗ることを辞めたんだから。代わりの称号として、悪くはないんじゃないか?」

 四条家は元々、呪い祓いの陰陽師。だが、真に大事なことは呪いを祓うことではなく、それを解呪すること――すなわち、その原因を取り除くことだと考える瑠璃には、結構ピッタリな称号の気がする。

「……さぁ? どうだかね」

 対して瑠璃は、俺の問いかけに明確な答えを返さず、ただ言葉を濁すに止めた。だが、既にその顔に嫌そうな色はなく。少し照れくさそうな顔をしているところを見ると……案外気に入ってるんじゃないかと、そんな風にも思う。

 まぁいずれにせよ……もう否定できる空気じゃ無くなっていることだけは、確かだった。


     ***


「昨日の配信は神回でしたね」

 一夜明けて翌日。今日は瑠璃も登校して、四人で生徒会のソファに腰掛けていた。

「西惺クリニック――早速、人を遣わせたところ、予約なしでも診療してくれたようで、医院長本人から話を聞くことが出来ました。周辺情報も色々と集めてみましたが……中々興味深い事実が出てきています。限りなく黒に近いと、判断して良いと思います」

 そう切り出した会長は、手にした報告書を読み始める。

「医院長の名前は、西惺。国籍はフランスのようですが、本名は秘匿。七年ほど前に来日し、六年前からあの地で開業しているようです。あまり流行っているとは言い難いですが、そのせいか、予約なしでもすぐに診てもらえるようで、地元の人には一定の需要があるようです。建物は、元々あったものをリフォームして利用しており、医院長自身もそのクリニックの二階に居住。従業員は、医院長以外では看護師が一名と受付が一名。受付の名前は三河裕美みかわひろみ。開業と同時に雇用。勤勉で几帳面。同区内に住んでおり、家族形態は子供二人を含む四人家族。特に不審な点はなし。看護師は――」

 といった調子で、調査報告が進む。半日で調べたとは思えないまとまった情報の数々に、恐ろしさすら覚えながら聞いていたが……本当に恐ろしかったのは、ここからだった。

「建物の構造は、玄関から入って左に折れると待合室。折れずに正面にある扉を開けるとトイレ。待合室には二つの扉があり、片方は診察室へ。もう片方には、『関係者以外立入禁止』の札が掛かっていることから、居住空間のある二階へと続く階段があることが予想される。もし四条音羽が潜んでいるのなら、この二階にいる可能性が高いと思われる。尚、鍵は掛かっておらず、侵入は容易。ただし、すぐ隣に受付があるため、そこにいる受付の注意を惹きつける必要あり。尚、クリニックの玄関に使われている鍵はディンプルキーであるためピッキングは困難。警備サービス会社との契約はなし。監視カメラの類も確認できず」

 まるで、侵入することを前提に調べたかのような報告が続き、

「近隣住民からの評判は可もなく不可もなく。東京都医師会には所属しておらず、また、厚生労働省の医師等資格確認検索システムや医師会の地域医療情報システムでも、西惺の名前は確認できない。しかし、近隣のクリニックの医者にその点を確認したところ、『単なる届け出ミスだろう』と取り合う気配はなく、その話題の時に限って受け答えに違和感が残る。精神干渉の可能性あり」

 周辺住民や近隣のクリニックへの聞き取り調査までもが加わって、会長はそこでようやく報告書を置いた。

「取り敢えず、共有すべき情報は以上です。確固たる証拠はまだ掴めていませんが、西惺の医師資格とクリニックの登録が確認できない点や、そのことを知りながらも不審に思わず、不自然な応対を繰り返す周辺クリニックの異常性から、単なる病院でないことは明白です。侵入してでも、調べる価値はあると思います」

「……」

 すぐには言葉を返せなかった。

 たった半日でここまで調べ上げた櫻井家の手腕に驚きを隠せない。同時に、よくもまぁこんな家を相手にして、瑠璃の存在を半年以上も秘匿できたものだと感心してしまう。

「あの……一つ良いですか?」

 すると、俺と瑠璃が言葉を失っている中、アメリが果敢にも声を上げた。

「精神干渉って、何ですか? マインドコントロールみたいなことですか?」

(あぁ……確かに。普通はそっちが気になるか)

 慣れとは恐ろしい。言われてみれば、それは普通の会話の中で出てくるような言葉ではなかった。いや……まぁこの会話自体がそもそも、普通ではないのだが。

「ん~まぁ、そう考えて貰っても良いかもしれませんね。もう少しだけ、魔法じみてるかもしれませんが」

 アメリの質問にそう答えた会長は、おもむろに微笑む。

「天莉さんって、結構影響受けやすいタイプですよね?」

「え? あ……はい。確かにそうですね」

 突然の問いかけに首を傾げつつ、アメリは答える。

「昔から、言われたことをすぐに信じちゃって。それで良くお兄ちゃんに揶揄われてました」

「なるほど。どうやらそうみたいですね。だから今も、そんなあなたのことを心配して、大好きなお兄ちゃんが来てくれてますよ」

 そして会長は、何故か俺を指差した。その動きに釣られて、アメリも視線を俺へと向け……そして――

「え!? お兄ちゃん!? 何でここにいるの!? 大学は!?」

 アメリが驚きで目を見開きながら、立ち上がった。

「あなたが心配だったからですよ。今朝一の新幹線で戻ってきたんです」

 楽しげに微笑みながら、会長がよく分からないストーリーを展開し始める。

(はぁ……一体何をやってるんだか……)

 どうやら、会長がアメリに精神干渉を仕掛けたらしい。何故か、俺を使って。

「そうだったんだ……言ってくれれば良かったのに……」

 そのことに露とも気付いた様子がないアメリは、小さな呟きをその場に残すと、こちらにゆっくりと近付いてくる。

(?)

 そんなアメリの姿を、俺は首を傾げて眺める。眺めて、そして――そのまま凍り付いた。

 何故か、アメリが後ろから抱きついてきたのだ。

「お帰り、お兄ちゃん。心配してくれて、ありがとね」

 耳元でそんな風に囁かれ、思わず身震いする。更には、漂ってくる甘い香りと背中に感じる柔らかい感触が、俺の理性を溶かそうとする。

「さて、昴生さん。背中に抱きついている可愛い女の子が、あなたの新しい家族です。ですから、瑠璃さんは私が責任を持って、引き取らせて頂きます」

 会長が、遠くで何かを言っている。

 それでも……そうか。この子が新しい家族……か。それじゃあ瑠璃は……瑠璃は……

「……瑠璃?」

 俺は横を見る。そこにいたのは、ジト目をこちらに向けた、何よりも見慣れた女の子の顔。その視線に射抜かれて、一気に身体から熱が引いた。

 思考力が、戻ってくる。

(…………危なかった)

 俺は小さく一つ深呼吸をすると、油断のならない女狐を睨む。

「会長。悪ふざけはその辺で」

「あら? これでもダメなんて。少し……いえ、大分驚きました。昴生さんもやっぱり、大概普通ではありませんね」

 そんなことを言いながら、何故か嬉しそうな顔をした会長が、パンッと一回手を叩く。すると――

「……あれ? お兄ちゃんは…………って!? 昴生先輩!?」

 飛び退く勢いで、アメリが背中から離れる。柔らかい感触が無くなったのは、少しだけ寂しかったが……瑠璃が俺の腕をつねりあげることによって生じた痛みが、そんな感傷をすぐに上書きした。

「え? え? なんで私、昴生先輩に抱きついて……」

 顔を真っ赤にしながら混乱するアメリに、会長が優しく微笑みかける。

「分かりましたか? 今のが、精神干渉です。少しだけ、魔法じみてるでしょう?」

「ぜんっぜん、少しだけじゃありませんよ!!」

 アメリが叫ぶ。

「私、完璧に昴生先輩がお兄ちゃんに見えてましたよ!? それに、何故か他のこととかどうでも良くなったし……あぁ、なんで私あんなこと……お兄ちゃんにだって、抱きついたりしないのに……」

「その辺りは、あなたの欲求がストレートに出た結果ですね。精神干渉が効きすぎて、理性の働きを抑えてしまったんでしょう。その点、ちょっと天莉さんは人の言葉に影響されやす過ぎですね。それを利用した私が言うのもなんですが……気を付けないと、将来変なヒモ男とかに捕まりますよ?」

「うぅ……気をつけます……」

 精神干渉をしかけた張本人に言われて、あっさりと頭を下げている姿を見ると、あまり気をつけてどうにかなるとも思えない。

 まぁ素直なのは美徳だから、それが悪い方向に作用しないことを祈ろう。

「では、精神干渉の実演も済んだところで、本題に入りましょう」

 一区切りしたところで、会長が話を元の路線に戻す。

「私たちが調査した結果、西惺クリニックは限りなく黒に近いという結論に至りました。故に、もう少し踏み込んだ調査を行い、その結果によっては、速やかに制裁に移りたいと考えています」

「制裁……ですか……」

「はい。ただ私たちは警察組織ではないので、彼らを裁くことは出来ません。ですので、あくまで『オトハの手』の継続を困難にさせる程度です」

 そして、ニコッと微笑む。

「勿論、それ以上を望まれる場合は、ご自由に。私たちは手出し致しませんので」

「……」

「?」

 俺と瑠璃は沈黙し、アメリは不思議そうに首を傾げる。

 さて……果たして一体どうなるか。本当に音羽姉はそこにいるのか。そしてもしいた場合、本当に彼女を殺すことが出来るのか……

 多分、この場にいる誰一人、まだ分からない。

「方針を共有したところで、次は具体的な方法の検討に移りましょうか」

 俺たちの反応を確認するように見つめながら、それでもいたって冷静に、会長は続ける。

「まず侵入方法について。先程も言った通り、ピッキングによる夜間の侵入は困難です。それに、敵方に陰陽師がいると思われる関係上、この世的なアプローチだけでは、プロであっても破られる可能性は高いと見ています」

 俺と瑠璃は頷き、アメリは相変わらず頭上に疑問符を並べている。

「そのため、瑠璃さんにアイディアを頂きたいのです。どうすれば、敵に察知されずに屋内に侵入し、敵陣の最深部――プライベート空間と思しき二階居住スペースに到達出来るのか」

「そう……ですね……」

 会長の問題提起を受けて、瑠璃は目を伏せて少しだけ考える。

「敵が霊的にこちらの挙動を察知しようとした場合は、陰陽の秘術で眩ませることが出来ると思います。相手の力量次第ではありますが、昔からESP戦では私に分がありました。多分、イケると思います」

 その言葉で、昔よくやったかくれんぼを思い出す。確かに、俺さえヘマをしなければ、瑠璃が音羽姉を抜きんじていた気がする。

「それじゃあ……瑠璃さんにお願いすれば、侵入出来る?」

 瑠璃の陰陽術を目にすることが出来ると思ったのか、会長が目をキラキラさせて瑠璃を見る。

 だが、瑠璃は静かに首を振った。

「隠遁の秘術は、移動してしまうと効果が薄れます。具体的には、視覚を誤魔化せなくなる」

「では……受付に見つかってしまう?」

「そうなります。それに、例え上手く隙をつけたとしても、どうしてもドアは開けざるを得ない。流石に気付かれると思います」

「むむ……そうですねぇ……」

 会長が残念そうに唸る。中々良い方法かと思ったが、そう簡単な話では無さそうだ。

「陽動……とか、どうですか?」

 その時、ずっと話について来れていなかったアメリが、不意にそんな発言をした。

 今度は、俺たちが首を傾げる番だ。

「陽動?」

「はい。多人数参加型のFPSで集団戦なんかする時にやることがあるんですけど。大人数を正規ルートに向かわせて、敵の意識をそちらに向けている隙に、裏ルートから相手の背後を取るんです」

 そうアメリが説明するが、やっぱりいまいちピンと来ない。

「それが……今回とどう関係が?」

「だから、一杯にしちゃえば良いんですよ」

「一杯?」

「そうです」

 自信満々に、アメリが頷く。

「待合室を患者さんで一杯にしちゃうんです。木を隠すなら森の中。人を隠すなら、集団の中です」

「あぁ……なるほど……」

 ようやく分かった。待合室が溢れるくらいの人を入れて相手の気を惹きつつ、その背後に隠れた瑠璃が密かに侵入を果たす。

 確かに、理屈の上では出来るだろうが……

「平日からそれだけの人をどうやって集める? それに、いきなりそんなに沢山の人が入ってきたら、流石に怪しいでしょ?」

 すると、アメリが不思議そうな顔をする。

「沢山って言っても、十五人もいれば十分ですよね? それくらいなら、アメリが集めますよ? それに、不登校者の集い――的なオフ会の参加者って設定にしちゃえば大丈夫ですよ。集団食中毒か何か適当な理由をつけて。患者が八人、付き添いが七人で計十五名です。時間稼ぎくらい、余裕で出来ます」

 自信ありげに、ギュッと握り拳を作ってみせる。

 そんな彼女に、拍手を送ったのは会長だった。

「それは良いアイディアですね!」

 興奮気味に、会長は続ける。

「実は、私も少しだけ同じことを考えたのですが、動員できるのが大人しかいなかったので、諦めていたんです。子供と違って、大人が集団で行動するのは不自然極まりますし。それに大人の中に、瑠璃さんが紛れることは出来ませんからね」

 そう言って、会長がウインクする。それを見て、アメリは「ですです」と嬉しそうに頷いているが……賭けても良い。会長は最初から、このつもりだったのだろう。

 広告塔としてアメリを使うことを考えた会長が、アメリの動員力を思考の外に置くはずがない。

「では天莉さん。私たちの生活圏外の高校生を性別問わず十五人集めてください。交通費と……そうですね。打ち上げ費用くらいはこちらで負担します。ただし、瑠璃さんの写真を撮影することは厳禁。これだけは、よく徹底させてください」

「了解しました!」

 会長の掌の上にいることなど考えもしないアメリが、元気よく会長の指示に敬礼を返している。実に楽しそうだ。

「瑠璃、良いか?」

 賑やかな二人を眺めながら、俺は言葉少なく尋ねる。会長の思惑通りに進んでいることを、恐らく瑠璃は気づいている。だからそれを良しとしているか、念のため確認しておきたかった。

「良いよ」

 そして瑠璃は、躊躇わずに頷く。

「たとえ会長の思惑通りでも、私は、用意して貰ったその舞台の上で、自分に出来ることをするだけ。私の力を使うだけ。ただ……もし出来れば……」

 瑠璃はそこで、一瞬だけ口籠る。だがすぐに、その視線を俺に向け――

「昴生には、隣にいて欲しい」

 そんな、当たり前のことを口にした。思わず、苦笑してしまう。

「当たり前のことを言うな。六年前から、俺がいるのはいつだって、お前の隣だっただろう?」

 だったら、今この瞬間も、そして次の瞬間も。

 俺が瑠璃の隣にいるのは、太陽が東から昇るくらいに、自明なことだ。

 そしてそんな俺の答えに、瑠璃は「ふふっ」と小さな笑みを溢す。まるで俺を揶揄うように、言葉を紡ぐ。

「確かに、そうだったね。今更言うことじゃなかったよ。むしろ……今度は足、引っ張らないでよ? かくれんぼの時みたく邪魔したら、許さないんだから」

「大丈夫。瑠璃の隣で静かにするのは、この六年ですっかり上手くなったから」

「ハハハッ、何それ」

 瑠璃が、可笑しそうに笑う。

 でもすぐに、その笑顔を奥に引っ込めた瑠璃は、頬を少しだけ朱に染めながら、嬉しそうな上目遣いで俺を見る。

「うん……期待してる」

 その彼女の言葉と表情には、俺に対する確かな信頼感が息づいていて……だから俺も、その想いに応えるように、そっと彼女の手を握る。

 その手から伝わる温もりが、どんな言葉を返すよりも正確に、俺の想いを瑠璃に伝えてくれると、そう信じたから。


     ***


「あ……あの……ご予約は?」

「ありません!」

 元気な声が、西惺クリニックの待合室に響く。

 恐らく、このクリニックができてから、今日ほど人口密度が高かった日はないだろう。

 今や待合室には人が溢れ、更にはそこから玄関まで、途切れることのない行列が形成されている。

 受付にいるスタッフも、この非日常の事態にどう対応すれば良いのか分からず、目を白黒させているに違いない。

「瑠璃先輩、受付前に壁が出来ました。所定の位置に進んでください」

 そんな中、オペレーションは着々と進行している。イヤホンからアメリの報告が聞こえて、瑠璃と顔を見合わせる。

「行こう」

 俺の言葉に瑠璃は小さく頷いて、人混みの中移動を始める。居並ぶ群衆も、その辺りは既に打ち合わせ済み。最小限の動きでスペースを空け、俺と瑠璃が進む道を作り出してくれる。

「ドアの前に来た。アメリ、頼む」

 声を落として、アメリに指示する。次の瞬間、返答の代わりに声が響いた。

「ほら見て下さいよ! 予約無しでも診てくれるお勧めのクリニックだって口コミが。私たち、これを頼りに来たんです!」

 アメリが受付のスタッフに、スマホを差し出している。そのスタッフは、少しだけ辟易とした顔をしたものの、差し出されたスマホを覗き込む。視力があまり良くないのか、スマホの小さな文字を見て、目をしばしばさせながら。

(今だ!)

 素早くドアノブに手を掛け、出来る限り優しく捻る。事前の情報通り、特に鍵は掛かっておらず……なんの抵抗もなく、ドアが静かに開いていった。

 まず、ドアの隙間から瑠璃が中に入る。

 服が擦れる音、ドアの軋む音がまったくしないことはないが、みんなが起こしてくれているそこそこ大きな喧騒の前に、そんな微音は完全に掻き消えた。

 案の定、スタッフはスマホを注視したまま、気付く気配もない。俺はそんなスタッフと、そしてみんなに最後の一瞥を送ると、瑠璃に続いて、ドアの向こう側へと侵入した。


「今日は随分賑やかだね」


 ドアを閉めた直後、待合室の方から声がした。

「構わないですよ。一人一人見るので、順番に入って来てください」

 それは、非常に流暢な日本語。しかし、それでもネイティブと区別がつかないほど、完璧な発音ではない。つまり、この人が……

「西惺医院長……危なかった……」

 間一髪だった。いくらみんなの壁があるとは言え、直接待合室に入って来られたら、開いているドアに気付かない訳がない。あと一秒でも向こうが早かったら見つかっていた。

「昴生、良いから。早く先に進むよ」

 しかしそんな一時的な安堵感も、瑠璃の一声で彼方へと押しやられる。

 そうだ。ここはまだ受付の横。受付スタッフが少し持ち場を移動しただけで、容易に鉢合わせしてしまう位置にいる。

 俺と瑠璃は移動を始める。幸い、医院長はまだ待合室だ。受付スタッフもそこに張り付いている以上、気を付ける相手は看護師一人で済む。

 と、思った矢先……

「医院長、消毒液は新しいの出しておきますか?」

 背後から、新しい女性の声が聞こえてきた。声のこもり具合から、振り返らずとも、ドアを一つ以上隔てた向こう側から聞こえてきているのが分かる。

「看護師さんもどうやら向こうだね。今のうちに、行こう」

 瑠璃の言葉に頷いて、俺たちは中腰をやめて早足になる。目指すは、二階へと続く階段。それほど大きくない建物だ。それはすぐに見つかるだろう。


「……ない」

 数分後。焦った声を、瑠璃が出す。

「何で? もう全部見たよね?」

「あぁ、ありそうなところは……あと残ってるのは、トイレと……」

 考えられる最後の可能性を思い浮かべて、俺と瑠璃は顔を見合わせる。

「まさか、診察室の奥にあるなんてこと、ないよね?」

 そう。最後に残ったドアには、『診察中』の札がかかっている。位置関係的に、恐らく診察室の奥へと続いているのだろう。

「でもじゃあどこに? トイレの方がもっとないでしょ」

 瑠璃の言うことは尤もだ。びっくり屋敷じゃないのだから、トイレに階段がある筈がない。

「仕方ない……アメリとタイミングを合わせるか……」

 診察室に入るのなら、中にいるであろう医院長と看護師の注意を逸らさないといけない。そのために、アメリたち陽動側の協力が不可欠だった。

「アメリ、聞こえるか?」

 俺は通信機をオンにして、アメリに呼びかける。数秒後、アメリの元気な声が返ってきた。

「しのぶさん、聞こえてますよ。そんなひそひそ声で話さなくたって大丈夫です。いくら診察が怖いからって」

 なるほど……今は診察室にいるのか。なら、好都合。

「返事はいらないから聞いてくれ。俺たちは今から診察室の奥に入るから、医院長と看護師の気を惹いて貰えると助かる。出来れば、ドアの開閉音が聞こえなくなる程度の音も出してくれ」

 本当は、診察室内の構造や相手の位置関係なんかも教えて貰って、事前に移動ルートの想定なんかもしたかったが、この状況ではそこまでは望めない。とにかく、十秒でも二十秒でも、相手の視線を逸らすことが出来たらそれで良い――と。

 そう思って、出した指示だった。それなのに返ってきた答えは……

「え?」

 ビックリしたアメリの声。そして聞こえてくる「どうしたんだい?」という医院長の言葉。

「あ……いえ、何でもないんですけど……」

 少し焦った調子のアメリの声がそれに続き、そして――

「でも、この診察室って思ったよりも小さいですよね。奥にあるベッドで一杯一杯みたいな。もっと奥に別の診察室とかあったりしないんですか?」

「ハハハッ、中々辛辣だね。でも残念ながら、ここにはこの診察室しかないんだ。まぁ私一人しか医者がいないから、これでも十分やっていけるんだけど」

 アメリと医院長の、そんな会話が交わされる。

 俺は眉を顰めた。

「どういうことだ?」

 俺の指示の直後に交わされた会話。アメリが敢えてそんな話題を振ったということは、それが俺たちへのメッセージであることは明らかだ。

 そして今の会話からすれば……

「……まさか」

 先に動いたのは、瑠璃だった。

 瑠璃はそう小さく呟くと、おもむろに目の前のドアノブを握る。

「おい!」

 静止する間もない。瑠璃は躊躇うことなくドアノブを捻り、勢い良く開け放った。

「……かい……だん?」

 診察中のプレートの先。そこにあったのは、診察用ベッドでも、薬棚でもない。二階へと続く木製の階段が、無骨な存在感を放って、静かにそこに鎮座していた。


 ピッ……ピッ……ピッ……

 静寂に包まれた空間に、心電図モニターから発せられる人工的な心拍音が響く。

 他には、何も聞こえない。階下の喧騒も、外の騒音も、何一つ。ここには何も届かない。

 外界から隔絶された、そんな特殊な空間の中心に、この部屋の主はいた。

 いや……〝いた〟という表現は、この場合使うべきではない。それは、言葉に対する侮辱だ。生命に対する冒涜だ。

 『それは、そこにあった(There it is)』 

 それ以外の表現を、きっと選ぶべきではない。そうしなければ、きっと俺の人間性はあっという間に消失してしまうだろうから。

「お姉ちゃん……なの?」

 あぁ……なのに……

 瑠璃はそれを、お姉ちゃんと呼ぶ。大きな桐の箱に納められ、両手両足が無くなったその小さな身体を、お姉ちゃんと呼ぶ。

「……なんで? なんで?」

 瑠璃のそのうわ言に、答える声はない。音羽姉の上半身はピクリとも動かず、その閉じた瞳が再び開くとは、到底思えなかった。

「誰が……何のためにこんなことを?」

 瑠璃が、ふらつきながらも一歩を踏み出す。目の前で展開している現実離れした光景に、当初の目的などすっかり忘れてしまったかのように。

「研究のためですよ」

 だから……気付けなかった。後ろから近付いていた足音に。背後から迫る霊圧に。

 あっさりと後ろを取られ、俺たちは慌てて声がした方へ振り向く。

「研究のために、彼女をここまで運んできたのです」

 そこには、西惺医院長が、ニコニコと顔を綻ばせながら立っていた。

「……ごめんなさい。私たち、トイレを探していたら迷ってしまって」

 咄嗟に、瑠璃が誤魔化す。〝それ〟を見てしまった以上、「はいそうですか」という訳にはいかないだろうが……それでも、変に警戒させるよりはマシだと判断したのだろう。

 姉の変わり果てた姿を前にして、驚嘆すべき冷静さだった。だが――

「いえいえ、気にしないで良いですよ。四条瑠璃さん」

 その言葉で……すべてが無駄だと分かってしまった。

「命をかけて自分を守ってくれたお姉さんに、会いたいと思うのは至極当然なことです。それを糾弾するほど、私の心は狭くはありません」

 そして、医院長が次に発した言葉は、あまりに苛烈に過ぎた。瑠璃の仮面が、一瞬で剥がれる。

「命をかけて……守った?」

「えぇ、そうですとも。六年前のあの日のことです。私も実はあの日、あなたの屋敷の周囲に張り付いていましてね。いえ、四条の力に興味があったのです。純粋な、学術心ですな」

 聞かれてもいないのに、ペラペラと喋り続ける医院長。瑠璃も、俺も、言葉を挟むことも出来ない。

「特に四条音羽さんに私は注目しておりまして。そんな彼女の『伝授禅譲の儀』を逃す術はありません。私もありとあらゆる魔術を駆使して、屋敷内の情報収集に明け暮れていた訳です。あ、申し遅れました」

 そこで医院長は、軽く頭を下げ、左手を胸に当てる。

「私はウエストミンスター聖堂会のガスパール・ハレンスレーベンと申します。以後、お見知り置きを」

「ウエスト……ミンスター?」

「はい。要はあなた方の同業者ということになります。私はその中でも、東洋の霊術に傾倒した変わり者でございまして。だからこそあの日、彼女を拾った時は、望外の喜びでした」

 愛おしそうな眼差しを、変わり果てた姿の音羽姉に向ける。

「死に体ではありましたが、そこは私の腕の見せ所。彼女を蘇生させ、そのバイタルを安定させ、更にはその霊力にアクセスするところまで漕ぎ着けました。実に、六年も掛かりましたが」

「蘇生させって……この状態でか!?」

 思わず、怒鳴りつけていた。こんな人形みたいな状態にしておいて、一体どの口が――

「おやおや、これは異な事。彼女をこんな姿にしたのは、他ならぬ、そこにいる四条瑠璃さんではないですか?」

「……何だって?」

「私は知っていますよ。あの日、妹の生命を救った姉を、四条瑠璃さんが〝焼いて〟〝潰した〟のでしょう? だから私が、捨てられた彼女を拾った。野犬の餌になるところを、私が有効活用することにしたのです。責められる謂れがどこにありましょうか」

 音羽姉を焼いて……潰した……

 その紛れもない事実に、どうしようもなく言葉を失う。そしてその間に、今度は瑠璃が口を開いた。

「さっきから……妹の生命を救ったってどういうこと? あの日、私はお姉ちゃんに殺されかけて――」

「ハハッ、自分で信じてもいないことを、口にするものではありませんよ。彼女を殺す力なんて自分にはない――そんなこと、あなたが誰よりも知っているでしょうに」

 瑠璃が凍りつく。

 その姿を見て、ガスパールは可笑しそうに笑った。その姿を眺めて、「では教えてあげましょう」と、愉快そうに宣った。

「四条音羽は、妹を殺して識神にするよう長老達に呪いを掛けられ、それを拒否するために、屋敷に火を放って彼らを殺した。しかし、長老達によって掛けられた呪いは強力だった。術者が死んでも、それは四条音羽を蝕み続け……それ故に、彼女は自分の意思が残っている間に自死を――いや、自死を選ぶ自由すら奪われていたが故に、妹に殺される道を選んだ。それがあの日の真相です」

 声を……出すことが出来なかった。

 ガスパールが話したその〝真相〟はあまりに残酷で……しかもそれを否定する言葉を、俺はまったく持ち合わせていない。いやむしろ、それが本当の話だと、直感的に分かってしまった。全ての謎が……繋がってしまった。

 だから次の瞬間――

 瑠璃がその場に崩れ落ちる姿を目にしても、どうすることも出来なかった。

 その間に、ガスパールの口角が更に醜く吊り上がる。

「残念ですが、すべて事実です。事実なのですよ、四条瑠璃さん」

 ガスパールがまるで舞台役者のように、大袈裟に両手を広げ、天を仰ぎ見る。

「あぁ……なんといじましい、美しい姉妹愛でありましょうか! 妹を守るために妹に焼かれる。そんな道を選んだ彼女の常軌を逸した選択に、その願いに! 私は敬意を払わずにはいられません。だからそう――四条瑠璃さん、あなたは自分を責める必要はないのですよ。それは他ならぬ、彼女の望みだったのですから。故にこそ、妹に焼き殺される彼女は……あぁ、本当に美しかった」

 恍惚の表情を浮かべたガスパールが、一歩前に出る。

「――!!」

 その一歩で、俺に掛けられていた魔法が解けた。身体を動かすことを思い出した。

気付くと、俺は瑠璃の前に立ち塞がっている。

「それ以上、近づくな」

 今まで発したことのない低い声が、喉を震わせる。まるで別人のようなその声は、紛れもなく俺の声でありながら、しかしまったく聞き覚えのない声だ。

「これはこれは……まさか、あなたは鷲尾の小倅ですかな?」

 そんな俺を見て、ガスパールは一瞬驚きの表情を浮かべたが……すぐにその顔は、いやらしく歪められる。

「……だとしたら、何だ?」

「いやいや! 驚いたのです。六年前は、少し霊力がある程度の一般人の域を出ていなかったのですが。まさか、こんなにも素晴らしく変質していようとは……どうやら私の目は、随分と曇っていたようです。この霊力、そして霊圧……我が母国でもそう滅多にいるものではない」

 そしてガスパールは、何を思ったのか、唐突に俺に向けて手を差し出す。

「どうです? あなた、私の弟子になりませんか?」

 それは、あまりに状況を無視した言葉だった。苛立ちが、爆発しそうになる。

「……ふざけてるのか?」

「ご冗談を! 私は伊達や酔狂でこんなことは言いません。あなたの力は実に鍛え甲斐がありそうなのです。そこにいる四条の血統を使い魔とすれば、きっと面白いことになるに違いありません」

 ガスパールの眼球が動き、床に両手をついた瑠璃へと向けられる。その、まるで〝もの〟でも見るような冷徹な視線に……今度こそ、一瞬で頭が沸騰した。


 バンッ!!


 部屋中に、派手な爆発音が鳴り響く。同時に血飛沫が辺り一面に飛び散り、綺麗に磨き上げられていた白い床材が、一瞬にして赤いまだら模様になる。そして――

「……何です? 今のは?」

 その中心には、右目から血を滴らせながら、唖然とするガスパールがいる。

「まさか……貴様がやったのか?」

 一拍遅れて、ようやく状況が理解できたのか。残る一つの目が俺を捉えた。

 俺は何も答えず、ただ静かに、片手を上げる。

「馬鹿な……重力子グラブトンに干渉したのか? そんなこと、あり得るはずが――」

 言葉を待たず、静かに力を放つ。

「ガッ!?」

 低いうめき声と共に、ガスパールが今度は膝をつく。俺はその様子を見下ろしてから、ようやく口をきく気になった。

「これは……重力子というのか。干渉は出来ても、名前までは知らなかったから。勉強になった」

 俺を見上げるガスパールの瞳が、驚愕に揺れている。

「……あり……得ない。いくら六年の歳月を経ているとはいえ、あの鷲尾の小倅がここまで……そもそも、重力子に干渉できる魔術師なんて聞いたことも――」

「俺は魔術師じゃない。ただ俺の横には、常に天才陰陽師がいた。ただ……それだけだ」

 ガスパールを遮ってそう答え、しかし俺の意識は早々に、床に蹲っている瑠璃へと逸れた。

 瑠璃は……もう、俯いていない。その目を大きく見開いて、呆気に取られた顔で俺を見つめている。

「昴生……その力……一体、どうして……」

 そして、零れる疑問。その問いは充分に想定の範囲内だったが、けれど明確に答えることが難しい質問でもあった。なにせ、俺本人が……よく分かっていたのだから。

「二年くらい前からかな。気付いたら使えるようになっていた。多分、瑠璃の霊圧をずっと近くで感じ続けてきたからだと思うんだけど……」

 束の間、口ごもる。けれど瑠璃の顔を見て、今はそれどころじゃないことを思い出した。

「いや……そんなことは、今はどうでも良い。それよりも」

 屈んで、瑠璃の背中に触れる。

「大丈夫か?」

 ガスパールの告げた真実は、瑠璃の心を確実に抉ったはずだ。それこそ、克服しかけていた対人恐怖症が、更に悪化してしまってもおかしくないくらいに。

 だから俺は、この場は瑠璃の力を借りず、一人ですべてを片付けようと思っていたのだ。今の瑠璃に、敵と向かい合うことを強いるなんて、いくらなんでも出来る訳がないのだから。

「大丈夫な……わけないじゃん」

 それなのに。

瑠璃はゆっくりと――立ち上がった。

「大丈夫じゃないけど……でも、私は決めたから。お姉ちゃんを殺した事実から目を逸らさないって」

 気付く。瑠璃の瞳からは、未だ光は消えていないことに。

「あの日私がしたことは、すべて私の責任で、私の意志でやったこと。そんな私が果たすべき役割は、生き残った唯一の四条として、呪いをこの世界から根絶すること。それが、一人生き残ってしまった私の罪滅ぼしで、同時に……私を助けてくれたお姉ちゃんへの、精一杯の恩返しだから」

 そう言った瑠璃が、「それにね」と付け足す。

「こいつの言った通り、心のどこかでは分かっていたの。お姉ちゃんが、あんな簡単に私にやられるはずがないって。きっと、私にわざと負けてくれたんだろうって。だから――今更動けなくなったりしない。覚悟は……ちゃんと出来てたんだ」

(そうか……)

 その言葉で、俺はようやく自分の勘違いに気がついた。

 瑠璃を弱いなんて、思ったことはなかった。むしろ、過去に必死に立ち向かっている姿を見て、ずっと強いと思っていた。でも、それでも尚、俺は間違っていたのだ。

 なぜなら、そう……いつの間にか、瑠璃は過去に立ち向かうことを止めて。

 過去を――〝受け容れていた〟のだから。

「あと、もう一つ付け加えるなら――」

 そんな瑠璃が、不敵な笑みを俺に向けている。

「昴生が戦ってるのに、私一人が蹲ってるわけにはいかないでしょ。だから……昴生がやらなくても、元々私がやる予定だったよ。私はお姉ちゃんに比べれば出来損ないかもしれないけど、一応これでも、〝天才陰陽師〟ですから」

 瑠璃が手を振る。同時に、ガスパールの逃げ場を封じるように、炎の壁が周囲に出現した。

「――ッ!? その力は……四条音羽の?」

 蹲ったままのガスパールが、残った左目を更に大きく見開く。

「まさか……鷲尾の小倅に続いて、こんなことが……」

 ガスパールが首を振る。

「到底信じられん。この六年で、妹までもその領域に達したというのか……」

「あの日、お姉ちゃんに教えて貰ったからね。想念を扱う陰陽師の神髄は、その根底を流れるエネルギーに干渉する力だって。だから、物質も想念も同じエネルギーに依って存在していることが分かれば、あとはそんなに、難しくなかった」

 淡々と説明する瑠璃。そんな彼女の言葉を聞いて、今度は俺が驚く番だ。

「瑠璃こそいつの間に……陰陽術なんて、ずっと使ってなかったじゃないか……」

 俺の問いに、瑠璃が「ふんっ」と鼻を鳴らす。

「お姉ちゃんと対峙するかもしれないんだから。ちょっとくらい練習するよ。いざとなったら、昴生のことはなんとしても守らなきゃって思ってたし」

「…………」

 もう、声が出てこない。考えていることもやっていることも、俺とあまりに似ていたからだ。俺もさっきは、重力子に干渉する力は二年前から使えるようになったと嘯いたが……

ちゃんと使えるようになったのは、実はここ一週間の話なのだ。言うまでもなく、いざとなったら瑠璃を守るため……そのために、自室で隠れてずっと練習していた。そして恐らく同じ時、瑠璃も自室で同じように練習していたのだろう。

 思わず、笑ってしまいそうになる。いや、もし次の瞬間この声が聞こえてこなければ、実際に笑っていただろう。 

「あらゆる面で……想定が甘かったことは認めよう」

 その声の主は、ガスパール。達観したようなその口調は、先程までの動揺が嘘のように凪いでいて……けれど同時に、その奥に確かな殺気が宿ったことを伝えてくる。

「四条瑠璃を手に入れれば、呪いの研究にプラスになると考え罠を張ったが、まさかここまで強力になっているとは思っていなかった。鷲尾の小倅も、四条瑠偉についてくる可能性は想定したが、脅威になるほどの力を身につけているとは……夢にも、思わなかった」

「――ッ!?」

 話しながら、驚いたことにガスパールは、屈していた膝を上げた。重力を操作し、絶対に立ち上がれないだけの圧力を加えていたはずなのにも関わらず。

 ガスパールはその両足の裏で、再び床を踏みしめる。

「なるほど、私は間違っていた。故に、すべての想定を破棄しよう。四条瑠璃を捕えることは諦め、鷲尾の小倅は敵と断じ、この際、四条音羽の回収すらも諦めよう。今は、自分の生命以外のものに頓着している状況ではない。その事実を、潔く認めよう」

 ガスパールが、両手を掲げる。

「誇りなさい。ウェストミンスター聖堂会の筆頭魔術師プリムス・マグスであるこの私を、ここまで追い詰めたことを。そして、後悔しなさい。対峙した相手こそ、〝魔女〟の領域にまで足を踏み入れた、天才だったことを」

 ガスパールの瞳の中で、赤い炎が燃え盛る。その炎は、眼前にいる俺たちを焼き殺そうと、現実世界への侵食を試みる。だが……

 当然、それを許すわけにはいかない。

「瑠璃、いけるか?」

「当たり前。昴生こそ」

 短い言葉の応酬。無言のままに、次の一手についての相談を終え。

 まず手始めに――瑠璃が創り出した炎の壁まで、ガスパールを吹き飛ばそうとした。


 ……その刹那。

「残念ながら、後悔するのはあなたです。何故ならあなたの想定は、尚も甘く、かつ不十分なのですから」


「――ッ?」

 この場にいた全員が、息を呑む。

 どこからともなく声が聞こえて、更には一瞬にして、空気が凍りついたのだ。

 尚、比喩ではない。室温が一気に数十度は低下したのではないかと思えるほどの、急激な冷気が部屋全体を包み込み、空気が文字通り氷結した。

 瑠璃が創り出した炎の壁が、『ジューッ』と派手な音をあげる。

「何故……何故だ?」

 霜が降り、床が凍結していく中で、愕然とした顔のガスパールが、二歩三歩と下がりながら周囲を見渡す。

「何故、ここは包囲されている? いつの間に……いつの間におまえたちが――」

「あなたが四条音羽を拘束していることは分かっていました。そして、彼女の力を研究していたあなたが、その妹である四条瑠璃にも執心するだろうことも。だから、罠を張らせていただきました」

 それは、会長の声だった。

 いつの間にかガスパールの後ろに立っていた会長が、身の丈ほどもある大鎌を、ガスパールの首筋に当てがっている。

「それでも、あなたの用心深さは流石です。危うく、こちらの展開が間に合わないところでした。瑠璃さんと昴生さんがあなたの注意を惹いてくれなければ、きっとまた、あなたに逃げられてしまったことでしょう」

 状況が、理解できない。けれど、一つ確かなことは、会長の存在に気づき、そして会長の言葉を聞いたガスパールが、いよいよ驚愕に身を震わせたということだ。

「……ッ!? まさか!?」

「はい。四条瑠璃を罠に嵌めたつもりだったのでしょうが、あなたは逆に獲物に噛みつかれ、生き残るための千載一遇の機会を失ったのです。既にあなたは我々の罠の中。もう、一切の逃げ筋はありません」

 確信――その言葉から感じられるのは、それだけだった。ガスパールの首に鎌を押し当てた会長が、確かな自信を持ってそう宣言する。

「あり得ん……そもそも、何故私が四条音羽を使って研究していたことを――」

「我々――ISSAを甘く見ないことです。四条音羽のことは、あなたよりも先に我々が目を付けていたのですから」

 その言葉で、ガスパールの目が更に大きく見開かれる。

「ISSA!? やはりおまえたちか……この……国連の狗が!」

「黙りなさい犯罪者。ウエストミンスター聖堂会の〝元〟筆頭魔術師の名が泣きますよ。 恥を知りなさい」

「うるさいわ! このこむす――!?」

 最後まで……言わせて貰えなかった。その前に鎌がスッと引かれ、首から鮮血が吹き出す。

「ゴフッ……ゴフッ……」

 その傷は、どう見ても致命傷だった。しかしガスパールはそれでも息絶える様子はなく、血泡を吹きながらも、何かを唱えようと必死に口を動かしている。しかし――

「少し静かにしていなさい。死なぬと分かっていても、あまり肉を切る感触は好きではないのです」

 言葉にならない声と、空気が漏れ出る音を共に奏でるガスパールに向かって、会長はそう冷たく言い放つと――

「国連憲章第二十章、第百二十五条の規定に基づき、あなたの身柄を拘束します」

 もはや自力で立つことも出来ないガスパールの腕に、無骨な銀色の手錠を、容赦なく取り付けたのだった。



     九

「ごめんなさいね、色々と連れ回してしまって」

 『ISSA日本支部』と銘打たれた、巨大なビルのとある一室。半日ぶりにその部屋に帰ってきた俺たちは、やってきた会長に開口一番そう労われた。

「いえ。全然気にしていません。みなさん、とても良くしてくれましたし」

「そうですか? それなら良かった。二人の保護責任者として、少しでも不自由があってはいけませんから」

 会長は唄うようにそう言うと、軽やかなステップで部屋を横切り、俺たちと向かい合う形でソファに腰を下ろした。

「まずは、お疲れ様でした。そして、おめでとうございます。『オトハの手』も無事に閉鎖され、囚われていた音羽さんも解放されました。ハッピーエンドと言っても良い結末です」

 ニコニコと、会長が言う。その言葉には、もちろん異論を唱えるつもりはない。でも――

「ありがとうございます。ただ、その言葉を口にするのは、棺桶の蓋が閉じる瞬間まで取っておくことにします。俺たちには、まだ明日があるんですから」

 人生は小説とは違う。本を閉じても、物語は終わらない。いや、むしろそこからまた始まるのだ。

「あら? 随分と偏狭な意見だこと。棺桶の蓋が閉まっても、まだ終わりとは限らないわよ?」

 しかし、そこで横合いから茶々が入る。

 その挑戦的な物言いに、俺と瑠璃は顔を見合わせて苦笑した。

「そうだった……悪かったよ、音羽姉」

 素直にそう謝罪すると、空中に浮かんだ音羽姉が楽しげにクルンと一回転した。

「それはそうと……音羽さんはいつまでこっちにいるつもりなんですか? いい加減、あの世に帰った方が良いと私は思うのですけれど」

 そんな自由な様子の音羽姉に、会長は少しだけ困った顔をする。

 どうやら、不成仏霊などの例外を除くと、魂が死後も地上に留まることは基本的には出来ないらしい。一件だけ、その限りではない事例が日本でも報告されているようだが……それはあくまでも、『超』がつくほどの特殊事態らしい。

「少ししたら帰るわよ。大事な妹と弟が元気にやっていけるのか――それを確認するくらいの時間は、貰っても良いでしょう?」

「はぁ……多少ならまぁ構いませんが……具体的にはどれくらいですか?」

「んぅぅ……二人が結婚するくらい?」

「今すぐ帰りなさい」

 会長が頭痛を堪えるように額に手を押し当てる。俺と瑠璃も、さっきから苦笑いしか出てこない。

「お姉ちゃん。私たち、別に結婚しないから」

 だが流石に見かねたのか、瑠璃がそう否定した。

「はいはい。最初はみんなそう言うのよ」

 しかし、音羽姉はまったく相手にしない。そのやり取りを見て、会長が深々と溜息を吐いた。

「……出来るだけ、早くしてくださいね」

「ふん。そういうことは、ちゃんと私の方を見て言いなさい。そっちに、私は居ないわよ?」

「うぐ……」

 バツの悪そうな顔をした会長が、音羽姉を探すように視線を彷徨わせる。

 そう。先程から、会長の視線は音羽姉を捉えていないのだ。

「でも驚きました。霊が見えないというのは本当だったんですね」

 ガスパールを無力化したその姿から、てっきり会長は力を隠しているのだと思っていた。だが……

「私はお二人と違って、先祖の才を引き継げなかったんです。だから私に出来るのは精神干渉と、辛うじて霊の声を聞く程度。あとは全て、この世的な技術だけですよ」

 心底残念そうに会長は言う。この辺りは、やはり以前の会長と変わっていない。こういう姿を見せられると、俺のことを羨ましがったり、霊現象に立ち会いたがっていたのは、本当に演技でもなんでもなかったんだろうなぁと、思わされる。

「でも、それでも凄かったですよ。あんな大鎌を自由に扱って」

 実際、あの時会長たちが介入してくれなかったら、ガスパールに勝てていたのか分からないのだ。もし勝てていたとしても、きっと無傷とはいかなかっただろう。後から教えて貰ったのだが、ガスパール・ハレンスレーベンという男は、かつてはフランスで五本の指に入るほどの高名な魔術師だったらしいのだから。

「あなたたち二人に比べれば、私の力なんて大したことはありませんよ」

 しかし会長は、その称賛を受け取らない。

「二人のことはずっと見てきたつもりなのですが、まさかこれほど強力になっているとは夢にも思いませんでした。瑠璃さんはいつの間にか陰陽師の深淵に至り、昴生さんは類を見ない異能を発現し……本当なら私、華麗にあの場に登場し、窮地に陥った二人を救い出すつもりだったんですよ?」

「充分、助けてもらいましたよ」

 会長の物言いに苦笑しながらも、本心からの言葉を口にする。すると会長は「はぁ……別にいいんです。もう」と、少しだけいじけ気味にそう言って――

「さて……じゃあ雑談はこれくらいにして。そろそろ、本題に移りましょう」

 一瞬にして子供っぽさを脱ぎ去ると、神妙な顔でそう告げた。

 その言葉で、俺と瑠璃は居住まいを正す。

「お願いします。正直、分からないことだらけなんです」

 瑠璃も頷く。彼女も俺と同じで、今日までの数日間はモヤモヤして仕方なかった筈だ。

 音羽姉も、流石に神妙になってソファに座る。

「私も、最初から関わっていた訳ではありませんが……」

 すると会長は、そんな前置きと共に話し始める。この物語の、裏側にあった出来事を――


 あなた方の存在を、我々ISSAが最初に認知したのは、十一年前に遡ります。

 しかしそのことをお話しする前に、まずISSAについての説明が必要ですね。ISSA[International Spiritual Science Association]とは、第二次世界大戦後にイギリス主導で作られた国連の下部組織になります。世界中で頻発していた霊現象に関する問題の解決や、その領域の科学的解明を目的として設立された機関です。

 古くから陰陽師の家系であった四条家は、第二次世界大戦以降、このISSAの監督下に入っており、今から十一年前、定期監査を受けました。

この監査は、私の実家である櫻井家も含め、霊的世界と関わりの深いすべての家が、定期的に受け入れなければいけません。四条家も、そのタイミングが十一年前だったということです。

 そしてその定期監査で、ISSAの担当官は二人の女の子に目をつけます。言うまでもなく、音羽さんと瑠璃さん――あなたたちです。二人の霊的な才覚の高さに興味を持ったISSAは、二人をISSAで〝保護〟 することを提案しますが、四条家はそれを拒否。ISSAもその意向を尊重し、その段階では定期的な状況報告を命じるに留めました。

 え? 何故保護を申し出たか――ですか? 

 そんなの決まっています。ISSAはいつだって、新しい戦力を欲しているからですよ。だから別に、虐待が確認されたとかそういう理由ではなくて、多分にISSA側の都合です。

 さて……そんな命令を下したISSAですが、ここで一つミスを犯しました。落ち目である四条家の優先度を低く見積もり、半ば放置の状態を続けたのです。お二人のことは勿論忘れてはいませんでしたが、未だ子供です。どのみち、成人するまでは過度な干渉は出来ません。結果、四条家の画策に、我々は気付くことが出来ませんでした。


 そこまで話したところで、会長は一度口を閉じ、宙に目を走らす。恐らく、音羽姉を見つけようとしたのだろう。だが、結局ソファに座っている音羽姉に視線を向けることなく、軽く首を振った会長は、再び話し始めた。


 ここから先は、音羽さんから聞いた内容も含みながら説明します。

 四条家は呪い祓いの家系ですが、これから家を興隆させていくためには、積極的に人を呪う術を行使する必要があると、彼らは考えるようになります。

 呪いの力で影響力のある人物に取り入り、更には昔ながらの呪い祓いの力で、逆陣営に取り入る。そんなマッチポンプ的なことを考えていたようです。

 そしてそのために……二人の娘を利用することにしました。

 主体は音羽さんです。音羽さんを呪いで縛り、更には音羽さんが瑠璃さんを殺して識神にすることで、瑠璃さんをも縛り付ける。そうして二人の力を手中に収めれば、夢想のような先程の計画も実現できると考えたのでしょう。

 これは推測ですが、恐らく準備は数年に渡って入念に行われたのだと思います。そして音羽さんの『伝授禅譲の儀』に合わせて、遂に実行に移されました。

 しかしここで、想定外の事態が起こります。最初から不穏な予感を覚えていた音羽さんが、事前に識神を用意していたのです。音羽さんの霊圧が変化した段階で、自爆するように設定して。

 結果、自爆した識神によって辺りは火の海になり、長老たちの集中力が途切れた隙に、音羽さんが彼らを殺しました。ですが、残念ながら呪いは既に発動しています。いくら音羽さんでも、呪いに侵食された状態では、それを祓うことは出来ませんでした。だから……自分が瑠璃さんを殺す前に、逆に殺させることにした。

 その後については……瑠璃さんたちの方が詳しいでしょう。


 その後――

 それは、燃え盛る屋敷内での殺し合い。この数日で、その時のことは三人で何度も話した。

 何回、瑠璃は泣いたか分からない。音羽姉もそんな瑠璃を抱きしめて、幾重もの涙が頬を流れた。

 それでも、本来その涙は決して流れる筈が無かったもので……トラウマも、わだかまりも、六年間にもわたった確執の日々も、その全てが涙と共に流れ去ったような気がする。

 もう瑠璃が、姉を殺す恐怖に震える日は、決して訪れないだろう。


 ISSAが事態を把握した時は、既に手遅れでした。音羽さんの肉体も、そして魂も消息不明。生きているか死んでいるかも分かりません。

 ただ、少なくとも瑠璃さんは生きています。ですからISSAは、四条家で唯一残った親族である鷲尾家に瑠璃さんを引き取らせ、そしてISSAの保護下に置くために、神奈川の地に住まわせることにしました。そこが今、私たちの住む街になります。

 私が、ISSAから瑠璃さんを託されたのも、その時からになります。


「そんな……前から?」

 思わず、そんな言葉が漏れる。会長とは、高校に入って初めて会ったと思っていたが……まさか、そんな前から会長の保護下にあったなんて……

「そういうことです。そもそも私があの高校に入学した理由は、昴生さんがそこに入学する可能性が一番高かったからなんですから」

「……マジですか?」

「大マジです。我が櫻井家は、私立高校も運営していますから。本来であれば、私もそこに入学するのが筋なのです」

 そうなのだ。確かにそのことを、以前にも疑問に思ったりもしたのだが……まさか俺に合わせた結果だとは、夢にも思わなかった。


 それからの六年間は、平和でした。私も監視以上のことは特にする必要はなく、昴生さんの霊的な人間関係に少しだけ関心を払う程度で済んでいました。ですが……ご存知の通り、厄介なものが出てきました。『オトハの手』です。さて、これにどう対応するか……この議論は、ISSA内でも随分と紛糾しました。

 『オトハの手』の被害者に残る力の残滓から、音羽さんの力を悪用していることは比較的すぐに分かりました。しかしどうも、その力に個性が感じられない。例えるなら、自動運転車のような感じでしょうか? 確かに前に進むし、カーブは曲がるのに、ドライバーの癖が感じられない。そんな感じです。そのため、これは音羽さんの自主的な行動ではなく、何者かに力を利用されているだけだろうという推論が立ちました。さて――本当に大変だったのはここからです。

 音羽さんを攫い、そして今もその力を悪用している人間をこの機に特定し、拘束し、後顧の憂いを断つべしと……そんな主張が強くなり始めたのです。そしてそのためには、瑠璃さんを囮にすることも止む無しであると。

 私は瑠璃さんの保護責任者の立場として勿論反対しましたが……とある職員が、七年前の報告書を引っ張り出してきました。

 それは、ウエストミンスター聖堂会の筆頭魔術師が引き起こした事件に関するものです。東洋の……特に日本の呪術に強い関心を抱いていたガスパールが、その研究中に事故を引き起こし、一般人が数十名も犠牲になったという事件です。

 そして、それ以降消息を絶っているガスパールの姿が最後に確認されたのは、とある空港のターミナル。そこでは……成田行きの直通便も運航されていました。

 そんな報告書を片手に、その職員は言うのです。音羽さんを攫い、今もその力を悪用しているのは、この男――ガスパール・ハレンスレーベンではないかと。

 もし本当にガスパールだとすれば、それは大問題です。我々の業界では、国際指名手配を受けている犯罪者。体面的な意味でも、そして純粋に治安の面でも、野放しにすることなど出来る訳がありません。

 あっという間にその強硬策は採用され、しかもあろうことか、私がその作戦を立案・指揮しなければいけなくなりました。

 では、その作戦をどうするか……

 敵の所在を明らかにした上で、瑠璃さんに食いつかせ、実際に食べられる前に敵の背後を取る――特にガスパールは、緊急避難用のホムンクルスを多数用意しており、いざとなるとそちらに魂を移してしまうことが知られています。ですから、逃げられる前に喉を潰して、魂の転移に必要な詠唱を不可能にさせることが必須条件となりました。

 まさに……針の穴に糸を通すような作戦です。

 私は悩みつつ、取り敢えず昴生さんを生徒会室に呼んだのです。


「……あの時って、そんなタイミングだったんですね……」

 生徒会室に校内放送で呼び出された時だ。あの時はただ普通に会話をして、それから一週間後くらいに『呪い祓い.com』を会長が持ってきたのだ。

「あの時、私は昴生さんに精神干渉を仕掛けたでしょう? その時、偶々昴生さんの記憶の一部が見えたんです。学校の正門で天莉さんに、翔平さんとの会話を見られたシーンが。それで……思い付きました。相手と同じように、こちらもネットの力を利用できないか――と」

 まさかあの時の会長が、そんなことを考えていたとは……

「計画を始動させて、まず初めてにやったことは、サイトの立ち上げと……あとは、瑠璃さんの対人恐怖症を治すことです。その件について、今までは不干渉を貫いていましたが、今回は計画の都合上そうはいかない。だから、自然な形で私が恐怖症のことを知り、案内人の力でそれを治す機会を作ろうとしました。まぁそんなことを言いつつ、それも思惑通りにはいかなかったんですが」

 会長が「思えば、この時から私の計画は崩れ始めていましたね」と、溜息を吐きそうな顔で、ただそれでも、その頬を柔らかく持ち上げる。

「もちろん、悪いことではありませんが。私の力を使うまでもなく、瑠璃さんは独力でそれを克服してしまったのですから。だからこそ、想定以上にスムーズに第一関門は突破できて、あとは皆さんがご存知の通りです。天莉さんのライブを通じて、瑠璃さんが『オトハの手』を追っていることを敵に知らせ、食いつかせることに成功しました。その後は、敵の誘いに乗ったと見せかけて、瑠璃さんと昴生さんが敵地に侵入。敵の関心を一手に引き受けている隙に、私たちは完璧な包囲陣を形成する――という計画……でした」

 けれど今度こそ、本格的に会長の顔が陰った。

「ですが、敵の備えが予想以上に周到で……包囲が完了するまでに想定以上にまごついてしまいました。もし、お二人が力に目覚めていなければ、この段階で計画は瓦解していたでしょう。本当に、危ない所でした……」

 どうやら、練り上げた計画が最後の最後で上手く機能しなかったことに、かなりの負い目を感じているらしい。俺からすれば、アメリの思考や行動力まで読み切ったその計画に、もはや驚愕すら感じているのだが……でも確かに、あそこで俺と瑠璃があっさりガスパールにやられていたら、それまでの過程に関わらず、計画は失敗だったのだ。その意味で、会長は今回の成功は自分の功ではなく、俺たちのお陰だと思っているのだろう。

 俺は瑠璃とチラリと目を合わせ、二人一緒に肩をすくめる。完璧主義というのも、中々大変だ。

「……こほん。失礼しました」

 しかし会長は、自分でこの微妙な空気に気がついたようだった。一つ咳払いをしてから、この話を終わらせる。

「さて、これで説明できることは全てです。ガスパールはこちらで押さえましたので、三人にこれ以上火の粉が降りかかることもありません。昨日までの日常に戻って貰って結構です」

「……え?」

 だがそれは、少しばかり意外な終着だった。瑠璃も、首を傾げて問いかける。

「てっきり、ISSAに勧誘されると思っていました。ISSAは、新しい戦力を欲しているんですよね? 私は勿論、昴生だって……」

 瑠璃が、控えめな視線を俺に向ける。他に例がないというほど特殊な力を持った俺と、陰陽師として特筆した能力を有する瑠璃。そんな俺たちは、戦力を欲するISSAにとってはうってつけの人材なのではないかと、そう思ったのだろう。俺もだいたい、同じことを考えていた。だが、そんな瑠璃の指摘に、会長はニコリと微笑む。

「確かにそんな声はありましたが、私が握り潰しました」

「え? ……どうして?」

 俺も瑠璃も、頭上に疑問符を浮かべるばかりだ。

「瑠璃さんが見つけた道を、尊重したいと思ったからです」

 そんな俺たちに、しかし会長は、迷いない口振りでそう言った。

「ISSAは、多分に戦闘性が高い組織です。そこで瑠璃さんに求められるのは、紛れもなく呪い祓いの力でしょう。いえ……呪うこと自体を求められることもあるかもしれません。ですが……瑠璃さんが見つけた道は、そうではないでしょう?」

 会長はそう言うと、おもむろにスマホを操作する。

「私は気に入っているんです。あの日生まれた、『呪い解し師』という言葉を。呪いを生むのでもなく、呪いを祓うのでもなく、その原因を解くという瑠璃さんの決意を。そして私は……お手伝いしたい。その道を切り開く、一助になりたい」

 俺たちに向けて、会長がスマホを差し出す。そこに映っていたのは、一つのサイト。最近すっかり見慣れてしまった、白地の背景に黒字のゴシック体で彩られた、簡素ながらも綺麗なページ。ただ、一つだけ……

そのトップに大きく掲げられたタイトルが、少しだけ変わっていた。その新しいタイトルを見て、瑠璃が少しだけ照れ臭そうに微笑む。そして――

「そうですね。私は、この道を往くと決めましたから。だから私は、最高の呪い解し師になります。そして世界中から、あらゆる呪いを一掃してみせます。そのために……会長。まずはこのサイト、使わせて下さい」

「はい、喜んで」

 会長が微笑む。そんな会長に頭を下げた瑠璃が、音羽姉の方を向いた。

「私、頑張るから。お姉ちゃんも協力してくれる?」

「もちろん。愛しの妹のためになら」

 音羽姉が優しく答える。そんな彼女を嬉しそうに見つめた瑠璃は……

最後に、俺へと顔を向けた。

「昴生、一緒に往くよ」

「あぁ、分かってるよ」

 いつも通りのその物言いに、苦笑を浮かべつつも何とも言えない幸福感を覚えながら。

 瑠璃が伸ばした拳に、俺の拳をコツンと当てる。


 そうだ――俺はここにいる。瑠璃の隣で、瑠璃と一緒に。

 それはこれからも……決して変わらない。

























     十

「ねえねえ! 今ネットで流行ってる、あのサイトのこと知ってる?」

「知ってる知ってる! なんか呪いを祓ってくれるんでしょ? ちょっと胡散臭いけど、結構評判良いよね」

「お金とか取られないみたいだしね。それに聞いた話によると、ただ呪いを祓ってくれるだけじゃなくて、その呪いの原因を無くしてくれるらしいよ?」

「呪いの原因? じゃあ……呪ってきた相手を、逆に殺してくれるとか?」

「う~ん……そういうんじゃなくて。人を呪ったり呪われたり……そんなことになった、その原因の〝思い〟を変えてくれるみたい」

「思いを変える? どういうこと?」

「え~と…………ごめん、よく分かんない。でも、取り敢えず評判良いよ」

「何それ。全然分かんない」

「だって仕方ないじゃん。私だって又聞きなんだから。てかそんな気になるなら、自分で試してみたら?」

「えぇ……でも私、別に呪われてないしなぁ……」

「でもこの前、なんか体調悪いの続いてるとか言ってたじゃん」

「言ったけど……それって呪いなの?」

「分かんない。だから、相談してみたら?」

「相談ねぇ…………まぁそう言うなら、試しに利用してみようかなぁ。ちょっと気になってたのはホントだし。じゃあ早速、ネットで調べてっと…………て、あれ? そう言えば、それ何て名前のサイトだっけ?」

「は? 忘れたの?」

「いや……だって聞き慣れない単語だったから」

「はぁ……これだからおばあちゃんは。だからほら……あれだよ、アレ」

「アレって……あんたも忘れてんじゃん」

「いや、絶対思い出す。すぐそこまで出掛かってるんだよ。ほら、確か最初が呪いで始まって。それで……呪い……呪い……」

 顔を見合わせて、二人の女子高生がうーうー唸る。

しかし、それもそう長くは続かなかった。

 しばらくすると、「あ!」と二人同時に声を出し、勢いよく顔を上げる。そして――


「「そうだ!! 『呪い解し.com』!!」」


 息のあった、二人分の声が響く。今日も誰かが、その単語を口にする。

 日本中で、世界中で――

 着実に、その数は増えていった。

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